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第六章 まだ見ぬ世界を求めて
46.失われたもの(1)
しおりを挟む「ユイ、分かるか。ようやく目覚めてくれたな」
こんな声に誘われて、私は目を開いた。途端に耐えられないほどの眩しさに襲われる。
そんな光の中で、最愛の人の顔を何とか認識する。
「新堂さん……。やっぱりあれは、夢、だったのかな……」
さっきまでの光景やキハラの姿が、今でも鮮明に頭に残っていた。
「どんな夢だ?」
私が眩しさを感じて目を細めていると、新堂さんがカーテンを半分閉めてくれた。
部屋が薄暗くなり、ようやくこの人の顔を真っ直ぐに見られた。今まで見たどの笑顔よりも素敵な、新堂さんの笑顔だ。
この笑顔を、あのナースにも向けていたかもしれない……。ついさっき見ていた光景が甦る。そう思うと、今までにない嫉妬という感情が溢れ出した。
「あなたが、可愛いナースに口説かれてる夢」
新堂さんは不意を突かれた様子で、目を瞬いている。
「白衣なんか着ちゃって。いつも着ないのに!ドクターとナースってお似合いよね。それに引き替え、私はただの、患者……」
「由美さんの事を言ってるんだな?おまえの世話をしてくれていたナースだよ」
彼は即答した。「別に彼女に口説かれた覚えはないが……何の事だ?」
これを聞いて、あそこから見たものが全部現実の世界なのだと分かる。
「あの日は、たまたま病院の白衣を借りたんだ。お恥かしい事情があってね」
「何があったの?あの人、絶対にあなたに好意持ってたよね」
「何をそんなに興奮している?上着を着たまま寝て、シワがよったってだけだぞ」
着たまま寝た?誰と!妄想は勝手におかしな方へ向かう。
それに気付いた彼がすぐに補足する。「ユイに付き添っていて、寝てしまったんだ」
「どうしてその人の事……下の名前で親しげに呼ぶの?」どうしても不安が拭えない。
「親しみを込めているつもりはない。ただ苗字が発音しにくいだけだ」
「とか何とか言って!ホントは気があるんじゃないの?」
「ユイ。私の話を聞いてるのか?彼女はただの……」
「ただのナースでも、イヤなの……っ!」
私は恥かしげもなく、こんなセリフを口にしていた。
「親しげに呼んだりして悪かった。本当に深い意味なんてない。安心しろ、あの病院はここからは距離があるから、もう使う事はない。彼女とは会いようがないよ」そして笑顔で続ける。「ここは私達の新居なんだ」
「私達の、新居……?」
「ああ、そうだ。これから、ここで二人で暮らすんだ」
「二人で……」
新堂さんがこの家を必死に探し回っていた事を、私は知っている。
こんな事で彼を追い詰めて、私はどうかしている。
「どうだ、まだ疑うのか?」彼が意地悪く笑った。
「私、いつ日本に戻ったの?どうして……」気を取り直し、状況の整理に努める。
「私が迎えに行ったんだ。あれから、もうすぐ二ヶ月になるか。寝ている間に年を取ったな、ユイ!」
「イヤな言い方……。迎えにって、どうして私があそこにいるって分かったの?」
「偶然ニュースで見たんだ。車載爆弾テロに巻き込まれた、日本人女性がいると」
また出た!彼お得意の、偶然知った、偶然会った。
「それで?行ってみたら、たまたま私がいたって?」信じられるものですか!
彼は何度も頷く。その仕草がさらに怪しさを倍増させているとも知らずに。
でもまあ、それでもいい。私は疲れを感じて追求を諦めた。
「……そして、助けてくれたのね。やっぱり頼りになる主治医だわ」
いつもなら、こんな言葉にはすぐに反応する彼だが、今はなぜか自慢話の一つさえ飛び出す事はなかった。
沈黙が続く中、何気なく動こうとすると猛烈な痛みが体中を襲った。
「うっ……!痛い!!」
「まだ動いてはダメだ。急に起き上がると、脳貧血を起こすぞ」
長らく横たわっているので、血圧が低下しており、血液がスムーズに全身に回らないのだそうだ。
新堂さんが私の肩に手を置いて、ベッドに留めた。
「腰の辺りが、とても痛いの……」痛みに顔をしかめながら、最も辛い部位を伝える。
「……。おまえは重傷なんだ。今、薬を打ってやる」
それだけ言うと、彼は手慣れた手つきで注射を終える。
「まあ、あとひと月くらいは、ベッドの上で生活してもらう事になるだろうな」
「二ヶ月も経ってるのに、さらにもう一ヶ月……」
「さっき言った事、聞いてなかったのか?」
「分かってる。私は重傷、なんでしょ」投げやりにそう言って、高い天井を見つめた。
体全体が固定されているのか、腕一本もまともに動かない。重傷、には違いないのだろう。
もう助からないと現地の医者達が言っていたのを、おぼろげに記憶している。けれど、新堂和矢がいれば何も怖くない。そう思えた。
時間は緩やかに流れる。
「ユイ……良く戻って来てくれた、ありがとう」新堂さんは私に顔を寄せて言った。
こんな言葉の前では、どんな虚勢もことごとく崩れ去る。
「新堂さん……。ごめんね、ごめんなさい……!」涙が、後から後から溢れ出す。
またこの人に迷惑をかけてしまった。新堂さんの邪魔をしないように離れたはずなのに。私は一体、何をしているの!
「少し眠りなさい。強めの鎮静剤を持ってくるよ」
彼が立ち上がって部屋を出た。
自分の啜り泣く声がまるで他人のもののように、私の耳に響いていた。
私が目を覚ましてから、数日が経った。
「新堂さん、お願いがあるんだけど」
「どうした?」
「この髪をね、何とかしたいなって思って……」
長く伸びてしまった髪を、右手で束ねて見せる。日本を発ってから長らく放置状態だったので、ウエストに届きそうなくらいある。
まだ起き上がる事もままならない寝たきり状態だ。全てを彼に任せきりで申し訳ない。せめてこんな髪は、扱いやすくバッサリと切ってしまおう。
「そうだったな。済まない、気が利かなくて。何とかしよう」すぐに応じてくれた。
「ううん、私こそ」
その後直ちに新堂さんは、街の美容室から一人の青年を連れて来た。面食いの私への気遣いか、とても整った顔の好青年を!
開け放たれたドアの向こうから、新堂さんとその青年の声が聞こえてきた。
「え……っ!こんなに貰えるんですか?髪を洗うだけですよね?カラーリングとかパーマとか、何でもやりますよ!」
「いや、そんな必要はない。ただ、日常の手入れをしてやってほしい」
「そんなの、お安い御用です!」
新堂さんが提示したひと月分の報酬は、彼の三ヶ月分の給料に値したとの事。
「ただし、彼女はほとんど動く事ができない。十分に注意してくれ」
「分かりました」
「しばらくは体勢にも気をつけて。寝かせたままでだ」
「ええと……やった事ないですけど、やってみます。それで、どこでします?」
「そうだな。洗面でもスペースは十分だと思うが……浴室でいいだろう。最初は私も付き添う」
青年の張り切った、ありがとうございます!という声が響いた。
「それと、彼女の移動は私がやる。……まだケガが、完全には治っていないのでね」
こうして週に二回のペースで、私の髪の手入れをしてもらう事になった。
「戸田良平といいます。よろしく、朝霧さん」
「こちらこそ。ねえ、本当に、切っちゃっていいんだけど?戸田君」
横たわったまま首だけ振って、垂れ下がったそれを揺らしてみる。
好きで伸ばした訳ではない。こんなに長くしたのは初めてだ。元々私は切るつもりでいたのだから。
「え……?」戸田君が驚いている。
「彼、ショートがお好みみたいだし!」
あの子の事を思い出しながら言った。私の世話をしてくれたという、あのナース。彼女は栗色の爽やかなショートカットだった。
「そうなんですか?」
何も知らない戸田君が不思議そうに聞いてくる。
「そうよ!そうに違いないわ。ねえ、切ってくれない?」
「そうかなぁ……。でも朝霧さん、先生はあなたの髪が大事だから、こうして僕を雇って、手入れをさせてるんじゃないんですか?」
「そんな事あるはずない!単に面倒だからよ」自分に言い聞かせるように答える。
「それだったら、とっくに自分で切ってますよ。だって、外科医なんでしょ?」
仰向けになった私に向かって、戸田君が悪戯っぽく言う。
しばし沈黙を保っていたが、耐え兼ねて小さく吹き出した。
「外科医は、切るのが仕事って?」
するとこんな事を言うではないか。「やっと、朝霧さんの笑顔が見られました……。嬉しいです、僕!」
この美容師、なかなかの口説き上手だ。こうやって女性客の心を掴んで行くのだろう。
さすがは新堂さんの目を付けた美容師。将来有望だ。
「やるじゃない、あなた」
毎回こんな他愛のないやり取りで、日々の憂さを晴らしていた。
事故からふた月も経つというのに、未だに全身包帯でグルグル巻きなのはどうして?そして左腕も下半身もピクリとも動かないのは……。
それにしても、シャンプーがこんなに気持ちの良いものだと、初めて知った!
戸田君が来るようになって三週間が過ぎ、今では起き上がる事を許可されている。
今日は庭に出て、髪を梳かしてもらっている。天候が良く暖かな日は、こうして進んで外へ連れ出されるようになった。
「あ~あ……。きっと、お守りを失くしたバチが当たったんだわ」
「お守り?失くされたんですか」
「そう。大事な人の形見でもあったのに」
絶妙の力加減で頭皮を刺激される中、予想外に鋭い質問が頭上から降ってくる。
「ちゃんと探しました?」
「もちろんよ。世界中探したわ」やや上を見て即答する。
「世界中!?それは凄い……。なら、それをくれた人だって、ちゃんと分かってくれますよ。朝霧さんが、どれだけそれを大事にしていたか」
戸田君が私の話を信じたかは分からないけれど、この言葉は素直に嬉しかった。
「私があれを失くさなかったら、きっとこんな姿には……」
私が声を詰まらせると、戸田君が手を止めて正面にやって来る。
「それでも悪い事ばかりじゃない。僕が朝霧さんに会えたのは……あ、ごめんなさい、不謹慎でしたよね……」
「いいの。ありがと、お気遣い嬉しいわ」
「違います、本当の事です!」頬を赤く染めた戸田君が、照れた様子で否定した。
そこへ、新堂さんがやって来た。
「楽しそうだな。君達、すっかり仲良くなったようだね、良かったよ」
「新堂先生、もうすぐ終わります」
「ああ、ゆっくりやってくれ。ユイ、体調は変わりないね?」
「ええ、問題ないわ」
私の答えに微笑んで頷く新堂さんだが、何かを考えている様子。
「新堂さん、どうかした?」
「いいや。何でもない。では戸田君、後は頼んだよ」
あっさりそう答えて、新堂さんはさっさと行ってしまった。
私はそんな彼の後ろ姿を、ただぼんやりと見つめるのだった。
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