大嫌いは恋の始まり

氷室ユリ

文字の大きさ
上 下
93 / 117
第五章 隠された秘密を探れ!

  究極の選択(2)

しおりを挟む

 二十七歳の幕開けは最悪なものとなった。あれから、早ひと月が過ぎようとしている。
 私は新堂さんのマンションに連れて来られ、まるで全てを忘れようとするように、ただひたすら眠り込んでいたらしい。

 どんよりとした空模様の雪が降り出しそうな寒い日、私はようやく目を覚ました。
 あと十日もすれば四月だという事が嘘のような陽気だ。私の心と共に、空気までもが冷え切ってしまっているようだ。

 部屋に新堂さんはいなかった。近所に買い出しにでも行っているのだろう。
 私は彼の厚手のシャツとスラックスを拝借して、部屋を抜け出した。

 ふらつく足取りで歩みを進めるうちに、すぐ近くの港の見える公園に辿り着く。

 気づけば、涙が止めどなく流れ落ちて行く。ただ目の前に広がる灰色の海を見つめて、ひたすら啜り泣いた。

「キハラ……。私、どうしたらいいの?」
 こう呟いた私の耳に、不意に懐かしい声が届いた気がした。
〝ユイ。いつまで泣いている?本当にお前は、昔から泣き虫だな〟
「キハラ?……キハラなの!」

 辺りには誰もいない。それを確認して、私は再び灰色の海に向き合う。

〝俺は何も後悔していない。軍隊を辞めて朝霧に拾ってもらった事も。ユイに会って、お前と過ごした日々も……〟
 さらに声は続く。
〝闇世界の荒んだ生活の中、再びお前に再会できた時は嬉しかった。そして、俺の大事な大事なユイに、立派な男が現れた事も……〟

「でも、私は……!」

〝いいか、ユイ。俺は本気でヤツを撃つつもりだった。一瞬でもお前の判断が遅ければ、ヤツは今生きていない。ユイのした事は間違ってない。自分を責めるな。これで良かったんだから〟
「ねえキハラ、本当はまだ生きてるんでしょ?私の弾は、急所を外してて……!」

〝俺はお前を、そんな生半可に育てた覚えはない。ユイの本気の射撃は、決して的を外さない〟
「……っ!」私は言葉を失った。
〝自分の選択した道を、決して後悔するな〟

 それきり声は止んだ。空耳だったのだろうか?いや、私には確かに聞こえた、師匠の声が……。

 波が一瞬ザワついたのに気づき、はっと我に返る。
「キハラ。そんな簡単に、割り切れないよ……」
 どこかで願っていた。自分の撃った弾が急所を外していて、キハラが生き延びている事を。しかし、今の言葉でそんな願いも吹き飛んだ。事実、自分の中にも仕留めたという悲しい確信はあったのだから。

「私の選択した道……。新堂さんを守る事」

 背後に気配を感じて振り向くと、そこに、いつの間にか新堂さんが立っていた。

「そんな薄着では風邪を引くぞ?」
 自分の着ていたコートを脱ぎ、優しく羽織らせてくれる。
「新堂さん……!いつからいたの?」
「今だ。体は大丈夫なのか?」彼の表情は、やや強張っていた。
「うん」彼を見上げて、少しだけ微笑んで頷く。

「突然いなくなるから、驚いたよ」
「ごめんなさい」
「また連れ去られたのかと……済まん、少々無神経だった」彼が慌てて言い直した。
 連れ去った張本人は、もういない。
 少し笑って、気にしないでと答えた。

「新堂さん、お願いがあるの。もう少し、一人にしてくれる……?」
 もう少し、我が愛する師匠との最後の時間を味わいたい。
「分かったよ」
 新堂さんは何も聞かずに許してくれた。
「ありがとう」

 静かに礼を言って、私は再び海を見つめた。

 背中に感じる新堂さんの視線が、いつまで経っても消えない。それは彼が、どれだけ私を心配してくれているかを表している。
 心配させたくはない。けれど……今はどうしても、キハラへの想いに浸りたい。

 やがて彼の気配が消えて、私は再び騒めく海と一対一となった。
「ごめん、新堂さん……」

 貸してもらったコートのポケットに手を入れると、そこにはどういう訳か煙草が入っていた。しかもそれはキハラの愛煙していた赤ラークだ。
 新堂さんはノンスモーカーのはず。

 こんな彼の小さな心遣いが、とても心に沁みた。「ありがとう、新堂さん」

 早速火を点ける。紫煙が、海からの向かい風に乗って辺りを漂う。
 深く一度吸い込むと、それを海に投げた。
「キハラ、あなたのお気に入りの赤ラークよ、吸って!え?一本じゃ足りないって?しょうがないなぁ。じゃ、箱ごと!」
 箱とライターも一緒に海へ投げた。亡き師匠への、餞別のつもりだった。

 そして、大きく深呼吸をする。
「よし、帰ろ!帰るね、キハラ。新堂さんの所へ。彼が、心配してるから……」


 マンションの入り口で、新堂さんが待っていてくれた。

「済んだのか?」
「ええ。もう平気。ありがとう」
「さあ、部屋に戻って、きちんと食事を摂ってもらうよ。もう点滴は飽きたろ?」
「飽きた飽きた!」

 背中に添えられた新堂さんの手の温もりを感じて、足が止まる。

「どうした?」体を屈めて私を覗き見る彼に、「別に。ただ、嬉しいの」と微笑む。
「何が?」
「あなたが生きている事が……!」


 部屋に戻り、軽い食事を摂って一息ついた後、早速数々の疑問を彼にぶつけた。
 一番知りたいのは、なぜキハラが重傷の私を新堂さんの元から連れ出したのか。

 なぜなら二年前のあの日、キハラは私に言ったのだ。
〝今のお前に必要なのは、俺ではなく、あいつだ〟と……。
 もしキハラが、私達の黄金の血について知っていたのなら、私を新堂さんから引き離す事はできないはず。

「今さら、それを知ってどうなる?」
 新堂さんの言葉は冷酷だった。あの頃に戻ったかのように。
「何を聞いても大丈夫だから!ただ私は、真実が知りたいの」
「あの男の考えなど、私に分かる訳ないだろう」
 それでも私は問い続けた。「何か言ってたでしょ?何でもいいから教えて!」

 彼はしばらくの間、無表情で私を見つめ続けたが、やがて大きな深呼吸の後に口を開いた。
「自分の配下がおまえをケガさせた事を、酷く悔やんでいた。当然、守ってやれるのは自分だけだと思うだろうさ」
 新堂さんが続ける。「医者の私ができるのは、ケガをした後の処置だけだからな」

「私は別に、誰かに守ってもらおうとなんて……!」
「それだけ、ユイを大事に思ってたって事だ」私の言葉を遮るように言う。

「前にも言ったが、あの男には私達が同じ特殊な血液である事は、話してない。銃創の処置なら、どこの医者でもできると考えるのは普通だ」
「何で?何で血の事、言わなかったの?……もし言ってくれてたら!」つい感情的になってしまう。
「言ってたら何だ?違う結果になっていたとでも?」

「それは……」ムダだ。こんな議論は!怒りを向ける矛先を間違えている。
 過去は変えられないし、新堂さんを責めても仕方がない。これは、私とキハラの問題なのに。

「ごめんなさい……あなたを責めてるつもりはなくて……」
「いや……。実は私も、その事は申し訳ないと思ってる」
 私から視線を外してうな垂れる彼の姿は、あの時を思い出させた。新堂さんの元恋人が、私に危害を加えてきたあの時を。

「正々堂々と、勝負したかったんだ」
「何ですって?」思わぬセリフに驚く。
「血液型が同じだったのは、ほんの偶然だ。そんな理由であの男からユイを奪っても、全然嬉しくない」
「新堂さん……」そこ、競い合うところ?

「正直、自信はなかった。二年前、ユイはすでにあの男を選んでいたし。今回のケガがなければ、私はおまえを諦めていただろうな」
 ようやく彼が顔を上げて私を見た。
「だが、ユイは私を選んでくれた。選んで、くれたんだよな?」
「私は……」

 あの時は無我夢中だった。キハラの本気の目を見て、こちらも本気で向かわなければと思った。

「私、生まれて初めてキハラに勝ったの。今まで、ずーっと負け通しだったんだけど。新堂さんのお陰ね」
 こんな私のセリフに、新堂さんは驚きを通り越して、もはや呆れた顔だ。
「おまえってヤツは、根っからのファイターだな!」
「本当にそう思ったんだから仕方ないじゃない。何とでも言って」開き直るように言い放つ。

「そう。私は新堂さんを選んだの。だって、あなたは私が守ってあげないとやられちゃうでしょ?」
 しかもキハラが相手では、私以外に勝てる可能性のある人間などいない。本人曰く、ただ一人を除いては。

「感謝してるよ」新堂さんが私の頭を大袈裟に撫でて言った。
「ちょっと……っ!やめてよ、そういうの!」彼の手を振り払って訴える。
 こればっかりは、子供扱いされているようで我慢ならない!
「これぐらいで納得してくれたか?さあ、もう休むんだ」

 急に話を打ち切られてしまった。
 でもこれで良かった。これ以上突き詰めて考えていたら、また泣き出す事態になり兼ねない。我が主治医はそんな事もお見通しのようだ。

 素直に彼の指示に従い、再びベッドへと入った。

 自分を見下ろす新堂さんの視線。昔のような威圧的なものではない、その優しさに満ちた視線を感じながら、私は静かに目を閉じた。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

我が家の家庭内順位は姫、犬、おっさんの順の様だがおかしい俺は家主だぞそんなの絶対に認めないからそんな目で俺を見るな

ミドリ
キャラ文芸
【奨励賞受賞作品です】 少し昔の下北沢を舞台に繰り広げられるおっさんが妖の闘争に巻き込まれる現代ファンタジー。 次々と増える居候におっさんの財布はいつまで耐えられるのか。 姫様に喋る犬、白蛇にイケメンまで来てしまって部屋はもうぎゅうぎゅう。 笑いあり涙ありのほのぼの時折ドキドキ溺愛ストーリー。ただのおっさん、三種の神器を手にバトルだって体に鞭打って頑張ります。 なろう・ノベプラ・カクヨムにて掲載中

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~

おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。 どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。 そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。 その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。 その結果、様々な女性に迫られることになる。 元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。 「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」 今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

4人の王子に囲まれて

*YUA*
恋愛
シングルマザーで育った貧乏で平凡な女子高生の結衣は、母の再婚がきっかけとなり4人の義兄ができる。 4人の兄たちは結衣が気に食わず意地悪ばかりし、追い出そうとするが、段々と結衣の魅力に惹かれていって…… 4人のイケメン義兄と1人の妹の共同生活を描いたストーリー! 鈴木結衣(Yui Suzuki) 高1 156cm 39kg シングルマザーで育った貧乏で平凡な女子高生。 母の再婚によって4人の義兄ができる。 矢神 琉生(Ryusei yagami) 26歳 178cm 結衣の義兄の長男。 面倒見がよく優しい。 近くのクリニックの先生をしている。 矢神 秀(Shu yagami) 24歳 172cm 結衣の義兄の次男。 優しくて結衣の1番の頼れるお義兄さん。 結衣と大雅が通うS高の数学教師。 矢神 瑛斗(Eito yagami) 22歳 177cm 結衣の義兄の三男。 優しいけどちょっぴりSな一面も!? 今大人気若手俳優のエイトの顔を持つ。 矢神 大雅(Taiga yagami) 高3 182cm 結衣の義兄の四男。 学校からも目をつけられているヤンキー。 結衣と同じ高校に通うモテモテの先輩でもある。 *注 医療の知識等はございません。    ご了承くださいませ。

公主の嫁入り

マチバリ
キャラ文芸
 宗国の公主である雪花は、後宮の最奥にある月花宮で息をひそめて生きていた。母の身分が低かったことを理由に他の妃たちから冷遇されていたからだ。  17歳になったある日、皇帝となった兄の命により龍の血を継ぐという道士の元へ降嫁する事が決まる。政略結婚の道具として役に立ちたいと願いつつも怯えていた雪花だったが、顔を合わせた道士の焔蓮は優しい人で……ぎこちなくも心を通わせ、夫婦となっていく二人の物語。  中華習作かつ色々ふんわりなファンタジー設定です。

処理中です...