大嫌いは恋の始まり

氷室ユリ

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第五章 隠された秘密を探れ!

  究極の選択(2)

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 二十七歳の幕開けは最悪なものとなった。あれから、早ひと月が過ぎようとしている。
 私は新堂さんのマンションに連れて来られ、まるで全てを忘れようとするように、ただひたすら眠り込んでいたらしい。

 どんよりとした空模様の雪が降り出しそうな寒い日、私はようやく目を覚ました。
 あと十日もすれば四月だという事が嘘のような陽気だ。私の心と共に、空気までもが冷え切ってしまっているようだ。

 部屋に新堂さんはいなかった。近所に買い出しにでも行っているのだろう。
 私は彼の厚手のシャツとスラックスを拝借して、部屋を抜け出した。

 ふらつく足取りで歩みを進めるうちに、すぐ近くの港の見える公園に辿り着く。

 気づけば、涙が止めどなく流れ落ちて行く。ただ目の前に広がる灰色の海を見つめて、ひたすら啜り泣いた。

「キハラ……。私、どうしたらいいの?」
 こう呟いた私の耳に、不意に懐かしい声が届いた気がした。
〝ユイ。いつまで泣いている?本当にお前は、昔から泣き虫だな〟
「キハラ?……キハラなの!」

 辺りには誰もいない。それを確認して、私は再び灰色の海に向き合う。

〝俺は何も後悔していない。軍隊を辞めて朝霧に拾ってもらった事も。ユイに会って、お前と過ごした日々も……〟
 さらに声は続く。
〝闇世界の荒んだ生活の中、再びお前に再会できた時は嬉しかった。そして、俺の大事な大事なユイに、立派な男が現れた事も……〟

「でも、私は……!」

〝いいか、ユイ。俺は本気でヤツを撃つつもりだった。一瞬でもお前の判断が遅ければ、ヤツは今生きていない。ユイのした事は間違ってない。自分を責めるな。これで良かったんだから〟
「ねえキハラ、本当はまだ生きてるんでしょ?私の弾は、急所を外してて……!」

〝俺はお前を、そんな生半可に育てた覚えはない。ユイの本気の射撃は、決して的を外さない〟
「……っ!」私は言葉を失った。
〝自分の選択した道を、決して後悔するな〟

 それきり声は止んだ。空耳だったのだろうか?いや、私には確かに聞こえた、師匠の声が……。

 波が一瞬ザワついたのに気づき、はっと我に返る。
「キハラ。そんな簡単に、割り切れないよ……」
 どこかで願っていた。自分の撃った弾が急所を外していて、キハラが生き延びている事を。しかし、今の言葉でそんな願いも吹き飛んだ。事実、自分の中にも仕留めたという悲しい確信はあったのだから。

「私の選択した道……。新堂さんを守る事」

 背後に気配を感じて振り向くと、そこに、いつの間にか新堂さんが立っていた。

「そんな薄着では風邪を引くぞ?」
 自分の着ていたコートを脱ぎ、優しく羽織らせてくれる。
「新堂さん……!いつからいたの?」
「今だ。体は大丈夫なのか?」彼の表情は、やや強張っていた。
「うん」彼を見上げて、少しだけ微笑んで頷く。

「突然いなくなるから、驚いたよ」
「ごめんなさい」
「また連れ去られたのかと……済まん、少々無神経だった」彼が慌てて言い直した。
 連れ去った張本人は、もういない。
 少し笑って、気にしないでと答えた。

「新堂さん、お願いがあるの。もう少し、一人にしてくれる……?」
 もう少し、我が愛する師匠との最後の時間を味わいたい。
「分かったよ」
 新堂さんは何も聞かずに許してくれた。
「ありがとう」

 静かに礼を言って、私は再び海を見つめた。

 背中に感じる新堂さんの視線が、いつまで経っても消えない。それは彼が、どれだけ私を心配してくれているかを表している。
 心配させたくはない。けれど……今はどうしても、キハラへの想いに浸りたい。

 やがて彼の気配が消えて、私は再び騒めく海と一対一となった。
「ごめん、新堂さん……」

 貸してもらったコートのポケットに手を入れると、そこにはどういう訳か煙草が入っていた。しかもそれはキハラの愛煙していた赤ラークだ。
 新堂さんはノンスモーカーのはず。

 こんな彼の小さな心遣いが、とても心に沁みた。「ありがとう、新堂さん」

 早速火を点ける。紫煙が、海からの向かい風に乗って辺りを漂う。
 深く一度吸い込むと、それを海に投げた。
「キハラ、あなたのお気に入りの赤ラークよ、吸って!え?一本じゃ足りないって?しょうがないなぁ。じゃ、箱ごと!」
 箱とライターも一緒に海へ投げた。亡き師匠への、餞別のつもりだった。

 そして、大きく深呼吸をする。
「よし、帰ろ!帰るね、キハラ。新堂さんの所へ。彼が、心配してるから……」


 マンションの入り口で、新堂さんが待っていてくれた。

「済んだのか?」
「ええ。もう平気。ありがとう」
「さあ、部屋に戻って、きちんと食事を摂ってもらうよ。もう点滴は飽きたろ?」
「飽きた飽きた!」

 背中に添えられた新堂さんの手の温もりを感じて、足が止まる。

「どうした?」体を屈めて私を覗き見る彼に、「別に。ただ、嬉しいの」と微笑む。
「何が?」
「あなたが生きている事が……!」


 部屋に戻り、軽い食事を摂って一息ついた後、早速数々の疑問を彼にぶつけた。
 一番知りたいのは、なぜキハラが重傷の私を新堂さんの元から連れ出したのか。

 なぜなら二年前のあの日、キハラは私に言ったのだ。
〝今のお前に必要なのは、俺ではなく、あいつだ〟と……。
 もしキハラが、私達の黄金の血について知っていたのなら、私を新堂さんから引き離す事はできないはず。

「今さら、それを知ってどうなる?」
 新堂さんの言葉は冷酷だった。あの頃に戻ったかのように。
「何を聞いても大丈夫だから!ただ私は、真実が知りたいの」
「あの男の考えなど、私に分かる訳ないだろう」
 それでも私は問い続けた。「何か言ってたでしょ?何でもいいから教えて!」

 彼はしばらくの間、無表情で私を見つめ続けたが、やがて大きな深呼吸の後に口を開いた。
「自分の配下がおまえをケガさせた事を、酷く悔やんでいた。当然、守ってやれるのは自分だけだと思うだろうさ」
 新堂さんが続ける。「医者の私ができるのは、ケガをした後の処置だけだからな」

「私は別に、誰かに守ってもらおうとなんて……!」
「それだけ、ユイを大事に思ってたって事だ」私の言葉を遮るように言う。

「前にも言ったが、あの男には私達が同じ特殊な血液である事は、話してない。銃創の処置なら、どこの医者でもできると考えるのは普通だ」
「何で?何で血の事、言わなかったの?……もし言ってくれてたら!」つい感情的になってしまう。
「言ってたら何だ?違う結果になっていたとでも?」

「それは……」ムダだ。こんな議論は!怒りを向ける矛先を間違えている。
 過去は変えられないし、新堂さんを責めても仕方がない。これは、私とキハラの問題なのに。

「ごめんなさい……あなたを責めてるつもりはなくて……」
「いや……。実は私も、その事は申し訳ないと思ってる」
 私から視線を外してうな垂れる彼の姿は、あの時を思い出させた。新堂さんの元恋人が、私に危害を加えてきたあの時を。

「正々堂々と、勝負したかったんだ」
「何ですって?」思わぬセリフに驚く。
「血液型が同じだったのは、ほんの偶然だ。そんな理由であの男からユイを奪っても、全然嬉しくない」
「新堂さん……」そこ、競い合うところ?

「正直、自信はなかった。二年前、ユイはすでにあの男を選んでいたし。今回のケガがなければ、私はおまえを諦めていただろうな」
 ようやく彼が顔を上げて私を見た。
「だが、ユイは私を選んでくれた。選んで、くれたんだよな?」
「私は……」

 あの時は無我夢中だった。キハラの本気の目を見て、こちらも本気で向かわなければと思った。

「私、生まれて初めてキハラに勝ったの。今まで、ずーっと負け通しだったんだけど。新堂さんのお陰ね」
 こんな私のセリフに、新堂さんは驚きを通り越して、もはや呆れた顔だ。
「おまえってヤツは、根っからのファイターだな!」
「本当にそう思ったんだから仕方ないじゃない。何とでも言って」開き直るように言い放つ。

「そう。私は新堂さんを選んだの。だって、あなたは私が守ってあげないとやられちゃうでしょ?」
 しかもキハラが相手では、私以外に勝てる可能性のある人間などいない。本人曰く、ただ一人を除いては。

「感謝してるよ」新堂さんが私の頭を大袈裟に撫でて言った。
「ちょっと……っ!やめてよ、そういうの!」彼の手を振り払って訴える。
 こればっかりは、子供扱いされているようで我慢ならない!
「これぐらいで納得してくれたか?さあ、もう休むんだ」

 急に話を打ち切られてしまった。
 でもこれで良かった。これ以上突き詰めて考えていたら、また泣き出す事態になり兼ねない。我が主治医はそんな事もお見通しのようだ。

 素直に彼の指示に従い、再びベッドへと入った。

 自分を見下ろす新堂さんの視線。昔のような威圧的なものではない、その優しさに満ちた視線を感じながら、私は静かに目を閉じた。


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