大嫌いは恋の始まり

氷室ユリ

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第五章 隠された秘密を探れ!

41.スランプから脱するには(1)

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「ユイ!タバコは控えろと言ったろう?」
 突然玄関ドアが開いて、こんな罵声を浴びせられる。
「っ!ビックリしたぁ……」

 思わず、煙草の灰を床に落とすところだった。
 新堂さんには合鍵を渡してあるのだから、いつ来られても文句は言えない。

 こんな指摘を受けても、火を消しもせずに紫煙を漂わせ続ける。
「固い事言わないでよ、新堂センセ」
「全く……」
 しかし彼はそれ以上何も言わずに、ただ私を観察している。それが逆に気になる。
「何よ」
「いや」何も言わない彼。「何なの?言いたい事があるなら、はっきり言って!」

 それでも無言の彼に続ける。「やめないわよ?吸うの」取り上げられるかもしれないと身構えながら。
「ああ」
 拍子抜けな事に、これにも反論する様子はなかった。

「あの男に、そっくりな吸い方をするなと思ってね」

 こんな言葉を受けて、キハラの事を思い出して体が硬直する。
 あの事件以来、私は精神的に不安定になっている。それを察してか、新堂さんは毎日のようにやって来ては何かと世話を焼いて帰るのだ。
 そんな彼がとても煩わしかった。

「そんなに気を遣われると、こっちが困るじゃない」顔を背けて言い放つ。
「その勝ち気で、一度言い出したら誰にも止められないところなんかも、あの男譲りだったんだな」
「ええ、そうよ!文句ならキハラに言って。地獄に行けば会えるかもね」
 イラ立ちがピークに達し、こんな事を言ってしまう。

「ユイ……」
「もう私に構わないで!あなたは他にやる事が山ほどあるでしょ?」
「優先順位は自分で決める」
「そうじゃなくて!私が言いたいのは……ここは、あなたのいるべき場所じゃないって事よ」拳を握って下を向き、絞り出すように告げる。

「何だって?」そう問い返した彼の眉間にしわが寄る。
「だってあなたは、世界中から求められる名医なのよ?私だけが独占してていい訳がないじゃない」下を向いたまま訴える。
「専門外である私の心の治療なんかよりも、重篤な病や大ケガを負った、あなたにしか治せない患者さんが大勢いる。だから……」

 そこまで言って彼を見ると、新堂さんは私から目を反らした。
 そしてため息の後にこう言った。「おまえは、自分の事しか考えてないな」
「え?」

「私の気持ちを、少しも考えてはくれないんだな」
「新堂さんの、気持ち……?」思いがけない言葉について行けず、彼の言葉を繰り返す。
「ユイは分かってくれてると思ってたんだが。残念だよ」
 彼らしくもなく、哀しそうな表情で呟くのだ。
「……そんなの、分かる訳ないじゃない」人一倍分かりにくい、新堂和矢の心なんて!

「なあユイ。私がこうして、まともな人間として生きてられるのは、おまえのお陰なんだぞ?」それは自信家新堂に似合わず弱々しい声だ。
「ユイがいてくれなければ、私の心はまた、凍りつくかもしれない」
「何を言って……」
 冷やかそうとした私の言葉は遮られる。「今の新堂和矢を支えているのは、朝霧ユイ、おまえって事だよ」

 信じがたい言葉だった。世界的な腕を持つ、世界一厄介な(!)名医を私が支えているなんて?
 新堂さんは、そこまで私を頼ってくれているのか。

「だからユイ。罪の意識で、自ら死を選ぶなんて事だけはしないでくれよな」
「……相変わらずストレートね。普通、そういう事をズバリ言わないものよ?」
 あまりに真っ直ぐな彼の言葉は、私の肩に入った力を一気に奪って行った。
「そんな事、ある訳ないでしょ?ダメダメな新堂さんを置いて、私はどこへも行かないって決めたんだから!」

「それを聞いて安心したよ」
 新堂さんは私の言葉の真偽を確かめるように、強い視線を向けて言い返した。


 翌日、ふらりと足を向けたのは片岡総合病院だ。この私が自ら病院に出向くなど、きっと嵐の前触れに違いない?

 赤尾先輩から聞いた片岡先生の心の内。〝ユイちゃんを娘のように思っている〟
 私達母娘にあんなに親切にしてくれたのは、そういう思いがあったからか。
 私としても色々あったので、久しぶりに顔を見たいと思った。

「こんにちは!片岡先生」
「おや?ユイちゃんじゃないか!かなり久しぶりだね。僕に会いに来てくれたのかい?」そう口にする先生だが、その目は患者を診る目だ。
 長らく寝込んでいたため、今の自分は当然健康そうには見えないだろう。
「今忙しいよね……連絡、入れてから来れば良かったね」
「大丈夫だよ。診察室においで」
「あっ、あのね、診察してもらいに来たんじゃないの。本当に、顔、見に来たんだ」

 一瞬動きを止めて私を見つめる先生だったが、再びいつもの優しい笑顔に戻る。

「そうかそうか。嬉しいよ。もしかして、赤尾君に会ったのかい?」
「そうなの!先生と先輩が知り合いだったって聞いて驚いたわ」
「僕だって驚いたよ。ユイちゃんと赤尾君が同じ学校だったって聞いてね」

 先生は私を院長室に通してくれた。

「時間、大丈夫?何なら私、出直してもいいよ」
「いや。大丈夫だよ。ユイちゃんが会いに来てくれたなんて、嬉しくてね!今日の仕事はもう終わりにしようかな」
「院長先生!ダメですって!」
 先生は上機嫌で笑い声を上げた。

「それで。体は大丈夫なのかい?」
「大丈夫ですよ……病気に罹ってる訳じゃないので」
「何かあったの?まさか新堂絡みなんて事はないよね?」
 先生は昔から新堂さんを敵対視していた。

 そして、私達が付き合っている事を知らない。

「大元を辿ると絡んでるかも……。でも違うの!私達ね、恋人同士になったのよ、先生」
 今は胸を張ってそう言える。
「何だって?!あの時あれほど関わるなと釘を刺したのに……」どこか悔しそうだ。
「新堂さんには、あれからもたくさん助けてもらってる。私には必要な人なの」
 私は心からそう伝えた。先生の心配するような事は何一つないのだと分かってもらうために。

 そしてそれが通じたのか、片岡先生の表情が緩やかになった。
「そうか。少し調子は悪そうだが、今のユイちゃんはとても幸せそうだ。何かされたらすぐに僕に言うんだよ?」
「うふふっ!前にもそんな事言ってくれたよね」
「あの時は、主治医を代わってあげられなくてごめんね」

 当時を思い起こして二人で笑った。

「ああ……本当に、目に入れても痛くないとはこの事だな。来てくれて本当にありがとう、ユイちゃん」
「こちらこそ、貴重な院長先生の時間をいただいて、ありがとうございました」

 積もる話は止みそうになかったが、これ以上時間を取っては申し訳ない。私は丁寧に礼を述べてその場を後にした。
 会いに行って良かった。本当に父親に会った気さえする!

 けれど、こんな安らぎの時は束の間だった。


 私に重くのしかかる喪失感やら罪の意識やらは、一向に消える気配がない。
 そして毎晩のように、キハラの夢を見る。

〝まったくお前は泣き虫だな!いい加減、そんな顔をするのはやめろ。お仕置きするぞ?〟
『キハラ!私、もう撃てない。この銃を、もう使えないよ……』
〝ユイ、良く聞け。お前はこれからも、大切な人達を守って行かねばならない。そのためにはそれが必要だ。辛いかもしれんが、乗り越えろ。お前ならきっとできる……〟
『ああっ、待ってキハラ!行かないで……!』

 去って行くキハラ。そこで決まって目を覚ます。

「キハラ!」
 名前を叫んで飛び起きる。こんな事を何度経験しただろう。頬には幾筋も涙が流れた跡がついていて、起き上がったままベッドでしばし呆然とするのだ。

 あれ以来、コルトを直視できないでいる。こんなに長期間メンテもせずに放置したのは初めてだ。
 起き出しては、コルトの入った引き出しを開けようとしたところでやめる、そんな事の繰り返しだ。

「うっ……!」すっかり癒えたはずの傷口に、痛みまでが甦る。
 何もできずに唇を噛み締めるしかない。キハラを失った悲しみよりも、こんな自分の不甲斐なさに怒りを感じていた。

「ユイ?どうかしたか」

 この日も新堂さんは、遅くまで私の所に留まっていた。
 叫び声を聞いた彼が部屋にやって来る前に、慌ててベッドに戻って寝たふりをする。
 彼には何も打ち明けていない。これは、自分自身の問題だから。

「ユイ、寝てるのか?」
 不意に顔を覆った布団が持ち上げられ、目が合ってしまった。寝たふりは呆気なく終了する。
「起きてたんだな。どうした、呼んだか?」
「どうもしないわよ、……イタタ」
「まだ痛むのか?おかしいな、もう治ってるはずだが……」

「……違うのよ。今痛いのは、ここ」左胸を叩きながら言ってみる。
「何?胸が痛むのか」
 脈を取り始める彼に慌てて訂正する。「あ……違う!だから……。心よ、ココロ」

 目を合わせて、しばし無言になる。

 少しして彼がポツリと言う。「……いいじゃないか。もう、そんな物持たなくても」
「え?」この言い分からするとコルトの事か。でもなぜそれを?
 目を瞬いていると、念押しのように続ける。「おまえの苦しむ姿を、これ以上見たくないんだよ」
「新堂さん、……知ってたの?私が……」ここまで言って口籠もる。コルトを手にする事ができないのを、と声に出す事さえもできない。

「無理をしてまで、そんな物を持つ必要はない」
 彼はもう一度、今度はきっぱりと言った。

 この人にとっては憎むべき殺人の道具でも、私にとってはそうではない。

 その事に気づいてくれたのかは分からないが、彼が言葉を変えて言い直した。
「大事なお守りなんだろ?なら、大事に仕舞っておけ」
「新堂さん……」
 頬に再び涙が伝うのを感じ、すぐに俯いた。いつまでも泣くなというキハラの言葉を思い出したからだ。

「少し、気分転換でもするか」
「何をするの?」
 最近の彼の提案は、いつも悪くない。「ピアノでも聴いてみるとか」こんな具合に!
 この人も気の利いた事ができるようになったものだ。

「弾いてくれるの?」
「もちろん。ご要望があればね」
 ピアノを解禁したとはいえやはり抵抗があるのか、その姿はあまりお目にかかれない。そしてそれはいつだって私のために行われる。
「嬉しい!」

 新堂さんが私の手を引いて、ゆっくりとリビングへ連れて行ってくれる。
 私をソファに座らせると、静かにピアノの前に腰掛けた。

「心を込めて、この曲をユイへ贈る」

 穏やかなメロディが、室内を満たして行く。その心地良くも寂しげな音色に込められているのは、彼の深い愛情以外の何ものでもない。
 夢の中のキハラが言っていた言葉を思い返す。
 私は、大切な人達を守って行かなければ……。いいえ、守ってみせる。

 目を閉じて、彼の奏でるメロディを深く心に刻み込む。昔に聞いた時よりも、悲しげな色が消えた気がするのは気のせいだろうか?

「ありがとう、新堂さん」彼の存在に、心から感謝した。


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