72 / 117
第四章 狂い始めた歯車を修正せよ!
30.交わらない線(1)
しおりを挟む夕方、私は車を入手し、組織の本部ビル周辺でヘルムートが現れるのを待った。選んだ車種はもちろんBMWの赤だ。隠れて動く必要はないのだから?
ナンバー・ツーの彼は毎日車で送迎されているが、その移動中が最も危険だ。
敵方は表に出てはいけない連中。存在を知られる事は避けるはず。つまり、組織内にいる間は手を出せない。自宅を狙うという方法は一度失敗している。
……となると?狙うは移動中しかないという訳だ。
「(ご苦労)」
ヘルムートが建物から現れ、運転手に声をかけて送迎車に乗り込む。車はそのまま走り出し、順調に帰路を進む。
その数台後に続き、速やかに追跡を始める。
「そろそろだと思うんだけど……」
まさにそう呟いた時、物凄いスピードで割り込む黒のワゴンが目に入った。
「お出ましのようね!」
いつでも発砲できるように、窓を全開にする。
二台の車は、もう人気のない通りに消えていた。この先は運河沿いの道で行き止まりだ。急いで後を追う。
追いついたワゴンの窓からは、銃身が伸びて前方を狙っている。
「そう来ると思ったわ。来て正解!」
スピードを上げて発砲し始めるワゴンに迫り、体当たりをする。
「ほらほら!前方だけじゃなく、後方の安全確認もしないとね?」
つい楽しくなって何度も追突すると、ワゴンは体勢を立て直し、いよいよ私に向けた発砲が始まる。
「そう来なくっちゃ!」
右腕でハンドルを固定してから体を車窓に寄せて、左手に構えたコルトを窓から出し、前方のワゴンに向ける。
そしてタイヤ目がけて発射。「手応えあり!」
ワゴンはパンクにより制御不能に陥る。不自然に脇に逸れたかと思うと、瞬く間に視界から消えた。
前方を走っていたヘルムートの車が、ハザードランプを点灯させてゆっくり停車する。その後ろで私も車を停める。
「(ユイ!驚いたな……。わざわざ、助けに来てくれたのか?)」
車から降りた彼は、運河に落ちたワゴンを覗き見た後、両手を広げて私を迎え入れる。
「(助け?イヤね、迎えに来ただけよ、ダーリン?)」
「(はは!そうだな。お迎えご苦労だった、ハニー)」私にキスをしながら囁く。
「(ちょっとダーリン、運転手さんが見てるわ……!)」
「(ああ。もう帰ってもらおう。君!妻が迎えに来てくれた。今日はもう帰っていい)」
運転手の男は、呆気に取られた様子で立ち尽くす。
「(それと、俺はこれから失踪する。ボスに、世話になったと伝えてくれ)」
「(何ですって?!フォルカー様!)」
ようやく我に返った運転手は、叫び声を上げた。
「(今の、言う必要あったの?)」見つめ合ったまま質問する。
「(世話になったのは事実だ。黙っていなくなるのは失礼だろ?)」
私は微笑んで頷いた。「(それもそうね)」
助手席のドアを開けてくれたヘルムートに、礼を言って乗り込む。
「(ドライビングは、どっちが得意かしら?」
私がこんなセリフを口にしたのは、別のワゴンが迫っていたからだ。その事に彼もすぐに気づいた。
「(今度は俺に任せろ)」
ヘルムートはすぐさま運転席に滑り込むと、急発進させた。
「(総動員して来やがったな……)」
彼の言う通り、今度は十台ほどが連なって現れた。
「ヘルムート……」
「(大丈夫だ。逃げ延びてみせる!ユイ、一緒に行こう)」彼は前方を向いたまま言った。
ただ見つめるだけの私に、ヘルムートが続ける。
「(君を連れて行きたい、ユイ。いっそ、俺と本物の夫婦に……)」
最後まで言わせたくない。……言わないで!
「(無茶な事を言わないで!)」私は涙を堪えて叫び、この言葉を遮った。
「(私だって、それができたらと思うわ。あなたとなら、本当の結婚生活だって……)」
きっと……いいえ、間違いなくやって行けるだろう。
束の間でも私は、普通の幸せというものを知る事ができたのだから。
「(だったら!……いや、分かってる。お互いの立場を考えたら、それが無理な事くらい)」ヘルムートが言い直した。
「(だがユイ、君はイギリス諜報部の人間ではないと言った。それならば、この仕事が終われば自由の身って事だろ?)」
「(そうよ)」
「(そうなれば、俺達の間に障害は……)」言葉を切り、不意に沈黙する。
ある。CIAという厄介な障害が。その事に彼も気づいたのだろう。私達は結ばれない運命だという事を。
組織が疑う私という人間と行動を共にする事は、この人にとって賢い選択ではない。
私はヘルムート・フォルカーの人生を、大きく変えてしまった。今はこの人を無事に逃がす事だけが私にできる事だ。せめてもの償いに。
緊迫感の中、私はこんな思いを胸に無言で正面を見据える。
「(とにかく、今はこの車達を振り切るのよ!)」
私は窓を全開し、後ろに迫る先頭のワゴンのタイヤを狙う。
またも一発でパンクさせる事に成功した。だが追っ手の車はまだまだいる。
「(弾は限られてる。これじゃ埒が明かない!)」
「(あと九台か……)」ヘルムートも呟く。
私達の視線が合わさる。考えている事はきっと一緒のはず……。
「(脱出の準備を)」と、予期した通りの言葉を彼が発した。
「(やっぱり私達、気が合うわね)」私は愛する夫にウインクと共に返す。
「(ユイ。これを)」
ヘルムートが、指先ほどの小さなSDカードを差し出した。それは組織の重大な情報の詰まった記憶媒体だった。
「(君の探していたものだと思うよ。受け取ってくれるね?)」
「(ありがたく貰っておくわ)」
私が受け取った事を確認すると、ヘルムートが急ブレーキを掛ける。たちまち後続車が凄まじい勢いで追突してきた。
総勢十台の大掛かりな玉突き事故となった。先頭にいた私達の車は、衝撃に耐え切れずに想定通り炎上。
もちろんその前に抜かりなく脱出した私達。外へと投げ出され、お互いの無事を確認し合う。
そして私は声を張り上げた。
「(ヘルムート、私を撃って!)」
「(……今、何と言った?)」
敵はすぐにも私達を探し当てるだろう。
「(このままじゃ、私も彼等に狙われ続ける。私達が無関係だと証明するには、あなたが私を殺すしかない)」
「(そんな事できない!できる訳ないだろう?)」
「(大丈夫。私は死なない)」
「(そんな事がなぜ言える?俺と一緒に来い、ユイ!)」
「(正気?二人では逃げ切れない。あなた一人なら、行ける……!)」
「(なら俺を撃て、ユイ。そしてお前が生き延びろ)」
「(違うの!あなたが私を撃たないと意味がないのよ!時間がないわ)」
私はヘルムートにコルトを握らせる。
「(大丈夫……。この子は、私を殺したりしない。私のお守りなんだから)」笑顔でそう言った。
そして私には新堂さんがいる。だから私は死なない!
「(ユイに会えて、本当に良かった。……できるなら、もっと違う形で出会いたかった)」
「(私も、あなたに会えて良かった)」
「(君の望みは分かった。きっと生き延びてみせる。だから、ユイも必ず……生き延びてくれ!)」
最後の抱擁を交わす。
「(済まない、ユイ……っ)」
体を離して呟くように言うと、ヘルムートは徐々に私から遠ざかって行く。
見る見るうちに、私達の間にかなりの距離ができた。
立ち止まった彼が、意を決したように振り返る。そしてその手に収まったコルトが火を吹いた。
次の瞬間。私の左脇腹に、鋭く熱い感覚が駆け抜けた。
「うっ……!!わざと距離を取ったのね……。射撃も得意だっていう自慢かしら?」
こんなジョークを口にして、自分に強がってみせる。
「……ふふ!最後まで優しいんだから、ヘルムートったら。……あり、が、とう」
崩れ行く私をしばらく心配そうに見ていたが、コルトをそっと地面に置くと、足早に立ち去って行った。
「これで、いいのよ……。逃げ延びてね、ダーリン……」
小さくなって行くヘルムートの後ろ姿を見つめる。
「うっ……!」急激に痛みが走り、左脇腹に手を当てる。
意図的に弾を体内に残してくれたお陰で、出血はそれほど多くはないようだ。
もし至近距離から撃って貫通すれば、特殊な血でなかったとしても、出血多量で死んでしまう。
「コルト、取りに、行かなきゃ……」
立ち上がろうとしたところで、私は捕らえられた。
「(おい、しっかりしろ!ミス・アサギリ)」
「……え?」
敵方のCIAとばかり思っていたが、後ろに控えていたのは例のワゴン達ではなく、ロンドン市警だった。
「(我が国の諜報部員としての活動、ご苦労だった)」
「どう、なってるの……?」
ヘルムートが警察に通報してくれたに違いない。
「そうよ……。よその国の野蛮な連中に、好き勝手されて黙ってられないものね~!」
日本語で話し始めた私に、困り顔の警官達。
撃たれた痛みも忘れて、異様なハイテンションのまま病院へと担ぎ込まれた。
その後、すぐに連絡係の諜報部の人間が現れ、私はコルトと引き替えに例の記憶媒体を渡した。
これで、任務完了。
「(ミス・アサギリ!こんな特殊な血液だった事を、なぜ言わなかった?)」
唐突に、深刻な顔をしたドクターを引き連れて男達がやって来る。
「(大袈裟よ。私、結構元気なんだから……)」
「(動いてはダメだ!)」起き上がろうとした途端に、医者の罵声が飛ぶ。
「何よ……」
〝大きな血管に弾がめり込んでいる。摘出も困難を極めるが、それ以前に代替用の血液がない〟
冗談なのではと思った。何しろ私は案外ケロリとしていたから。その昔、ボーガンで射られた時の方がよっぽど苦しくて死ぬかと思った。
「私の主治医を呼んで。彼なら、血液の問題も難手術の問題も解決できるから」
自分ではこう主張したつもりだった。けれど、一向に新堂さんを呼んでくれる気配がない。
「ねえ!早く新堂さんを呼んで!日本人のドクターよ。連絡先は私の……私の、」
そこまで言って、ここに携帯電話がない事を思い出す。
「とにかく!新堂和矢よ、誰か知ってる人いるでしょ?超有名なんだから……」
必死に訴えるけれど、誰もが私を素通りして行く。
「ああ……、誰か!新堂和矢を、呼ん、で……」
そしていつの間にか、私の記憶は途切れた。
0
お気に入りに追加
56
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。



下っ端妃は逃げ出したい
都茉莉
キャラ文芸
新皇帝の即位、それは妃狩りの始まりーー
庶民がそれを逃れるすべなど、さっさと結婚してしまう以外なく、出遅れた少女は後宮で下っ端妃として過ごすことになる。
そんな鈍臭い妃の一人たる私は、偶然後宮から逃げ出す手がかりを発見する。その手がかりは府庫にあるらしいと知って、調べること数日。脱走用と思われる地図を発見した。
しかし、気が緩んだのか、年下の少女に見つかってしまう。そして、少女を見張るために共に過ごすことになったのだが、この少女、何か隠し事があるようで……
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
甘過ぎるオフィスで塩過ぎる彼と・・・
希花 紀歩
恋愛
24時間二人きりで甘~い💕お仕事!?
『膝の上に座って。』『悪いけど仕事の為だから。』
小さな翻訳会社でアシスタント兼翻訳チェッカーとして働く風永 唯仁子(かざなが ゆにこ)(26)は頼まれると断れない性格。
ある日社長から、急ぎの翻訳案件の為に翻訳者と同じ家に缶詰になり作業を進めるように命令される。気が進まないものの、この案件を無事仕上げることが出来れば憧れていた翻訳コーディネーターになれると言われ、頑張ろうと心を決める。
しかし翻訳者・若泉 透葵(わかいずみ とき)(28)は美青年で優秀な翻訳者であるが何を考えているのかわからない。
彼のベッドが置かれた部屋で二人きりで甘い恋愛シミュレーションゲームの翻訳を進めるが、透葵は翻訳の参考にする為と言って、唯仁子にあれやこれやのスキンシップをしてきて・・・!?
過去の恋愛のトラウマから仕事関係の人と恋愛関係になりたくない唯仁子と、恋愛はくだらないものだと思っている透葵だったが・・・。
*導入部分は説明部分が多く退屈かもしれませんが、この物語に必要な部分なので、こらえて読み進めて頂けると有り難いです。
<表紙イラスト>
男女:わかめサロンパス様
背景:アート宇都宮様
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる