大嫌いは恋の始まり

氷室ユリ

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第四章 狂い始めた歯車を修正せよ!

30.交わらない線(1)

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 夕方、私は車を入手し、組織の本部ビル周辺でヘルムートが現れるのを待った。選んだ車種はもちろんBMWの赤だ。隠れて動く必要はないのだから?

 ナンバー・ツーの彼は毎日車で送迎されているが、その移動中が最も危険だ。
 敵方は表に出てはいけない連中。存在を知られる事は避けるはず。つまり、組織内にいる間は手を出せない。自宅を狙うという方法は一度失敗している。
 ……となると?狙うは移動中しかないという訳だ。

「(ご苦労)」
 ヘルムートが建物から現れ、運転手に声をかけて送迎車に乗り込む。車はそのまま走り出し、順調に帰路を進む。

 その数台後に続き、速やかに追跡を始める。

「そろそろだと思うんだけど……」
 まさにそう呟いた時、物凄いスピードで割り込む黒のワゴンが目に入った。
「お出ましのようね!」
 いつでも発砲できるように、窓を全開にする。

 二台の車は、もう人気のない通りに消えていた。この先は運河沿いの道で行き止まりだ。急いで後を追う。
 追いついたワゴンの窓からは、銃身が伸びて前方を狙っている。

「そう来ると思ったわ。来て正解!」

 スピードを上げて発砲し始めるワゴンに迫り、体当たりをする。
「ほらほら!前方だけじゃなく、後方の安全確認もしないとね?」
 つい楽しくなって何度も追突すると、ワゴンは体勢を立て直し、いよいよ私に向けた発砲が始まる。
「そう来なくっちゃ!」

 右腕でハンドルを固定してから体を車窓に寄せて、左手に構えたコルトを窓から出し、前方のワゴンに向ける。
 そしてタイヤ目がけて発射。「手応えあり!」

 ワゴンはパンクにより制御不能に陥る。不自然に脇に逸れたかと思うと、瞬く間に視界から消えた。
 前方を走っていたヘルムートの車が、ハザードランプを点灯させてゆっくり停車する。その後ろで私も車を停める。

「(ユイ!驚いたな……。わざわざ、助けに来てくれたのか?)」
 車から降りた彼は、運河に落ちたワゴンを覗き見た後、両手を広げて私を迎え入れる。

「(助け?イヤね、迎えに来ただけよ、ダーリン?)」
「(はは!そうだな。お迎えご苦労だった、ハニー)」私にキスをしながら囁く。
「(ちょっとダーリン、運転手さんが見てるわ……!)」
「(ああ。もう帰ってもらおう。君!妻が迎えに来てくれた。今日はもう帰っていい)」

 運転手の男は、呆気に取られた様子で立ち尽くす。

「(それと、俺はこれから失踪する。ボスに、世話になったと伝えてくれ)」
「(何ですって?!フォルカー様!)」
 ようやく我に返った運転手は、叫び声を上げた。

「(今の、言う必要あったの?)」見つめ合ったまま質問する。
「(世話になったのは事実だ。黙っていなくなるのは失礼だろ?)」
 私は微笑んで頷いた。「(それもそうね)」

 助手席のドアを開けてくれたヘルムートに、礼を言って乗り込む。

「(ドライビングは、どっちが得意かしら?」
 私がこんなセリフを口にしたのは、別のワゴンが迫っていたからだ。その事に彼もすぐに気づいた。
「(今度は俺に任せろ)」

 ヘルムートはすぐさま運転席に滑り込むと、急発進させた。

「(総動員して来やがったな……)」
 彼の言う通り、今度は十台ほどが連なって現れた。

「ヘルムート……」
「(大丈夫だ。逃げ延びてみせる!ユイ、一緒に行こう)」彼は前方を向いたまま言った。
 ただ見つめるだけの私に、ヘルムートが続ける。
「(君を連れて行きたい、ユイ。いっそ、俺と本物の夫婦に……)」

 最後まで言わせたくない。……言わないで!
「(無茶な事を言わないで!)」私は涙を堪えて叫び、この言葉を遮った。

「(私だって、それができたらと思うわ。あなたとなら、本当の結婚生活だって……)」
 きっと……いいえ、間違いなくやって行けるだろう。
 束の間でも私は、普通の幸せというものを知る事ができたのだから。

「(だったら!……いや、分かってる。お互いの立場を考えたら、それが無理な事くらい)」ヘルムートが言い直した。
「(だがユイ、君はイギリス諜報部の人間ではないと言った。それならば、この仕事が終われば自由の身って事だろ?)」
「(そうよ)」
「(そうなれば、俺達の間に障害は……)」言葉を切り、不意に沈黙する。

 ある。CIAという厄介な障害が。その事に彼も気づいたのだろう。私達は結ばれない運命だという事を。
 組織が疑う私という人間と行動を共にする事は、この人にとって賢い選択ではない。
 私はヘルムート・フォルカーの人生を、大きく変えてしまった。今はこの人を無事に逃がす事だけが私にできる事だ。せめてもの償いに。

 緊迫感の中、私はこんな思いを胸に無言で正面を見据える。

「(とにかく、今はこの車達を振り切るのよ!)」
 私は窓を全開し、後ろに迫る先頭のワゴンのタイヤを狙う。

 またも一発でパンクさせる事に成功した。だが追っ手の車はまだまだいる。
「(弾は限られてる。これじゃ埒が明かない!)」
「(あと九台か……)」ヘルムートも呟く。

 私達の視線が合わさる。考えている事はきっと一緒のはず……。
「(脱出の準備を)」と、予期した通りの言葉を彼が発した。
「(やっぱり私達、気が合うわね)」私は愛する夫にウインクと共に返す。
「(ユイ。これを)」

 ヘルムートが、指先ほどの小さなSDカードを差し出した。それは組織の重大な情報の詰まった記憶媒体だった。
「(君の探していたものだと思うよ。受け取ってくれるね?)」
「(ありがたく貰っておくわ)」

 私が受け取った事を確認すると、ヘルムートが急ブレーキを掛ける。たちまち後続車が凄まじい勢いで追突してきた。
 総勢十台の大掛かりな玉突き事故となった。先頭にいた私達の車は、衝撃に耐え切れずに想定通り炎上。

 もちろんその前に抜かりなく脱出した私達。外へと投げ出され、お互いの無事を確認し合う。
 そして私は声を張り上げた。

「(ヘルムート、私を撃って!)」
「(……今、何と言った?)」

 敵はすぐにも私達を探し当てるだろう。
「(このままじゃ、私も彼等に狙われ続ける。私達が無関係だと証明するには、あなたが私を殺すしかない)」
「(そんな事できない!できる訳ないだろう?)」
「(大丈夫。私は死なない)」

「(そんな事がなぜ言える?俺と一緒に来い、ユイ!)」
「(正気?二人では逃げ切れない。あなた一人なら、行ける……!)」
「(なら俺を撃て、ユイ。そしてお前が生き延びろ)」
「(違うの!あなたが私を撃たないと意味がないのよ!時間がないわ)」

 私はヘルムートにコルトを握らせる。
「(大丈夫……。この子は、私を殺したりしない。私のお守りなんだから)」笑顔でそう言った。
 そして私には新堂さんがいる。だから私は死なない!

「(ユイに会えて、本当に良かった。……できるなら、もっと違う形で出会いたかった)」
「(私も、あなたに会えて良かった)」
「(君の望みは分かった。きっと生き延びてみせる。だから、ユイも必ず……生き延びてくれ!)」
 最後の抱擁を交わす。

「(済まない、ユイ……っ)」
 体を離して呟くように言うと、ヘルムートは徐々に私から遠ざかって行く。
 見る見るうちに、私達の間にかなりの距離ができた。

 立ち止まった彼が、意を決したように振り返る。そしてその手に収まったコルトが火を吹いた。
 次の瞬間。私の左脇腹に、鋭く熱い感覚が駆け抜けた。

「うっ……!!わざと距離を取ったのね……。射撃も得意だっていう自慢かしら?」
 こんなジョークを口にして、自分に強がってみせる。
「……ふふ!最後まで優しいんだから、ヘルムートったら。……あり、が、とう」

 崩れ行く私をしばらく心配そうに見ていたが、コルトをそっと地面に置くと、足早に立ち去って行った。

「これで、いいのよ……。逃げ延びてね、ダーリン……」
 小さくなって行くヘルムートの後ろ姿を見つめる。
「うっ……!」急激に痛みが走り、左脇腹に手を当てる。

 意図的に弾を体内に残してくれたお陰で、出血はそれほど多くはないようだ。
 もし至近距離から撃って貫通すれば、特殊な血でなかったとしても、出血多量で死んでしまう。

「コルト、取りに、行かなきゃ……」
 立ち上がろうとしたところで、私は捕らえられた。
「(おい、しっかりしろ!ミス・アサギリ)」
「……え?」
 敵方のCIAとばかり思っていたが、後ろに控えていたのは例のワゴン達ではなく、ロンドン市警だった。

「(我が国の諜報部員としての活動、ご苦労だった)」
「どう、なってるの……?」
 ヘルムートが警察に通報してくれたに違いない。
「そうよ……。よその国の野蛮な連中に、好き勝手されて黙ってられないものね~!」
 日本語で話し始めた私に、困り顔の警官達。

 撃たれた痛みも忘れて、異様なハイテンションのまま病院へと担ぎ込まれた。
 その後、すぐに連絡係の諜報部の人間が現れ、私はコルトと引き替えに例の記憶媒体を渡した。

 これで、任務完了。

「(ミス・アサギリ!こんな特殊な血液だった事を、なぜ言わなかった?)」
 唐突に、深刻な顔をしたドクターを引き連れて男達がやって来る。
「(大袈裟よ。私、結構元気なんだから……)」
「(動いてはダメだ!)」起き上がろうとした途端に、医者の罵声が飛ぶ。
「何よ……」

〝大きな血管に弾がめり込んでいる。摘出も困難を極めるが、それ以前に代替用の血液がない〟

 冗談なのではと思った。何しろ私は案外ケロリとしていたから。その昔、ボーガンで射られた時の方がよっぽど苦しくて死ぬかと思った。
「私の主治医を呼んで。彼なら、血液の問題も難手術の問題も解決できるから」

 自分ではこう主張したつもりだった。けれど、一向に新堂さんを呼んでくれる気配がない。

「ねえ!早く新堂さんを呼んで!日本人のドクターよ。連絡先は私の……私の、」
 そこまで言って、ここに携帯電話がない事を思い出す。
「とにかく!新堂和矢よ、誰か知ってる人いるでしょ?超有名なんだから……」
 必死に訴えるけれど、誰もが私を素通りして行く。

「ああ……、誰か!新堂和矢を、呼ん、で……」

 そしていつの間にか、私の記憶は途切れた。


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