大嫌いは恋の始まり

氷室ユリ

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第四章 狂い始めた歯車を修正せよ!

  ギソウ結婚(2)

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 私がケガを負った翌日。ヘルムートはいつも通り家を出た。

「さすがに今日は、大人しくしていた方が良さそうね……」
 ケガを負った事もあり、一日部屋で過ごす事に決めた。

 その日の午後、玄関ベルが鳴り響く。

「(ユイー、どこにいる?ドクターを連れて来た)」
「(ヘルムート!お仕事中じゃないの?わざわざそんな事してくれなくても……)」
 夫の声を聞いて慌てて玄関に向かうと、その後ろにもう一人男性の姿が見えた。
「(偶然、日本人のドクターを見つけてね。医者嫌いの君でも、同国人なら安心だろ?)」

 そういう問題ではないのだが……。

 ヘルムートに促され玄関に足を踏み入れた男性を見て、名前を叫びそうになる。
「し……んっ!!!」

 それを遮って、平然と男性が話し始める。
「(初めまして、新堂と申します。外科医をしております。もしよろしければ、奥様のおケガを拝見しましょう)」
 新堂さんはとても流暢な英語で、何事もなく初対面のフリを決め込む。

「(ユイ?顔色が悪いが、どうかしたかい?ついでに診察してもらうといい)」
「(……ダーリン、そちらの方は外科医とおっしゃったわ……。それは専門外よ)」
 私も負けずに演技を始めた。
 すると新堂さんは爽やかな笑顔で、問題ありませんと答えた。

「(それじゃ、仕事を抜け出してきたんで、僕は失礼する。妻をよろしく頼むよ、ドクター・シンドウ)」
「(かしこまりました)」
 出勤前の習慣にならい、私にキスをして出て行くヘルムート。新堂さんの目の前で!

 そして、ドアは閉ざされた。
 何とも言えない表情で立ち尽くす私と、何の感情も読み取れない新堂さんが向かい合う。気まずい空気が、辺り一帯を覆い尽くしている。

「ここじゃ何だから、入って」
 取りあえず、彼をリビングへ通す事にする。
「あのね……新堂さん。これはその……っ」
 しどろもどろで弁解を始める私に対し、彼は至ってクールなままだ。

「まず先にケガの治療だ。診せてみろ」
 はい、と小さくなって頷く。

 リビングのカーテンを引いて、外からの目を遮断した後、彼の前でブラウスを脱ぐ。

「これは打撲だな。おまえらしくないじゃないか。こんなケガなんて」
「集中力が欠けていたみたい」
「新婚生活の真っ最中じゃ、浮かれても仕方ないよな!」
「新堂さん!これはただの任務よ?」すぐさま否定する。

「……あの日、おまえが相談したいと言っていたのは、この事か」
「そうよ!新堂さん、凄く忙しそうで。言い出せなかったんだもん……」

 彼は口を動かしながらも、テキパキとケガの手当てをしてくれた。
「危険な仕事じゃないと言っていたが?こんなケガをして……」
「だから、単なる私の不注意だったら!」

 新堂さんはやっぱり怒っている。急展開で、私は窮地に立たされた。
 それと同時に疑問が一気に湧き上がる。

「それより、いつこっちへ来たの?どうやってヘルムートと知り合ったの!」立て続けに問いかける。
「何。ほんの偶然だ」返ってきたのはこんな素っ気ない回答。
 嘘だ、そんなはずがない。こんな偶然がそうそうあるものか!
 再度問いただそうとするも、彼に話を戻される。
「あのフォルカー氏は相当なイケメンで高身長、まるで映画俳優のようだ。おまえは面食いだから、理想の相手じゃないか!良かったな」

「新堂さん……それ、本気で言ってるの?」褒めちぎられた言葉の羅列に逆に呆れる。
 元はといえば、あなたがいつも煮え切らない態度だからでしょ!そう叫ぶ事は容易かったが、今は感情的になるべきではない。

 私は冷静さを取り戻して口を開く。
「これだけは言っておく。私は、新堂和矢以外の人に、興味ないから」
 こんな事を言ってしまい慌てる。これでは告白しているのと変わらないのでは?
 だがこれに対する冷やかしは、いつになってもやって来ない。

 包帯を巻き終えて、ようやく彼が私の方を見た。

 しばしの沈黙の後、彼は言った。「例え芝居でも、見たくないな。他の男との生活なんて!」そして「こんな依頼まで受けるとは。呆れたよ」と吐き捨てるように続ける。
「私だって……迷ったのよ!でも純粋にただの任務。仕事が済めば、あの人とは終わる」
「そんなふうに割り切れるものかね!……全く女ってヤツは、理解しがたい」

 この言葉には、何も言い返せなかった。
 そんなんじゃない。割り切れてなんかない。私は、あなたと最初にしたかった……!
 本当は、こう言いたかったのだ。けれど言葉は出てこず。

 そして新堂さんは帰って行った。


 その夜。

「(ユイ、肩はどうだい?あのドクターは、何も問題を起こさなかったか?)」
「(問題って?おかしな質問ね!ダーリン。私の顔色を見てもらえれば、一目瞭然だと思うけど)」

 大事なあの人との間に、亀裂が入ったかもしれない。それでも、理屈抜きで新堂さんに会えた事は心から嬉しかった。
 なぜ彼が私の居場所を掴めたのかは、謎のままだが。
 この人に聞いてみようかと思ったがやめた。下手に口を開いて、そこからどんな疑惑の芽が生まれるか分からない。

「(そうだね。何だか肌ツヤまで良くなったようだ)」
 至近距離にいる我が旦那様が、私の頬に触れる。
「(それは大袈裟でしょ)」

 新堂さんに会えた事で、私はここまで変化するのか。

 触れられた手に自分の手を重ねる。
 するとヘルムートは私を引き寄せた。身を任せて抱き合う。
「(まだ痛むかい?今晩は……やめておこうか)」気遣いを見せるヘルムート。
「(いいえ、大丈夫。来て、ダーリン……)」私はそれを拒む事なく受け入れた。

 こうして、しばし夜の情事が繰り広げられる。
 ヘルムートとのひと時。始めは演技する事に集中していて、ただ必死だった。何しろ私の夫はとても力強くて、強引だったから。
 けれど何度か回数を重ねるごとに、強引さの中にふと、温もりのようなものを感じる時があった。それが何を意味するのかは分からないが。

 そんな温もりなどいらなかったのに。
 これ以上続けたら、本気にならない自信がなくなりそうだ。


 このケガの一件以来、明らかにヘルムートは私の動向を注視している。あの日だって、抜き打ち的にドクター新堂(!)を連れて、昼に帰宅したくらいだ。

 あれから二日後の午後三時を過ぎた頃、本日三度目の電話がけたたましく鳴った。

「最近この電話ったら、よく鳴るわ!」
 それは夫が頻繁に家に連絡を入れて来るようになったからだ。
「午前中も、昼もかけてきて。まさか、またヘルムート……?」

ブツクサ言いながら受話器を取り上げる。
「(もしもし?)」

『(やあユイ。調子はどうだ?何か変わった事は?)』
「(あのねダーリン……。それ聞くの、今日三回目よ?調子もいいし、変わった事はないわ。で、ご用は?)」
『(今日は早く上がれそうなんだ。ちょっと出て来ないか?外でディナーにしよう)』
「(嬉しい!お夕飯の支度まだだったの。早速外出の支度をするわね)」

 晩ご飯の支度をせずに済むのは嬉しいが、これではおちおち留守にもできなくなった!先が思いやられる……。



 あくる日。ヘルムートの所属する組織でイベントが開かれ、夫婦同伴でそのパーティに出席する事になった。久々に堂々と外出できる!

 会場にて。
「(ヘルムート、私ちょっとお手洗いへ……)」
「(ああ。行っておいで)」

 こんな時こそ、組織を探る絶好のチャンスだ。酒に酔った連中は口も気持ちも軽くなる。思わぬ内部情報を入手できるかもしれない!
 一目につかぬよう気を配りながら、あらゆる人物の他愛のない会話を盗み聞いて回る。

 そんな時、不意に声をかけられる。
「(ミセス・フォルカー)」

 振り返ると、そこにいたのはいつぞやのホームレスの男、のように見えるが……随分と体格が違う。
「(あなたは……?)」
「(ちょっと、よろしいですか)」

 私が反応しないのを見て、男は次の行動に出る。
「(ミス・アサギリと、呼んだ方がいいだろうな)」耳元でそう囁いたのだ。
「(な!……なぜその名前を!)」
「(バラされたくなければ、付き合ってもらおうか)」そして私を脅しにかかった。

 ヘルムートはここから見える範囲にはいない。騒ぎを起こす訳には行かない。同行するしかないだろう。
 私は仕方なく男について部屋を出た。

 男の背に視線を向けて考える。先日はわざと背中を丸めて体を小さく見せていた。そこまでできるこの男は恐らくプロだ。

 空き部屋に誘導されて、至近距離での対面となる。

「(あなた、何者?お目当ては私の命?それとも別のものかしら)」上を見上げる形で問いかける。
 こんなセリフは是非とも見下ろして言いたいところだ。

「(なぜ日本人がここにいる?あの国には諜報機関はないはずだ。一体何をしに来た?目的は!)」
 唐突に浴びせられた質問にたじろぐも、〝諜報機関〟という言葉に引っかかる。
「(私は日本政府の人間じゃない。ただ愛する人と国際結婚した民間人よ)」
「(そんな見え透いた嘘をつくな!)」

「(嘘だと思うなら、夫に聞いてみるといいわ。私達は愛し合っているの!)」
 なぜか私は自信を持ってそう言えた。
 体の関係を持った事が理由か。女とは何と単純な生き物だろう!自分もその一人とは思いもしなかった。

 そんな私の心の葛藤をよそに、男がさらに迫る。
「(ミス・アサギリ。今すぐ自分の国に帰れ。何を企んでいるのか知らんが、邪魔をされると困るんだ!)」
「(そういう事は、ちゃんと名乗ってから言ってくれない?)」
「(お前に質問する権利はない!)」

 ついに壁際に追い込まれる。
「(イヤだ、って言ったら?)」それでも私は挑発を続けた。

 男が片腕を私の首に押し付けてくる。とっさに外そうとしたが、思わぬバカ力でビクともしない。

「(くっ……!殺すって事か)」
「(物分かりがいいな。その通りだ。ついでに、その目障りな拳銃もいただいて行くとするか)」
「うっ、んんっ!」息ができず声も出ない。我慢の限界だった。
 蹴りを入れるために、着ていたロングドレスの裾を持ち上げたその時、扉が開いた。

「(おい、そこで何をしている?)」現れたのは、我が夫ヘルムートだった。

 男が腕の力を緩めた。その拍子に力が抜けて、不覚にも壁伝いに座り込んでしまう。
「(ユイ!どうしたんだ!)」私に駆け寄って来たヘルムートに抱き起こされる。
「(これは、どういう事だ?)」

 鋭い視線で問い詰められ、男がまたも背中を丸めたのが見えた。
「(こちらのご婦人が、ご気分が優れないとの事でしたので介抱しておりました。ご主人様がいらっしゃったようでしたら、私はこれで……)」
 早口にそう言うと、そそくさと部屋を出て行った。

「(おい!待て……っ)」
 ヘルムートが男の後を追おうとするのを、上着を引っ張って必死に止める。
「(い、行かないで……。側に、いて?ダー、リン……)」
 咳込みそうになるのを抑えて、切れ切れに何とか訴える。

「(ユイ。一体、どうしたって言うんだ?)」
「(お手洗いに、行ったんだけど。戻る途中で、具合が……)」
「(本当なのか?)」

「(具合、が……っ)」頸部を絞められすぎたらしい。まだ声が上手く出ない。
「(おい、しっかりしろ!すぐに帰ろう)」


 私はヘルムートに連れられ、帰宅した。

「(本当に病院へは行かなくていいのか?)」
「(平気。休んでいれば良くなるわ)」
「(おい、ユイ。首の所、赤くなってるじゃないか!やっぱりあの男に何かされたんじゃ……)」
 ベッドに横になった私を見下ろし、その事に気づいた様子。

「(これは……じん麻疹よ!私、首の所に良く出るの。疲れが溜まってくると)」
 とっさにこんな言い訳を考え出す。
「(そうか……。色々無理をさせていたんだね。もっとちゃんと、君を見ててあげれば良かった。ごめんよ)」
「(そんな!あなたは私を気遣ってくれてるわ。十分なほどに……)」
 そう、全く十分すぎるくらいに!

 何とか私が脅されていたのは、バレずに済んだらしい。
 それにしてもこの屈辱、晴らさずにおくものか!

 あの男の話し口調は民間人のものではない。国に帰れとは何て勝手な言い草だ!
 顔立ちからして、あの男だって外国人のようだが?……いや、人相は特殊メイクという手もあるので当てにならない。

「うだうだ考えても始まらない。こういう調べ物は、あちらの方々が得意でしょ」
 早急に我が依頼元、イギリス諜報部に報告し、調べさせる事にした。


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