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第三章 一途な想いが届くとき
26.ダイヤの原石(1)
しおりを挟むキハラ・アツシが朝霧家にやって来たのは、私が八歳の時だった。
父義男がキハラとどこで出会い、どんな経緯で家に連れて来たのかは知らない。
キハラがいわゆる在日の韓国籍で、フランスの傭兵をしていた事、とても優秀な人物だという事は、幼い私の耳にも入ってきた。
朝霧家にはかなりの猛者が揃っていたが、そんな中でもキハラは別格だった。まだ二十歳そこそこという若さとその優秀さから、私の教育係を任されたのだ。
当初私は、この無愛想で色黒で怖い顔の大男がそれはそれは恐ろしくて、いつも怯えていたものだった。
キハラが家にやって来てすぐの頃だ。
父義男が、私と母を前に激怒した。それは恐ろしい形相で!キハラがある報告をした直後だったと思う。
―――「ユイが学校でイジメに遭っているだと?何て事だ!で、キハラ。お前はどうしたんだ」
「はい、助けました」頭を下げた姿勢のまま答えるキハラ。
「馬鹿者め!それでは何の解決にもならんだろうが!」
そんな光景を怯えながら見ている私。傍らには母が優しく寄り添ってくれている。
「いいか、ユイ。お前はこの朝霧家の一人娘だ。朝霧の名を汚すような行為は慎め!」
義男が私にも罵声を浴びせ始める。
「あなた!そんな言い方はないじゃない?ユイだって、好きでイジメられている訳じゃないんだから」
「大体、ミサコ。お前がそうやって甘やかすからこんな事になったんだぞ!」
今度は怒りの矛先が母へ向く。
黙り込む母を見て、私は反論した。「お母さんを叱らないで!私が、私が……悪いの」
母にしがみ付いて泣きながらも、何とかして母を庇いたかった。
「キハラ!ユイを徹底的に鍛え上げろ。誰にもナメられないように。強い人間に作り上げるんだ。いいな!」義男がキハラに命令を下す。
「かしこまりました」
キハラの返答を聞くや、沈黙を保っていた母が口を開いた。
「ユイは珍しい血液型なのよ?ケガでもしたら大変だわ!お願いだからやめてください!」
「ならば。ケガをしないようにすればいい話だろうが?構わん、行け。キハラ」
「あなた……っ!」
母の嘆く声が、悲しく部屋に響いた。
こうして私は、キハラの猛烈な特訓を受ける事になり、厳しい鍛錬の日々が始まる。
母を守るためにも自分が強くならなければ!そんな思いで必死に地獄のような訓練に立ち向うも、体があまり丈夫な方ではなかったため、体力づくりの基礎トレーニングからして過酷だった。
そんな疲れ果てて根を上げた時に、いつも声をかけてくれる人がいた。
「ユイお嬢さん。今日も随分とやられたようだね」
この人は小田清志。朝霧の家で長年働いている、義男の言わば右腕的存在。年は四十代前半くらいだろうか。義男よりも少しだけ若い感じだ。
「あ、キヨシおじちゃん……」
なぜか私はこの人にだけは懐いていた。きっと見た目も関係していると思う。他の連中と違って、この人は穏やかな顔をしているし、何しろ優しい。
「いつも頑張ってて、偉いね」いつものように、優しく私の頭を撫でてくれる。
「私、もうイヤだっ!おじちゃん、助けてよ……」我慢していた涙が一気に溢れ出す。
「ユイお嬢さんの事は、僕がいつも見守っているよ」
上着にしがみ付いて泣きじゃくる私に言う。
「大丈夫、あなたはきっと強くなる。おじさんが魔法をかけてあげよう」
「魔法……?」たったのワンフレーズに反応する。
不意に泣き止み、きょとんと見上げる私に言葉を続ける。
「ユイが、どんな事にも負けないようになる魔法だ。さあ、目を閉じて」
「どんな事にも?」
言われるままに目をつぶると、小田さんが私の額に手を当てる。
出任せの呪文を唱えた後にこう締めくくる。
「さあ、これでもう、ユイは無敵だ!」
「ありがとう、おじちゃん!」―――
そんな話をすっかり信じ込んで、私はいつも元気を取り戻す事ができた。
小田さんには私と同年代の娘と、その下に息子がいた。娘とはもう何年も会っていないと当時言っていた。離婚して息子だけ引き取ったそうだ。
後にこの男の子が朝霧家の立派な一員となるのだが、それが先日の拳銃講義に来ていた、あの青年だったと判明!
小田さんからキハラのコンバット・パイソンの話を聞いたのなら納得だ。あの当時を知る人間は限られている。
今思えば、あの頃の小田さんは、自分の娘と私を重ねていたのかもしれない。
そして、例の魔法が効いたのか(!)体力がつくに連れて、次第にキハラの猛特訓にもついて行けるようになり、私は日に日に強くなって行ったのだ。
―――「ユイお嬢さん、あのイジメっ子は退治したんですか?」キハラが聞いてきた。
「ううん、まだ……」それだけ言って口籠もる。
「打ち負かしてやったらどうです?今のあなたなら容易い事だ」
今すぐにでもやれ、という感じで言われ、慌てて「もういいの!」と即答した。
「何なら、またお手伝いしましょうか?」
「いいっ!キハラは手を出さないで!」
前にキハラが私をいじめた子にした強烈な仕打ちを思い出し、慌てて拒否する。
何しろあれ以来、いじめはすっかり止んで、すでに解決していたのだから。
「いいですか、ユイお嬢さん。武器を持った敵と戦う場合は、まず先にその凶器を狙ってください」
私は素直に頷いて、教わった通りの動きをする。
大抵はダメ出しか罵声がやって来るのだが、時としてこんなお褒めの言葉をいただける時がある。
「あなたはコントロールが素晴らしい!いいですよ!」
いつも手厳しい鬼教官に、こんなふうに褒められるのは本当に嬉しいもの。もっともっと褒められたい!単純な私は上手い事乗せられるのだ。
こうしてキハラの教えを夢中で覚えては、様々な技術を身に付けて行った―――
こんな鬼教官だが、私の身に危機が迫ると必ず助けに来てくれた。
元々私のボディガードというのがお役目だから、向こうにとってはただの任務だった訳だが、そんな時の彼はまさにスーパーマン!負けたところを一度だって目にした事がない。
今思い返してみれば、あの人は本当に私の扱いを心得ていた。
これも小学生の頃の話なのだが、こんな事があった。
通っていた小学校に行く道は何通りかある。学校が推奨しているルートは、広くて見通しが良いのだが何しろ遠回り。そこで私は、最も近道の薄暗い林を抜けるルートを好んで使っていたのだが……。
―――「……何?あの車」
近道の林の中を歩いていた時、私の歩く少し後ろを、ピタリとつけて徐行する車に気づく。
いつもながら、辺りには全く人影はない。
怖くなって全速力で走り出すも、車のスピードに敵うはずもなく、すぐに追いつかれてしまう。
その黒いワゴン車はついに私の真横に止まり、静かに窓が開いた。
「アサギリ、ユイちゃんだね?」
「……何?おじさん達……」
答える気は毛頭ない様子。すぐにドアが開き、降り立つ男達に腕を掴まれる。
「いやっ、放してよっ!」
と、その時。「何をしている!」絶妙のタイミングでキハラが現れた。
私をすぐさま奪還したキハラは、車に戻ろうとする男達を引きずり降ろし、ボコボコにしたのだった。
キハラはいつでも私を守ってくれる。そんな安心感もあり、恐怖心というものが私の中にはほとんどなかった。
だからこんな誘拐未遂事件があった後だって、帰り道は変わらず鬱蒼とした林を抜けるルートだ。
そんなある日の帰り道。林の中心付近に辿り着いたところで、男が一人現れた。凶器は持っていないようだが、明らかに私を見ている。
「また誘拐犯?!キハラ、助けてっ!」後ずさりしながら小声で叫ぶ。
私を凝視し続ける男。無視して通り過ぎようとするも、行く手を阻むように立ちはだかる。
「あの、何なんですか?」問いかけるが返事がない。
目深に被った帽子で、相手の表情も読めず。
男がジリジリと迫る。さらに後ずさる私。次の瞬間、男がついに攻撃に出た。
「いやぁっ!」
私は悲鳴を上げながらもそれを交わす。そして背負っていたランドセルを、男目がけて放り投げた。
「きっと、何か事情があるんだ、……キハラは必ず来てくれる!それまで耐えよう」
私はそう信じて、目の前の敵に立ち向かった。
向かった、と言っても相手は大の大人。自分の小さな体と弱い力では敵わない。
足を払っても体を叩いてもビクともせず、どうして良いのか分からなくなる。
「もういやっ!キハラ!助けてぇ~!」
どんなに呼んでもキハラは来ない。
どれくらい経っただろう。疲れて逃げる力もなくなった頃、一瞬の隙をついて仕掛けた技が偶然掛かり、男の巨体が宙を舞った。
男はとっさに受け身を取る。再び襲い掛かって来るものと身構えていたが、なぜかそのまま逃げて行った。
呆然とする私の前に、ようやくキハラが姿を現した。
「ユイお嬢さん」
「キハラ?!いつからいたの?どうして助けてくれなかったのよ!」
「ユイお嬢さん。なぜもっと早くに技を掛けなかったんです?相手は強敵でした。そんな戦い方では体力が持たない。……何てザマだ!」キハラが声を荒げる。
私は戸惑いつつも、師匠のいつものダメ出しに下を向いて唇を噛み締める。
「だって……」
「だって何です?」
「あの人の事、ケガさせちゃったらどうするのよ」
泣きながらも顔を上げて訴える。「暴力はダメだって、お母さんに言われてるもん!」
キハラは意外そうな顔をした。
「これはこれは……。大方、恐怖で体が動かなかったのだと思っていたが……」
表情をやや緩めた後、キハラが続けた。
「……そうでしたね。弱者に対して暴力はいけません。ですが。身を守るためならば、例外です。一瞬の躊躇が勝敗を分けるのですよ?」
「だけど……!」私の声が林の中にこだまする。
「済みませんでした。あなたは、父上と違ってとても心優しい方だ。母上様が知ったら、とてもお喜びになるでしょう」
「私は、あいつからお母さんを守るの!守るためなら、暴力はいいのね?」
「そうです。試すような事をして、申し訳ありませんでした」
そう言ってキハラが頭を下げた―――
この後、最初の一件は本当の誘拐で、次は義男に命令されて私を試したものだと説明されたが、私にとってはどちらも困惑のひと時でしかなかった。
そんな事があったその年の冬。またしても事件が起こる。
小学校に一人の不審者が乗り込んで来たのだ。それも私の教室に!大した恐怖心も持たない幼かった私は、ただ一人敵と対峙する。
―――男は拳銃を持って乱入。そして教室内で容赦なく発砲し始める。
「皆、机の下に伏せて!」
その銃弾が、私達を庇った担任の奥山先生を容赦なく撃ち抜いた。
教室の真ん中の席だった私は、思わず立ち上がる。
「またキハラが仕掛けたのね」
いつもの訓練の延長線という感覚だ。それはまるで、テレビドラマの撮影か何かのようにも思えた。皆、何て迫真の演技をするのだろうと。
「……ううっ、朝霧さん!危ないわ……座りなさい!」
撃たれて床に倒れたまま、奥山先生が声を振り絞る。
男が私に注目する中、先生を守ろうとの一心で、一人教室の真ん中で立ち続ける。
「キハラ、見ててよ!」
師匠の教えを忠実に守って、まずは敵の武器を奪いにかかる。
机に置いた箱型のペンケースを手に取り、男に向けて勢い良く投げつけた。
それは見事に男の右手に命中し、持っていた銃が床に落ちた。
思いがけない事態に男が気を取られている隙に、机をすり抜けて近づき、落ちた銃を拾い上げる。
「こんなオモチャで、バカにしないで!」
使い方なんて知らない。見様見真似で引き金を引いた。
パンッ!!!一瞬静まり返った教室に、再び乾いた銃声がこだまする。その衝撃に一番驚いたのは自分だった。
「このガキ!一体何なんだ?邪魔しやがって、殺してやる!」
その上、撃たれたはずの男が倒れない。どうやら防弾ベストを着ているらしい。
呆然と立ち尽くす私に、男が襲いかかってきたその時だ。
「ユイお嬢さん!!」
窓ガラスが割れる音と同時に、キハラが飛び込んで来た。
「キハラ!私まだ、敵を倒してないんだけど……」
キハラは私に覆い被さっていた男を蹴り上げて、私を救出する。
「ケガはありませんか?ユイお嬢さん……!」キハラが私を抱きしめて言う。
校庭にはいつの間にか何台ものパトカーが集まっている。
いくつもの赤いランプがチカチカと光るその光景は、私の心をこれでもかというくらい不安にさせた。
逃げようとした男を、キハラが透かさず締め上げる。
「皆さん、もう心配はいりません、警察も来ました。先生、救急車も……」
奥山先生に話しかけたキハラが、途中で声を詰まらせた。
「ねえ、これってお芝居なんじゃないの?奥山先生!ねえキハラ、先生は?」
返事をしない先生に不安になって、キハラに問いかける。
「あなたのせいではありません」キハラはこれだけ言った。
「キハラ、これはいつものテストなんじゃ……。あのピストル、おもちゃなんでしょ?」
「あなたにはまだ、本物を見せた事がありませんでしたね」
「どういう、事……?」
どうしても今回の事がキハラの仕向けたテストとしか思えない。だからこそ、あんな無謀な事ができたのだ。
混乱する頭は使い物にならず。ただピストル発射時の衝撃だけが、いつまでも残っていた。
教室に大勢の警官隊がなだれ込んで来る中、キハラが一瞬固まったように見えた。
「……キハラ?」
その緊迫した顔を見上げて尋ねるも、返事はなかった。
この日、私達児童は授業を切り上げて、緊急下校となる。
帰りの車内にて。
「ユイお嬢さん、大丈夫ですか?」
キハラがバックミラー越しに、私を覗き込んで聞いてきた。
後部座席で固まったまま、未だに状況が飲み込めずにいる私。生まれて初めて拳銃を撃った事も、夢か何かのように感じる。
「うん……大丈夫。ねえ、キハラ!今の、テストじゃないの……?」
もう一度確認するも、当然答えは同じだ。
「違います。あの男は正真正銘の犯罪者です」
「それじゃ先生、ホントに、し……死んじゃったの?」
倒れて動かなくなった奥山先生を思い浮かべる。
「残念ながら……。しかし、あなたは多くのクラスメイトを救ったんです」
「先生、危ないから座れって……私に言って、そういうお芝居をしているんだと思ってた。お芝居じゃ、ないの?」
「ユイお嬢さん。申し訳ありません」そう言ったキハラも下を向いた。
その直後、私は泣きじゃくった。担任の奥山先生の事が好きだった。まだ教師になりたての、若くて優しい可愛らしい先生が。
どうしてこんな事が起こるの?先生は何も悪い事はしていないのに!
「キハラ、私もっともっと強くなる。どんどん鍛えて!もう二度と、誰も殺させたりしない」―――
この件以来、私はこの世界に蔓延る悪を心底憎むようになった。善良な人間が、こんなふうに犠牲になる残酷さを思い知った。
こうして私はさらなる猛烈な稽古を積み、誰よりも強くなろうと心に誓ったのだ。
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