大嫌いは恋の始まり

氷室ユリ

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第三章 一途な想いが届くとき

21.ポッカリ空いた穴(1)

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 父義男が亡くなり、その喪失感は日を追うごとに増している。
 自分がどれだけ〝打倒、義男!〟を目標に生きていたかが良く分かった。

 そして四ヵ月ほど経って、ついに事件が起こる。それは実に些細な仕事だったにも関わらず!いずれ失態を犯すのは目に見えていた。そのくらい、この時の自分は抜け殻同然だったのだ。

 この年の暮れに入ったその依頼は、京都のとある組織幹部の護衛、つまりボディーガード。そんな私の依頼人を、コソコソと嗅ぎ回る一人の刑事が現れる。その存在にはすぐに気がついた。

 あの日に起きた乱闘騒ぎを、この刑事は予想していたのかもしれない。勇敢にも、たった一人でこの抗争に乱入して来たのだから!
 挙句、発砲!それも一発や二発ではない。
 日本の刑事がこんな乱暴な手段を取る事など想定外で、心底驚いた。それはまるで、テレビドラマの見せ場のシーンのようだった。

 そんな度を越した威嚇射撃の後に刑事が狙ったのは、やはり私の依頼人だった。とっさに体でガードするしかなかった。何しろ相手は現役の刑事。コルトを向ける訳には行かない。

 そして刑事の弾は私の右胸に見事命中し、不覚にもその場で倒れ込んだ。

「クソ……っ!おい、大丈夫か?なぜ出て来るんだ、自分はあの男を狙ったんだぞ!」
 取り乱した様子の刑事が、私に駆け寄る。
「ずっと監視してたんだから、知ってるでしょ……。私が、こいつのガードをしてた事!あなたこそ、なぜ……、うっ……」痛みで言葉を遮られる。
「ガードって何の事だ?!自分はてっきり、君はヤツの愛人か何かとばかり……」

 ああそうだ……こんな私が、ボディガードになど見えている訳がないか。

 刑事は私を支えながら困惑している。
 そしてその手が私の腰元へ伸びた。それは偶然、私を支えるために伸ばされたものだったはずだ。だがそこには私の相棒がいる!
 見つかった……。もうお仕舞いだ。

 私はそのまま、意識を失ってしまったのだった。


 警察病院で目を覚ました私に、刑事が囁いた。
「朝霧ユイ。自分と取引しないか?」
 ぼんやりと視界に入ったのは、先ほどの刑事の顔。

 しかし耳元で囁かれた言葉など頭に入らない。
「私、生きてるの?なんで……」
 特殊な血液の自分が、新堂和矢なしで救われる事などあるだろうか?

 もしかして、彼がここに来ているのかもしれない!

「あの、もしかしてここに、新堂先生が……」
「シンドウ?そんな医者はいなかったと思うが。誰だ?」不思議そうな顔で返される。
「いいえ……。何でもないわ」
 いるはずがない。彼は海外の依頼で長期不在にしているのだから。無意識にため息が漏れた。

 だが次の瞬間、一転して私に緊張が走った。刑事が私のコルトを手にし、チラリと見せてきたからだ。
 思わず体を起こそうとして、激痛に襲われる。
 その体勢のまま動けなくなる私に、慌てて手を差し伸べる刑事。

「お構いなく……」そんな手助けに断りを入れ、何とか体の位置を戻す。
「これを返す代わりに、自分があの連中を撃ったのは、君を助けるためだったって事にしてほしい」
 刑事は言い終えると、中腰の姿勢を解いて椅子に収まる。その両拳は固く握ったまま。

「随分と一方的ね」
「申し訳ない……。何しろ喫緊の案件なんでね」そう言って後ろのドアを気にする。
 ここに誰か来る事になっているのだろうか。
 刑事は話を進めた。「悪いようにはしない。お互い、表向きに言えない事が……たくさんありそうだ」今度はやや表情を崩した。

「あなた、一体……?」
 真偽を確めるべく、中途半端な体勢のままこの男の心中を探る。そんな事をせずとも、真剣さは伝わっていたのだが。
 体の力を抜いて再びベッドに横たわる。

 刑事はその様子を無言で見つめ、私の返事を待っている。
 深く息を吐いた後、静かに答えた。「今の私に拒否権はなさそうだし。いいわ」
「感謝する、朝霧ユイ」

 そのすぐ後に来客があった。刑事が男達に頭を下げて挨拶している。どうやら警察関係者のようだ。
 男達の前で、刑事はおもむろに私への謝罪の言葉を並べ立てる。
「本当に申し訳なかった。全ては、助けるはずの君を誤って撃ってしまった自分の責任だ。体調が戻るまで、全力でフォローをさせてもらう」

 民間女性を巻き添えにしてしまった、不甲斐ない警官を演じている。その上、身寄りがないと知って援助を申し出たという設定だ。
 実際私の父は死に、母は海外にいる。腹違いの兄はいるけれど、何かと説明が面倒なので身寄りがないという事にした。だから設定とは言えど嘘ではない。

 男達と共に何度も私に詫びを入れた後、ひと際神妙な面持ちで刑事は帰って行った。

 あの刑事は本当にコルトを返却する気があるのか。
 一人になった病室で拳を握る。

「新堂さんじゃ、なかったか……」左手首に装着された点滴を見下ろす。
 鎮痛剤のせいで朦朧とする頭でひたすら考えた。今の私の不安要素は、相棒コルトが側にいない事、ただそれだけ。
 それなのに、新堂さんの姿が頭から離れないのはなぜ?

 でもあの人の事は呼ばない。何の意味もない意地だ。頼りたくないという意地。


 特殊な血液型のせいで助からないと思われた私を、あの刑事は金と警察権力によって救った。どうやら運までも味方につけたようだ。

 あの男の家はとてつもない資産家だった。そんな金持ちなのに、人一倍大変な警察職に就いている。変わり者なので業界(?)では有名らしい。
 暴力団の抗争にたった一人で乗り込むくらいだから、筋金入りの変わり者なのは確かだが!その上、素性の知れない私のような女と取引だなんて?

「コルトを取り返すためなら何だってやる!」
 こうして意気込む気持ちとは裏腹に、私の体の方はそうは行かないようだ。

 命を救われたとはいえ、輸血されたのはあくまで代替品。全く同じ型の血液は早々入手できないのだ。
 そのせいで重篤な副作用を発症してしまったらしい。この副作用は厄介で、私の血液に悪さをし続けて徐々に壊して行くそうだ。

 ひと月が過ぎる頃には、ケガの方は順調に回復した。重い副作用の症状も薬が効いて一部改善され、普通の生活ができるまでになった。
 これ以上の改善は期待できないと聞き、無理を言って退院を許可してもらう。

 自分のマンションに帰れば、いずれ新堂さんにこの姿を晒してしまう。それだけは避けたい。この期に及んでも私は意地を張る。
 けれどそんな悩みはすぐに解消された。この地に留まれば、刑事が生活をサポートしてくれるというのだ。
 即決だった。私にはもう、これまでの日常は送れない。

 そうして提供された住まいはまさしく豪邸!さすがは資産家だ。

「この家を使ってくれ。ここはもう使っていないんだ。何なら君に譲るよ」
「譲るだなんて!そこまで望んでは……何だか悪いわ」
 広々とした庭を見渡せば、そこには林の如くに木々が連なっていて、庭というよりもはや公園だ。

 屋敷に入ってすぐに、刑事が私のコルトを差し出して言った。
「約束通り、これは返却する」
「ありがとう」
 静かに受け取る。飛び上がって喜ぶだけの力がないだけだ。

「……取引、だったわね」
 私のこの言葉に、横にいる男の体がやや硬直したのが分かった。
「心配しないで。あなたが何も聞かないでくれるなら、私も何も聞かない」
「助かるよ」
「でも……」目の前の凛とした表情の男を前に口籠もる。
 この人は私の依頼人を狙った。まだあの人物を狙っているのか聞きたかった。

 刑事は私から目を逸らして口を開いた。「君のせいで、計画は失敗だ」表情を崩さずに言う。
「え……?」
そして今度は肩から力を抜いて言葉を続けた。
「でも、もういいんだ。どうかしていた。どうやら自分を見失っていたようだ」
 少し間を置いて続ける。「君のお陰で、過ちを犯さずに済んだ。最も重い罪を」

 それは殺人の事か。私はとうにその罪を何度も犯しているのに!
 もういっそ、この場で告白して逮捕してもらおうか?
 急に罪悪感が湧き上がって口を開く。「あ、あのっ!」

「朝霧さん。感謝する。体調が万全に……いや、いつまででも、ここで静養してくれ」
 こんな言葉をかけられて、私の告白は未遂に終わった。
 万全に、で言葉が切られたのは、私がこの先、決して全快する事はないと知っているからか。

「自分は仕事柄、ずっと一緒にはいてやれない。そうだ、犬を飼おう!君は犬が好きだと言っていたよね」
 奇しくもこの日は私の二十四回目の誕生日。優しいこの人は、躾の行き届いた成犬のゴールデン・レトリーバーを二匹迎え入れ、私の寂しさを紛らせてくれた。

「必要な物があったら何でも言って。できる限りの事はする」
「特にないわ、十分よ。ありがとう」

 身の回りの事は家政婦が全部してくれる。ここまで至れり尽くせりで、逆に申し訳ない。気分はまるでお姫サマだ。
 しかしこうして浮かれていられるほど、体調は思わしくない。貧血のせいか、日に一度は倒れるような毎日なのだ。

「心配だから、医者を雇ってここに住まわせよう」

 当初刑事がそんな提案をしてくれたが、猛反対した。それは私が医者嫌いだからというのもあるが……一番の理由は別にある。そもそも私の体は普通ではない。
 原因はもしかしたら輸血のせいだけではなく、過去に闇バイトの治験で使った薬物の影響もあるのでは?
 だがそんな事を、一体誰に暴露できようか!彼以外に……。

 新堂先生を、主治医として呼び寄せる事ができたなら。きっと連絡すれば、彼はすぐにでも来てくれるだろう。

 でも私はそれをしなかった。


 こんな暮らしも半年が過ぎて、季節は夏真っ盛り。
 私はあとどのくらい生きられるのだろう。力強く照りつける太陽の下でさえ、こんな後ろ向きな事を考えてしまうほどに、身も心も満身創痍となり果てた。

「おいで、シーザー」犬に向かって、か細い声を上げる。
「さあ、郵便受けから手紙を取って来てくれる?」
 いつものようにこんな仕事を犬に頼む。この子達は本当に優秀で、色々な事をやってくれるのだ。

「よしよし、ありがとう、シーザー。いい子ね」
 犬の頭を大袈裟に撫でながら、咥えて来た郵便物を受け取る。
 今では二匹とも、すっかり私に懐いている。これがもう堪らなく可愛い。

 蝶とじゃれていたブルータスが、門の前に止まった車に向かって吠えている。
「こら、ブルータス!静かにして。……黒ベンツのお客?誰かしら」

 京都ナンバーのセダン車から、男が一人降りるのが見えた。
「おいおい、そうじゃれるな!」男は屈んで、足元でじゃれる犬の頭に左手を乗せた。
 それは何と新堂さんだった。
 レンタカーまでメルセデス・ベンツとは……よほど好きなのだろう。

 見間違いじゃないかと、何度も目を擦ってみたけれど間違いない。その右手には大きな白いユリの花束を抱えている。それは墓前に供える花と言えなくもない。
 もしかしたら自分はすでに死んでいて、彼は私の墓に手を合わせに来たとか?
 おかしな妄想が勝手にストーリーを作り上げる。

「しっ、新堂さん……どうしてここに」

 思わず、持っていた手紙の束を落としてしまった。
 シーザーが再びそれを拾って咥えた。大きな尻尾をユサユサと振りながら、シーザーは私を見上げ続ける。

 これは一体?何が起こっているの!


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