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第二章 いつの間にか育まれていたもの
19.ワルの遺伝子(1)
しおりを挟むその日の仕事を片付けて、夕暮れの中、愛車のBMWで家路を急ぐ。
「さっきまで明るかったのに。もう六時か」車内の時計を確認する。
珍しく明るい時間に帰れると思ったが無理のようだ。でもこれから春がやってきて、段々と昼の時間も長くなる。次に期待しよう。
今の荒んだ心を少しでも癒そうと、季節の移ろいに目を向けてみるも……あまり効果は得られそうもない。
ようやくマンションに到着。玄関ドアを開けると、中からピアノの音が聞こえた。
「新堂さん?来てたんだ」
「お帰り。勝手に上がらせてもらったよ」彼が玄関までやって来た。
「いいのよ」
あのルクソールでの一件から一年が経過した今でも、こんなふうに時々新堂さんが部屋にいる事がある。
逆に私が彼の部屋に行く時も、そう多くはないがたまにある。
私と共に再びリビングに入った彼が、控えめに尋ねてきた。
「……今日の仕事はどうだった?」
「完璧よ。なぜ?」
「何だか、表情が暗かったから。誕生日なのに!」
そう言って、ピアノの上に置かれていたカサブランカの花束を手にする。
「ハッピー・バースデー・ディア・ユイ、二十三歳おめでとう」
「ありがとう……。今日が誕生日だって事、今の今まで忘れてた。良く覚えてたね」
花を受け取りながらも驚きを隠せない。
そんな事はすっかり頭から抜けていた。それどころではなかったのだ。だって今回の依頼は久々にダークなものだったから……。
今日私は、ある男の人生を終わらせてきた。例えそれが極悪人でも、こんな事をしてきた人間が自分の誕生など祝って良いのだろうか?
戸惑いの中、大好きなユリの香りを胸いっぱいに嗅ぐ。
「んん……はぁ。いい香り」お陰で、幾分心が落ち着いた。
「少しは表情が明るくなったな」
そう言うと、彼は再びピアノの前に座り曲の続きを弾き始める。
「新堂さんのピアノ、相変わらず冷たい音色ね」
「感想をどうも」
こんな指摘はしたけれど、不思議な事に私はこの冷たい音色に慰められている。何をしても癒えなかったこの荒んだ心が、次第に凪いで行くのが分かる。
コートを脱いでソファに腰を下ろすと、彼の視線を感じた。上着の影から黒光りする、例の物が目に入ったらしい。
ピアノは止む事なく、しっとりとしたメロディーを奏で続けている。
「疲れてるみたいだな」弾きながら彼が言う。
「まあね。なかなかハードな仕事だから」肉体的にも、精神的にも。
ポケットからタバコを取り出し、火を点ける。
それを見つめながら、鍵盤を弾き続ける彼。
「……あなたも吸う?」
新堂さんがスモーカーかどうかは知らないけれど、視線が気になって勧めてみる。
「いや。私は結構」
すぐに否定の返事が返ってきたところから、彼はノンスモーカーか。
「煙草、いつから始めたんだ?知らなかったよ」
「そうだった?まあ……たまにしか吸わないから」
学生時代から吸ってはいるが、決してニコチン中毒者ではない。
主に吸うのは、こんなダークな依頼を遂行した後。新堂さんは今まで、たまたまその場面に居合わせなかっただけだ。
「まさか、未成年の時から吸ってたんじゃないだろうな?」
私を見透かすような言い分に返す言葉もなく、苦笑いで誤魔化した。
例の闇新薬治験の副作用で肺疾患に陥ってからは長らくお預けだったし、吸っていると言っても、日に一、二本だ。
こんな本数では吸っているうちに入らないでしょ?もっと気力があれば、この言い訳を披露して一戦交えても(!)良かったのだが、今日はやめておく。
「それより。ねえ先生?」早々に話題を切り替える。
「おまえがそう呼ぶ時は、何かねだる時だな」
新堂さんが演奏をやめて私の方を向いた。
「何それ!今日はそのつもりだけど……そんな事ないもん」
「で、何だ?」
「睡眠薬、処方してくれない?」
「眠れないのか?」
「ええ。最近特にね……」
彼が私の元へやって来たので、すぐに煙草の火を揉み消した。
ため息を一つついた私に、「ワインでも飲もうか」と提案してくれる。
「賛成!」ちょうど飲みたいと思っていたところだ。以心伝心というヤツか。
彼が冷蔵庫から冷えた赤ワインを出す。
「冷やしておいたんだ。冷えてる方が好きだろ?」と言いながら、グラスに注いで運ぶ。
いつの間に私の好みまで覚えたのだろう。彼の動きを見つめながら、思わずうっとりしてしまう。
差し出されたワインを受け取る。
「ありがとう。……まるで、血みたいね」グラスの中で揺れている、深紅の液体を眺めて言った。
「仕事のせいじゃないのか?」隣に座った彼が、唐突に切り出す。
「何が?」
「おまえ……。今日、殺してきたな」
私を凝視していた彼が、ドキリとするコメントを口にした。
「人聞きの悪い!私は依頼を遂行しただけよ」
ワインを一気に飲み干してから続けた。
「それに。殺してきたというよりも、ある人達を助けてきたと言ってほしいわ」
身に付けたままだったコルトを抜くと、おもむろにテーブルに置く。
心なしか、辺りに火薬の臭いが漂った気がした。
「そんな物出して。どういうつもりだ」拳銃には目もくれずに、私だけを凝視して言う。
「私はそれが、大の付くほど嫌いなんだが?」
これが医者が好意を持つようなシロモノでない事は分かる。けれど、コルトから目を反らし続ける彼には、この上ない寂しさを感じてしまう。
カレは決して私を裏切らない、唯一の相棒なのだから。
「ごめんなさい……。でも聞いて?新堂さん、あなたには分かってほしいの!」
私はコルトを手にして、愛おしく労わりながら告げた。
「これは、人を殺すためのものではなく、大切な人を守るためのものだって事」
あなただって、私を助けるために一度は使ったじゃない?と言おうとしたがやめる。
あの時の事は、新堂さんにとってはとても辛い出来事のはず。元恋人とはいえ、一度は愛した女性を……。そんな事を思い出させて苦しめたくはない。
相棒コルトの大切さを、他にどう表現できるだろう?
必死に考えを巡らせていると、不意に彼が鼻で笑った。
「単なる言い逃れにしか聞こえない!詰まるところは、誰かが死ぬんだろう?」
事実なので、これには何も言い返せない。
「まあ……。おまえがどこで何をしようと、私には関係ないが」透かさずお得意の冷酷なセリフを、容赦なく浴びせられる。
今の気持ちを言い表すなら、今の今まで手の届く距離にいた人が急に百メートルくらい遠ざかった、だろうか。
「あっそ!だったら、余計な事聞いて来ないででくれる?」
こっちはあなたが傷つかないようにと、こんなに気を遣って話しているのに?
急激に怒りが込み上げる。
けれど、この後の新堂さんの言葉は意外なものだった。
「おまえが、そんな顔してるからだろ」
じっと私を見て言うのだ。
「私がどんな顔してるっていうのよ」自分の顔に両手を当てて、すぐさま聞き返す。
「なぜおまえはそんなふうに、いつも自分を苦しめるんだ。何がそうさせる?やっぱりあの親父さんが原因か……」
「自分を苦しめてる?私が?」
「どう見たって、今のおまえの顔は苦しんでいる顔だ」
さすがは長年私の主治医をしているだけある。こんな判断もお手のものか!
だが私は否定した。
「自分を苦しめてるつもりはない。ただ、できる事を信念に基づいてしてるだけ」
「おまえの信念とは何だ?」
「罪のない人達が、悪人に巻き込まれて不幸になるのを阻止するのよ!」
「何のために?前に、私よりも稼いでみせるとか息巻いていたが……」
一旦言葉を切って彼が続ける。「その報酬のためか!」
「っ!違うわよ!」
彼は本気でそう思ったのだろうか。……だとしたら悲しい。
「もちろん、生きて行くためにお金は必要よ。それが働くって事だし」
「正論だな」
「それなら。あなたの提示する使い道に困るほどの莫大なお金は?何なのよ!」
質問が予想外だったのか、彼は驚いていた。
無言の彼に言葉を続ける。どうせ答えはもらえないだろうから。
「新堂さん、言ってたよね?仕事に命を張ってるって」
これも例の元カノの事件の時だ。乗り込んで来た許嫁に撃たれた新堂さんが、片岡先生に言った言葉だ。
「私は別に、仕事に命を張ってるとは言ってない。生きるか死ぬか、どちらかしかないと言ったんだ」
この返答を受けて、この人が生きる事も死ぬ事もどうでもいいと思っているかもしれないという疑惑が、再び湧き上がった。
目の前の何の感情も示さない瞳をどんなに見つめても、結論は出ない。
……この厄介な問題は、また別の機会に考える事にしよう。
大きく一つ息を吐き出してから、自分の考えを口にした。
「生きるか死ぬかの瀬戸際でする、重い仕事よ。それを依頼するんだから、それなりの覚悟を示してもらわないと」何もお金に目が眩んで、高額な報酬を要求する訳じゃないとの意味を込めて言う。
「だから、報酬を値切ってくるようなヤツからの依頼は受けない!って事でしょ?」
〝値引き交渉には応じない〟
かつて私が彼に言われた言葉。これにはきっと、こんな意味も込められていたのだろう。そう信じたい。
否定される前に、再び私から話を進めた。
「私の報酬の使い道だけど。新堂さんが施設に資金提供してるって聞いてね、ユニセフ募金始めたの」
彼のように、あり余っているから!とは言えないが、例え少額でもそれで誰かの命が救われるならと考えた。
彼は何も答えなかった。この人が何を考えているかを知る方法があれば、どんなにいいだろう。無言のままの新堂さんを見て思うのだった。
「それで……話を戻してもいいか」
「え?」
話題が逸れていた事にも気づかない私。
「信念とやらの話だ。誰が不幸になろうが、おまえに関係があるのか?」
唖然としてしまった。
やっぱりこういうところは理解できないらしい。報酬の使い道よりもこちらの問題の方が、この人にとっては重要だったようだ。
「勘違いしないで。不幸な人が可哀想だから助けたいなんて、思ってないわよ?」
そんなお人好しではない。努力もせず他力本願の者に手を差し伸べようとは思わない。
「私は!世の中の理不尽な事が許せないの!」つい力が入ってしまった……。
少しだけ肩の力を抜いて続ける。「頑張ったら頑張った分だけ、幸せになる権利があると思わない?」
逆を言えば、罪を犯せばその分だけ罰を受けるべきだ。
「なら、あなたは?何のために仕事をするの?」
お金のためでも人助けのためでもないのなら?何のためなのか。
「私は、自分のできる事を全力でしているだけさ。ただそれだけだ。何のためでもない」
とても曖昧な答えだった。
何のためかはさて置き、彼の仕事は私とは正反対の、万人が認める素晴らしい行為。
「医者は得よね。その存在だけで〝善〟なんだから!」
「だが、私の場合は〝偽善〟かもしれないぞ?」
おどけて答える彼に、「そこが問題なのよね~」と笑って答えてみた。
新堂和矢は普通の医者ではない。無免許という時点ですでに犯罪者。どんなに良い行いをしても〝善〟にはなれない?
人殺しがどんなに良い行いをしても〝善〟にはなれない。それはつまり募金などという行為も……偽善か。
しばらく私達は、押し黙ったままワインを味わった。
医者と殺し屋のカップル。それもいいかもしれない。
何しろ彼はただの医者じゃなく、私はただの殺し屋じゃない。そう、朝霧ユイは決して〝殺し屋〟なんかではない。
私達は立場的にどこか似ている気がする。自分ができる事を、全力でやるという点でも。その行為が偽善かもしれない点でも……。
今日初めて、こんな事を思った。
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