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第二章 いつの間にか育まれていたもの
ターゲット(3)
しおりを挟む長い長い夜が明けた。使い慣れた自分のベッドの上で目を覚ます。
「新堂さん……」私はなぜかこの人の名を口にしていた。
彼が視界に入ったのではない。ただ側にいてくれたらと強く思ったからだ。
「申し訳ない、起こしてしまったな。気分はどうだ?」
新堂さんの声が聞こえた。
彼はここにいる!どうやら私の願いは叶ったらしい。
新堂さんはリビングのグランドピアノの前にいた。フタを閉じるパタンという音が聞こえた。ピアノを弾いていたのだろうか?
彼が私の方に真っ直ぐやって来るのを、首だけ動かしてぼんやりと確認する。
私のいる部屋はリビングと続き部屋になっている。扉はあるが閉める事はほとんどない。オープンカーも去る事ながら、開放感が好きなのだ。
それにしても広すぎる空間に、最近新しいインテリアを新調した。それがこの真っ白なグランドピアノだ。習うつもりはない。単に飾るためだ。
彼の方に体を向けようとした途端、鈍い痛みが左胸を走り、思わず顔をしかめる。
「しばらくは痛むだろうが……」彼が私を見て言葉を切った。
続きを待っていると、彼はこう続けた。「私のあの時の傷よりも、遥かに損傷部位は小さい。それに何しろ、この私が処置をしたんだから完璧だ」
いきなり自慢話になった。
あ~はいはい!そうですよね!そう心の中で答える。やっぱりこの人から優しい言葉をかけられる事はなさそうだ。
気を取り直して、私の方からも心境を告白する。
「あの時は……正直どうなるかと思った」
仕事中にこんなケガを負ったのは初めてだ。死までも覚悟した。どうもアイツが絡むと冷静さを失う。
キハラ師匠に顔向けできない!
そんな事を思って下唇を噛んでいると、彼が微笑んで静かに言った。
「やっと、恩返しの第一弾だな」
「え?」
シャツを腕捲くりしたその左腕に、針の跡を見つけた。血を分けてくれたようだ。
私達は世界に数人しかいない特殊中の特殊、ナルという血液の持ち主。
「もう……あなたって案外、義理堅いのね」
過去に私が二度血を分けていたから、その恩返しという訳か。
そんな彼の顔色は、どことなく優れないように見える。
「ねえ?無理しなくても良かったのに……。新堂さん、何だか具合悪そうよ?」
「心配には及ばない。献血量としてはごく一般的な範囲だ。単なる疲労さ」額に手を当てて彼が答えた。
この人が海外から帰ったばかりだった事を思い出す。
「……ごめんなさい。また、巻き込んでしまって」
「謝る必要などない。おまえは悪くないだろ?」私の肩を軽く叩きながら言う。
そんな彼と目が合う。久しぶりのこのシチュエーション。気のせいかもしれないけれど、以前の凍えるような視線とは違う気がする。
じっと見つめていると、不意に視線を外された。
「ところでユイ。あのピアノ、どうしたんだ?」
向けられた視線の先に目を向ける。
彼がここへ来るのは二ヵ月ぶりか。あのピアノとは初対面だ。
「この間、衝動買いしたの。ステキでしょ、白のグランドピアノよ!」
「ベーゼンドルファーか……懐かしい。思わず触れてしまったよ、十数年振りに」
「懐かしいって?新堂さん、ピアノ持ってたの?」
「自分が持っていた訳じゃない。まあ、言わば共用物か。それにしても、あれはかなりの上物だな!」ピアノの方を振り返って言う。
「そうなの?ピアノについてはあまり詳しくなくて。そうすると、私の見る目は正しかったって事ね」つい嬉しくなって自慢げになる。
そして嫌味攻撃を予想して身構えた。
けれど、彼は何も言って来なかった。肩透かしを食らった私。
「新堂さん?」何の反応もない彼に、思わず呼びかける。
「……ああ。済まん。ちょっと考え事を……」そう言って、私の方に向き直った。
「ねえ、だけど!義男のヤツに万年筆で対抗なんて考えたじゃない?」
ふとあの時の光景を思い出す。
「何しろ武器を持ち合わせていなくてね」
高価そうな万年筆を内ポケットから抜き取って見せてくれる。
「それってまさか、その投げたヤツ?」見たところ血は付着していない。
「そんな訳あるか!別のだ。あれも気に入ってたんだがね」
「何本持ってるの?そんな高そうな万年筆!」
冷やかしのつもりだったのに、「ああ高いぞ。これは確か、十万くらいだったかな」とあっさり返されてしまった。
少々負けた気がして、「まあステキ!でも敵が皮手袋でもしてたら、通用しなくってよ?今度はメスの一本でも、懐に忍ばせておくのね」と笑う。
すると彼の表情が険しくなった。
「ふざけるな。メスは武器ではないと言ったろう」本気で怒っているようだ。
「金輪際、敵の動きを止めろなどという無理な要求はしてくれるなよ?」
そう続けた時の表情は、いつもの嫌味顔だったが。
「こっちだって不本意でした!それはあなたの仕事じゃないものね」
「それで、アイツに負わせた傷が致命傷だったって事は、ないよね……」
なぜ義男が撤退したのか分からない。警察が来た訳でもないのに?
「残念ながら」予想外に控えめな返答だ。
当たり前だ、武器は万年筆だぞ?バカか!くらい言いそうなものだが。
「さて。私はちょっと出て来る。おまえは絶対安静だぞ、いいな?」
「体が固まっちゃうじゃない。ストレッチくらいさせてよ」
「言いつけを無視するのか。なら、もう一度応急処置をさせてもらった、あっちの病院へ放り込んでおくか!」顎でその方角を示しながら言う。
現場近くの病院で処置をした後、病院スタッフの反対を押し切って自宅へ連れ帰ってくれたらしい。
私が病院を嫌っているから……などという事はないだろう。恐らく自分の都合だ。
何せ無免許医が一般の病院に長居できるはずがないのだから。
「あ~!それだけは勘弁!分かった、分かりました、大人しくしてますっ!」
私の答えを聞くと、彼は無言で無表情のまま部屋を出て行った。
「……新堂に優しさなんて求めてないし!」わざと声を張り上げて言ってみる。
何を考えているのか一向に分からないもどかしさを紛らわすため。そして、彼に惹かれつつある自分を牽制するために。
数日が過ぎた。まだアオキ達は無事だろうか。それが気がかりでならない。
「大分回復が早そうだな」彼が傷口を確認しながら言う。
「あなたの時よりもね。やっぱり、決定的なのは若さかしら?」
「射創と杙創では、相違点がいくつかある」私のコメントを無視して彼が言う。
「銃創の場合は、火薬や弾丸の破片が貫入していれば、それだけ厄介ね」
負けずに答えてみると、彼が驚いた顔で私を見た。
「弾と矢の初速度だって違うし。きっと三分の一くらいね」こんなウンチクを語ってしまう私も、かなりの負けず嫌いだ。
そんな自分のコメントで思った。義男がなぜこんな武器で狙わせたのか。
ボーガン、つまりクロスボウというのは競技用として作られている。所持していても銃刀法違反にはならない。なぜなら殺傷能力はないと判断されているから。
つまり義男は、私を殺すつもりはなかったという事だろうか?
いやいや。ボーガンだって急所を狙えばいくらでも殺せる。考えてみれば、怪しいのはあのスナイパーだ。例えプロでなくとも、あの程度の距離で的を外す事は考えにくい。
わざと急所を外したというのか。敵を仕留めなければ、自分の命が危ういのに?単に私が甘く見られていただけかもしれないが!
「おい、ユイ?」
名前を呼ばれてハッとする。彼が不思議そうに私を見ていた。
どのくらい考え事をしていたのだろう……。「ちょっと考え事!だけど、二人で同じような所をケガしたなんて、面白い偶然よね」考えていた事は話さずにそう言った。
「左腕の動作に違和感はないか?」不意に彼が医者の顔になる。
「動かすと傷口が痛むってくらいよ。どうして?」
鎖骨の辺りには腕に関係する神経が通っていて、損傷していれば腕の動きに支障が出るのだと解説してくれた。
左利きの私を気遣ってくれたようだ。
「傷一つないおまえの体に、傷が一つできてしまったな」ふとこんな事を言ってくる。
「え?」
「最初にユイを診察した時に思った。見た目は華奢なのに、打って変わって筋肉質なんで驚いたよ」
「そっ、そうなの……?」
「見たところ、大きな傷跡やオペの痕跡は、一つもなかった」
「指の骨折はあるよ。打撲とか、足首の捻挫なら良くしてたけどね」
そしてポツリと一言だけ言う。「……ユイ。あまり無茶をするな」
「そんなの分かってるわよ!何よ、急に」戸惑いがちにこう答えた。
この時の彼は、どこか愁いを帯びて見えた。
こうして私は順調に回復して行った。新堂さんが泊り込みでいてくれたのは一週間ほどだ。その後しばらくは、毎日夕方に一度様子を見に来てくれた。
「忙しいのにごめんね。もう来てくれなくても大丈夫よ」
日々ご多忙の新堂先生に、こんなセリフを口にする。
「気にするな。ここへ寄るのはついでなんだ。帰り道だから」
こう言ってくれる彼の言葉は、本音なのか気遣いなのか分からない。それなのに勝手に良い方に解釈しては、つい甘えてしまう。
「良くなった途端にもう仕事か?ほどほどにしておけよ」
今日は出かけていたのだ。「仕事じゃないの。ちょっと気になる事があってね」
「それは聞いても?」らしくもない控えめな聞き方だ。
「……あの探偵達よ。口止めに殺すって息巻いてた義男が、このまま放置するはずがない」素直に答える。
「それの解決策は、アイツを牢屋に入れるしかないんじゃないか?」あえて殺すとは言わない。
「それが変なのよ。アオキに神崎龍造から報酬が振り込まれたらしいの」
「報酬を支払い油断させておいて、口を封じてから回収するつもりとか?」またも殺してから、とはあえて言わない。
「ないわ!そんな回りくどい事を、アイツがする訳ない」
油断させる必要もなく容易に殺せる。それなのに、今も探偵達は生き延びている。
もう手を出す気はないと言えるだろう。
「目的は達せられた。だから報酬を支払うと、彼は言ったそうよ」
「一体何が目的だったんだ?おまえにケガを負わせるためか!バカな。実の娘だろ?何を考えてる、あの男は」
それはこっちが聞きたい!
「おまえも大変だな、妙な親父さんを持って。こんな調子じゃ、また狙ってくるかもな」
窓際に移動し、カーテンを寄せて外を見ながら言う。高層階のため、例え下に義男がいても判別などできはしない。
「問題ない。そのうち息の根、止めてやるから!」
私の怒りを察したのか、振り返って話題を変えてきた。
「そうそう。例のマンション、とても快適だよ。今度こそ、泊まりに来いよな?」
「とっ、泊りにって!何言ってるの、新堂先生……っ!気は確か?」
思わず声が上ずる。怒りは一瞬でどこかへ消えていた。
彼は質問に答える事なく、ただ笑っているだけだ。もしかして私の怒りを打ち消すための策略なのか?
そんな、傷口よりも厄介なわだかまりの数々を抱えて、含み笑いを浮かべている新堂を見つめるのだった。
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