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第二章 いつの間にか育まれていたもの
12.予想外のトキメキ(1)
しおりを挟む四月のうららかな陽気の中、新居にて気持ちも新たに仕事に励んでいる……つもりなのだが、どうも空回りしている。
どうやらまた受けた依頼をすっぽかしていたらしい。
新堂が私を気にして、様子を見に時折立ち寄ってくれる。
始めのうちは平気な顔をしてやり過ごしていたものの、自宅の留守電にはクレームが吹き込まれ続け、さすがに精神的に滅入ってきた。
大クレームを受けても依頼内容すら覚えておらず、平謝りするしかない。ここひと月ずっとこんな調子で、報酬をいただくどころか慰謝料を請求される始末だ。
「ああ……サイアク!これって新堂さんに請求していいのよね?」
この朝、ついに怒りに任せて彼を呼び出した。
けれど……呼び出した後になって急激に意気消沈。浮き沈みの激しいこの感情に、自分でもついて行けない。こんな状態では仕事に身が入る訳もない。
「本当に申し訳ない。その請求は私に回してくれ。何なら先方に直接詫びを……」
彼がやって来て、私の話を聞いてこんな事を言う。
「詫びだなんて!そこまでしなくていい!自分が挽回するしかないんだから」
失われた信頼を回復させるのは、どこの世界であっても至難の業。
ここまでコツコツ積み上げて来たのに……。
肩を落とす私を見て、彼が再び詫びてくる。「済まない……」
「平気、平気。また頑張ればいいんだから」
そう言って自分を励ましてみても、どこから手を付ければいいやら途方に暮れる。
「スケジュールは、どうやって管理してるんだ?何かないのか、手帳に書いてるとか」
「書いてる訳ないでしょ」
依頼はプライベートで極秘扱いのものが多く、頭の中以外にバックアップなんて取っていない。まさか、記憶がなくなるなんて想定外だろう!
「だけど。これからは考えなきゃいけないかもね。例えば、秘密の暗号にしてメモを残すとか?」投げやりにこんな事を言ってみる。
それの意味するところは、自分を信用していないという事。記憶だけじゃなく自信まで失くしそうだ……。
そんな事を考えていた時、インターホンが鳴った。エントランスからの呼び出しだ。
「来客のようだ。依頼人でも来る予定なのか?」
だから覚えてないってば!と心で罵りながらも、そうではないと確信あり。
「依頼人を自宅には呼ばない。何かの勧誘でしょ。ほっといていいわ」
私の言葉を受けて、彼も肩を竦めて頷いた。
それからしばし、新堂先生の記憶についての講義が始まる。
「記憶というのは、三通りで成り立ってるんだ。何らかの刺激を受けて情報を覚える〝記銘〟から始まり、それを蓄える〝保持〟。そして情報を引き出す〝想起〟だ」
ぼんやりと彼を見つめたまま、何とも無しに聞いていた。
「銘記刺激を受けた大脳が、記憶の中から保持している部分を、より過去に向かって遡って行くのが〝回想〟だな」
死ぬ前に見ると言われる走馬灯。そんな回想シーンが思い浮かぶ。
「恐らくユイの脳内で、一部分の情報に対する想起が、何らかの作用によって阻害されていると思われる」と私を見て言う。
小難しい話に飽きてきて「で、結論としてどうすればいいのよ」と身もフタもない質問をしてしまう。
彼の答えを待たずに再びインターホンが鳴った。今度は玄関からだ。
「まさかさっきの人、住人と一緒に忍び込んだの?」悪徳業者なら良くやる手口だ。
「私が追い払って来よう」話を中断して彼が立ち上がる。
続いて立ち上がろうとすると、彼に手で制止されて元の位置に収まる。
「何の用件だ?」
彼の声と共に、ドアが開く音が聞こえる。
その直後に外の空気が一気に室内に流れ込む。四月の終わりの爽やかな風に乗って、香水のような匂いが一緒に届く。
私の位置からは姿が見えなかったが、客が男性で、それも上品とは言えない英語で騒いでいるのは分かった。
「誰なの?」不審に思い、私も玄関に向う。
「ゴー・トゥー・ヘル!」
男の甲高い声がそう叫んだのと「ユイ!来るな!」と彼が叫んだのはほぼ同時だった。
「……え?」私は一瞬足を止めた。とても嫌な予感がした。
玄関で大声を上げているのは、金髪の米国人のように見える。驚いた事に小型のオートマチック拳銃を構えているではないか!
それを認識した時にはすでに、銃弾は発射されて彼に命中していた。
「新堂さんっ!?」
彼が近づいた私を庇うように倒れ込む。
貴重な血液が私の手の中に流れ落ちる。生暖かい感触と鉄のような血の臭いが、辺りに立ち込める。
次の瞬間、突然目の前に爆破された部屋の映像が流れ始めた。
「うっ……!」
鋭い頭痛が、私の脳を走り抜けて行く。
―――ブロンドの美女が、小憎らしい笑みを投げかけてくる。
私はいつの間にか夜の客船にいた。その船は緩やかな波に揺れながら、衝撃の事実を訴え始めた。
ブロンド美女と新堂のキスシーン……。それを拒む新堂の手には、いつの間にか私のコルトが握られている。
女が、拳銃を持った新堂の手を包み込むように掴む。銃口を自分に向けたまま。
二人の指は絡み合うように引き金に添えられている。
それを確認した直後、銃声がこだました。至近距離で人間を撃ち抜いた時の、くぐもった音だ。
撃たれたはずの女はなぜか微笑みながら、どこからか小瓶を取り出し新堂に手渡す。
「ショウコ!」
暗い海に吸い込まれて行った女に向かって、新堂が呼びかける。
その悲痛な叫びは、瞬く間に夜の海にかき消されて行った―――
これが回想……か。ついさっき語っていた彼の声が、頭の中で再び鳴り響く。
私はあの時、苦しさで朦朧としながらもこんな一部始終を見ていたのだ。
この回想の間、どのくらい時間が経過していたのだろう。恐らくほんの数秒だったに違いない。
気づくと、私の左手にはコルトが握られていた。無意識に取り出したらしい。
正面に視線を戻すと、勝ち誇った顔の男が、彼に向けて止めの一発を今まさに撃ち込もうとしていた。
【以下カッコ内英語】
「(よくも俺の許嫁を、たぶらかしてくれたな!死ね!)」
下品な英語で叫ぶこの男の言葉で、ぼんやりしていた記憶がついに鮮明になった。
「そうは、させない!」
今度は男の拳銃より先にコルトが火を吹いた。
男は驚きの表情で立ち尽くし、何が起きたのか分からない様子で私を見つめる。
「即死させたりしない。ここで死なれたら困るの。この部屋、とても気に入ってるんだから」
男を玄関まで押し出し、閉じてしまったドアを開けて外へ出す。
「(私達の前から、今すぐ立ち去りなさい!)」男に分かるよう英語で叫ぶ。
男はまるで催眠術にでも掛かったように、ふらふらと出て行った。
それを見届けてから、すぐに部屋へと戻る。
「新堂さん!しっかりして……」
そっと抱き起こすと、辛うじて目を開けた彼が囁き声で私の名を口にした。
「どうしよう、血がこんなに!心臓に当たったのかな……」
至近距離から撃ち抜かれたため、弾は貫通しているはずだ。左の胸部からの出血は酷かった。押さえても押さえても、真っ赤な血がどんどん溢れた。
「どうしてこんな事に……!」
どうしたら良いのか分からず慌てる私に、彼が手を伸ばしてくる。
「ユ、イ……大丈夫だ、急所は、外れてる……っ」そう言った彼が咳き込んだ。
口内からも血が溢れ出す。
「ダメ!喋らないで。すぐに病院へ……」
溢れた血液で窒息しないよう、体を少し起こして近くにあったクッションを背に押し込む。
「新堂さん、しっかり!今救急車、呼ぶからねっ」
彼から離れると、自宅電話から緊急ダイヤルで救急車を要請する。
電話を終えて彼の元に戻ると、消え入りそうな声で彼が囁いた。
「あ、あいつは、どうした……?」
内心パニック状態だったけれど、できるだけ平静を装って答える。
「この私がみすみす敵を逃がすとでも?お陰で、記憶が戻ったみたいよ」
この言葉に口を動かした彼だが、言葉は出なかった。
そしてそのまま意識を失った。
その後、救急車はすぐに到着した。隊員達が部屋にやって来て彼を担架に乗せる。
「一体、何があったんですか!」
血に塗れた室内を見渡しながら、隊員の一人が質問してくる。
一瞬口籠もるも、ここは怪しまれないよう取り繕う必要がある。
「何がって?!拳銃を持った男が!いきなり現れて彼を撃ったの。警察には通報済みです。大至急病院へ!片岡総合病院に運んでくださいっ!」
早口にそう言いながら、玄関先に落ちていた薬莢と銃弾をさり気なく足で隠した。
もちろん、警察への通報なんてしていない。
隊員達と外に出る。血痕が点々と落ちていたが、男の姿はなかった。どうやらうまく逃げてくれたらしい。できるだけ遠くまで移動してくれる事を願うばかりだ。
だがあの男は助からない。なぜなら私の弾は、確実に男の急所を捉えたから。
それにしても私は大失態を犯した。ボディガード失格だ。彼を、守れなかった。
新堂さん、どうか死なないで!
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