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第一章 大嫌いな人を守る理由
ヤミ世界からの使者(2)
しおりを挟むどのくらい経っただろう。泣き疲れて今は涙も出ない。
大きなため息を一つついた時、薄暗がりから靴音が響いた。その音はどんどん近づいてくる。誰かこっちにやって来るようだ。
ただぼんやりと、その方向を見つめる。
次第に近づくその人影は、さっき院長室で会った男のようにも見える。
「あ……あの!もしかしてシンドウ先生、……ですか?」慌てて声をかけた。
立ち上がった私に気づいて一瞬目を向けるも、すぐに反らされる。
無視された?「待って……っ、待ってください!」去って行こうとする背中に向かって叫ぶ。
足音が止まり、ようやく男が振り返った。
右手をポケットに突っ込み、左手で黒い大きな鞄を持っている。
「あの、外科医の新堂先生、ですよね?」
「そうだが。おや?君は確かさっきの……。まだいたのか」
夕方に会った事を思い出したのだろう。制服姿の私を上から下まで眺めて呟く。
私は彼の言葉の続きを待たずに続ける。「私、朝霧と言います!先生に、私の母の手術をお願いしたいんです!」
少し間を置いてから、新堂が口を開いた。
「やってもいいが、いくら払える?」
「今は五十万あります。足りなければ、もう少し何とか……」また中里さんにお願いして、何なら前払いで貰えるか相談しよう。
そんな事を考えていると、強い視線を感じて口を閉ざす。
「ははっ!本気で言ってるのか?話にならないな」
「あの……っ」
「まあ、君の年齢にしてみれば、五十万は妥当か。残念だが、交渉決裂だな」
「ちょっと待って!まだ終わってません。いくらなら引き受けてくれますか?」
「私は忙しいんだよ。まだこの後に、二本依頼が入っていてね。すぐに向かわねばならないんだ」
「五分!五分だけ時間をください!料金、教えてください、用意しますから……」
ここで逃したら、チャンスはもう来ない気がした。
しばらくの沈黙の後、新堂がため息をついた。
「本当に五分だけだぞ」そして続ける。「用意する、か。これは凄い!もしかして君は、どこかの財閥のご令嬢かな?」
私を見てあざ笑うように話す男を見て、嫌味なヤツだと心底思った。
薄暗い中、怪しげな交渉が続く。
「なあ。こうは思わないか」
「え?」不意に投げられた言葉に驚く。
「こんな腐った世の中だ。生き続ける方が不幸な場合もある。君がそこまでする必要があるのかと思ってね」
「どういう意味よ。死んだ方がいいって言うの?死ぬよりもずっとずっと、幸せに決まってるじゃない!」
何も言わない新堂。私は構わず続けた。
「医者のクセに、人の命を何だと思ってるのよ。悪いけど、私達は親子二人で幸せに暮らしてるんだから……!」
この医者は一体何を考えているのか?腐っているのは世の中じゃなく、アンタだ!と言いたいところだ。
「幸せ、か……。そんなものはただの幻想だ。君も、もっと大人になれば分かる」
新堂がようやく口を開いた。
「幻想?あなたは幸せを感じた事がないみたいね。可哀想な人!だったら、幸せがどういうものか、私達が教えてあげる。だから、お母さんを助けて……!」
涙を堪えながら、必死で目の前の冷徹な男に訴えた。
「悪いが、私の契約対象は君のような……」私を一通り眺めて言いよどむ。
「何よ!」
「失礼。私はね、腐り切った連中に、生きる苦しみを分からせるために仕事をしてるんだよ」何の感情も示さず、新堂は続けた。
生きる事は、この人にとって苦しむだけの時間だとでもいうのか?
例えそうだとしても、私には関係ない。
「あなたが何のために仕事をするかなんて、どうでもいい。お金さえ払えば文句ないんでしょ?いくら必要なのか、いい加減教えてください!」
「家が一件建つくらいだな。言っておくが、値引き交渉には応じない。もっとも母親の命が懸かってるんだ、サービスしろなんて言わないよな!」
「……五千万、くらい?」嫌味を無視して答えた。
家の値段なんて良く知らないけれど、不動産屋の広告に、確かこんな数字が出ていたような気がする。正直、当てずっぽうだ。
「上等だ」新堂が満足気に頷いた。
どうやら当たったらしい。
こんな額を請求されたのに安堵するなんて、高校生の自分にはまだ、金銭感覚というものが備わっていないのだろう。さらには、どこからか力が湧き出してくるのだ。
この時自分は、不敵な笑みすら浮かべていた事だろう。それはあの、憎き父のような表情で!
「半月ほど待ってください。五千万、用意しようじゃない」
「さっきの院長の様子から察するに、もうそんなに時間は残されていないだろう。モタモタしてると手遅れになるぞ?」新堂は鼻で笑う。
「二週間では!」
「諦めるんだな」
そう口にする姿は、心なしか楽しそうにさえ見える。
「いいえ、諦めません!では一週間。一週間だけ待って下さい!」
「君一人で何ができる?」見下した態度だ。
「学生だからって、バカにしない方がいいわ。何だってやればできるんだから。それを認めてもらうまで、私は諦めない!お金用意するので、母の手術、引き受けてくれますよね?」きちんとした答えがほしかった。
「ああ!こちらは報酬さえいただければ喜んで。楽しみにしてるよ、君が泣き言を言いに来るのをね」さらに嫌味を言い放ってから、私に背を向けた。
去って行く後ろ姿に向かって、拳を握って叫ぶ。
「見てなさい?その腐り切った性格、私が叩き直してやるんだから!」
何しろ負けず嫌いの私。売られたケンカは買うのが基本、そう幼い頃から叩き込まれてきた。
「やってやろうじゃない?こうなったら、何が何でもお母さんを助ける!」
翌朝、入院中の母の看病のために、一週間ほど学校を休むと連絡を入れた後に病院へ向かった。もう一度母の顔を見たかった。これから犯そうという罪に怖気づく自分を、奮い立たせるために……。
もちろん直接会うつもりはない。こんな平日の朝に母に会える訳がない。すぐに学校を休んだ事がバレてしまうから。
病院に着いて母の病室へ向かっている途中で、廊下の後ろから声がした。
「ユイちゃん!」
「片岡先生……」
誰にも会いたくなかったのに、こういう時に限って必ずと言っていいほど会ってしまうものだ。
「昨日はあれきり、姿が見えなくなってしまったから……。心配していたんだよ?」
私が黙り込んでいると、先生が続ける。「ユイちゃん、学校はどうしたんだね」
「ちょっと、ね」歩き続けながらも仕方なく答える。
「お母さんの事だったら、僕が付いてるから。ちゃんと学校に行きなさい」
ついに先生が私の前に立ちはだかった。
「付いてるだけじゃ治らないでしょ!もういいから。別の先生に頼んだから」
そう言い返して再び歩き始めるも、後ろから肩を掴まれる。
「それは新堂の事か。あの男はやめなさい!」
「片岡先生にとやかく言われる筋合いはないわ!」
「ユイちゃん。あの男には関わるな。警察沙汰に巻き込まれたくなかったら……」
「上手くやるからご心配なく!」
法外な手術代を請求された事を言っているのだと思った。
ところが、そうではなかった。
「君は知らないだろうが、奴は無免許だぞ」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。無、免許……?
「それって、医者じゃないって事?お母さん、助けられないの?でも超一流の腕って」
全然意味が分からない!
「いや、まあ……何とも言えないんだが……。とにかく!あいつだけはやめるんだ」
先生の答え方は曖昧だった。
「何それ!なぜダメなの?助けられるなら文句はない。免許なんて、なくてもいい」
あの時、ナースが何を言おうとしたのかがこれで分かった。
でも、そんな事は私にはどうでもいい。母さえ救えれば!例えあの男が闇の世界からやって来た悪魔だろうと、契約を交わす決意を変える気はない。
母に会うのを諦めて、先生を振りきって病院を後にした。
そうして向かった先は、とある怪しげな会社だ。
昨夜こっそり父の会社に忍び込んで、またも闇求人を閲覧した。そこで見つけた〝血液高価買取〟の文字。
私の血液型はB型RHマイナス。中里さんも言っていたように、日本で二百人に一人しかいないとされている。
つまりはこの血液、通常よりは高く売れるという事になるのでは?リスクばかりを唱えられてきたけれど、特殊な血も役に立つではないか!
とはいえ、五千万には到底及ばない。また神崎社長に借りる他ないのか……。
様々な議論が私の頭の中で繰り広げられていた。とにかく時間がない、早く行動に移さなければ。
そんな焦りの中で行なわれた交渉にて、自分がどんな人間であるのかを改めて思い知った。何せ値を吊り上げるための交渉劇は、まるで父の様だったから!
私が朝霧家の人間だと仄めかすと、途端に相手の態度は一変した。義男の存在がこんなにも絶大だという事も、初めて思い知る。
結果的に私の血液は、五十万という額になった。
初めての交渉事に成功した上に、予想外の展開で倍以上の収入になり舞い上がった。
そんな出足好調だったのも束の間。極度の貧血のせいもあり、次の手は全く浮かばず、すぐにその勢いは消え去る。
「やっぱり、お金を稼ぐのって簡単じゃないや……」
改めて思い知らされた。
翌日、なぜか私の銀行口座に父義男から振込があった。それも四百万という大金だ。
このタイミングであいつがこんな事をするなんて?こんな額では全然足りないが!
すぐに電話で問いただす。「ちょっと?どういうつもり?何なの、あのお金」
『おおユイか。ミサコがお前のために掛けていた保険が満期になってな。私が持っていても仕方なかろう』
「保険?」
『必要ないと言ったんだが……学資保険というヤツさ。お前が不要ならば母さんに渡せ。ミサコは今金が要りようだろう』
何という言い草だ。自分で追い出したくせに!相も変わらず血も涙もない。
「わざわざどうも!」そう言ってすぐに電話を切った。
「全く。こんな事をしてもらってさえも、怒りしか感じないわ!」
ともあれ臨時収入ではないか。母には悪いが、全額使わせてもらおう。
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