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旅のはじめに
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旅に出る前のこと。家族とテレビを見ていた。見ていたのは世界陸上である。実はぼくは中学時事代、陸上部に所属していて、一度も公式戦に出場したことがないという過去を持つ。嫌々やっていて、顧問(怒ると石をぶつけてくる)がいないときは、いつも走り高跳用のふかふかのマットの上で、同級生の加藤とともにバック転の練習をしていた。ちなみに、加藤も一度も公式戦に出場したことがない。おかげで、ぼくと加藤は公式戦に出場したことがない代わりに、バック転の技を身につけて、女の子にモテモテの輝かしい青春時代を送ったのだった。
最後の方は嘘として、とにかくぼくは、世界陸上を両親と見ていた。
当たり前だが、世界陸上には世界各国のあらゆる人種の選手が出場する。ぼくなんかとは近くて遠い存在だ。白人もいれば黒人もいる。男もいれば女もいれば、男みたいな女もいる。貧しい家の生まれの人もいる。陸上どころか、何でもできる人もいる。国を背負って来ている人もいれば、どうせ自分なんてこんなところでは活躍できないんだと諦めている人もいる。たぶん他にもいろんな人がいる。
そんな中でも、スタート前の選手たちの映像を見るのが好きだ。緊張感にあふれ、まだ見ぬたったひとつの結果を、期待と不安で夢見ているのが伝わってくる。
見たところ、カメラに向かってポーズをとるのが最近の流行らしい。それを見ながら、
「危ない……」
と、ぼくはつぶやいた。何が危ないのかというと、別に何か危険なことあったわけではなく、ある黒人選手の二の腕に〈危〉という漢字の入れ墨が彫ってあったので、そうつぶやいたのだった。ただ気になっただけだ。漢字タトゥーは「クール」だということで、意味をよく知ってか知らずか、ジャポニズムに憧れる外国人たちは、こぞって漢字タトゥーを入れているとはよく聞く話だ。ぼくは以前、「ひよこ」と書いたTシャツを着た外国人を見たことがある。
そんなことはどうでもよくて、「危ない」というぼくのつぶやきを聞いた両親は、きょとんとしていた。
「は?」
と聞き返すので、ぼくはそれを説明したのだが、二人とも、
「そんなやつ、おったか?」
と疑うばかりで、全くそんな記憶はないようだった。
三人して、全く同じ映像を見ていてる。お茶の間のテレビという、空間的にも時間的にもこれ以上ないというくらいの共有装置を前にして、ぼくが見たものを両親は見ていないというのである。そんな馬鹿なことがあるだろうか。三人は全く同じ映像を共有していたはずなのに、〈危〉のタトゥーを見たのはぼくだけなのだ。
同じ方向を向き、同じ二次元映像を見ていたはずが、ある人が見ていたものを、別のある人は見ていないということがあるのだ。
考えてみれば、これはテレビに限った話ではあるまい。日常でも、例えば、喫茶店で話す友達どうしとて、店員の服装の記憶とか、窓越しの風景とか、かかっているBGMの記憶だって違うはずだ。ある者は店員が可愛かったと思っていたり、もう一方はそんな記憶はなかったり、ある者は好きなアイドルの曲がかかっている記憶があっても、もう一方はそんな記憶はなかったり。同じものを聞いて、見て、味わって、感じていても、全く別のものを両者は思っている。感じている。
「何考えてるの?」
「君と同じことだよ」
そんな恋人同士の会話だって、本当だろうか?
別にぼくは人間の孤独を書きたいわけではない。百人いれば百通りの感じ方があるわけだから、それを文字にしてみれば面白いのではないかということだ。つまり、ぼくみたいな人間だって、このようなエッセイを書いてもいいのではないか、ということだ。
ひとの考えていることは分からない。だからこそ、それを言葉にしてみることで、「こいつはこんなことを思っていたのか」という発見があり、それこそエッセイの価値ではないだろうか。
「私って面白いでしょ? どう、この視点?」的なことは書かなくてもいい。見たままの事実を書けば、それはエッセイになる。そんなことを思い、この旅は始まり、このエッセイ集を書き始めたのだった。
最後の方は嘘として、とにかくぼくは、世界陸上を両親と見ていた。
当たり前だが、世界陸上には世界各国のあらゆる人種の選手が出場する。ぼくなんかとは近くて遠い存在だ。白人もいれば黒人もいる。男もいれば女もいれば、男みたいな女もいる。貧しい家の生まれの人もいる。陸上どころか、何でもできる人もいる。国を背負って来ている人もいれば、どうせ自分なんてこんなところでは活躍できないんだと諦めている人もいる。たぶん他にもいろんな人がいる。
そんな中でも、スタート前の選手たちの映像を見るのが好きだ。緊張感にあふれ、まだ見ぬたったひとつの結果を、期待と不安で夢見ているのが伝わってくる。
見たところ、カメラに向かってポーズをとるのが最近の流行らしい。それを見ながら、
「危ない……」
と、ぼくはつぶやいた。何が危ないのかというと、別に何か危険なことあったわけではなく、ある黒人選手の二の腕に〈危〉という漢字の入れ墨が彫ってあったので、そうつぶやいたのだった。ただ気になっただけだ。漢字タトゥーは「クール」だということで、意味をよく知ってか知らずか、ジャポニズムに憧れる外国人たちは、こぞって漢字タトゥーを入れているとはよく聞く話だ。ぼくは以前、「ひよこ」と書いたTシャツを着た外国人を見たことがある。
そんなことはどうでもよくて、「危ない」というぼくのつぶやきを聞いた両親は、きょとんとしていた。
「は?」
と聞き返すので、ぼくはそれを説明したのだが、二人とも、
「そんなやつ、おったか?」
と疑うばかりで、全くそんな記憶はないようだった。
三人して、全く同じ映像を見ていてる。お茶の間のテレビという、空間的にも時間的にもこれ以上ないというくらいの共有装置を前にして、ぼくが見たものを両親は見ていないというのである。そんな馬鹿なことがあるだろうか。三人は全く同じ映像を共有していたはずなのに、〈危〉のタトゥーを見たのはぼくだけなのだ。
同じ方向を向き、同じ二次元映像を見ていたはずが、ある人が見ていたものを、別のある人は見ていないということがあるのだ。
考えてみれば、これはテレビに限った話ではあるまい。日常でも、例えば、喫茶店で話す友達どうしとて、店員の服装の記憶とか、窓越しの風景とか、かかっているBGMの記憶だって違うはずだ。ある者は店員が可愛かったと思っていたり、もう一方はそんな記憶はなかったり、ある者は好きなアイドルの曲がかかっている記憶があっても、もう一方はそんな記憶はなかったり。同じものを聞いて、見て、味わって、感じていても、全く別のものを両者は思っている。感じている。
「何考えてるの?」
「君と同じことだよ」
そんな恋人同士の会話だって、本当だろうか?
別にぼくは人間の孤独を書きたいわけではない。百人いれば百通りの感じ方があるわけだから、それを文字にしてみれば面白いのではないかということだ。つまり、ぼくみたいな人間だって、このようなエッセイを書いてもいいのではないか、ということだ。
ひとの考えていることは分からない。だからこそ、それを言葉にしてみることで、「こいつはこんなことを思っていたのか」という発見があり、それこそエッセイの価値ではないだろうか。
「私って面白いでしょ? どう、この視点?」的なことは書かなくてもいい。見たままの事実を書けば、それはエッセイになる。そんなことを思い、この旅は始まり、このエッセイ集を書き始めたのだった。
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