夢の中

山岸マロニィ

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 息子は相変わらず部屋から出てこない。
 主人は正式に、会社に退職願を提出した。
 長年勤めてきた情けで、依願退職の扱いとなり、ある程度の退職金と失業保険も出るようだ。
 しばらくの生活は何とかなるにせよ、お先は真っ暗だ。

 私は意を決し、隣町の飲食店にパートに出る事にした。
 専業主婦期間が長く、短時間のパートとはいえ、慣れない仕事と心労で、私はクタクタになっていた。

 それでも、家に帰ると、出掛ける前と同じ姿勢で、主人はテレビを見ている。
 朝、シンクに残していった洗い物もそのままで、カップ麺の容器が追加されていた。
 薄曇りの物干しには、洗濯物が掛けたまま。
 テーブルに散らかったスナック菓子の食べカスがこぼれ、カーペットに染みを作っている。

 私の中に張り詰めた何かが切れたのは、この時だった。

「何なの? 一体何なの?」
 裏返った声を上げると、ようやく夫は少しだけ首を動かした。
 私はその後頭部に、ありったけの声を投げつけた。

「あなたは、この家にとっての、何なの!?」


 私は家を飛び出していた。
 何も見たくなかった。
 何も考えたくなかった。
 これは夢だ。悪い夢だ。
 幼い頃からよく見る、人を殺す夢と同じで、目が覚めれば何もなかった事になっているのだ。
 目を覚ます方法が、分からないだけなのだ。
 そう考えながら、ただひたすら、私は街を彷徨った。

 ――不意に、肩を叩かれるまで。

「ケンタさんのお母さまですよね?」
 ギクッと振り返った先にいた男は、痩せたサラリーマン風の男だった。
 きちんとした身なりで、一分の隙もなく髪を整えている――不自然なくらいに。
 そして、人当たりの良い笑顔を浮かべているのだが、私は彼に恐怖した。

 目が、素人のものではない。

 すぐに分かった。
 ……息子が受け子をやらされていた詐欺グループの、トップに近い男。
 警察の捜査で尻尾切りをした後の、本体だと。

 彼は私の行く手を遮るよう、巧みに立ち位置を移動し、柔らかい口調でこう言った。
「立ち話は何ですので、喫茶店でコーヒーでも飲みながら、少しお話しをしませんか?」

 ――案内されたのは、とあるビルの地下にある喫茶店だった。
 テーブルと椅子が十組ほど並んだ、ごくありきたりな店内だが、窓がない事から、こういう男が利用するのに都合がいいのだろう。……もしかしたら、彼の組織の息の掛かった店かもしれない。

 おどおどと見回す私の素振りに悠然と笑みを浮かべ、彼はテーブルに肘を置いた。
 左腕に光る、素人目に見てもとんでもなく高価そうな高級時計に威圧され、私は肩を竦めた。

「何度か彼のスマホに連絡をしたのですが、お返事がいただけないので、体調でも崩されているのかと、お宅までお見舞いに行こうとしたんですがね。ちょうどお母さまで出ていらっしゃるのが見えたものですから」

 我が家は静かな住宅地の外れ。繁華街であるこの場所とは随分距離がある。
 自宅付近で迂闊うかつに、ただでさえ近所の目が厳しい私に声を掛けようものなら、通報されてしまうかもしれない。
 ――見張られていたのだ、自宅を。
 当然といえば当然だろう。

 恐怖の混乱で頭が真っ白の私は、ただただ、できるだけ存在を小さく見せようと、膝に手を置き、テーブルに置かれた水のグラスの水滴を眺めた。
 そんな私に、言葉だけは丁寧に、彼は続けた。

「……あまり大きな声では言えませんが、何もおっしゃらずに私について来られたというのは、お気付きなのでしょう、私の立場を」
 私は少しだけ顔を上げ、小さくうなずく。
 すると、途端に彼は背もたれに身を預け、ネクタイを緩めた。
「なら、話は早い。……率直に言います。彼、組織の金を持ち逃げしましてね」

「…………えっ……」
 情けないほど間延びしたかすれ声を出すのが精いっぱいだった。
 何とか頭を動かし彼の顔を見ると、先程までのような人当たりの良さは微塵もなく、裏の社会を滲ませる、刃のような視線が私に向けられている。
「――一千万円。カモから受け取った金を、彼、持ってるはずなんですよ」

 言葉も出ない。
 わなわなと口を震わせて、ただ目を泳がせるしかない。
 彼は身を乗り出し、舐めるように私に顔を近付けた。

「返してもらえませんかね?」

 たまらず、私は両手で顔を覆った。
 流れ出る涙を、止める術もない。

「どうなんですか?」
 もう一度聞かれ、私は赤ベコのようにコクコクと首を縦に振る。
「む、息子に聞いてみます。も、もしあったら、必ずお返しします」
「あのね、お母さま。『もしあったら』じゃないんですよ。こちらには証拠があるんです。……もちろん、警察に届け出られるものではありませんけどね。でもね、お分かりかと思いますが、こっちの世界の方が、警察よりも、そういうのには厳しいんですよ」
「…………」
「返していただけますね?」

 息子が持っていようと持っていまいと関係ない。
 借金してでも家を売ってでも、一千万を渡さなければ、息子が、家族が、どうなるか分からない。

 呼吸すら忘れて、私はうなずき続けた。
 すると男は表情を変え、先程までのような柔和な笑みを浮かべた。
「約束しましたよ。……明後日、またここで、同じ時間にお会いしましょう」

 そう言うと男は立ち上がりかけ、だが思い出したように付け加えた。
「お分かりかと思いますが……。警察には、言わない方がいいですよ。ケンタくんともう一人、彼のお友達のご協力も受けていたのですが、ケンタくん、警察にはその事を言わなかったみたいですね。友達思いのいい子です」

 そして、私の隣にやって来ると、声を低めた。

「その友達というのは、彼が私に紹介してくれた子でして。――彼が捕まれば、ケンタくんが初犯でない事が、バレてしまうでしょうから。そうなると、今度こそ本当に、人生終わりますわ」
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