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第伍話──箪笥

【漆】帝釈天

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 ――翌日。
 柴又駅を降りた零は、桜子と連れ立ってとある場所に向かった。
 帝釈天への参道を外れ、江戸川に向かいしばらく行った場所。田んぼと竹藪に挟まれた場所に、その屋敷はあった。

 芝垣に囲まれた趣き深い和建築。本家ほんやというより、金持ちが道楽に建てた別宅のような印象だ……二号を囲っておくような。
 用途としては間違っていないのだろうが、伯爵家の御曹司の新邸としては、いささか不釣り合いに見える。

 芝垣に身を潜ませ、桜子が首を伸ばし屋敷を覗いた。
「ね、ちょっとおかしな感じじゃない?」
 桜子が少し屈まなければならない高さの芝垣だ。零はほとんど中腰になりそっと目を出す。
「確かに……上等な建築が、これでは台無しです」

 金持ちが道楽に建てた別宅……そういう趣向のため、軒や土壁にも洒落た造形が施されているのだが、手入れされていないため黒ずんでいる。窓を覆う雨戸は、開いた事がないかのように苔で緑色だ。建物に見合うよう拵えられた坪庭も、松は伸び放題、草が生い茂って庭石を隠してしまっている始末。まるで空き家のような有様だ。桜子の言う通り、「生活感がない」というのも頷ける。

「気になるわよね」
 零の袖を引っ張り、桜子がキリッと輝く目を彼に向けた。
「潜入するんでしょ? 何か方法は考えてあるの?」
「ええ、まぁ」
 と、零は懐から封筒を出した。
「ご母堂からお預かりした依頼金を返しに来た、という名目で」
「なるほど、それなら怪しまれずにいけるわね」
「しかし、相手は殺人犯かもしれないんですよ?」
 零は忠告するが、桜子は気にもしない。
「大丈夫よ、私を誰だと思ってるの? 靴べらが一本あれば、盗賊団だってやっつけるんだから」
 桜子は背を伸ばし、門を向き前を指した。
「いざ、参らん!」


 ◇


 玄関の格子戸から顔を覗かせた久世慶司は、二人の顔を見ると一瞬驚いたように目を瞠ったが、すぐにあからさまに不快な表情を浮かべた。
「関わらないでくれと言ったでしょう」
「しかし、お母上様にお預かりした依頼金だけはお渡ししなければと」
 零は懐から、それなりに厚みのある封筒を覗かせた。それに目を向け、慶司はゴクンと唾を呑むように喉を鳴らす……やはり、金には困っているようだ。

 この時代、「華族」というだけで安泰に暮らしていける世ではない。父母の代からして、資産を切り崩してやりくりしていたのだ。九段坂の洋館を売った金が入るという目論見もあったのだろうが、五人も惨殺された上、犯人も見付からぬ屋敷が、思うように売れたとは思えない。
 彼の生活力のなさが、この屋敷に現れているのだ。

 現に、彼の着ているものからしてみすぼらしいものだった。元は上等そうな絹の着物ではあるが、虫食いやほつれ、綻びが目立つ。それをだらしなく纏った様子は、とても伯爵家の御曹司とは思えない。

 そんな慶司は無言で封筒に手を伸ばした。しかし零は、サッとそれを懐に戻す。
「いやあ、まだ五月というのに暑いですねぇ。駅から歩いてきただけで喉が渇いてしまいました。申し訳ありませんが、お水を一杯、頂けませんでしょうか」

 ――渋々通された、玄関のすぐ脇の部屋は、本来は居間として使われる場所のようだった。とはいえ、家具らしいものは何もない。埃を被った床の間と、色褪せた畳が敷かれているだけである。しかも、雨戸が閉まっているから真っ暗で、慶司が壁のスイッチを捻って電灯を点けなければ、何も見えない有様だ。淀んだ空気は埃っぽく、これからの時期はカビ臭さも加わりそうで、他人事ながら慶司の健康状態が心配になってくる。
 そんな部屋に一歩足を踏み入れた途端、桜子があからさまにどきまぎと部屋を見回すから、零は軽くゴホンと咳払いをした。
「水を持ってきます」
 慶司がそう言って奥へ向かう。零は桜子を導き、窓の前に座った。

「……本当にこんなところに住んでるのかしら?」
 座った途端、桜子はブルッと身震いして零に顔を寄せた。
「気味悪いを通り越して、あり得ないわ……いやに寒いし」
 彼女は二の腕を擦る。
「どうやらお手伝いさんもいないようですね。お公家さまですから、生活の仕方が分からないのかもしれません」
「でも、窓の開け方くらい分かるでしょ」
 と窓を振り向いた途端、大きな蛾が羽ばたいて、桜子はキャッと短く悲鳴を上げた。
「へへ変な虫とか、出ないわよね」
「怖いんですか、虫」
 悪戯っぽく零が聞くと、
「虫や蛇が嫌いだから田舎を飛び出して東京に来たって話、しなかった?」
 と、桜子は肩を竦めて零に身を寄せた。

 蛾はひらひらと電灯の周囲を一周し、戸口から廊下に出て行く。それを見送りながら、零は心の中で呟いた。
「よろしく頼みますよ……ハルアキ」

 ――あの蛾は、ハルアキが式神により変化へんげした姿だ。素直に屋敷の中を見せてくれるとは到底思えず、偵察に連れて来た……いや、勝手について来た。
 彼はどうも桜子にライバル心を燃やしているとみえ、彼女の活躍に勝る活躍を見せたいと、出掛ける際、零の着物の柄に同化してくっついてきたのだ。
 とは言え、現状、彼のライバル心が非常に役立ちそうなのは否定できない。この部屋からでは、屋敷の中の様子が分からない。とりあえず、お玉の所在を確認事が分かれば、こちらの目的は達したとしていいだろう。
 後はハルアキに任せよう。

 すると、蛾と入れ違いに慶司が戻ってきた。
「どうぞ」
 と差し出された湯呑には、確かに水が入っている……が、湯呑は欠けて黒ずんでおり、楢崎家の飼い猫であるクロの水飲みよりお粗末な有り様だ。
 桜子は薄ら笑いを浮かべたまま手を伸ばさない。
「わ、私はそんなに喉は乾いてないかな……」
 と零に横目を向けるから、彼は覚悟を決めざるを得なかった。
「いただきます」
 一気に水を喉に流し込み、
「いやあ助かりました」
 と、白々しく言い放った。

「ところで、お一人でお住まいなんですか?」
 湯呑を返すついでにシレッと尋ねると、明らかに慶司の様子がおかしくなった。目を泳がせ、落ち着きなく膝を揺らす。
「つ、妻は、悪阻つわりで寝ています……奥で」
「それは大変ですね。家の事も慶司さんがなさっているのですか」
「ええ……もういいですよね。あの、お金を」
「あぁ、申し訳ありません」
 零は懐から取り出し、差し出された慶司の手に置いた。

 ところが、それは封筒ではなかった。何やら複雑な文字が書き込まれた呪符……それが慶司の手に触れた途端、文字が蠢くように動いたものだから、慶司も桜子も目をみはった。
「え……!?」
「あぁ、これは失礼」
 慌てた様子で、零は呪符を懐にしまう。
「依頼の内容によっては、悪霊祓いのような事もいたしますので、その道具です」
「で、でも、今、字が動いたわよね?」
 桜子が突っ込むが、零は笑顔を返した。
「見間違いではありませんか?」
「そ、それもそうね……」
 無理矢理納得しようとしている桜子を後目に、零は今度こそ封筒を出し、慶司に差し出した。
「お邪魔してしまいました。ではこれで失礼いたします」


 ◇


 ――帝釈天門前の茶店。
「あーもう、気持ち悪いったらありゃしない」
 と、桜子は何度も袖を払う素振りをしてから、おかめそばを啜った。
「部屋が薄暗いから、物陰に変な虫がいるんじゃないかって思って、気が気じゃなかったわ」
「それはお気の毒でしたね」
 零もざるそばに箸を付け、「しかし……」と桜子に目を向けた。

「花嫁は、いないでしょうね」

「同意ね」
 桜子は頷きながらかまぼこを齧る。
「あんなところで寝てたら、赤ちゃんを産む前に病気になるわ」
「左様……しかし、そうすると、花嫁――お玉さんは、はどこにいるんでしょう?」

 しばし二人の間を沈黙が包む。
 慶司の言葉に嘘がある以上、この先に明るい展望があるとは思えない。

 やがて桜子は、丼をに口を付けてつゆを飲み干した。
「それにしても、お玉って芸者さん、それなりに売れっ子だったみたいだし、幾らでも相手を選べたでしょうに。どうしてあんな冴えない男を選んだのかしら?」
 すると、二人の脇で誰かが答えた。
「母性本能をくすぐられた、といったところじゃろうて」

 聞き覚えのある声はハルアキのものだ。
「虚栄心にまみれた花街で生きる芯のある女子おなごほど、どうしようもない駄目男にコロッといくものじゃ」
 と、彼は桜子の横に座った。
「知ってるような言い草ですね」
 零が細い目を向ける。するとハルアキは目を背け、壁のお品書きを指した。
「余もおかめそばが良い。草団子も忘れるでないぞ、二皿じゃ……それと、あんみつも」
「はいはい……って、なんでガキンチョがここにいるのよ?」
 桜子が不審そうに眉を寄せる。だがハルアキは得意気に腕組みをした。
「偵察じゃ。二人とも役に立たぬ故」
「はあ?」
「まぁまぁ……実を言うと、慶司さんの注意を我々に向けた隙に、ハルアキが忍び込む手筈だったんです。子供ですから、もし見付かっても怒られるだけで済みますし」
 零が苦笑を浮かべてそう誤魔化すと、桜子は一応納得したようだ。
「で、どうだったの? あの屋敷の中は」
 と、彼女は興味津々な目をハルアキに向ける。

 すると、先に出された草団子を摘み、ハルアキは答えた。
「あの屋敷、少々おかしな造りになっておる」
「おかしな造り?」
「台所がない」
 零と桜子は顔を見合わせた。
「確かに、普通あり得ないわね……」
「すると、先程出された水は……」
「便所の手洗いかもしれぬぞ」

 零が複雑な顔で口に手を当てるが、ハルアキは構わず、運ばれてきたおかめそばに箸を付けた。
「おかしいのはそれだけでない。何もないのじゃ」
「どういう事?」
「箪笥じゃ」
「箪笥?」
「あの屋敷にある家具らしいものは、奥座敷に置かれた大きな嫁入り箪笥、それきりなのじゃ」
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