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第伍話──箪笥
【参】久世慶司
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再び訪れた久世伯爵邸は、明るい洋館に似合わない鯨幕に囲まれていた。
『忌中』の札が立てられた門を入ると、庭先には既に大勢の弔問客が集まっている。伯爵という顔のさ広だけでなく、新聞記者や野次馬も多いようだ。伯爵という家柄で起きた凄惨な事件が世間の注目を集めるのは、仕方がないのだろう。
そんな様子を窺いつつ、零と桜子は目立たないように気を配りながら屋敷へと進んだ。
……というのも、手持ちで最も地味なものとはいえ、零の格好は目立ち過ぎるのだ。桜子は溜息混じりに横目を向けた。
「探偵のクセに、尾行とか苦手でしょ?」
そう言う桜子は、普段着の紺色のワンピースだ。帽子は被らず、断髪が夕風に揺れている。
「あまりやった事がありませんね……」
そう零は首を竦め、体裁だけはと羽織った黒の紋羽織で前を隠した。
一応、「目が不自由なため夜出歩くのが困難」という、多ゑ夫人の代理という建前である……久世伯爵の子息に会っておきたいと思っていた零に、気を遣ってくれたのだ。
記帳を済ませ、陰鬱な読経の響く広間へ向かう。
そこには、祭壇の前に置かれた棺がふたつ。蓋を開くのを拒むように掛けられた白い布が、事件の無惨さを物語っていた。
その傍らで項垂れる、礼服姿の若い男が、久世夫妻の息子の慶司だろう。
「この度はご愁傷様でございます」
と零が頭を下げても、彼は背中を丸めたまま、軽く頷いただけだった。
焼香を済ませ退出する途中、桜子が小声で囁いた。
「そりゃあ、ご両親があんな亡くなり方をしたんだし、気落ちするのは分かるけど、これから伯爵家を継ぐんでしょ? ちょっと頼りないというか……」
零も頷く。
「それ以前に、ご両親のお通夜というのに、奥方はおられませんでした」
「お勝手のお手伝いとか……」
「未来の伯爵夫人が、そんな事しますかね?」
何となく嫌な予感を抱きながら帰宅した二人だったが、その予感は当の本人からもたらされた。
――葬儀から一週間後。探偵事務所に久世慶司がやって来たのだ。
「母が私の妻を探るよう依頼していたようですが、取り消していただきたい」
久世慶司の年頃は三十手前か。育ちの良さを感じさせる雰囲気の中に、内に籠った陰気さを感じさせる人物だった。
七三に分けた髪に乱れはなく、上質な背広を着こなしている。とはいえ、通夜の席でも見た猫背は元来のもののようで、応接に腰を下ろしていても、視線はテーブルの表面を撫でるばかりで、向き合って座る零の顔を見もしない。
その視線の先に、桜子が湯呑みを置く。
「わざわざお越しいただいて申し訳ありません。ご依頼人がお亡くなりになったので、どうしようかと相談していたところです」
慶司は湯呑みに浮かぶ波紋を眺めながら言った。
「お支払いした依頼料はもういいので」
零も桜子から湯呑みを受け取り、両手で包む。
「そうはいきません、信用商売ですので。しかし、今すぐにお返しできるだけの用意がありません。また後日、お宅へお持ちします」
「いりません。もう私に関わらないでください」
慶司は吐き捨てるようにそう言うと、そそくさと事務所を後にした。
その背中を、長椅子から立ちもせずに見送った零は、ゆっくりと緑茶に口を付けた。
「桜子さん、どう思います?」
「どうって……」
応接の横でお盆を抱えて立つ桜子は、不機嫌な目を扉に向ける。
「お金を取り返したいのでなきゃ、何でわざわざ来たのかしら」
「余程、嫁を知られたくないのじゃろう」
そう言いながら納戸から出てきたハルアキは、だがテーブルに期待したものが無かったと見え舌打ちした。
「あの者、訪ねて来るに手土産ひとつ持って来ぬとは」
「それは欲張り過ぎですよ」
零は呆れた目を向けつつ湯呑みを空ける。
「どうもきな臭いんですよね、彼」
「どういう意味?」
手を付けられないままの湯呑みと空の湯呑みを盆に戻し、桜子は零を見た。
「刑事が言っていた彼のアリバイは、本当でしょうかね」
「それって……」
絶句した桜子に代わり、ハルアキが言葉にする。
「――あの者が下手人である、と言いたいのか」
「最も容疑者として相応しい人物像かと」
嫌な沈黙が事務所を包む。それを破るように、桜子が動揺を隠し切れない声を上げた。
「で、でも、仮にもご両親よ? それを手に掛けるなんて……」
だが零は冷淡だ。
「殺人の多くは家庭内で起こっています」
「でも、動機は? 彼がご両親を殺して何の得があるの? だって、伯爵家の財産を持つお父君の脛をかじってる訳でしょ? そのお父君を殺したら、彼、この先どうやって生きていくの?」
確かに、桜子の言う通りだ。不景気で家財を売り崩して生活しているとはいえ、元の財産は大きいに違いない。それを受け継ぐとしても、あの頼りない印象の彼が、その財をうまくやりくりできるのだろうか?
もし彼が犯人だとすれば、財産以外のところに動機があるように思える。
考え込む零の向かいに胡座をかき、ハルアキは何もないテーブルをもの欲しげに眺めた。
「調べるのか?」
「一応、依頼料は貰ってますし」
「珍しいじゃない、あなたが仕事にやる気を見せるなんて」
桜子はそう言って、奥の流しに向かう。
「多ゑさんのご友人ですからね、これも弔いです……ところで、花嫁の居処は分かりましたか?」
零が顔を向けると、ハルアキはニッカポッカからはみ出した膝を揺らした。
「情報が足らぬ」
「と言うと?」
「対象があやふや過ぎるのじゃ。その者にまつわる何かがないと、生死すら掴めぬ。せめて名でも分かれば……芸名でも構わぬ。その者と認識できる名であれば」
「なるほど……」
零は腕組みして扉に目を向けた。
「――まずは深川から、という訳ですね」
「その芸者さんの名前と、犯行当夜の慶司さんのアリバイの確認、ってところかしら。慶司さんが呑んでたっていうお店は分かるの?」
茶菓子を手に応接に戻った桜子は、ハルアキの隣に腰を下ろす。
「警察がそんな事まで教えてはくれません」
すると桜子はキラキラと目を輝かせた。
「じゃあ、探偵助手の腕の見せどころね」
そんな桜子の手から煎餅を奪い、ハルアキは横目で彼女を睨む。
「女の行く場所ではなかろう」
「そう言って、また私だけ置いてけぼりにするのね」
口を尖らせる彼女に、零は苦笑を向けた。
「まあまあ……確かに、手分けした方が早い。桜子さんにもお願いしますよ。では明日、よろしく頼みます」
『忌中』の札が立てられた門を入ると、庭先には既に大勢の弔問客が集まっている。伯爵という顔のさ広だけでなく、新聞記者や野次馬も多いようだ。伯爵という家柄で起きた凄惨な事件が世間の注目を集めるのは、仕方がないのだろう。
そんな様子を窺いつつ、零と桜子は目立たないように気を配りながら屋敷へと進んだ。
……というのも、手持ちで最も地味なものとはいえ、零の格好は目立ち過ぎるのだ。桜子は溜息混じりに横目を向けた。
「探偵のクセに、尾行とか苦手でしょ?」
そう言う桜子は、普段着の紺色のワンピースだ。帽子は被らず、断髪が夕風に揺れている。
「あまりやった事がありませんね……」
そう零は首を竦め、体裁だけはと羽織った黒の紋羽織で前を隠した。
一応、「目が不自由なため夜出歩くのが困難」という、多ゑ夫人の代理という建前である……久世伯爵の子息に会っておきたいと思っていた零に、気を遣ってくれたのだ。
記帳を済ませ、陰鬱な読経の響く広間へ向かう。
そこには、祭壇の前に置かれた棺がふたつ。蓋を開くのを拒むように掛けられた白い布が、事件の無惨さを物語っていた。
その傍らで項垂れる、礼服姿の若い男が、久世夫妻の息子の慶司だろう。
「この度はご愁傷様でございます」
と零が頭を下げても、彼は背中を丸めたまま、軽く頷いただけだった。
焼香を済ませ退出する途中、桜子が小声で囁いた。
「そりゃあ、ご両親があんな亡くなり方をしたんだし、気落ちするのは分かるけど、これから伯爵家を継ぐんでしょ? ちょっと頼りないというか……」
零も頷く。
「それ以前に、ご両親のお通夜というのに、奥方はおられませんでした」
「お勝手のお手伝いとか……」
「未来の伯爵夫人が、そんな事しますかね?」
何となく嫌な予感を抱きながら帰宅した二人だったが、その予感は当の本人からもたらされた。
――葬儀から一週間後。探偵事務所に久世慶司がやって来たのだ。
「母が私の妻を探るよう依頼していたようですが、取り消していただきたい」
久世慶司の年頃は三十手前か。育ちの良さを感じさせる雰囲気の中に、内に籠った陰気さを感じさせる人物だった。
七三に分けた髪に乱れはなく、上質な背広を着こなしている。とはいえ、通夜の席でも見た猫背は元来のもののようで、応接に腰を下ろしていても、視線はテーブルの表面を撫でるばかりで、向き合って座る零の顔を見もしない。
その視線の先に、桜子が湯呑みを置く。
「わざわざお越しいただいて申し訳ありません。ご依頼人がお亡くなりになったので、どうしようかと相談していたところです」
慶司は湯呑みに浮かぶ波紋を眺めながら言った。
「お支払いした依頼料はもういいので」
零も桜子から湯呑みを受け取り、両手で包む。
「そうはいきません、信用商売ですので。しかし、今すぐにお返しできるだけの用意がありません。また後日、お宅へお持ちします」
「いりません。もう私に関わらないでください」
慶司は吐き捨てるようにそう言うと、そそくさと事務所を後にした。
その背中を、長椅子から立ちもせずに見送った零は、ゆっくりと緑茶に口を付けた。
「桜子さん、どう思います?」
「どうって……」
応接の横でお盆を抱えて立つ桜子は、不機嫌な目を扉に向ける。
「お金を取り返したいのでなきゃ、何でわざわざ来たのかしら」
「余程、嫁を知られたくないのじゃろう」
そう言いながら納戸から出てきたハルアキは、だがテーブルに期待したものが無かったと見え舌打ちした。
「あの者、訪ねて来るに手土産ひとつ持って来ぬとは」
「それは欲張り過ぎですよ」
零は呆れた目を向けつつ湯呑みを空ける。
「どうもきな臭いんですよね、彼」
「どういう意味?」
手を付けられないままの湯呑みと空の湯呑みを盆に戻し、桜子は零を見た。
「刑事が言っていた彼のアリバイは、本当でしょうかね」
「それって……」
絶句した桜子に代わり、ハルアキが言葉にする。
「――あの者が下手人である、と言いたいのか」
「最も容疑者として相応しい人物像かと」
嫌な沈黙が事務所を包む。それを破るように、桜子が動揺を隠し切れない声を上げた。
「で、でも、仮にもご両親よ? それを手に掛けるなんて……」
だが零は冷淡だ。
「殺人の多くは家庭内で起こっています」
「でも、動機は? 彼がご両親を殺して何の得があるの? だって、伯爵家の財産を持つお父君の脛をかじってる訳でしょ? そのお父君を殺したら、彼、この先どうやって生きていくの?」
確かに、桜子の言う通りだ。不景気で家財を売り崩して生活しているとはいえ、元の財産は大きいに違いない。それを受け継ぐとしても、あの頼りない印象の彼が、その財をうまくやりくりできるのだろうか?
もし彼が犯人だとすれば、財産以外のところに動機があるように思える。
考え込む零の向かいに胡座をかき、ハルアキは何もないテーブルをもの欲しげに眺めた。
「調べるのか?」
「一応、依頼料は貰ってますし」
「珍しいじゃない、あなたが仕事にやる気を見せるなんて」
桜子はそう言って、奥の流しに向かう。
「多ゑさんのご友人ですからね、これも弔いです……ところで、花嫁の居処は分かりましたか?」
零が顔を向けると、ハルアキはニッカポッカからはみ出した膝を揺らした。
「情報が足らぬ」
「と言うと?」
「対象があやふや過ぎるのじゃ。その者にまつわる何かがないと、生死すら掴めぬ。せめて名でも分かれば……芸名でも構わぬ。その者と認識できる名であれば」
「なるほど……」
零は腕組みして扉に目を向けた。
「――まずは深川から、という訳ですね」
「その芸者さんの名前と、犯行当夜の慶司さんのアリバイの確認、ってところかしら。慶司さんが呑んでたっていうお店は分かるの?」
茶菓子を手に応接に戻った桜子は、ハルアキの隣に腰を下ろす。
「警察がそんな事まで教えてはくれません」
すると桜子はキラキラと目を輝かせた。
「じゃあ、探偵助手の腕の見せどころね」
そんな桜子の手から煎餅を奪い、ハルアキは横目で彼女を睨む。
「女の行く場所ではなかろう」
「そう言って、また私だけ置いてけぼりにするのね」
口を尖らせる彼女に、零は苦笑を向けた。
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