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第伍話──箪笥

【弐】事件

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 ――翌日。いつもと同じ朝だ。
 零は窓際の事務机で新聞を眺めている。ハルアキは納戸だろう、事務所に姿はない。
「おはようございます」
 と出社した桜子は、クロッシェ帽をコート掛けに置き、零を振り返った。
「昨日の依頼の花嫁さん探し、行かないんですか?」
「今は、人事を尽くして天命を待つ、という段階ですね」
 零はそう答え、新聞から顔も上げない。
 状況は分からないが、零が動かないなら桜子が焦ったところで仕方がない。彼女は普段通りのワンピースに前掛けをして、いつものように掃除を始めた。

 棚を叩き、床の埃を集める。雑巾でテーブルを拭き、ついでに窓も拭いておこうと窓辺に寄る。
 すると通りの様子が目に入り、桜子は首を傾げた。
「…………あら?」
 通りをやって来た、制服の警官と刑事らしき背広の男十人ほどが、二階への外階段へと入って行ったのだ。
 外階段から来られる場所はここしかない。桜子は零を振り返った。
「また何かやったんですか?」
「何をです?」
 状況を分かっていない零は、相変わらず新聞を眺めている。さすがに伝えないとまずいだろうと、桜子は零の新聞を取り上げようとしたのだが……。

「警察だ!」
 乱暴に開かれた扉から、警官たちがなだれ込んで来る方が早かった。先頭の刑事らしき男が零に紙切れを見せる。
「私立探偵・犬神零――これは貴様の名刺だな?」
 さすがに零も唖然と顔を上げ、新聞を机に置いた。
「はい、確かに。それが何か?」
 すると刑事は朗々と宣った。
「久世伯爵一家殺害の重要参考人として、署まで同行願う」

 しばらく呆気に取られたような沈黙が部屋を包む。
 それから零は、拍子抜けしたような声を上げた。
「はい?」
 寝惚ねぼけているのだろうか。そう思った桜子は前に進み出た。
「あの、事情を詳しくお聞かせ頂けません?」
「あなたは何者だ?」
「探偵助手の椎葉桜子です……今、久世伯爵が殺されたと仰いました?」
「ご夫妻、住み込みの家政婦含め、一家全員皆殺しだ」

 桜子は息を呑む。口元を手で押さえつつ、何とか言葉を絞り出した。
「そんな……昨日お会いしたばかりですよ」
「殺されたのは昨夜。難を逃れた通いの使用人が発見した」
「…………」
「その者の証言から、昨日屋敷にやって来た探偵というのが、最後に被害者と会った者となる。だから重要参考人だ」

 事情は分かった。しかし、とばっちりも甚だしい。
 一方零は、「またか……」という様子で頭を掻いている。

「これで何度目じゃ」
 いつの間にか桜子の横に来ていたハルアキが囁いた。
「確か、鴉揚羽の時に三回目の逮捕って言ってたけど……今回は逮捕ではなさそうだから、数には入らないわね、今のところは」

 犬神零は、謎に不運なところがある。誤認逮捕が三回というのもあり得ないが、逮捕に満たない職務質問などは数え切れないらしい……まぁ、不審な見た目をしているのは否定できないが。

 そう言っている間にも、零は警官に両腕を掴まれ引き立てられていく。そして扉から連れ出されるところで、
「助けてくれないんですか、桜子さん」
 と零は振り向き、情けない声を上げた。
 桜子はハァと溜息を吐き、
「大丈夫よ、ついて行くから」
 と答えた。


 ◇


 しかし、ツイていないにも程がある。取調室に押し込められ、間もなく楢崎夫人が来てくれなければ、今夜一晩、留置場に泊まりだったかもしれない。
 神田川沿いの通りを並んで歩きながら、零は盲目の未亡人に頭が上がらない。
「いや、本当に助かりましたよ、多ゑさんが依頼の件を証言してくださって」
 楢崎多ゑはメイド姉妹の姉のカヨに手を預け、零の方に顔を向けた。
「だって、わたくしがお願いした事ですもの。零さんに何かあれば私が困りますわ」

 彼の居候先の家主であるこの婦人は、伯爵である夫、そして子息を戦争で亡くしてから、恩給で静かに暮らしている。とはいえ、元は伯爵夫人である。警察もぞんざいにはできない。
 零に何かあると助けてくれる恩人でもあり、彼にとって絶対に逆らえない人物なのだ。

「それにしても……」
 と、桜子は神妙な顔をした。
「久世伯爵のご一家が殺されたなんて、未だに信じられなくて」
「そうね。私も良くしていただいてたから、心が痛いわ」
 多ゑは耳隠しに結った頭を小さく横に振った。
「どんなご関係なんです? 多ゑさんと久世夫人って」
 桜子の問い掛けに答えたのはカヨだ。
「久世伯爵は亡き楢崎伯爵のご級友なんです」
 盲目の未亡人をうやうやしく導く彼女は、メイド服を肩掛けで隠した格好だ。よほど急いで出たと思われる。
「お互いの屋敷を行き来して、茶飲み話をする間柄でしたの。主人が亡くなってからは、何かとご支援していただいて……何かの間違いであって欲しいわ」
 多ゑは神妙な顔で胸に手を当てた。

 零は取り調べの際に刑事に聞いた話を思い出す。

 ――死亡推定時刻は昨夜十時頃。
 夫妻と住み込みの家政婦三人の、合わせて五人が刺殺された。屋敷内が荒らされていた事から、物取りの線が濃厚であるらしい。
 凶器は台所の包丁であった事から、盗みに入ったところを見られての突発的な犯行の可能性が高い。

 ……それにしては、おかしな点もある。
 久世伯爵には抵抗の痕があったものの、女性四人は背後から襲われていた。また、屋敷の各所に散らばって逃げた女性陣を全て短時間のうちに探し出している。
 顔を見られての犯行だとしたら、逃げ隠れする家政婦を探し出してまで殺す必要はあったのだろうか?

 しかも……と、零は眉を顰めた。
 被害者の一人である久世夫人は応接間で倒れており、零が昼間見た、純白の産着が血飛沫で染まっていたらしい。
 それほどむごい現場となるには、明確な殺意が必要ではないか。

 ともあれ、そんな状況から、昨日屋敷に行った零が疑われた訳だが、彼はある疑問を口にした。
「屋敷の内部に詳しいのなら、まず息子さんが疑われるべきじゃありませんか?」
 だが刑事は机を叩いてこう吐き捨てたのだ。
「アリバイがあるんだよ、深川で呑んでたっていう証言が」
 警察というのは、一度こうと決めると融通が利かない。物取りの犯行と疑ったからには、余程の証拠が出ない限り、捜査方針を改めないだろう。

 腕組みしながらそんな事を考えていた零は、ふと気になり多ゑに尋ねた。
「多ゑさんは、久世伯爵のご子息にお会いになったことはおありですか?」
「えぇ、子供の頃に何度か。けれど、ここ何年かはお会いしていないわねぇ……きっと今晩にはお通夜でしょうから、その時に会えるんじゃないかしら」
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