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第肆話──壺

【廿参】犬神

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 ……靄のかかった零の視界に、動くものがあった。
 天井。
 吹き抜けの野地板から、白い光が現れたのだ。
 それは瞬く間に大きさを増し、何かの形を象っていく。

 ――犬神。

 白き焔に包まれ、牙を剥いた雄姿が頭上に迫るのを、桜子もどきは寸でのところで気付くが、時は既に遅かった。
「嫌ああああ!」
 頭にかぶり付かれた彼女の体がグラリと揺れる。そしてそのまま崩れ落ち、零のすぐ横に倒れる。
 咄嗟に手を出して支えると、彼女は意識を失っているようだった。

「グググ……」
 狼の唸り声に目を向ける。
 すると、山羊頭に牙を立てたまま、小丸が「悪魔」を引き摺っていた。

 主の危機に駆け付けた相棒が、最高の仕事を成し遂げたようである。

「やめて! 離して!」
 悪魔の怯えようはない。山羊と狼。相性の悪さの極みなのだ。
 初めからこれを狙えば、これほど痛い思いをせずに済んだのではないか……いや、身を挺して悪魔を油断させた事に、価値はあったと思いたい。
 零はそっと桜子を寝かせ、腹の配管を引き抜く。意識が飛びそうになるのを歯を食いしばって耐え、どうにか呼吸を整えた。
 傷はすぐに治る。小丸が時間を稼いでいる今、しなければならない事が彼にはあった。

 桜子の身を肩に担ぐ。出血過多でよろめきながらも、零は何とか駆け出した。
 木箱を踏み台に二階へ飛び上がる。床に空いた穴を避けて窓に寄ると、桜子の額に呪符を貼る――これで、彼女の体は結界の壁を行き来できるようになる。
 そうしてから、硝子窓を蹴破り、桜子を外へ放り投げた。
 きっと、ハルアキが彼女を助けてくれるだろう……と思ったのだが。

「…………?」

 風を切るように現れた、漆黒のケープ。
 その影は両手で桜子を受け止めると、横の電柱を軽く蹴って、屋根の方へと消えた。

 ――鴉揚羽が、なぜここに⁉

 だが、それを考えている猶予はなかった。
「キャウン!」
 小丸の悲鳴と同時に、建物がズシンと揺らいだのだ。
 すぐに手摺りに駆け寄り、下を見下ろす。
 そして愕然とした。

 巨象ほどの大きさの山羊頭の怪物が、鋭い爪のある手で小丸の体を掴んでいる。

「小丸、戻れ!」
 零が命じると、狼の体は光と化して宙を飛び、零の手の中に根付となって納まった。

 その光を追う赤い目が、零を睨む。
「おのれ、よくも……!」
 怒りに震える威圧が、再び建物を揺らす。そして、悪魔の体がもう一回り膨張する。

 ……これが、二年間壺に封じられた、悪魔の怨念。
 それが、いよいよ正体を現したのだ。 

 零は懐から短刀を取り出した。
 ――かげの太刀。この世にあってはならないものを断罪する、月の光の色を映す太刀。
 だが、鞘から引き抜いても、それは冴えない銀色をした短刀のままだった――悪魔の正体が分からないからだ。
 斬らなくてもいい魂を斬らぬために、彼自身が制御を掛けている。

「ならば……」
 次に零は、首から提げた紐を手繰り寄せた。胸元に吊るしたそれは、掌ほどの円い鏡。
 ――いつわりの鏡。『太乙の領域』……この世とあの世への境界への入口を拓くもの。
 ところが、これにも制約がある。全身を映さないと、入口は拓けない。
 案の定、みるみる巨大化する怪物はその鏡面に入り切らず、一瞬光を発しただけで、鏡は静まった。

「……やれやれ」
 思案する零に向かい、悪魔が爪を薙ぐ。二階の床ごと抉り取ろうとするが、零がピョンと梁に飛び移ったから、赤い目が燃えるような異様な光を発した。

 傷は既に癒えている。その上、巨大化した事で、悪魔の動きが鈍くなった。逃げるのは困難ではない。
 ……ただ、この怪物を武器もなく、どう倒せばよいのやら……。

 怒り狂った咆哮が、窓や壁を振動させる。
 建物が崩れる危険はハルアキの結界に頼るとして、彼が結界を保つのに集中すれば、零を手助けは期待できまい。
 疲れ果てた小丸も使えない。近くにいるだろう鴉揚羽を巻き込む訳にはいかない。
 ……太乙を呼ぶにも、陰の太刀が本来の姿を現さなければ叶わない。

 零がひとりで、この怪物を何とかしなければならない。

 更に一回り大きくなった爪が梁を叩き折る。
 それが落下する前に、零は壁を蹴って垂直に走った。辛うじて残った二階の残骸に飛び移るが、巨大な腕が薙ぎ砕いていく。
 走る足元のすぐ後ろから床が消失する。ぐるりと壁際を駆け抜けた後、爪に追われる格好で、零は滑車に絡む鎖に飛び付いた。
 そして鎖でぐるんと勢いを付け、怪物の額に渾身の蹴りを入れる。

 しかし、痛みを感じない上にこの大きさだ。ビクともしないまま叩き落とされれば、タタキに窪みが穿たれる衝撃を受ける結果となった。

「…………」
 咄嗟に起き上がれない。常人なら四肢が四散しているところだ。
 何とか顔を上げたところに足の裏が迫る、蹄を履いたそれを間一髪避け、零は駆け出す。
 幸い、相手の動きが鈍いために、右に左にちょこまかと走り回れば回避はできる。
 その間に、零は考えた。

 ――家鼠ほどの大きさにまで縮まったホムンクルスが、二階天井に角が届くほどの大きさにまで膨張した原理。
 怨念を材料としたとしても、余りに大きくなり過ぎではないか。
 彼女が巨大化した引金となったのは、小丸に違いない。その恐怖が常軌を逸脱させたのだろう。
 だが、加速度的に怨念を増すために、彼女は何かを行ったのではないか。
 何か……彼女の内にあるもの……ほんの少しばかりのエリクサーと、怨念と、賢者の石。

 賢者の石。
 得体の知れないその存在が、何らかの干渉を果たしたと考えるのは、不自然ではないだろう。

 ならば、

 零は足を止める。
 殺気立つ巨体を見上げて目を細める。
 ……外部からの干渉は困難だ。

 ならば、攻撃を仕掛けるしかない。

 当然、成功する保証はない。
 だがそれが、今彼にできる唯一の方法だと思った。

「ぐうおおおお!」
 咆哮と共に爪が薙ぐ。タタキを抉る粉塵を飛び越え、零は怪物の腕に乗り移った。
 とはいえ、山羊頭の人間の姿だ。滑らかな皮膚に手掛かりはない。
 その上、吸血虫を叩き潰そうとするように、反対側の手が飛んでくる。その度に跳ね上がってやり過ごし、徐々に顔を近くへと上っていく。
 ここで助かったのが、体のあちこちに巻かれた装飾品だ。邪教の儀式の神よろしく、髑髏や呪具を象った金銀の腕輪や首飾りに手を掛ければ、そう易々と落ちる事はない。

 それでも何度か振り払われて、床に天井に叩き付けられる。
 その度に血反吐を吐きながら、再び怪物の巨体に取り付くのだが、そのうちふと、ある事に気が付いた。
 ……爪のせいで、彼女の手は細かい作業が苦手である。
 ジャラジャラと首に下がる首飾りにしがみ付いている間、爪が首飾りに引っかかると、外すのに手間取るようだ。
 以前は爪を猫のように出し入れしていたが、この姿ではそれができないとみえる。
「……なるほど」
 と思った瞬間、再び壁に頭から突っ込む。結界がなければ、薄い板壁を突き抜けて神田川の向こう岸まで飛ばされていただろう。
 ハルアキの結界のおかげで、梁が折れ、柱も粉砕されたこの建物も、辛うじて形を保っている。
 ――ただでさえ少ないハルアキの力も、あと残りはいかばかりか。
 ここは一か八か、勝負を賭けてみるしかない。

 壁沿いを走り、零が向かったのは滑車の下だ。
 とぐろを巻く鎖を引き寄せ、ぶんと回して山羊頭に向け放り投げる。
 怪物は手でそれを払い除けようとしたのだが、指輪の装飾が引っ掛かったようで、取り外そうと反対側の手で探る。
 零はそちらの手めがけ、鎖のもう一端を狙い打つ。今度は掌で受け止めようとするも、爪の先に鎖が絡み付く。

 両手を塞がれた悪魔は、尖った耳まで裂けた口を大きく開いて雄叫びを上げた。
「ぐうおおおお!」
 怒りに任せ、鎖の絡んだままの爪で零を狙う。すると鎖が引っ張られ、滑車が激しく回った。

 ――今だ!

 鎖に捕まる零の体が、高速で宙へ舞う。
 天井を蹴って向きを変えると、零は噛み付こうと開かれた、前歯の隙間に飛び込んだ。
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