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第肆話──壺

【廿壱】不可侵領域

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 ――化け物。
 人並み外れた彼の力を知った者は、常に彼をこう呼んだ。
 そうなれば、もうその場にはいられない。
 ただ去るだけならまだしも、それを知った者を全て消し去る宿命が、彼の身には定められている。

 その力を、いつから持っているのかは分からない。
 或いは本当の正体が、化け物なのかもしれないし、これも彼に課された「呪い」のひとつかもしれない。

 そのため、「人間」として人々の中に紛れ込む時には、常に力を抑えて生活してきた。
 しかし、この何もない空間で、それを気にする必要はない――誰かを傷付ける心配もない。
 それに、彼は以前、武道の達人である桜子に妖が憑依して、天一貴人と対等に渡り合ったのを見ている。彼女と相対するのなら、それ相応の覚悟が必要なのだ。

「……ただし、建物が壊れると困りますからね……」
 引きちぎった鎖の残骸を払い落とし、零は懐から呪符の束を取り出す。現実世界と完全に切り離し、外部への影響を遮る結界を張るためのものだ。

 ところが。
 いつものように投げた呪符は、彼の手から離れた後、パラパラと床に落ちた。
 この呪符は太乙の力を封じたもの。宙を泳ぐ魚のように、自ら壁に張り付いて結界を作り出すはずなのだが。
 ……これは、つまり……。

 零は察した。
 既に、この建物のに、別の結界が張られている。
 同種の結界を重ねては張れないのだ。

「思ったより、ハルアキが来るのが早かったようですね」
 零は吹き抜けを見上げる。野地板のあらわな天井に、薄い光の網目がある。常人には見えない、決して立ち入る事のできない壁だ。

 ……二年余りの付き合いで、ハルアキも心得ている。
 零のには不可侵領域があると。
 今は結界の外側で、彼の役割が来るのを待っているのだろう。
 ――これは有難い。

「さて……」
 ガランとした静寂の中に、重々しい金属音がジャラリと響く。
「そろそろ始めましょうか」
 零が見上げる先で、赤い目がギラリと光った。


 ◇


 その頃、倉庫の屋根では……。

 蒼白の顔色をしたハルアキが、板葺の棟にへたり込んでいた。
「……気持ち悪い……」
 と、空になった胃から出てきそうなモノを納めようと手で口を押さえた――乗り物酔いである。
「そんな事言うと、この子が悲しむだろ……なぁ、小丸」
 どういう訳か、警戒心の強いはずの小丸が、鴉揚羽――土御門サナヱには懐くのだ。彼女に顎の下を撫でられて、フサフサした尻尾を振っている。
 その様子は、まるきり犬だ。

 とはいえ、今のハルアキは彼女に頭が上がらない。
 この倉庫全体を覆う結界を張ったのは、鴉揚羽なのだ。気分の悪くなったハルアキは、少し口を出しただけで、ずっと屋根で伸びていた。
 一応、結界に関しては、安倍晴明たるハルアキの方が数段上手ではある。彼女はハルアキの正体を知らないから、自慢する事はできないのだが。
 しかし、代々陰陽頭を務めてきた家柄である。彼女によって作法に忠実に張られた結界は、凛と美しくすらあった。

 その結界の上で小丸をあやしながら、鴉揚羽はハルアキに笑顔を向ける。
「君、只者ではないと思ってたけど、凄いね。結界術の勉強になったよ」
 と、だが彼女はハルアキのには決して立たない。常に背を向けた立ち位置を取っている。
「いい加減、その屁理屈をやめたらどうじゃ」
「僕は約束を破らない主義でね」
「泥棒が何を言うか」

 何度か深呼吸をして、ようやく落ち着いたところで、ハルアキは立ち上がる。
 鴉揚羽と背中合わせに並ぶと、身長が同じくらいであるのが不思議だ。遠目には、ピタリと体に張り付く服装の彼女の方が、随分と大人びて見えるのだが。

「ねえ、ハルアキ。彼は一体、この中で何をする気なんだい?」
「さあ、知らぬ」
「僕には教えてくれないのかい?」
「奴のやる事は余も預かり知らん」
「へえ。信頼、してるんだね」
 彼女の視線が耳の後ろをくすぐる。

 零とハルアキの関係を、彼女に説明する訳にもいかない。……下手をすれば、零の背後にあるに、全員消されかねない、そんな危うさを感じる。
 だからこの二年間、ハルアキは素知らぬフリを通してきた。
 それは、零にとっても同じである。彼もまた、今の関係を壊す事は望んでいない。

 ……だが、ハルアキは確信していた。
 形代として使い、平然としていた零は、少なくとも人間ではない。
 それを明らかにしてしまえば、零は我々の前から姿を消さねばならないだろう。
 今の関係を続けるためには、不可侵領域を侵さぬ事が、何よりも肝要なのだ。

 その奇妙な関係を「信頼」と呼ぶのなら、そうかもしれない。
 こんな不安定な関係でも、それを壊したくないと望む意思がある限り、信頼となり得るのだろう。

「じゃあ君の役割は、彼を信頼して待つ事なの?」
「いや。壊さねばならぬ」
「何を?」

「賢者の石じゃ。ホムンクルスを倒したとて、それを壊さねばまた元通りじゃ」

 と、ハルアキはニッカポッカに挟んだ、青い革表紙の本を手に取った。
「これにはアレの壊し方が書いてあるのじゃな」
「もう読んだの?」
「あの時間で読める訳がなかろう! それに……」
 と、今度はハルアキが口を尖らす。
「……あ、アラビヤ語は、辞書を調べなければ全く分からぬ」
「何だ、僕と同じじゃないか。君ならもしかしたらと期待してたけど」
 ニヒヒ、と奇妙な笑い声を漏らして鴉揚羽は棟に座る。
「実を言うとね、買った本人、二番目の兄も読めないんだ」
「何じゃと?」
「ターバンを巻いた怪しい商人に売り付けられたって。賢者の石の壊し方が書いてある珍しい本だって」
 そう聞いて、ハルアキは慌てて頁を開く。そして、そこにあったのがミミズののたくり踊るような奇妙な記号の羅列だったから、パタリと閉じて天を仰いだ……二年前、東京に来るきっかけとなった本と同じ文字だ。
「……そなたの兄とやら、騙されておるぞ」
「まあ、そんな事もあるかもしれないね、お人好しだから。でも……」
 と、鴉揚羽が型紙のようなものを示す。本の表紙程の大きさの革の板に、複雑な模様を描き、細かい丸穴が並んでいる。なめした風合いは、かなり年数を経ているようだ。
 鴉揚羽は言った。

「これを重ねて見たら、どうなるかな」

 彼女はハルアキの手から本を取ると、適当な頁を開き型紙を重ねる。
 そしてそれを、後ろ向きにハルアキに見せた。

 ハルアキの呼吸が止まる。
「――ラテン文字、じゃな」

「やっぱりそうなんだ。兄が本を買った時に、これをで渡されて、どう使えばいいか分からなかったらしい」
「なぜそれを早く言わぬのじゃ!」
 ハルアキは本と型紙をひったくり、最初の頁から読み取っていく。癖の強い文字ではあるが、読めなくはない。
「つまりこの本は、この型紙と一緒でないと役に立たない、暗号文書であったという事か!」
「どう? 分かりそう?」
 ハルアキは黙って読み進める。あの謎の本の解読、そして賢者の石についての調べ物の過程で、彼は語学についても学んでいた。元来の頭の良さもある。だいたいの内容を知る事は可能だった。

 そして、最後まで目を通した彼は、愕然と顔を上げた。
 その表情を横目で見て、鴉揚羽は首を傾げる。
「どうしたんだい?」

 ハルアキは答えた。
「賢者の石を壊すには、賢者の石が必要なのじゃ」
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