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第肆話──壺

【拾陸】大掃除

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「ぎやぁあああああ!!」

 だが、結界内に響いたのは、女の悲鳴だけだった。
 反射的に伏せた顔をゆっくりと上げる。……ハルアキの両手と言わず、白いシャツも、紺のニッカポッカも、全身が赤く濡れていた――だが、痛みはない。
 不思議に思って顔を上げると、零と目が合った。
 彼はニヤリと微笑んでいた。

「この刀は便利ですね。斬りたいと思うものだけ斬れるとは。あなたが留置場の扉を壊した時に、まさかと思いましたけど、いやあ、大したものです」

 ……要するに、刃はハルアキを通過して、背後の大吉だけを斬ったのである。
 つまりは、零が天一貴人を完全に操っている、という事だ。
 甚だ信じられない状況である。式神がハルアキの操作下から離れ、零の指図に従っている。
 特異体質なのか、或いは「器」となる事に慣れているのか……。

 呆然とするハルアキの後ろで、脳天から真っ二つに叩き割られたホムンクルスの残骸が、徐々に形を取り戻していく。先程と比べ、回復速度が格段に遅くなっている。何とか零から逃れようと、不完全な姿のまま床を這う。
 そこへ再び斬撃を叩き落とした零は、チラリとハルアキに目を向ける。
「あなたも手伝ってくださいよ」
「……何を?」
「分かりませんか? 掃除です」
「掃除、じゃと?」
「拭き掃除です。この赤い水が床や壁にある限り、ホムンクルスは再生してしまいます。雑巾で拭いてください」
 ……まぁ、理には適っている。絵面えづらが酷く無様ではあるが。
 とはいえ、安倍晴明たる彼に掃除を命じる者など、千年生きてきた中で一人としてなかった。余りに無礼な物言いではないか。
 そんな彼を不満を感じ取ったのか、零が冷たい目でハルアキを睨み下ろした。
「掃除の仕方が分かりませんか? ならこの先、掃除夫としてみっちり仕込んで差し上げましょう」
「わ、分かった! 分かったから、そう怒るな」

 ハルアキは慌てて立ち上がる。そして辺りを見回すと、
「茶箪笥の横が掃除道具置き場です」
 と顎で示される。
 聞こえないように小さく舌打ちをして、ハルアキはありったけの雑巾を持ってきた。
「足りないところは、毛布を使ってください。絞ってはいけませんよ、復活してしまいますから」
「分かっておるわ」
 言いながら、ハルアキは床を拭く。……我ながら、情けない事この上ない。

 一方で、零はひたすら、大吉……であったものを切り刻んでいく。
 ホムンクルスは形を保つ事すら許されず、ただ赤い水を撒き散らしている……既に、これは戦闘ではない、作業だ。

 人間ひとり分のエリクサーというのは相当な量だ。十枚ほどあった雑巾はすぐさまぐっしょりと濡れ、毛布もじっとりと重くなってきた。なかなかの重労働である。
 汗を拭き拭き掃除に精を出しながら、ハルアキは考えていた。
 ホムンクルスは、エリクサーに魂を入れたもの。しかし、本体と離れればただの赤い水である――分裂する事はないのだ。
 それはつまり、エリクサーに魂が溶け込んでいる訳ではない。核となる魂がひとつ、本体に存在している。

 ハルアキは、チラリと無残な本体に目を向ける。
 そして、ある事に気付いて声を上げた。

「おい! 何かが逃げようとしておるぞ!」

 それは、赤い水の塊からそっと抜け出し、暗闇に向かって素早く駆け出した。まるで小人のようだ。
 あれがホムンクルスの核となる魂だろうか?

 ハルアキはそれを追い掛けるが、家鼠いえねずみほどの黒い小人が物陰に入り込めば、容易に見付かるはずもない。
 舌打ちをして零を振り返る。
「これはどうしたものか」
 一方、目の前の塊が突如、水となって形を失ったものだから、濡れた装束の裾に忌々しい目を向けて、零も大きく息を吐く。
「参りましたね……」

 だが、すぐさま転機が訪れた。
 茶箪笥の裏辺りから、「フギャー!」という猫の悲鳴が聞こえたのだ。
 クロである。ハルアキに操られ、疲れ果てて眠っていたところを、小人に踏まれて目を覚ましたのだろう。

 途端に、狭い隙間から小人、続いてクロが飛び出してきた。
「ニャー!!」
 猫の持つ本能のまま、鼠を追う勢いで突進されてはたまらない。
「イヤああああ!」
 甲高い悲鳴を上げながら、小人は右へ行ったり左へ来たり、必死の形相で逃げ惑う。
 その姿は、山羊頭の悪魔を小さくしたものである。初めは二本足で走っていたが、やがて鼠のように四本足で駆けだした。
 それがまた、猫の狩猟本能を刺激したのだろう。クロの金色の目が闇に光ると、

 ――ピョーン。
 見事な跳躍で小人に猫パンチを食らわすと、ガブリとその頭に食い付いたのである。

「…………」
 唖然と見ていた二人だが、やがてハルアキが声を上げた。
「た、食べられたら、まずくはないか」
「クロさんが、不死になってしまうかもしれませんね」
「そんな事を言っている場合か! 止めよ!」
「ハルアキがやってくださいよ。私は猫が苦手なのです」
 のうのうと宣う零を、ハルアキが横目で睨む。
「そなたは、今は余の式神である。言う事を聞かぬか」
 零は渋い顔をしつつ溜息を吐いた。
「やれやれ……」

 そして、恐る恐るクロに歩み寄ると、しゃがみ込んで猫撫で声を掛ける。
「クロさん、後でかつおぶしをあげますから、それを私にくれませんかね? あまり美味しいものではないと思いますよ」
「…………」
 クロは身を低くして零を睨む。そして小人を咥えたまま、スタッと物陰へ走ろうとするから、零は咄嗟に手を出した――尻尾を掴んだのである。
「フギャー!」
 バネのようにクロが振り返る。そして牙を剥いて零の手首にガブリとかじり付いた。
「痛ッ!」
 引き離そうと手を引くが、クロは牙を抜こうとしない。更には爪まで立てて、零の腕にしがみ付いてくる。
「た、助けて、ハルアキ!」
「犬神に何とかさせよ。余はそれどころではない」
 そう答えるハルアキの手には、小人が握られていた。クロが口を開けた隙に逃げたしたようだが、散々振り回されて目を回したのだろう、フラフラとしているから簡単に捕まえられた。
 とはいえ、抵抗する小人を両手で押さえているハルアキは、零に手を貸す事ができない。
「な、何か封じるものを用意せよ」
「自分でやってくださいよ。この姿では、小丸が出て来てくれません」
 零はクロと格闘している。ハルアキも暴れる小人に指を引っ掻かれて、
「痛いわ! 無礼も程ほどにせい!」
 と周囲を見回す。小人を閉じ込める容器はないか、小さな壺のようなもの……。

「――そうじゃ!」
 と、ハルアキは応接テーブルに走る。そこには空の蜂蜜壺がそのまま置かれていた。
 そこに小人を押し込んで蓋をする。何か喚きながら壺をガタガタと揺らすから、ハルアキは手近な護符を剥して蓋に封をした。これで容易には出て来られないだろう。

「クロさん! 勘弁してください。お願いですから……!」
 そうして振り返ると、零は未だクロと格闘中だった。
 ハルアキはスタスタとそこへ向かい、五芒星の描かれた札をクロの額に貼る。その途端、クロは大きく瞳孔を広げ、キョトンと大人しくなった。
 ハルアキが小さく柔らかい体を受け取ると、零は首を横に振る。
「やれやれ……」
 と、血の滲む手首を押さえて、零はハルアキに撫でられて首を伸ばすクロに忌々しい目を送った。
「これで、終わったんですかね」
「一応は、じゃな」
 ハルアキが二本の指を立てた手を振る。すると、天将の衣装は煙と消え、零は普段通りの着物姿に戻った。

 彼は長髪をガシガシと掻き乱す。
「……まぁ、今回はうまくいきましたけどね……」
 と、零はハルアキに目を向ける――その瞳の色の冷たさに、ハルアキはギョッとした。

「今度同じような事をしたら、あなたの命は保障しませんから」

「わ、分かった……そう言うな」
 ハルアキは首を竦める。彼としても、二度とは使えない禁じ手だと思った――何を考えているか分からないこの男に式神を託すのは、余りに危険すぎる。

 それからいつも通りの様子で、零は辺りを見回す。
「大掃除、朝までに終わりますかね……」
 と絶望的な表情で、彼は赤い飛沫の残る天井を仰いだ。
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