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第肆話──壺

【伍】山茶花御殿ノ未亡人

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 二人が向かったのは、神田の裏路地。
 下町の家屋が立ち並ぶ町並みに突如現われる洋館である。
 山茶花サザンカの生垣に囲まれた瀟洒しょうしゃな煉瓦造りの屋敷は、近隣の住人に『山茶花御殿』とも呼ばれている。

 鉄柵の門扉から中に入る。
 石畳の左右には手入れされた木々が並び、四季折々の様相を見せる。和洋折衷の庭園に今咲くのは、紅白の山茶花の他に、三色スミレが花壇の片隅で咲いている程度で、いささか閑散としていた。

 美しい艶のかしの扉を開けた先は、二階建ての吹き抜けに下がるシャンデリヤが煌めく玄関ホール。
 正面の階段の踊り場を彩るステンドグラスが、優美な雰囲気を醸している。

「あ、履物はそのままで結構ですよ。洋館なので」
「…………」
 傲慢な少年も、この屋敷の威容には圧倒されたようで、零の着物の袖を掴んで、細い目でキョロキョロと辺りを見回していた。

 零の姿に気付き、右手の食堂から女中が出てきた。
 紺のワンピースに白いエプロン。マガレイトに結った髪に赤いリボンを付けているのは、女中姉妹の妹のキヨだ。
「あら、零さんお帰りなさい。今晩はお夕食を食べられます?」
 ……その様子を見ると、逮捕された事は知られていないようだ。零は胸を撫で下ろした。
「あ、いや。……実は、今晩からしばらく、親戚の子供を預かる事になりまして」
「子供?」
「はい。……ん? 今ここに……」

 見ると、少年は零の背後にピタリと張り付き、キヨの視界から身を隠している。
 零は苦笑して、少年を前に押し出した。
「普段はやんちゃ坊主なんですがね。照れているのでしょう……」
 ……そういう設定にしておかないと、着物の汚れの説明がつかない。
 だが少年は零の手をすり抜けて、再び背中に張り付いた。

 しかし、キヨはいぶかしむでもなく、少年の前に歩み寄る。
 そして身を屈めて彼に笑顔を向けた。
「坊や、お名前は?」

 ――名前。
 言われて零は焦った。考えていなかった。
 少年も答えない。零は咄嗟に答える。

「は、ハルアキです」

 するとキヨは人懐こい笑顔を作り、
「ハルアキ君、ね。私はキヨ。よろしくね」
 と、少年の頭を撫でる。あからさまに照れた様子で、ハルアキ少年は首を竦めた。
「……にしても、着物、随分汚れてるわね」
「田舎から出てきたもので、東京が珍しいのか、散々はしゃいだ挙句、このザマで。ハハハ……」

 ハルアキに白い目で睨まれながらも、何とかキヨは誤魔化せたようだ。
 彼女は立ち上がると、
多ゑたえ様にご挨拶する前に、お着替えしましょうか。……このお屋敷、物持ちがいいから、いさむ坊っちゃまの小さい頃のお洋服も取ってあるから」

 勇とは、この屋敷の女主人である多ゑの一人息子である――先の欧州大戦で戦死している。
 その形見を借りるのはいくら何でも気が引けると、零は手を横に振る。
「そんな大切なものをお借りするのは……」
「本当の思い出の品は別にしてあるから。小さい頃の服は、何となく捨てられなかっただけで、使ってくれる人がいれば多ゑ様も喜ばれるわ」

 そう言うと、彼女はハルアキの手を引いて、奥へと連れて行く。
 恨めしそうな目で振り返るハルアキを、零は満面の笑みで見送った。


 ◇


 ――楢崎ならさき多ゑたえ
 山茶花御殿の女主人である。
 義父に当たる楢崎仁兵衛じんべえは、陸軍少将で伯爵だった。
 だが、その跡を継いだ夫のいわお、そして子息の勇を戦争で亡くし、爵位は途絶えている。
 三代続いた軍官の家系を内助の功で支えてきた多ゑだったが、家族を全て失った心労から体調を崩し、視力を失うに至った。
 それでも気丈に、家族の思い出の詰まったこの屋敷を、女中姉妹二人と共に守っている。

 応接間の長椅子に掛ける彼女は、貴婦人と呼ぶに相応しい気品ある所作で、女中姉妹の姉であるカヨに供された紅茶に口を付けた。
「あらまあ。ご両親が流行病はやりやまいで亡くなったのですか。それは可哀想に」
「そうなのです。身寄りが他になく、遠縁である私に面倒を見てほしいと声が掛かりまして」
「勿論、この屋敷で良ければ、いつまで居てもらっても構いませんよ。お食事もご用意しましょう」
「助かります」

 ……と頭を下げる零自身も、この屋敷で世話になっている身だ。
 ちょっとした縁からこの屋敷に転がり込み、朝夕の食事、寝室に探偵事務所付きという、破格の待遇で居候している。
 女所帯で不用心だから、用心棒として住んで欲しい、というのが、一応の建前ではあるが。

 零は大理石のテーブルに置かれたティーカップを手に取る。芳醇な香りを確かめたところで、扉が開く。
 現れたのはキヨだ。

「多ゑ様、この子、勇坊っちゃまの小さい頃のお洋服がピッタリでした。とっても可愛い子ですよ」
 と、キヨに押し出されたハルアキは、気まずそうに顔を背けた。

 白いシャツに紺色のセーター、ニッカポッカに長靴下を合わせ、襟元には蝶ネクタイ。
 ……先程までの傲慢な様子はすっかりなりを潜めている。
 零は笑いをこらえた。

「さあ、ご挨拶なさい」
 キヨに促され、ハルアキはペコリと頭を下げた。
「は、ハルアキといいます! 八歳です! よろしくお願いします!」
 やけくそ気味に声を張り上げたハルアキに、多ゑはホホホと穏やかな笑顔を向けた。
「元気で宜しいわ。こちらこそ、よろしくね」

「はい、よくできました」
 ハルアキはキヨにわちゃわちゃと頭を撫でられた。古の陰陽師も形無しである。
「ご迷惑をおかけしないよう、いい子にするんですよ」
 零が追撃すると、ハルアキは物言いたげに睨んだが、
「これも使っていいわよ」
 と、キヨにポンと頭に載せられたキャスケット帽が、その視線を隠した。
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