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第肆話──壺

【肆】嘘モ真モ懐次第

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「安倍、晴明……?」

 当然、零でもその名は知っている。
 平安時代に活躍した有名な陰陽師。
 賀茂かも氏の下で陰陽道を学び、やがて陰陽寮を取り仕切る立場となる。
 そして、秀でた人物にはもっともらしい逸話が付きもので、『蘆屋道満大内鑑あしやどうまんおおうちかがみ』のように、謎めいた伝説が多く残る人物でもある。

 ……だがしかし、あくまで平安時代に生きていた歴史上の人物。大正の世に子供の姿で、シベリアを頬張っているはずがない。

 零は少年の表情を観察する。冗談を言っているのかとも思ったが、シベリアを喉に詰まらせ牛乳を飲む様子は、人をからかっているようには見えない。

 牛乳をゴクリと飲み干すと、少年は気まずそうに零を睨む。
「何じゃ?」
「安倍晴明がお好きなんですか?」
「本人じゃ」
「……まさか」
「見たであろう」

 ……留置場内での出来事。
 「十二天将」ほどの強力な式神を操れるのは、零の知る限り、ただ一人――安倍晴明のみである。

 とはいえ、目の前の少年が千年も生きているとは思えないし、安倍晴明は八十歳まで生きたとされる長寿である。何かの間違いで時空を超えたとしても、子供のはずがない。

 零の視線から煩わしそうに目を逸らし、少年は呟く。
「信じぬのは勝手じゃ。じゃが、余の目は誤魔化せぬぞ。――そなた、式神が見えておった。同業であろう」
「つまり……」
 言いかけて、零は言葉を切った。

 ――陰陽師。
 迂闊うかつにその言葉を名乗れば、また留置場に逆戻りになりかねない。

 通常、式神というのは常人には見えない。
 感応性があり、相応の知識があって初めて、その存在がはっきりと視認できるのだ。

 少年はパクパクとシベリアを平らげて、残りの牛乳を飲み干した。
 そしてジロリと零に横目を向ける。
「警官から取り戻した鏡と短刀。ただの品ではあるまい」
「…………」
「それに、帯に提げた煙草入れの根付じゃ。犬神を封じておるのじゃろう」

 背筋が寒くなる思いがした。
 ――この少年は、零にとって危険な存在かもしれない。

 だが、そんな零の心の内を知ってか知らずか、少年はピョンと椅子から飛び下り、
「さて、これで用は済んだの」
 と、店を出て行こうとするから、零は慌てて引き止めた。
「これからどうするつもりですか?」
 少年は足を止め、振り向きもせずに答える。
「そなたに言う必要はあるまい」
「確かに……」

 そう言いつつ、零は勘定をテーブルに置き、少年の耳に囁いた。
「とはいえ、またあなたが何かしでかして、留置場に放り込まれでもしたら、私の身も危ないですからね――脱獄の共犯として」
「ならば、どうするのじゃ?」
 少年が振り向く。その鋭い視線の先で、零はニコリとした。
「とりあえず、うちに来ませんか? 神田明神の裏で探偵事務所を開いてまして。そこでもう少し、詳しい話を聞きましょう」

 ……と、ミルクホールを出た後、向かったのは銭湯だった。
 「親戚の子供」と称してしばらく面倒を見る旨を、事務所の大家である楢崎夫人に頼むには、見た目が余りにも酷かったためだ。

 雀の巣のような頭を洗い、埃にまみれた顔を流せば、随分と育ちの良さそうな顔をしている。
 頭に手拭いを載せて湯舟に浸かる姿は、とてもいにしえの大陰陽師とは思えない。

 ――どうこの子供の正体を測るべきか……。

 すると、少年が言った。
「おい、ナナシ」
「私は名無しではありませんよ」
「本当の名を明かせぬのなら名無しも同然じゃ」
「……で、何の用ですか?」
「温まったらまた腹が減った」
「…………」
「牛鍋が食いたい」
「いい加減にしなさい」

 ……アンパンと瓶牛乳を奢ったら、懐はすっかり軽くなった。
 「親戚の子供」を装うなら、汚れた服装もどうにかしたいところだったが、生憎先立つものがない。
「仕方ありませんね……」
 せめて埃だけでも払っておこうと、少年の着物を手に表へ出る。
 ……すると、襟の中にゴワゴワとしたものが手に触れた。
 それを引き抜くと、やはり人形ヒトガタを折り畳んだものだ。

 ――その胴に当たる部分に、五芒星と呪文のようなものが書かれている。

「…………」
 安倍晴明というのは眉唾としても、陰陽道宗家の系統の陰陽師である事は、間違いなさそうだ。

 埃を払った着物を手に戻ると、少年は襦袢姿で縁台に座り、足をブラブラさせていた。
「アンパンとやらが美味かった。土産にもう三つ買うが良い」
「無理です」

 ……それから、事務所のある洋館に向かう道中。
 神田明神前の団子屋に差し掛かった時。

「――あ! あの泥棒小僧!」
 店先にいた女将が飛び出してきて、少年の首根っこを掴んだ。
「もう牢屋から出てきたのかい! こんなのがウロウロしてちゃ、商売にならないね」
「あの……」
 零は穏やかな笑顔を取り繕って、女将に向ける。
「この子供が、何をしたんで?」
 キッと零に顔を向けた女将は、だが彼の美貌を見ると途端に表情を緩めた。
「な、何、ちょっと目を離した隙に、団子を二本持ってかれただけさ」
「それは申し訳ございません。今は持ち合わせがありませんので、後からお代を……」
「いやいや、いいよ。よほど腹が空いてたんだね。ちょっと待ってな、土産を包むよ」

 ……団子の包みをぶら下げて、神田明神の境内を突っ切る。
「顔の良いのは得じゃの」
 モグモグと串団子を頬張る少年に忌々しい目を向け、零は溜息を吐いた。
「無賃乗車だけじゃなかったんですか……」
「もっと言うなら、盗んだ団子は二本ではない。あの女将が気付いておらぬだけで、二十本は食うた。この団子は特に美味いからの」
 被害者はあの団子屋だけではない口ぶりである。これには呆れるしかない。
 ……と同時に、彼の探偵としての推理は見事に外れていたのだ。零は緩く束ねた髪をくしゃくしゃと掻いた。

 となると、新たなる疑問が出てくる。
 零はジロリと隣を歩く少年を見下ろした。
「という事は、警察に捕まるまで何日も、この辺りをウロついていた事になります。……何が目的で、わざわざ京都からここにまで来たのですか?」

 すると、少年は表情を曇らせた。
「そなた、探偵と申したな?」
「一応、そう名乗っています」
「それに、陰陽道の心得もある」
「…………」
「ならば……」

 零を見上げた少年の目は、すがるような不安定な色をしていた。
「余を助けよ」
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