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第肆話──壺
【壱】約束
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――大正十年、桜の頃。
事務所に戻った犬神零は愕然とした。
全開にされた窓からは涼やかな風が吹き込み、近くの神田明神からのものだろうか、桜の花弁が舞い込んでいる。
それを指先に取り、フッと吹いて飛ばしたのは、椎葉桜子……の姿をした、何者か。
耳の下で断髪にし、春らしい橙色のワンピースを着ている。足元は長靴下に革靴。
いつもの桜子そのままの姿である。
それを、絶対的に彼女でなくしているもの。
それは、額の上に生えた二本の角。
そして、山羊のように横長に収斂した瞳孔と、彼女らしからぬ険のある表情。
これは、まさか……!
零には心当たりがあった。
反射的に、扉を入ってすぐ左手の、応接の奥に目を向ける。
――そこにある扉が、開いていた。
入口の扉だけではない。納戸となっている小部屋の、雑多なものが置かれた棚の奥。
金属製の黒い金庫の扉もまた開いている。
「…………」
ゆっくりと視線を桜子に戻す。
彼女は悠然と桜吹雪を愉しみながら、口角をニッと上げた。
「――お久しぶりね、式神の形代クン」
◇
その日、犬神零は椎葉桜子と約束をしていた。
「浅草に活動写真を観に行く」と。
以前、居候のハルアキを桜子に預けた際、どうしても行きたいと駄々をこねたが、時間がなく諦めざるを得なかったため、その再挑戦に保護者として付き合え、との事だ。
とはいえ、たまにはそんな娯楽も悪くはない、と思っていたのだが、ハルアキがコッソリと零に耳打ちしたのが、今朝だったから零は焦った。
「……今日はな、あの女子の誕生日じゃ」
どうやら、桜子の下宿に泊まった際、本人から聞いたらしい。
「どうしてそれを早く教えてくださらなかったのですか?」
寝間着からシャツに着替えながら、ハルアキはニヤニヤと零を見た。
「そなたなら当然、知っているじゃろうと思うてな」
「知りませんよ!」
慌てて間借りしている洋館を飛び出すも、時は朝八時。気の利いたものを売る店が開いている時間ではない。
だが、約束の時間は九時なのだ。のんびりと構えている余裕はない。
……とはいえ。
「誕生日には、何をすれば良いのやら……」
祝うべき特別な日、程度の認識はあるものの、このご時世、未だ広く普及しているものではなかった。
明治に入って暦が変わり、西洋に合わせ太陽暦となったものの、年齢は数え年とする場合がほとんど。つまり、正月に国民全員が一斉に歳を取るのだ。
だから誕生日を祝う風習は、ごく稀ではあった。
……しかし、知ってしまった以上、何もせずにおくのは感じが悪い。
それに、敢えて誕生日という特別な日を、活動写真見物に選んだのには、何か意味があるのではないか。
零は散々頭を悩ませた挙句、ようやく開いた神田明神前の土産物屋で、桜を象った小さなブローチを買った。
そして慌てて洋館の自室に戻るも、ハルアキの姿はそこになかった。
代わりに、窓辺の文机に拙い「へのへのもへじ」の落書きが置かれていたのだ。
「…………」
そこで零はようやく気付いた――ハルアキは零を撒くために、嘘を吐いたのだ。
つまり、桜子と二人で浅草に行かせようとしている。
「……やれやれ……」
零は乱雑に束ねた髪をくしゃくしゃと掻き乱す。
近頃、どうもハルアキに避けられているような、そんな気を零はしていた。
先日も、彼よりも桜子を頼りにすると拗ねていた。
これまでの二年間、零とハルアキの二人でやってきたから、そこに桜子が入ったのが、そもそも気に入らないのは分かっている。
しかしそもそも、零はハルアキの血縁でもなければ、誰かに頼まれて預かっている訳でもない。
ひょんな事で出会い、それからハルアキが勝手に居座っているのだ。相手は子供――の見た目をしているため、追い出すのも憚られ、仕方なくここに置いているだけだ。
――ただ、ハルアキが普通の子供でない事は分かっていた。
今朝の事も、そんなこましゃくれた彼の癇に、何かが障ったのが原因かもしれないが……。
しかし、今はハルアキよりも気にせねばならない存在がある。
ここに来る途中、階段を上がった場所にある柱時計の針は、既に九時を大きく回っていた。
桜子が事務所で待っている筈だ。彼女まで機嫌を損ねていなければ良いのだが。
……と、事務所に戻った零は、果たして桜子の姿がある事を認めたのだが……。
サラリと風に靡く断髪から、後ろ向きに捻じるように生えた二本の角に、金色の飾りが付いている。
その禍々しい造形に、零は見覚えがあった。
――悪魔。
二年前、ハルアキがここに転がり込む原因となったモノ。
だが、その正体が掴めなかったために滅せられず、壺に封じて納戸の金庫に隠してあったのだ。
それがなぜ、封印を解かれて、桜子に憑依しているのか?
桜子の姿をした悪魔は、窓際に置かれた事務机にドカリと腰を置いて脚を組む。
そして困惑する零の表情を愉しむように口を動かした。
「ねえ、この体の人は、キミの何なのかしら? 恋人?」
「…………」
零は答えない。
悪魔は言葉を武器に人の心を操る。余計な言質を与えてはいけない。
彼女はそれが気に入らなかったのか、「ふーん」と口を尖らせると、鋭く尖った鋼鉄の色の爪を見せた。
「どうでもいい人なら、こうしても構わないのね」
悪魔の爪が、桜子の左手首を裂く。
湧き出した鮮血が肌を伝い、床にポトポトと滴り落ちる。
零は慌てた。
「待て!」
悪魔は山羊の目をスッと細め、満面の笑みを浮かべる。
「ようやく気付いたようね。――そう、キミはもう、ワタシには逆らえないの、絶対に」
事務所に戻った犬神零は愕然とした。
全開にされた窓からは涼やかな風が吹き込み、近くの神田明神からのものだろうか、桜の花弁が舞い込んでいる。
それを指先に取り、フッと吹いて飛ばしたのは、椎葉桜子……の姿をした、何者か。
耳の下で断髪にし、春らしい橙色のワンピースを着ている。足元は長靴下に革靴。
いつもの桜子そのままの姿である。
それを、絶対的に彼女でなくしているもの。
それは、額の上に生えた二本の角。
そして、山羊のように横長に収斂した瞳孔と、彼女らしからぬ険のある表情。
これは、まさか……!
零には心当たりがあった。
反射的に、扉を入ってすぐ左手の、応接の奥に目を向ける。
――そこにある扉が、開いていた。
入口の扉だけではない。納戸となっている小部屋の、雑多なものが置かれた棚の奥。
金属製の黒い金庫の扉もまた開いている。
「…………」
ゆっくりと視線を桜子に戻す。
彼女は悠然と桜吹雪を愉しみながら、口角をニッと上げた。
「――お久しぶりね、式神の形代クン」
◇
その日、犬神零は椎葉桜子と約束をしていた。
「浅草に活動写真を観に行く」と。
以前、居候のハルアキを桜子に預けた際、どうしても行きたいと駄々をこねたが、時間がなく諦めざるを得なかったため、その再挑戦に保護者として付き合え、との事だ。
とはいえ、たまにはそんな娯楽も悪くはない、と思っていたのだが、ハルアキがコッソリと零に耳打ちしたのが、今朝だったから零は焦った。
「……今日はな、あの女子の誕生日じゃ」
どうやら、桜子の下宿に泊まった際、本人から聞いたらしい。
「どうしてそれを早く教えてくださらなかったのですか?」
寝間着からシャツに着替えながら、ハルアキはニヤニヤと零を見た。
「そなたなら当然、知っているじゃろうと思うてな」
「知りませんよ!」
慌てて間借りしている洋館を飛び出すも、時は朝八時。気の利いたものを売る店が開いている時間ではない。
だが、約束の時間は九時なのだ。のんびりと構えている余裕はない。
……とはいえ。
「誕生日には、何をすれば良いのやら……」
祝うべき特別な日、程度の認識はあるものの、このご時世、未だ広く普及しているものではなかった。
明治に入って暦が変わり、西洋に合わせ太陽暦となったものの、年齢は数え年とする場合がほとんど。つまり、正月に国民全員が一斉に歳を取るのだ。
だから誕生日を祝う風習は、ごく稀ではあった。
……しかし、知ってしまった以上、何もせずにおくのは感じが悪い。
それに、敢えて誕生日という特別な日を、活動写真見物に選んだのには、何か意味があるのではないか。
零は散々頭を悩ませた挙句、ようやく開いた神田明神前の土産物屋で、桜を象った小さなブローチを買った。
そして慌てて洋館の自室に戻るも、ハルアキの姿はそこになかった。
代わりに、窓辺の文机に拙い「へのへのもへじ」の落書きが置かれていたのだ。
「…………」
そこで零はようやく気付いた――ハルアキは零を撒くために、嘘を吐いたのだ。
つまり、桜子と二人で浅草に行かせようとしている。
「……やれやれ……」
零は乱雑に束ねた髪をくしゃくしゃと掻き乱す。
近頃、どうもハルアキに避けられているような、そんな気を零はしていた。
先日も、彼よりも桜子を頼りにすると拗ねていた。
これまでの二年間、零とハルアキの二人でやってきたから、そこに桜子が入ったのが、そもそも気に入らないのは分かっている。
しかしそもそも、零はハルアキの血縁でもなければ、誰かに頼まれて預かっている訳でもない。
ひょんな事で出会い、それからハルアキが勝手に居座っているのだ。相手は子供――の見た目をしているため、追い出すのも憚られ、仕方なくここに置いているだけだ。
――ただ、ハルアキが普通の子供でない事は分かっていた。
今朝の事も、そんなこましゃくれた彼の癇に、何かが障ったのが原因かもしれないが……。
しかし、今はハルアキよりも気にせねばならない存在がある。
ここに来る途中、階段を上がった場所にある柱時計の針は、既に九時を大きく回っていた。
桜子が事務所で待っている筈だ。彼女まで機嫌を損ねていなければ良いのだが。
……と、事務所に戻った零は、果たして桜子の姿がある事を認めたのだが……。
サラリと風に靡く断髪から、後ろ向きに捻じるように生えた二本の角に、金色の飾りが付いている。
その禍々しい造形に、零は見覚えがあった。
――悪魔。
二年前、ハルアキがここに転がり込む原因となったモノ。
だが、その正体が掴めなかったために滅せられず、壺に封じて納戸の金庫に隠してあったのだ。
それがなぜ、封印を解かれて、桜子に憑依しているのか?
桜子の姿をした悪魔は、窓際に置かれた事務机にドカリと腰を置いて脚を組む。
そして困惑する零の表情を愉しむように口を動かした。
「ねえ、この体の人は、キミの何なのかしら? 恋人?」
「…………」
零は答えない。
悪魔は言葉を武器に人の心を操る。余計な言質を与えてはいけない。
彼女はそれが気に入らなかったのか、「ふーん」と口を尖らせると、鋭く尖った鋼鉄の色の爪を見せた。
「どうでもいい人なら、こうしても構わないのね」
悪魔の爪が、桜子の左手首を裂く。
湧き出した鮮血が肌を伝い、床にポトポトと滴り落ちる。
零は慌てた。
「待て!」
悪魔は山羊の目をスッと細め、満面の笑みを浮かべる。
「ようやく気付いたようね。――そう、キミはもう、ワタシには逆らえないの、絶対に」
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