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第参話──九十九ノ段

【廿肆】罪

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 ――翌日の午後。
 零は再び、高輪の篠山栴檀邸にいた。

 玄関を入ったところで、彼は大袈裟にポンと手を叩く。
「どうされましたか?」
 案内の小間使いの少年が不審な目を向けた。零は申し訳なさそうに頭を掻きながら答えた。
「列車に、手土産にと持参した饅頭を忘れてしまいました。いやはや、迂闊でした……」
 そう言いながら彼は困った顔を作った。
「もしかしたら、忘れ物として駅に届けられてるかもしれませんが、今から取りに行くと、栴檀先生をお待たせする事になってしまいます」
 すると、少年が答えた。
「私が取りに行きましょう。栴檀先生のおられる居間は、先日ご案内した通りですので」
「それは申し訳ない。お願いいたします」

 少年を見送る零の顔は、酷く無表情だった。

 誰もいない、庭に面した廊下を抜けた突き当たり。
 襖を開くと、長火鉢の傍らに篠山栴檀はいた。

 彼は正面の座布団に零を招き、のっぺりとした白い仮面を向けた。
「見てきたのか、鯉若を」
「……はい」
「何か言っていたかね?」
「愛されてみたかったと――あなたに」

 そして、帯に挟んだ簪を、畳の上に差し出した。
 共に死のうと彼に渡した、鼈甲の簪。それを見た栴檀の肩が小刻みに揺れた。笑っているつもりだろうか。

「何を言うか。私ほどあの女を愛した者はいない」
 仮面の眼窩から灰色の目が透ける。
「心の底から愛したさ。無限の欲情を満たすための男を、何人も差し出す程度に」

 零は答えない。その光のない目を覗き込むように、栴檀は続けた。
「だが、仕方がないだろう? ……実の姉だと知ってしまった以上、私はあの女と心中する訳にはいかなかった」

「彼女がお姉さんだと知ったのは、いつですか?」
「あの襖絵を完成させ、心中の約束をした、そのすぐ後だよ。私は師匠――篠山栴檀に呼ばれてね、聞いたのさ、あの女の素性を」
「…………」
「あの鬼畜、初めからそれを知って、私をあの女に紹介したのだ。私の才能を妬み、心を踏み潰そうと画策したのだよ。幸せな心中すらも許さないほど、残酷に。……殺す理由には足りるだろう?」

 零はじっと、白い仮面を見据える。
「そうやって、あなたは師匠殺しの動機を、お姉さんのせいにしようとしているのですね」
「どういう意味だ?」
「お姉さんには、復讐だと伝えておきました。私には彼女を、あれ以上傷付ける事ができなかった。しかし本当の理由は、あなたが一番ご存知のはずです。……その仮面が、何より物語っていますよ」

 栴檀の喉が動く。凍り付いた空気の中で、零の言葉が告げる。
「あなたは欲しかった――篠山栴檀という地位が」
「…………」
「調べました。明治十一年に起こった、篠山栴檀邸の火災の事を。焼け跡から見付かったのは、死因に性別、年齢も不明の遺体が一体。あなたの証言から、それが伊佐吉という名の弟子、という事になりましたね。――あなたは自ら顔を焼き、入れ替わったのです」

 庭で鶯がさえずる。その優美な音色でさえ、この部屋の空気を和らげるには至らない。

「顔を失ったから人に会わないようにしている、というのは方便です。声や動作から、あなたが別人であるとバレないようにするためです。……そして、お姉さんにあなたが生きていると、悟られないように」

 栴檀の呼吸が乱れる。長火鉢に寄りかかるの灰色の目はだが、烈火の色を浮かべて零を睨む。

「あなたは恐れていました。心中の約束を破り、ひとり死なせてしまった彼女が、あなたを恨んでいるだろうと。しかし、彼女が亡くなった竜睡楼、そして珊瑚の間からは、逃れる事ができなかった。襖絵の依頼が、再び篠山栴檀画伯に来たからです。断っては怪しまれる。そのため、あなたは一策を講じます――」

 ――吉原図の屏風。
 遊女である鯉若は、遊廓と外界を繋ぐ吉原大門を、通る事ができなかった。
 彼女の私室からは、この門がよく見えた。彼女は叶わぬ憧れとして、解けぬ足枷として、この門を眺めていた事だろう。
 その思いを知っていた栴檀――伊佐吉は、吉原大門の絵を珊瑚の間の傍に置く事で、彼女の怨念がそれ以上外に出られないようにしたのだ。
 ……そして、もうひとつ。
 二人の禿である。
 鯉若の足抜けが原因で命を落とした双子の少女。その悲劇を最も悔いたのは、鯉若に他ならない。
 伊佐吉はそれを知った上で、二人の禿の姿を屏風に描き込んだ。
 それは心理的にも、鯉若の足枷となった。

 ――本当の屏風絵は、吉原大門と禿二人。
 その絵の中で、鯉若は広告写真のように二人の間に立ち、九十九段を見下ろしていたのだろう。
 二人の禿の絵に宿ったのは、彼女の懺悔の思いか、はたまたそれが呼び寄せた幼い魂か、今となっては知る術はない――。

「あの屏風は、彼女の魂をあの場へ縛り付ける役割を果たしました。――そして、彼女の元へ、生贄を誘い込む入口としての役割も」
 零はひとつ息を吐き、鼈甲の簪に目を落とす。
「あなたは生贄を彼女に差し出したと言った。しかし彼女は、あなたを守るために、若い才能を消していたのです。……それも分かっていたのでしょう? 幼いあなたを絵の道に進めるために、彼女が身を売った時から。彼女は心から、あなたを愛していたのです。その愛を、あなたは利用した。違いますか?」

 栴檀の肩がガクリと揺れた。
 震える呻き声を漏らしながら、白い仮面が零を睨め付ける。

「……だから、どうだと言うのだ?」
「…………」
「私を罪に問えるのか? 篠山栴檀を殺してと入れ替わった? 証拠はあるのかね。画家の卵を怨霊に捧げた? そんな話を、警察が信じると思うかね? 私に何の罪がある? 言ってみたまえ」

 零は静かに口を動かした。
「罪には問えません。この世の罪には。――しかし、『あの方』に、それは通用しないのですよ」
 零の手が懐に入る。そして再び現れた時、その手には、漆黒の鞘が握られていた。

 彼は言った。
「太乙様は、妖の存在を許しません。――と同時に、妖を利用する人間の存在も、許しはしません」
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