41 / 82
第参話──九十九ノ段
【廿肆】罪
しおりを挟む
――翌日の午後。
零は再び、高輪の篠山栴檀邸にいた。
玄関を入ったところで、彼は大袈裟にポンと手を叩く。
「どうされましたか?」
案内の小間使いの少年が不審な目を向けた。零は申し訳なさそうに頭を掻きながら答えた。
「列車に、手土産にと持参した饅頭を忘れてしまいました。いやはや、迂闊でした……」
そう言いながら彼は困った顔を作った。
「もしかしたら、忘れ物として駅に届けられてるかもしれませんが、今から取りに行くと、栴檀先生をお待たせする事になってしまいます」
すると、少年が答えた。
「私が取りに行きましょう。栴檀先生のおられる居間は、先日ご案内した通りですので」
「それは申し訳ない。お願いいたします」
少年を見送る零の顔は、酷く無表情だった。
誰もいない、庭に面した廊下を抜けた突き当たり。
襖を開くと、長火鉢の傍らに篠山栴檀はいた。
彼は正面の座布団に零を招き、のっぺりとした白い仮面を向けた。
「見てきたのか、鯉若を」
「……はい」
「何か言っていたかね?」
「愛されてみたかったと――あなたに」
そして、帯に挟んだ簪を、畳の上に差し出した。
共に死のうと彼に渡した、鼈甲の簪。それを見た栴檀の肩が小刻みに揺れた。笑っているつもりだろうか。
「何を言うか。私ほどあの女を愛した者はいない」
仮面の眼窩から灰色の目が透ける。
「心の底から愛したさ。無限の欲情を満たすための男を、何人も差し出す程度に」
零は答えない。その光のない目を覗き込むように、栴檀は続けた。
「だが、仕方がないだろう? ……実の姉だと知ってしまった以上、私はあの女と心中する訳にはいかなかった」
「彼女がお姉さんだと知ったのは、いつですか?」
「あの襖絵を完成させ、心中の約束をした、そのすぐ後だよ。私は師匠――篠山栴檀に呼ばれてね、聞いたのさ、あの女の素性を」
「…………」
「あの鬼畜、初めからそれを知って、私をあの女に紹介したのだ。私の才能を妬み、心を踏み潰そうと画策したのだよ。幸せな心中すらも許さないほど、残酷に。……殺す理由には足りるだろう?」
零はじっと、白い仮面を見据える。
「そうやって、あなたは師匠殺しの動機を、お姉さんのせいにしようとしているのですね」
「どういう意味だ?」
「お姉さんには、復讐だと伝えておきました。私には彼女を、あれ以上傷付ける事ができなかった。しかし本当の理由は、あなたが一番ご存知のはずです。……その仮面が、何より物語っていますよ」
栴檀の喉が動く。凍り付いた空気の中で、零の言葉が告げる。
「あなたは欲しかった――篠山栴檀という地位が」
「…………」
「調べました。明治十一年に起こった、篠山栴檀邸の火災の事を。焼け跡から見付かったのは、死因に性別、年齢も不明の遺体が一体。あなたの証言から、それが伊佐吉という名の弟子、という事になりましたね。――あなたは自ら顔を焼き、入れ替わったのです」
庭で鶯がさえずる。その優美な音色でさえ、この部屋の空気を和らげるには至らない。
「顔を失ったから人に会わないようにしている、というのは方便です。声や動作から、あなたが別人であるとバレないようにするためです。……そして、お姉さんにあなたが生きていると、悟られないように」
栴檀の呼吸が乱れる。長火鉢に寄りかかるの灰色の目はだが、烈火の色を浮かべて零を睨む。
「あなたは恐れていました。心中の約束を破り、ひとり死なせてしまった彼女が、あなたを恨んでいるだろうと。しかし、彼女が亡くなった竜睡楼、そして珊瑚の間からは、逃れる事ができなかった。襖絵の依頼が、再び篠山栴檀画伯に来たからです。断っては怪しまれる。そのため、あなたは一策を講じます――」
――吉原図の屏風。
遊女である鯉若は、遊廓と外界を繋ぐ吉原大門を、通る事ができなかった。
彼女の私室からは、この門がよく見えた。彼女は叶わぬ憧れとして、解けぬ足枷として、この門を眺めていた事だろう。
その思いを知っていた栴檀――伊佐吉は、吉原大門の絵を珊瑚の間の傍に置く事で、彼女の怨念がそれ以上外に出られないようにしたのだ。
……そして、もうひとつ。
二人の禿である。
鯉若の足抜けが原因で命を落とした双子の少女。その悲劇を最も悔いたのは、鯉若に他ならない。
伊佐吉はそれを知った上で、二人の禿の姿を屏風に描き込んだ。
それは心理的にも、鯉若の足枷となった。
――本当の屏風絵は、吉原大門と禿二人。
その絵の中で、鯉若は広告写真のように二人の間に立ち、九十九段を見下ろしていたのだろう。
二人の禿の絵に宿ったのは、彼女の懺悔の思いか、はたまたそれが呼び寄せた幼い魂か、今となっては知る術はない――。
「あの屏風は、彼女の魂をあの場へ縛り付ける役割を果たしました。――そして、彼女の元へ、生贄を誘い込む入口としての役割も」
零はひとつ息を吐き、鼈甲の簪に目を落とす。
「あなたは生贄を彼女に差し出したと言った。しかし彼女は、あなたを守るために、若い才能を消していたのです。……それも分かっていたのでしょう? 幼いあなたを絵の道に進めるために、彼女が身を売った時から。彼女は心から、あなたを愛していたのです。その愛を、あなたは利用した。違いますか?」
栴檀の肩がガクリと揺れた。
震える呻き声を漏らしながら、白い仮面が零を睨め付ける。
「……だから、どうだと言うのだ?」
「…………」
「私を罪に問えるのか? 篠山栴檀を殺してと入れ替わった? 証拠はあるのかね。画家の卵を怨霊に捧げた? そんな話を、警察が信じると思うかね? 私に何の罪がある? 言ってみたまえ」
零は静かに口を動かした。
「罪には問えません。この世の罪には。――しかし、『あの方』に、それは通用しないのですよ」
零の手が懐に入る。そして再び現れた時、その手には、漆黒の鞘が握られていた。
彼は言った。
「太乙様は、妖の存在を許しません。――と同時に、妖を利用する人間の存在も、許しはしません」
零は再び、高輪の篠山栴檀邸にいた。
玄関を入ったところで、彼は大袈裟にポンと手を叩く。
「どうされましたか?」
案内の小間使いの少年が不審な目を向けた。零は申し訳なさそうに頭を掻きながら答えた。
「列車に、手土産にと持参した饅頭を忘れてしまいました。いやはや、迂闊でした……」
そう言いながら彼は困った顔を作った。
「もしかしたら、忘れ物として駅に届けられてるかもしれませんが、今から取りに行くと、栴檀先生をお待たせする事になってしまいます」
すると、少年が答えた。
「私が取りに行きましょう。栴檀先生のおられる居間は、先日ご案内した通りですので」
「それは申し訳ない。お願いいたします」
少年を見送る零の顔は、酷く無表情だった。
誰もいない、庭に面した廊下を抜けた突き当たり。
襖を開くと、長火鉢の傍らに篠山栴檀はいた。
彼は正面の座布団に零を招き、のっぺりとした白い仮面を向けた。
「見てきたのか、鯉若を」
「……はい」
「何か言っていたかね?」
「愛されてみたかったと――あなたに」
そして、帯に挟んだ簪を、畳の上に差し出した。
共に死のうと彼に渡した、鼈甲の簪。それを見た栴檀の肩が小刻みに揺れた。笑っているつもりだろうか。
「何を言うか。私ほどあの女を愛した者はいない」
仮面の眼窩から灰色の目が透ける。
「心の底から愛したさ。無限の欲情を満たすための男を、何人も差し出す程度に」
零は答えない。その光のない目を覗き込むように、栴檀は続けた。
「だが、仕方がないだろう? ……実の姉だと知ってしまった以上、私はあの女と心中する訳にはいかなかった」
「彼女がお姉さんだと知ったのは、いつですか?」
「あの襖絵を完成させ、心中の約束をした、そのすぐ後だよ。私は師匠――篠山栴檀に呼ばれてね、聞いたのさ、あの女の素性を」
「…………」
「あの鬼畜、初めからそれを知って、私をあの女に紹介したのだ。私の才能を妬み、心を踏み潰そうと画策したのだよ。幸せな心中すらも許さないほど、残酷に。……殺す理由には足りるだろう?」
零はじっと、白い仮面を見据える。
「そうやって、あなたは師匠殺しの動機を、お姉さんのせいにしようとしているのですね」
「どういう意味だ?」
「お姉さんには、復讐だと伝えておきました。私には彼女を、あれ以上傷付ける事ができなかった。しかし本当の理由は、あなたが一番ご存知のはずです。……その仮面が、何より物語っていますよ」
栴檀の喉が動く。凍り付いた空気の中で、零の言葉が告げる。
「あなたは欲しかった――篠山栴檀という地位が」
「…………」
「調べました。明治十一年に起こった、篠山栴檀邸の火災の事を。焼け跡から見付かったのは、死因に性別、年齢も不明の遺体が一体。あなたの証言から、それが伊佐吉という名の弟子、という事になりましたね。――あなたは自ら顔を焼き、入れ替わったのです」
庭で鶯がさえずる。その優美な音色でさえ、この部屋の空気を和らげるには至らない。
「顔を失ったから人に会わないようにしている、というのは方便です。声や動作から、あなたが別人であるとバレないようにするためです。……そして、お姉さんにあなたが生きていると、悟られないように」
栴檀の呼吸が乱れる。長火鉢に寄りかかるの灰色の目はだが、烈火の色を浮かべて零を睨む。
「あなたは恐れていました。心中の約束を破り、ひとり死なせてしまった彼女が、あなたを恨んでいるだろうと。しかし、彼女が亡くなった竜睡楼、そして珊瑚の間からは、逃れる事ができなかった。襖絵の依頼が、再び篠山栴檀画伯に来たからです。断っては怪しまれる。そのため、あなたは一策を講じます――」
――吉原図の屏風。
遊女である鯉若は、遊廓と外界を繋ぐ吉原大門を、通る事ができなかった。
彼女の私室からは、この門がよく見えた。彼女は叶わぬ憧れとして、解けぬ足枷として、この門を眺めていた事だろう。
その思いを知っていた栴檀――伊佐吉は、吉原大門の絵を珊瑚の間の傍に置く事で、彼女の怨念がそれ以上外に出られないようにしたのだ。
……そして、もうひとつ。
二人の禿である。
鯉若の足抜けが原因で命を落とした双子の少女。その悲劇を最も悔いたのは、鯉若に他ならない。
伊佐吉はそれを知った上で、二人の禿の姿を屏風に描き込んだ。
それは心理的にも、鯉若の足枷となった。
――本当の屏風絵は、吉原大門と禿二人。
その絵の中で、鯉若は広告写真のように二人の間に立ち、九十九段を見下ろしていたのだろう。
二人の禿の絵に宿ったのは、彼女の懺悔の思いか、はたまたそれが呼び寄せた幼い魂か、今となっては知る術はない――。
「あの屏風は、彼女の魂をあの場へ縛り付ける役割を果たしました。――そして、彼女の元へ、生贄を誘い込む入口としての役割も」
零はひとつ息を吐き、鼈甲の簪に目を落とす。
「あなたは生贄を彼女に差し出したと言った。しかし彼女は、あなたを守るために、若い才能を消していたのです。……それも分かっていたのでしょう? 幼いあなたを絵の道に進めるために、彼女が身を売った時から。彼女は心から、あなたを愛していたのです。その愛を、あなたは利用した。違いますか?」
栴檀の肩がガクリと揺れた。
震える呻き声を漏らしながら、白い仮面が零を睨め付ける。
「……だから、どうだと言うのだ?」
「…………」
「私を罪に問えるのか? 篠山栴檀を殺してと入れ替わった? 証拠はあるのかね。画家の卵を怨霊に捧げた? そんな話を、警察が信じると思うかね? 私に何の罪がある? 言ってみたまえ」
零は静かに口を動かした。
「罪には問えません。この世の罪には。――しかし、『あの方』に、それは通用しないのですよ」
零の手が懐に入る。そして再び現れた時、その手には、漆黒の鞘が握られていた。
彼は言った。
「太乙様は、妖の存在を許しません。――と同時に、妖を利用する人間の存在も、許しはしません」
0
お気に入りに追加
92
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。
だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。
全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。