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第参話──九十九ノ段

【廿参】靄ノ中

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 漆黒の鞘を手に、零は太乙の領域を漂っていた。

 ――初めからこうなると分かってはいたものの、鯉若の最期は、受け入れられるものではなかった。

 零の手には負えない。
 そう察した時点で、あの方――太乙を呼ばねばならないと、覚悟はしていた。それでも……。

 力のない目が漆黒の鞘に向く。

 ――陰の太刀。

 この短刀のもうひとつの役割が、彼の『体内』に太乙を召喚する、というものなのだ。
 彼の血を、依代として。

 太乙は、『太乙の領域』と呼ばれる異空間から出る事ができない。
 そのため、領域外へ出る際に必要となってくるのが、『器』としての彼の体なのだ。

 陽の鏡が通用せず、陰の太刀で敵わなかった場合の、最終手段。
 しかし、彼がそれをしたくない理由が、太乙の冷酷さだった。

 彼女の怒りを買うよりも、死ぬ方が遥かに楽だと、彼自身が最もよく知っていた。

 それと、もうひとつ。

 ――かつての零とは、今は違うのだ。

 それがいつだったのか、彼の記憶は曖昧だ。
 しかし、ひとつだけ覚えている。

 『妖』だと自認していた彼の認識を変えた言葉。

「人間はね、誰かに頼らないと生きていけないのよ」

 ……その言葉を発したの、無垢な笑顔。
 自らを『人間』と認識した瞬間だった。

 それは同時に、彼を苦しめる事にもなった。
 ――妖の多くは、元は人間だった存在である。
 彼らが妖と身を堕とすまでに、積み重ねられた『呪い』。人間として、それを無視する事ができなくなったのだ。

 そのため、彼は陰の太刀に制約を付けるよう願った。
 呪い――彼らを変容させた『悪意』のかたちを解き明かさねば、真の姿を現さぬように。

 これは太乙の怒りを買った。「貴様に心など必要ない」 と。

 しかし、彼の存在がなければまた、太乙としても不都合なのである。
 それを理由に彼は『契約』を改めた。この太刀の姿を決める権限は、太乙にしかないからだ。

 こうして九百七十年もの間、太乙の僕として生きてきた――いや、生かされてきた。
 死ねない体を持て余し、時に、自由を夢見ながら、千年の『罰』という契約の中で。

 心を持ったのは間違いだったのかもしれない。
 その疑問は常に彼の中にある。

 たとえ呪いを解き明かしたところで、妖の存在を、太乙は決して許さない。
 その悲しみを知ったところで、零には救う事ができない。
 それでもせめて、「呪い」から解き放ち、幸せな記憶の中で、その魂を消してやりたいのだ。

 だから零は、陰の太刀を振るう。

 だが太乙に容赦はない。
 『罪』に相応しい『罰』を与えるため、残酷極まる処断を下す。

 鯉若には、自ら逝って欲しかった。
 せめて、彼の手で決着を付けたかった。
 その機会はあった。それなのに……。

 思い通りにならない現実と体の狭間で、心は常に悲鳴を上げる。
 無力な彼の存在意義を、契約が終わるまでに見付けられるのだろうか……。

 首から提げた鏡が光る。

 この異空間は、太乙の胎内。
 召喚と同時に、彼女は鯉若の作り出した異空間を侵食したのだ。

 この空間での彼の役割は終わった。それが彼女の判断ならば、彼はそれに従わざるを得ない。

「…………」
 大きく息を吐き、蠢く靄を見上げる。
 太乙にとっては、事件は終わったかもしれない。
 だが彼にとっては、まだ終わっていない。
 まだ役目があるのだ――人間として。


 ◇

 鏡に靄が収縮し、戻った先は、異空間に取り込まれた場所。
 九十九段の突き当たり、珊瑚の間の襖の前だ。
 行灯に照らされた九十九段は、変わらず艶美な表情を見せていた。

 ……そこに転がる、ふたつの人影。

 零は若草色のワンピース姿の人物に足を向けると、屈んで肩を揺すった。
「桜子さん、風邪を引きますよ」
 途端に彼女はパチッと目を見開き……。

「キャアアアーッ!!」

 いきなり平手打ちを見舞うからたまらない。寸でのところで避けた零は、ひっくり返りざまにハルアキの手を踏み付けた。
「痛いッ!!」
 脛を強かに蹴られてその場に転がる。
 棘を込めた目をハルアキに向けて、零は恨み言を垂れた。
「こんなところに寝ていては、踏まれても仕方ありませんよ」
「黙れ! 無茶苦茶したのはどこのどいつじゃ!」
「それはお互い様でしょう」

「ちょっと!」
 桜子が甲高い声で遮った。
「そもそも、さっきまで私の下宿にいたのに、なんでまたここにいる訳? ……それに大変よ、あれを見て!」

 彼女の指す先に目を向けて、零とハルアキも声を上げた。
「これは……!」

 九十九段の突き当たりに置かれた屏風が、無惨に引き裂かれていた。
 まるで、巨大な甲虫にでも踏み付けられたかのように……。

「誰がやったのかしら。許せないわね」
 その言葉に、零とハルアキは顔を見合わせた。

「それはともかく……」
 次に桜子が顔を向けたのは、零である。腰に手を当てスタスタと歩いてくる勢いに、彼は身構えた。
「な、何か……」
 桜子はグッと顔を寄せ、口を尖らせる。
「――嘘吐き」
「…………」
「どれだけ人を心配させれば気が済むの? よく平気で出て来られたわね、この役立たず」
「す、すいません……」
「いい? よく覚えときなさい。――あなたはひとりじゃないのよ」
「…………」
「あなたがいなくなると、困る人がいるんだから。……勝手にいなくならないで」
 そう言って桜子は背を向けると、
「今月のお給料、まだ貰ってないもの」
 と付け加えた。

 それからハルアキに、
「行くわよ」
 と手招きするから、ハルアキはキョトンとした。
「どこに?」
「私の下宿に決まってるじゃない」
「なぜじゃ?」
「あんたを今晩一晩預かるって、大家さんに言っちゃったもの。結構覚えてるのよね、彼女」
「…………」
「それに、あんたの服、ビショ濡れじゃない。早くお風呂に入らなきゃ、風邪を引くわよ」
 桜子に手を引っ張られ、ハルアキは零に物言いたげな目を向けた。だが、零が、
「行ってらっしゃい」
 と見送ったものだから、
「おのれ! 許さぬ! 許さぬぞ!」
 と悪態をつきつつ、ハルアキは桜子に連れられ九十九段を下りていった。

 ――ひとり残された零は、足元にポツンと残された根付を拾い上げた。
 疲れ果てた様子で、小丸はピクリとも動かない。労うように頭を撫でて、彼はいつもの煙草入れにぶら下げた。

 そして彼には、もうひとつ、やらねばならぬ事が残っていた。

 珊瑚の間に足を向ける。
 蒼い襖絵が美しい座敷は、そのままの様子だった。
 ……ただ、畳に入ると、女郎蜘蛛が二匹、脚を折り畳んで死んでいた。
 それを横目に零が向かったのは、開かずの襖である。
 その引手に手を掛け、思い切り左右に開く。

 すると、先程は全く動かなかったそれが、多少建付けの悪さはあるものの、ガラッと動いた。
 その向こう側……。

 薄暗い空間に一歩踏み入れれば、カビ臭い淀んだ匂いが鼻を突く。零は袖で口元を押さえた。
 埃を靄のように透かした薄明かりに目が慣れると、巣を張る蜘蛛たちがざわざわと身を隠すのが見えた。
 一歩外に出れば雑木林。蜘蛛が住処としていても不思議はない。
 垂れ下がった蜘蛛の巣に紛れるように、かつては鮮やかであったろう、くすんだ七色の紗の布が、天井から垂れ下がっていた。
 それに目を向けた零の背筋に戦慄が走る。

 それらの布を眼孔に通され、朽ちた頭蓋骨がぶら下がっていた。
 その数、ざっと二十。
 この楼で姿を消した、画家の卵たちの成れの果て。
 それがようやく、日の目を見たのである。
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