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第参話──九十九ノ段
【廿弐】太乙
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――死を望んではおらぬであろうな。
ハルアキの言葉への返答を避けたのは、零の心に、否定できないものがあったからだ。
太乙の僕として妖と対峙するその苦悶の中で、常にそれを望んでいると言っても過言ではない。
――自由ならざる身。
彼もまた、鯉若と同じく、雁字搦めの宿命の中で足掻いている。
その苦悶を、死によって終わらせられるのならば、どれほど良いだろうか。
鯉若は、その苦悶を愛に逃げた。
弟への偏愛という愛情が、彼女の救いであった。
ならば彼にだって、救いのひとつくらい、あったって良いではないか。
――記憶にない罪への罰。
久遠に続くこの牢獄から、逃れるという希望。
ささやかで朧げな灯くらい、この心に宿しても構わないではないか。
蜘蛛の脚が動く。踏み付ける一撃を躱し、零は身構えた。
「……ですが、痛いのは嫌です。どうせ死ぬなら、楽な方法でお願いしたいです。それに、死ぬ時は、一緒の約束ですよ」
漆黒の鞘を構える。そこに収めされた短刀を抜き放てば、だがそれは、三尺を超える大太刀となって現れた。
――陰の太刀。
月を切り抜いた色に輝くその刀身に映る零の右目に、太陰太極図が浮き出る。
太乙の眷属としての証。
……この印がある限り、彼に、自由などないのだ。
束ねた髪が靡く。解け乱れたその色が白へと変化する。
自我を主に明け渡したその体が、階段を蹴って高く跳んだ。
投網のように絡む蜘蛛の糸を刃が斬り裂く。
解けた隙間を抜け、零であったモノは蜘蛛の頭上へ到達する。
着物をひらめかせ、一閃が凪ぐ。防ごうと構えた黒い脚が斬り落とされ、緑色の体液が舞い散った。
ガチガチガチガチ。
怒りに震える八つの目に、もはや花魁の面影はない。
すっかり蜘蛛に吸収され、本能のままに爪を突き出す。
それをひらりと躱した体が背後を狙う。黄色と黒の毒々しい縞模様に、刃が突き立てられた。
「――――!!」
悲鳴に似た空気の振動が耳を裂く。咄嗟に飛び退いたそこに、鞭のような糸が幾重にも通り過ぎる。
脇を滑る階段に身を置き、彼は大蜘蛛の様子を窺った。
……だが、斬り落とした傷跡から再び脚が生えるのを見て、再び階段を蹴った。
流れる階段を飛び移りながら閃く刃は、時に強靭な糸を、時に黒く鋭い爪を弾きながら、碧い空間を舞い踊る。
大蜘蛛の目はその素早い動きを睨み据え、煌々と光る。
交わされる殺気の応酬は、だが長くは続かなかった。
突如、階段の動きが変わった。
それは、籠を編むように複雑に組み上げられていく。零であったモノを、そこに封じる算段だろう。
そうはさせぬと、狭められた隙間から彼が飛び出す。――だがそれが、大蜘蛛の狙いだった。
その刹那、四方から蜘蛛の糸が飛んだ。
隙なく張られた、鋼のように強靭な鞭撃を避ける術は、彼にはなかった。
血飛沫が散る。
鮮やかな着物に包まれた体が分断する。
腕が飛び、胴が裂け、脚が切断される。
体から離れた陰の短刀を、大蜘蛛の頭から伸びた白い手が受け止めた。
その手に導かれるように、肩が、頭が、上半身が、黒い産毛から現れる。
「……残念だよ、一緒に死ねなくて」
柄を掴んだ腕ごと、月の色をした刃を持ち直すと、鯉若はその刃先で、空間に身を任せる頸を斬り落とした。
無表情な顔が血で染まる。
その瞳の中で、太極魚は行き場を惑い、闇に消えた。
――途端。
空間に何かが蠢いた。
階段の裏、彼方の影。
それは砂浜を洗う波のように、瞬く間に碧を消し去り、空間を満たした。
靄。
糸のような靄が渦を巻き、階段を圧し折り、呑み込んでいく。
「……何? 何なんだい?」
戸惑う鯉若の手の中で、零の腕が動いた。
ビクッと手を離し、見開いた目をそれに向ける。そして彼女は息を呑んだ。
――糸のような靄が、零の体と腕を繋いでいる。
断ち切らたはずの胴や脚、そして頸も同様だった。
それはするすると互いを結び付け、やがて何事もなかったかのように、ひとつの体に繋がった。
……しかし、元の姿ではない。
毛先が見えないほどに長く髪は伸び、空間を満たす靄と繋がっている。
鮮やかな着物の色は霞み、白地に裏黒の緩やかな衣装がその身を包んでいた。
「…………」
呼吸が震える。
その名は知らずとも、ただならぬ気配を、鯉若は感じていた。
それは、すっかり繋がった手の内にある陰の太刀の血を払うと、ゆっくりと顔を上げた。
双眸に光る、太陰対極図。
――太乙。
あの世とこの世の境界を護る番人。
言わば、この世に魂ある者全ての監視者である。
初雪のような濁りのない肌に、凍て付いた水底のように揺蕩う黒髪。その長い毛先は徐々に色を失い、空間に溶け込んでいる。
それは、この異空間自体が彼女そのものである事を示していた。
光も闇もない領域に君臨する孤高の存在。
その姿に抗える魂など、この世にはない。
彼女は色のない口を動かした。
「素直にあの世へ逝けば良かったものを」
「…………」
鯉若は声すら出ない。強烈な圧が、彼女の恐怖を支配していた。
そんな存在が、なぜ、ここに?
なぜ、なぜ、なぜ、なぜ……!
だが太乙は、彼女の混乱した意識になど興味がなかった。
徐に手を伸ばす。すると靄が寄り集まり、彼女の、大蜘蛛の体を雁字搦めに拘束した。
「い、嫌……」
恐怖に震える嘆願は、氷よりも遥かに冷たい声に打ち消された。
「ほう、この後に及んで未だ足掻くか」
靄――太乙の髪が、鯉若を締め付けた。軋む体に耐えかねて、鯉若は悲鳴を上げる。
それを見て、太乙は宣った。
「安心せい。楽には消さぬ」
髪の束が蜘蛛の脚を、一本、また一本と引き千切る。緑の体液は光の粒子と化し、空間に溶けていく。
「止めて……助けて……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
全ての脚をもがれた蜘蛛の体を、髪がぐいと締め上げた。産毛に包まれた腹はひび割れ、体液が噴き出す。
「嫌あああ!」
「そなたが喰うた者共も、そう申したか?」
涙に濡れ震える唇は反論できない。
太乙は続ける。
「これは罰じゃ。貴様の罪に見合う罰じゃ。受け入れよ」
縞模様の腹が弾け飛ぶ。凄まじい絶叫にも、太乙は表情ひとつ動かさない。
大蜘蛛の頭から、ぬるりと鯉若の体が抜け落ちた。
元の大きさに戻った彼女の下半身は、そこにはない。
腕で這いずり太乙の足元に平伏した鯉若は、消え入りそうな声で繰り返す。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
その体を白い髪が絡め取り、蓑虫のように、雁字搦めに吊り上げた。
辛うじて動く目だけを動かし、彼女は細い声を絞り出す。
「あたしは……どうやって……生きれば良かったのかな……」
太乙はじっと灰色の目を見返し、答えた。
「知らぬ」
飛沫となり、鯉若の体が飛び散った。
その欠片が空間に溶け、消え去ったのを見遣り、太乙は太刀を鞘に収めた。
ハルアキの言葉への返答を避けたのは、零の心に、否定できないものがあったからだ。
太乙の僕として妖と対峙するその苦悶の中で、常にそれを望んでいると言っても過言ではない。
――自由ならざる身。
彼もまた、鯉若と同じく、雁字搦めの宿命の中で足掻いている。
その苦悶を、死によって終わらせられるのならば、どれほど良いだろうか。
鯉若は、その苦悶を愛に逃げた。
弟への偏愛という愛情が、彼女の救いであった。
ならば彼にだって、救いのひとつくらい、あったって良いではないか。
――記憶にない罪への罰。
久遠に続くこの牢獄から、逃れるという希望。
ささやかで朧げな灯くらい、この心に宿しても構わないではないか。
蜘蛛の脚が動く。踏み付ける一撃を躱し、零は身構えた。
「……ですが、痛いのは嫌です。どうせ死ぬなら、楽な方法でお願いしたいです。それに、死ぬ時は、一緒の約束ですよ」
漆黒の鞘を構える。そこに収めされた短刀を抜き放てば、だがそれは、三尺を超える大太刀となって現れた。
――陰の太刀。
月を切り抜いた色に輝くその刀身に映る零の右目に、太陰太極図が浮き出る。
太乙の眷属としての証。
……この印がある限り、彼に、自由などないのだ。
束ねた髪が靡く。解け乱れたその色が白へと変化する。
自我を主に明け渡したその体が、階段を蹴って高く跳んだ。
投網のように絡む蜘蛛の糸を刃が斬り裂く。
解けた隙間を抜け、零であったモノは蜘蛛の頭上へ到達する。
着物をひらめかせ、一閃が凪ぐ。防ごうと構えた黒い脚が斬り落とされ、緑色の体液が舞い散った。
ガチガチガチガチ。
怒りに震える八つの目に、もはや花魁の面影はない。
すっかり蜘蛛に吸収され、本能のままに爪を突き出す。
それをひらりと躱した体が背後を狙う。黄色と黒の毒々しい縞模様に、刃が突き立てられた。
「――――!!」
悲鳴に似た空気の振動が耳を裂く。咄嗟に飛び退いたそこに、鞭のような糸が幾重にも通り過ぎる。
脇を滑る階段に身を置き、彼は大蜘蛛の様子を窺った。
……だが、斬り落とした傷跡から再び脚が生えるのを見て、再び階段を蹴った。
流れる階段を飛び移りながら閃く刃は、時に強靭な糸を、時に黒く鋭い爪を弾きながら、碧い空間を舞い踊る。
大蜘蛛の目はその素早い動きを睨み据え、煌々と光る。
交わされる殺気の応酬は、だが長くは続かなかった。
突如、階段の動きが変わった。
それは、籠を編むように複雑に組み上げられていく。零であったモノを、そこに封じる算段だろう。
そうはさせぬと、狭められた隙間から彼が飛び出す。――だがそれが、大蜘蛛の狙いだった。
その刹那、四方から蜘蛛の糸が飛んだ。
隙なく張られた、鋼のように強靭な鞭撃を避ける術は、彼にはなかった。
血飛沫が散る。
鮮やかな着物に包まれた体が分断する。
腕が飛び、胴が裂け、脚が切断される。
体から離れた陰の短刀を、大蜘蛛の頭から伸びた白い手が受け止めた。
その手に導かれるように、肩が、頭が、上半身が、黒い産毛から現れる。
「……残念だよ、一緒に死ねなくて」
柄を掴んだ腕ごと、月の色をした刃を持ち直すと、鯉若はその刃先で、空間に身を任せる頸を斬り落とした。
無表情な顔が血で染まる。
その瞳の中で、太極魚は行き場を惑い、闇に消えた。
――途端。
空間に何かが蠢いた。
階段の裏、彼方の影。
それは砂浜を洗う波のように、瞬く間に碧を消し去り、空間を満たした。
靄。
糸のような靄が渦を巻き、階段を圧し折り、呑み込んでいく。
「……何? 何なんだい?」
戸惑う鯉若の手の中で、零の腕が動いた。
ビクッと手を離し、見開いた目をそれに向ける。そして彼女は息を呑んだ。
――糸のような靄が、零の体と腕を繋いでいる。
断ち切らたはずの胴や脚、そして頸も同様だった。
それはするすると互いを結び付け、やがて何事もなかったかのように、ひとつの体に繋がった。
……しかし、元の姿ではない。
毛先が見えないほどに長く髪は伸び、空間を満たす靄と繋がっている。
鮮やかな着物の色は霞み、白地に裏黒の緩やかな衣装がその身を包んでいた。
「…………」
呼吸が震える。
その名は知らずとも、ただならぬ気配を、鯉若は感じていた。
それは、すっかり繋がった手の内にある陰の太刀の血を払うと、ゆっくりと顔を上げた。
双眸に光る、太陰対極図。
――太乙。
あの世とこの世の境界を護る番人。
言わば、この世に魂ある者全ての監視者である。
初雪のような濁りのない肌に、凍て付いた水底のように揺蕩う黒髪。その長い毛先は徐々に色を失い、空間に溶け込んでいる。
それは、この異空間自体が彼女そのものである事を示していた。
光も闇もない領域に君臨する孤高の存在。
その姿に抗える魂など、この世にはない。
彼女は色のない口を動かした。
「素直にあの世へ逝けば良かったものを」
「…………」
鯉若は声すら出ない。強烈な圧が、彼女の恐怖を支配していた。
そんな存在が、なぜ、ここに?
なぜ、なぜ、なぜ、なぜ……!
だが太乙は、彼女の混乱した意識になど興味がなかった。
徐に手を伸ばす。すると靄が寄り集まり、彼女の、大蜘蛛の体を雁字搦めに拘束した。
「い、嫌……」
恐怖に震える嘆願は、氷よりも遥かに冷たい声に打ち消された。
「ほう、この後に及んで未だ足掻くか」
靄――太乙の髪が、鯉若を締め付けた。軋む体に耐えかねて、鯉若は悲鳴を上げる。
それを見て、太乙は宣った。
「安心せい。楽には消さぬ」
髪の束が蜘蛛の脚を、一本、また一本と引き千切る。緑の体液は光の粒子と化し、空間に溶けていく。
「止めて……助けて……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
全ての脚をもがれた蜘蛛の体を、髪がぐいと締め上げた。産毛に包まれた腹はひび割れ、体液が噴き出す。
「嫌あああ!」
「そなたが喰うた者共も、そう申したか?」
涙に濡れ震える唇は反論できない。
太乙は続ける。
「これは罰じゃ。貴様の罪に見合う罰じゃ。受け入れよ」
縞模様の腹が弾け飛ぶ。凄まじい絶叫にも、太乙は表情ひとつ動かさない。
大蜘蛛の頭から、ぬるりと鯉若の体が抜け落ちた。
元の大きさに戻った彼女の下半身は、そこにはない。
腕で這いずり太乙の足元に平伏した鯉若は、消え入りそうな声で繰り返す。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
その体を白い髪が絡め取り、蓑虫のように、雁字搦めに吊り上げた。
辛うじて動く目だけを動かし、彼女は細い声を絞り出す。
「あたしは……どうやって……生きれば良かったのかな……」
太乙はじっと灰色の目を見返し、答えた。
「知らぬ」
飛沫となり、鯉若の体が飛び散った。
その欠片が空間に溶け、消え去ったのを見遣り、太乙は太刀を鞘に収めた。
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