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第参話──九十九ノ段

【拾玖】再会

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「――ぶはっ!」
 水面から顔を出した途端、足が水底に付かないのに気付き、ハルアキは焦った。……そう言えば、泳げないのだ。
「うぷっ」
 助けてくれ、の言葉すら出ない。いや、助けを呼んだところで、こんなところに誰かがいる訳がない。

 ……と思ったのだが。
 視線を感じて必死でそちらに目を向けると、チョコンと座る姿があった。
 ――犬。
 いや、狼か。
 フサフサとした純白の毛皮に、焔の模様が浮き出ている。そして口に短刀を咥えていた。
 その姿に、ハルアキは見覚えがあった。

「小丸!」

 叫ぼうとして水を飲む。濁った水を吐き出そうと藻掻けば余計に口に水が入る。
「助け……ゴボッ……!!」
 その様子に反応し、小丸は立ち上がった。地面に短刀を置くと、迷いなく水に飛び込む。
 そしてハルアキに背を貸し、近くの跳ね橋まで運ぶと、柱にしがみ付く彼を鼻先で押して上がらせた。

「……し、死ぬところじゃった……」
 何度も咳をしてやっと呼吸が落ち着いた頃、小丸は短刀を回収してハルアキのところへ戻ってきた。
 ブルブルッと濡れた体を震わせて、再びチョコンとハルアキの前に座れば、ごく普通の犬に見える。

 ――だが此奴こやつは、犬神なのだ。

 零の相棒。普段は髑髏の形の根付に封じて、煙草入れにぶら下げている。
 そんな小丸が、なぜひとりで歩いているのか?

 ……そしてなぜ、その短刀を咥えている?

 零が肌身離さず持ち歩いている、漆黒の鞘に収めらた短刀。
 それを小丸が抜き身のまま持っているとは、尋常な沙汰とは思えない。
「彼奴に何があったのじゃ? 答えよ」
 だがそう聞いたところで、相手は獣。小丸は首を傾げるばかりだ。

 ……そもそも、ハルアキは普段、犬神を蔑んでいる。
 彼――安倍晴明からすれば、式神の一種とはいえ、獣の霊などという下等な鬼神など、論ずるに値しない存在なのだ。
 しかし、そんな存在に命を助けられ、尚且つ今、そんな存在に頼ろうとしているのである。

「…………」
 ご機嫌でも取るべきだろうか。
 ハルアキは恐る恐る小丸の頭に手を伸ばした。
「そなたの主を共に助けに行こうぞ」
 モフモフとした毛を撫でてやれば、小丸は目を細めてそれを受け入れた。

 小丸の頼もしさは、零の相棒としての彼の働きを見てよく知っている。
 零と共に異空間に取り込まれた小丸の存在がある時点で、ここは、鯉若の作り出した異世界の内部である事は間違いない。そのような心許ない場所であれば余計に、仲間がいるというのは頼もしいものだ。

 ところが。
 小丸は撫でられながら臥せると、
「クーン」
 と一声を残し、光の塊と化した。
 そしてハルアキの手の中に、髑髏の根付として収まったのである。

「……お、おい……!」
 掌でコロンと根付を転がし、ハルアキは焦った。
 ――少なくとも、今のハルアキよりは頼りになる存在だったのに。

 ハルアキの扱う式神と犬神の差は、依代が必要か否か、というところである。
 式神は、呪念を封じた式札を依代に鬼神を降ろすもの。そのため式神の強さは、依代と術者の力量に左右される。
 だが犬神は、元々「犬」という存在が鬼神に変化したもの。依代は必要なく、「犬」としての強さがそのまま犬神の強さとなる。
 力を使い果たしたハルアキに、今は強い式神は使えない。片や、小丸の元は狼。ただでさえ戦闘力は高い。

「……如何すれば良い?」
 ハルアキは根付をポケットに納めて途方に暮れた。
 そもそも、無策にこの異空間にやって来たのが間違いなのだ。
 ……更に言うなら、無策にこの異空間に取り込まれたナナシの方が大概である。
 とはいえ、何とかしなければならない。

 ハルアキは立ち上がろうとして、地面に光るものに目を止めた。
 ――短刀。
 その鈍い銀色に、彼はハッとした。

 状況から察するに、この短刀を鬼に奪われぬよう、零が小丸に預けたのだろう。
 小丸はその任を果たし、ハルアキにこの短刀を預けたところで力尽き、根付に戻ってしまった。

 ――とすれば、短刀を零に返し、そして鬼の正体を伝えるのが、ハルアキに課せられた役割だ。
 短刀を小丸に預けなければならない程の状況という事は、恐らく零は、相当な窮地に立たされていたのだろう。
 覚悟して掛からねばならない。

 ハルアキは短刀を拾い上げ、立ち上がった。
 そして溝沿いに、吉原大門へと駆け出した。

 ……春とはいえ、夜は冷える。
 いや、異空間に季節はあるのか知らないが、冷えるものは冷える。
 それに、濡れたベストに濡れたシャツ、濡れたニッカポッカと裸足という格好。
 早く終わらせなければ、風邪を引きそうだ。

 大門の前に来た時、ハルアキは声を上げた。
「何じゃ……これは……!」
 浅草へ向かう田んぼ道はそこになく、碧い空間に階段が蛇のように蠢いているのだから、驚くのも無理はない。

 一方、大門の奥は、吉原の風景――九十九段の屏風絵そのままの姿が広がっていた。
 通りの脇の妓楼の二階。
 屏風絵と同じように、提灯が下がったそこの窓だけ、ぼんやりと明かりが灯っていた。

 ……と、ハルアキは躊躇した。
 勢い込んで踏み込むはいいが、また濡れ場の真っ最中はたまらない。
 それに、手下の小蜘蛛が邪魔してこないとも限らない。どうしたものか……。

 その時、また髪が引っ張られた。
 水に飛び込んで失神していた甲虫が、提灯の明かりに反応したのだ。
 頭の上でバタバタと翅を羽ばたかせるからたまらない。
「これ、止めい! 痛ッ!」
 何とか引き外すと、絡んだ髪の毛が何本か抜けた。
「全く、世話の焼ける奴じゃ!」
 脚に絡まる毛を取ってやりながら、ハルアキはふと思った。

 ――攻撃をする式神は使えぬが、術を掛けるものなら使える。
 ハルアキはポケットから式札を取り出した。
 ……ところがそれは、濡れて全てひとつに貼り付いていた。下手に剥がそうとすれば破れるだろう。
 少し考えた後、ハルアキは心を決めた。
「なるようになる、じゃ!」
 そして式札の束を、手の中で藻掻く甲虫の背に当てた。
「――勾陳こうちん!」
 すると、式札が黄金に燃え――金色の蛇に変化した。

 ――式神・勾陳。
 十二天将の一。
 中央に座し、全ての式神を守護する存在。

 ……とは言うものの、勾陳自体にはこれといった能力がない。見た目も、ミミズと間違えそうなほど小さな金色の蛇である。
 だがそれのもたらす効果は、十二天将随一と言える。

 勾陳の細長い体が甲虫に巻き付く。
 すると甲虫は金色の光を放ち、みるみる大きさを増していく。

 ――つまり、勾陳の能力とは、対象の能力を際限なく高めるもの。

 以前、彼の居候する洋館が賊に襲われた際、靴べらを薙刀に変化させたのは太裳だが、その能力を異常に高めたのは、この勾陳である。
 ただし、その能力の対象には制約がある。
 式神自体の能力を上げる事は不可能だ。可能なのは、式神が起こした現象の強化。

 太裳によって変化を受けた桜子は、その対象なのだ。

 甲虫はハルアキの手を離れ、六本の脚を地面で踏ん張ると、巨大な象ほどの大きさになって光を消した。
 それを見上げるハルアキの顔が引き攣る。――まるきり装甲車だ。さすがに式札の重ね使いはやり過ぎたかも知れぬ。こんなものに踏み潰されたらひとたまりもない。

 ハルアキは大槍のような角に飛び付き、背へとよじ登る。
 そして、頭の上の短い角に跨ると、妓楼に腕を伸ばし、短刀の切先を向けた。

「突撃じゃあああ!!」
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