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第参話──九十九ノ段
【拾肆】行先
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「……うわっ!!」
背中からドスンと落ちて、ハルアキは悲鳴を上げた。……この式神の、術者扱いの乱雑さも、彼は苦手なのだ。
「キャッ!」
同時に桜子も落ちる。
「何? 何が起こったの?」
彼女は腰を擦りながら身を起こし、素っ頓狂な声を上げた。
「嫌だ、ここ私の部屋じゃない」
そこ言葉に、ハルアキは周囲を見渡した。
四畳半の部屋、小さな卓袱台、安物の戸棚、壁際に畳まれた煎餅布団。
生活感溢れる空間である。……ただ、女の部屋というには少々侘しい。
だが今は、そんな事はどうでもいい。
天空の術は成功した。――と同時に、桜子の祈念は的外れであったのだ。
ハルアキは立ち上がると、桜子を怒鳴りつけた。
「たわけ! そなた、早く家に帰りたいと願ったであろう!」
「は? 私はちゃんと、花魁の事を知ってる人がいる場所に行くようにって念じたわ!」
「ならなぜそなたの部屋に来たのじゃ!」
「知らないわよ! そもそも、なんでさっきまで料亭にいたのに、私の部屋にいるのよ!」
桜子も立ち上がる。そして腰に手を当て、ハルアキを睨み下ろす。
「――それに、この下宿、男子禁制なの。摘まみ出されるのと叩き出されるのと、どっちがいい?」
ヒイッ、と、ハルアキは一歩退がった。子供の身。腕力では桜子に勝てる気がしない。
「とにかく……」
桜子は部屋の中央に卓袱台を持ってくると、ハルアキに座布団を渡した。
「説明は後でいいわ。――これからどうすべきか、考えましょ」
卓袱台越しにハルアキと桜子は向き合った。
桜子は卓袱台に肘を置いて両手を組み、そこに顎を乗せてハルアキをじっと見つめる。
「――つまり、珊瑚の間で鯉若って花魁が亡くなってて、それが九十九段の怨霊になってる、って言いたいのね」
「そういう事じゃ」
手持ち無沙汰に癖のある毛先をくるくると弄りながら、ハルアキは答えた。
「それを、屏風の中に閉じ込められてる、あの人に伝えればいいのね」
「いや、まだ情報が足りぬ」
ハルアキは硝子窓越しに遠く見える街の明かりに目を遣った。
「なぜその花魁は死んだのか。何を呪いとしているのか。そこが分からねば、あの刀は抜けぬじゃろう」
桜子はうーんと唸って天井を睨んだ。
「今から竜睡楼に戻って、女将さんに問い質すよりは、吉原に直接行った方が早いわね」
言われてハルアキはハッと顔を上げた。
――桜子の住まいであるここ浅草は、新吉原の目と鼻の先だ。
彼女が念じた行先は、あながち間違ってはいなかったのだ。
「そうとなれば、もたもたしていられないわ。行きましょ、吉原に」
桜子は立ち上がり、そそくさと扉に向かう。
しかしハルアキは、事がそう容易いとは思えなかった。
――珊瑚の間の襖絵が描き替えられた理由。それは、鯉若の死であろう。
あの無惨な血飛沫を消すためには、襖ごと取り替える必要があったからだ。
となると、それは恐らく、明治十一年の事。大正十年である今から四十三年前の出来事である。
吉原のような遊廓にいるのは、若い女がほとんど。
四十三年も昔の出来事を知っている者など、いるとは思えない。
「早く行くわよ!」
だが桜子は、そんなハルアキの様子に苛立った声を上げた。
……ここは彼女に逆らわない方が良いだろう。ハルアキは思った。
それに、論理的であろうがなかろうが、じっとしていられない気持ちは、分からぬではない。
扉を抜けると、薄暗い廊下。並ぶ扉が向き合った狭い空間を、裸電球が心許なく照らしている。
その突き当たりの階段を下りた先に玄関がある。
壁に造り付けられた下駄箱に目を向けて、桜子は声を上げた。
「靴が竜睡楼に預けっぱなしになってるわ!」
それはハルアキも同じだ――いや、事務所から変化してついて来たから、元々裸足である。
「困ったわ。あれ一足しか、履物を持ってないのよ」
「裸足で良いではないか」
「ガキンチョと一緒にしないで」
すると、階段横の扉が開いた。
そこから顔を出したのは、大家のシゲ乃である。
「おや、いつの間に帰って来てたのかい?」
桜子は慌ててペコリと頭を下げた。
「は、はい。ついさっき帰って来て……」
そして上目遣いにシゲ乃を見る。
「あの、ちょっと出掛けたいんですけど、靴が壊れてしまって」
「おやまぁ。それは困ったね」
シゲ乃は金歯を見せてニヤリとすると、彼女を手招きした。
「アタシのお古で良ければ使っとくれ。探してくるから、部屋でお待ち」
桜子に続き、ハルアキもシゲ乃の部屋に入る。
恐る恐る室内を見渡していると、奥から声がした。
「その男の子は、初めて見る顔じゃないか」
「あ! す、すいません! 男子禁制なのに……」
桜子は謝るが、シゲ乃はハハハと笑い声を返した。
「何、うちの下宿には水商売の入居者が多いだろ? 勘違いして、自宅まで来たがる男がよくいるんだよ。それを断りやすくするように、って建前さ。子供なんか構やしないよ」
桜子は恐縮しながら、大きな卓袱台の前に座った。
「勤め先の居候の子です。今日はあの人、用事で出かけてるので、一晩預かる事になって」
「そうかいそうかい」
シゲ乃の部屋は、大家だけあり、他とは違う造りになっている。
四畳半二間が通しになっており、手前が居間、奥が寝室になっているのだろう。
シゲ乃は寝室で探し物をしているようだ。
ハルアキは桜子のように腰を落ち着ける気になれず、キョロキョロと居間の内装を眺め回した。
壁に味わい深い箪笥類が並び、その上に人形が飾られている。
窓際には火鉢と小引き出し。
寝室とを隔てる鴨居に柱時計が掛けられ、その横に暦と、写真の額がぶら下がっていた。
その写真が目に入った時、ハルアキの心臓がドクンと脈を打った。
――吉原大門。弁財天の見下ろす先に、花魁が禿を二人引き連れて佇んでいる。
ハルアキは声を上げた。
「おい! あれ!」
「どうしたのよ急に」
訝し気な視線を送った桜子も、その写真を見ると息を呑んだ。
「……九十九段の突き当たりの、屏風……!」
「どうかしたのかい?」
シゲ乃が下駄を手に顔を出す。そして二人の視線の先を見て、こう言った。
「あぁ。昔アタシが世話をしてた、鯉若ちゃんだよ」
背中からドスンと落ちて、ハルアキは悲鳴を上げた。……この式神の、術者扱いの乱雑さも、彼は苦手なのだ。
「キャッ!」
同時に桜子も落ちる。
「何? 何が起こったの?」
彼女は腰を擦りながら身を起こし、素っ頓狂な声を上げた。
「嫌だ、ここ私の部屋じゃない」
そこ言葉に、ハルアキは周囲を見渡した。
四畳半の部屋、小さな卓袱台、安物の戸棚、壁際に畳まれた煎餅布団。
生活感溢れる空間である。……ただ、女の部屋というには少々侘しい。
だが今は、そんな事はどうでもいい。
天空の術は成功した。――と同時に、桜子の祈念は的外れであったのだ。
ハルアキは立ち上がると、桜子を怒鳴りつけた。
「たわけ! そなた、早く家に帰りたいと願ったであろう!」
「は? 私はちゃんと、花魁の事を知ってる人がいる場所に行くようにって念じたわ!」
「ならなぜそなたの部屋に来たのじゃ!」
「知らないわよ! そもそも、なんでさっきまで料亭にいたのに、私の部屋にいるのよ!」
桜子も立ち上がる。そして腰に手を当て、ハルアキを睨み下ろす。
「――それに、この下宿、男子禁制なの。摘まみ出されるのと叩き出されるのと、どっちがいい?」
ヒイッ、と、ハルアキは一歩退がった。子供の身。腕力では桜子に勝てる気がしない。
「とにかく……」
桜子は部屋の中央に卓袱台を持ってくると、ハルアキに座布団を渡した。
「説明は後でいいわ。――これからどうすべきか、考えましょ」
卓袱台越しにハルアキと桜子は向き合った。
桜子は卓袱台に肘を置いて両手を組み、そこに顎を乗せてハルアキをじっと見つめる。
「――つまり、珊瑚の間で鯉若って花魁が亡くなってて、それが九十九段の怨霊になってる、って言いたいのね」
「そういう事じゃ」
手持ち無沙汰に癖のある毛先をくるくると弄りながら、ハルアキは答えた。
「それを、屏風の中に閉じ込められてる、あの人に伝えればいいのね」
「いや、まだ情報が足りぬ」
ハルアキは硝子窓越しに遠く見える街の明かりに目を遣った。
「なぜその花魁は死んだのか。何を呪いとしているのか。そこが分からねば、あの刀は抜けぬじゃろう」
桜子はうーんと唸って天井を睨んだ。
「今から竜睡楼に戻って、女将さんに問い質すよりは、吉原に直接行った方が早いわね」
言われてハルアキはハッと顔を上げた。
――桜子の住まいであるここ浅草は、新吉原の目と鼻の先だ。
彼女が念じた行先は、あながち間違ってはいなかったのだ。
「そうとなれば、もたもたしていられないわ。行きましょ、吉原に」
桜子は立ち上がり、そそくさと扉に向かう。
しかしハルアキは、事がそう容易いとは思えなかった。
――珊瑚の間の襖絵が描き替えられた理由。それは、鯉若の死であろう。
あの無惨な血飛沫を消すためには、襖ごと取り替える必要があったからだ。
となると、それは恐らく、明治十一年の事。大正十年である今から四十三年前の出来事である。
吉原のような遊廓にいるのは、若い女がほとんど。
四十三年も昔の出来事を知っている者など、いるとは思えない。
「早く行くわよ!」
だが桜子は、そんなハルアキの様子に苛立った声を上げた。
……ここは彼女に逆らわない方が良いだろう。ハルアキは思った。
それに、論理的であろうがなかろうが、じっとしていられない気持ちは、分からぬではない。
扉を抜けると、薄暗い廊下。並ぶ扉が向き合った狭い空間を、裸電球が心許なく照らしている。
その突き当たりの階段を下りた先に玄関がある。
壁に造り付けられた下駄箱に目を向けて、桜子は声を上げた。
「靴が竜睡楼に預けっぱなしになってるわ!」
それはハルアキも同じだ――いや、事務所から変化してついて来たから、元々裸足である。
「困ったわ。あれ一足しか、履物を持ってないのよ」
「裸足で良いではないか」
「ガキンチョと一緒にしないで」
すると、階段横の扉が開いた。
そこから顔を出したのは、大家のシゲ乃である。
「おや、いつの間に帰って来てたのかい?」
桜子は慌ててペコリと頭を下げた。
「は、はい。ついさっき帰って来て……」
そして上目遣いにシゲ乃を見る。
「あの、ちょっと出掛けたいんですけど、靴が壊れてしまって」
「おやまぁ。それは困ったね」
シゲ乃は金歯を見せてニヤリとすると、彼女を手招きした。
「アタシのお古で良ければ使っとくれ。探してくるから、部屋でお待ち」
桜子に続き、ハルアキもシゲ乃の部屋に入る。
恐る恐る室内を見渡していると、奥から声がした。
「その男の子は、初めて見る顔じゃないか」
「あ! す、すいません! 男子禁制なのに……」
桜子は謝るが、シゲ乃はハハハと笑い声を返した。
「何、うちの下宿には水商売の入居者が多いだろ? 勘違いして、自宅まで来たがる男がよくいるんだよ。それを断りやすくするように、って建前さ。子供なんか構やしないよ」
桜子は恐縮しながら、大きな卓袱台の前に座った。
「勤め先の居候の子です。今日はあの人、用事で出かけてるので、一晩預かる事になって」
「そうかいそうかい」
シゲ乃の部屋は、大家だけあり、他とは違う造りになっている。
四畳半二間が通しになっており、手前が居間、奥が寝室になっているのだろう。
シゲ乃は寝室で探し物をしているようだ。
ハルアキは桜子のように腰を落ち着ける気になれず、キョロキョロと居間の内装を眺め回した。
壁に味わい深い箪笥類が並び、その上に人形が飾られている。
窓際には火鉢と小引き出し。
寝室とを隔てる鴨居に柱時計が掛けられ、その横に暦と、写真の額がぶら下がっていた。
その写真が目に入った時、ハルアキの心臓がドクンと脈を打った。
――吉原大門。弁財天の見下ろす先に、花魁が禿を二人引き連れて佇んでいる。
ハルアキは声を上げた。
「おい! あれ!」
「どうしたのよ急に」
訝し気な視線を送った桜子も、その写真を見ると息を呑んだ。
「……九十九段の突き当たりの、屏風……!」
「どうかしたのかい?」
シゲ乃が下駄を手に顔を出す。そして二人の視線の先を見て、こう言った。
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