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第参話──九十九ノ段

【伍】栴檀

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 ――その翌日。

 机で本を眺めていた零は、息せき切って事務所に飛び込んできた桜子に目を丸くした。……思ったより仕事が早いではないか。
「どうしたん……」
「どうしたもこうしたもないわよ! ……これを見て」

 彼女は机に掌ほどの厚紙を置いた。絵葉書のようだ。
 日本画のようなものを写した写真が、そこには印刷されている。……そして、写真の右下に小さく書かれた脚注。
「……これは、竜睡楼を撮った絵葉書ですか。珊瑚さんごの間、とありますね」
「そこじゃないわ。その下。よく見て」
 零は目を細め、そしてゆっくりとそれを読み上げた。

「――篠山栴檀画、と」

「そうなのよ! 鱒三さんをけなした画伯が、あの料亭の内装に関わってるのよ!」
 零は椅子に背を預け、大きく息を吐いた。
「実は昨日、私はあれから、お榮さんから聞いた、鱒三さんと竜睡楼で同席したという画家の方に、お会いしてきましてね……」


 ◇


 その画家は、名を双葉豊月ふたば ほうげつと名乗った。
 彼は貧相な顔立ちを丸眼鏡と口髭で誤魔化した、四十半ばの小男である。

「栴檀先生は天才です。とても私のような凡才が、追い付ける域ではないです」
 ――栴檀は双葉より芳し。彼は呵呵かかと笑った。
「その諺から、私の雅号を取りました。――栴檀先生の弟子になり、もう三十年になりますが、先生に良くして頂いて、何とかひとり立ちできるまでになりました」

 縁側に座る零に、細君が茶を差し出す。会釈してそれを受け取ると、零は庭の梅の木にとまる鶯を見上げた。

「栴檀画伯は定期的に、竜睡楼へお弟子さんを呼ばれるそうですね」
「えぇ。あそこの『珊瑚の間』の襖絵は、先生が若い頃に描かれたんです。……いやあ、それは素晴らしい作品ですよ。最高傑作と言っても過言ではない」
「私も画伯の作品に心酔しておりまして。画集は一通り揃えました。しかし、襖絵というのは見た事がありません」
 豊月はハハハと、飛び去る鶯を目で追った。
「あの作品は、先生が特に思い入れが深いようで、心を許した特別な者にしか見せないのです」

 そこで零は眉を顰めた。
「しかし、料亭ですよね? 大勢のお客に見られるのでは?」

 すると彼は、ビクッと肩を震わせ目を逸らした。
「そ、それは……」
「その襖絵のある座敷は、栴檀画伯専用のお部屋なのですか?」

 豊月という男は、嘘や誤魔化しが苦手と見える。零は近くに細君の姿がない事を確かめてから、目を泳がせる彼に顔を寄せた。
「知っていたのでしょう? あの部屋に、何の為に呼ばれているのか」
「…………」
「若い才能が画伯によって潰されるのを、あなたはじめ、弟子の画家たちは眺めていた。……いや、生贄を差し出していたのです」

 豊月の額に冷や汗が滲む。さらに追い詰めるように、零は声を低くした。
「あなたは、ご自分が仰られたように凡才だ。だから、画壇で生き残るには、自分より優れた才能があってはならなかった――栴檀画伯の他に。そのため、若い才能を誘っては、師匠に差し出した。彼らがその後、全員姿をくらましていると知りながら」

「仕方がなかったんだ!」
 顔色を蒼白にした豊月は叫んだ。
「そうしなければ、仕事が貰えないからな! ……そうだ、私は凡才だ。どう足掻いても日の目を見る事はないんだよ。しかし、家族を養わなくちゃならない。だから、仕方なく……」
 豊月は縁側に顔を伏せ、頭を抱える。
「あの方は、自分より才能のある者を許さない。あの方が世話をするのは、絵の才能がなく、自分の思い通りになる者ばかりだ。……だが、才能がないからこそ、私はこれまで生き延びられたんだ。それの何が悪い?」

 零は打ち震える背中を無表情に見下ろした。
「ならば、その言葉をそのまま、奥様とご子息にお伝えします」
 すると豊月はガバッと起き上がった。
「やめてくれ……それだけは……それだけは……!」
 袖に縋り付く豊月に、零は哀れんだ目を落とす。
「ならば、後の事は、私にお任せ願えますか? ……ですがあなたに、ひとつだけ、やって頂きたい事があります」

 零は膝を折り、血走る彼の目を見据えた。
「私を画伯にご紹介ください。画伯の作品の蒐集家と言って」


 ◇


「……なーんだ。知ってたの」
 桜子は口を尖らせた。
「急いで来て損しちゃった」

「そんな事はありませんよ。――他にも、絵葉書をお持ちですね」
「そうそう。見る?」
 勿体ぶった様子で、桜子は机に絵葉書を並べる。
「竜睡楼は、外国人向けの接待に使われてるだけあって、座敷を絵葉書にして売ってた時期があるみたい。たまたま入った古本屋に置いてあってね、助かったわ」

 零はそれらを眺めながら、右下の脚注を読み上げる。
こがねしらがね瑠璃るり玻璃はり硨磲しゃこ、そして珊瑚……」
「最後に、瑪瑙めのうの間」

 七枚を並べ、桜子は腕組みをした。
「九十九段を中心に、七つのお座敷が並んでるみたい。写真で見る限り、どれも有名作家が手掛けた、桁外れに豪華なお部屋ね」
無量寿経むりょうじゅきょう七宝しちほう、ですか」
「……え?」
「お座敷の名前です。それぞれが七宝の名を冠するに相応しい内装のようですね」

 写真を眺め、零は顎を撫でた。
「……しかし、妙ですね」
「何が?」
「これです。――瑪瑙の間だけ、他の座敷とは趣向が違います」

 金の間と銀の間は、恐らく百畳もあろうかと思われる大広間。大規模な会合や婚礼に使われるのだろう。
 瑠璃と玻璃は、二十畳ほどの豪華絢爛な内装の中座敷。芸者を招いての宴会に似合いそうだ。
 硨磲と珊瑚は襖絵が美しい小座敷。少人数での接待に向いている。

 ――そして、瑪瑙の間。
とばり几帳きちょうでしょうか。部屋の周囲に、色とりどりの布が垂らしてあるようですね」
「そうね。お座敷というより、寝室って感じね……」
 言ってから気まずく思ったのだろう。桜子は目を逸らした。……寝室として使う目的。それは男女の逢瀬の『待合』に他ならない。

 零は首筋をさすった。
「……とりあえず、一度、この目で見てみたくなりました」
「私はいつでもいいわよ。……あなたが妙な気を起こさなければ」
 そう言う桜子に顔を向けず、零はきっぱりと言い放った。
「いや、行くのは私ひとりです」

 すると案の定、桜子は声を尖らせる。
「だから、言ったわよね。私を除け者にしないって」
「桜子さんだけではありません。ハルアキも連れて行きませんので」
「あのガキンチョは子供だから別よ!」
「危ないのです」
 そこで零は桜子を見上げた。
「今回は、とても嫌な予感がします。ですから……」
「役に立たない私は、ついて来なくていい、って訳ね」
「そういう意味ではありません。桜子さんは、こんなに早く、これだけの情報を集めて来ました。優秀な助手ですよ」
「お世辞は結構」

 桜子はむっつりしたまま茶箪笥に向かうと、
「お茶菓子が全然ないじゃない。買ってくるわ」
 と、早足に事務所を出て行った。

「……嫌われたな」
 桜子と入れ違いに、ハルアキが納戸から現われた。そしてポン菓子の袋を抱えてニヤニヤと零を見る。
「栴檀の花言葉を知っておるか?」
「知りませんよ。そういう風流なものは、私には無縁です」
 何となく腹立たしくハルアキを睨むと、彼はボリボリとポン菓子を口に入れて答えた。
「――意見の相違、じゃ」
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