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1巻
1-3
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【参】黒キ花嫁
「弥生さんの話では」
零はハゼを口に入れる。
「毎週のように日本橋の百貨店に通って、服を新調しているようです。そんな事をしていれば、どれだけお金があったって底をつきますよ。ご両親も心配なさる訳です」
「だから、ご両親には頼れず、自力で資金調達をしようと……」
桜子は小鉢の底に鎮座する最後の一匹を眺めながら頷く。
「そんな風じゃ、お屋敷の中は大変でしょうね」
「私も気になりましてね。あわよくば、問題の蔵も見てみたいと、その翌日、行ってみたんですがね」
桜子の視線に気付く素振りもなく、零は最後の一匹を口に放り込んだ。
「門前払いでしたよ」
◇
――武蔵野の田園地帯。遠くに並ぶ工場の煙突と見比べれば、文明から取り残されたような印象を受ける。
そんな田園風景の中で、御影家は一際存在感を放つ屋敷だった。武家屋敷のような門構え。漆喰に燻し瓦の高い塀に囲まれた佇まいは、圧倒されるほどだ。
しかし……と、零は門を見上げて腕組みした。
所々、瓦が剥がれて土が覗き、枯れ草が生えている。ひび割れた漆喰も、修繕された様子はない。弥生の浪費は、彼女の話以上に深刻なのかもしれない。
零はトンビコートを羽織った襟元を整え、声を張り上げる。
「御免ください」
しばらくして、門の向こうに足音が聞こえ、潜り戸が細く開いた。
「……はい」
そこから顔を覗かせたのは、細面の女だった。年増ではあるが、くっきりとした目鼻立ちは弥生に似ている。おそらく母親だろう。
訝しげに見上げる彼女に、零は笑顔で名刺を差し出した。
「――古物商・犬神商会?」
「こちらに立派な蔵があるとお聞きしまして、ご不要なものがあればと」
職業柄、零は適当な名刺を何種類か持ち歩いている。いきなり探偵だと名乗っては、警戒心を煽ってしまうためだ。しかし今回は効果がなかった。
「ありません」
彼女は眉をひそめてそう言い放つと、ピシャリと戸を閉めた。
「……まあ、そうなりますよね……」
零は自分の姿を見下ろした。手持ちの中では地味な着物を選んだのだが、長閑な農村では浮いている。
仕方なく屋敷を外から見る事にした零は、塀に沿って左手に進む。その先に広がる農閑期の田畑には、所々に雪が積もっており、何とも寒々しい。
そんな中を、褞袍を着た年配の婦人がやって来た。
「こんにちは」
零は挨拶してみたが、化け物でも見るような顔をして、婦人は通り過ぎていった。
「……やれやれ」
零は肩を竦めた。
少し行くと、右へ入る畦道があった。そこから御影家の屋敷全体を一望できる。
かなり広い。母屋だけでなく、使用人小屋やら牛小屋やら、別棟もいくつかあるようだ。
問題の蔵は、最も奥の建物だろう。屋敷裏の藪の竹が屋根に覆い被さるように伸びている。もう少し近くで見たいと、零はそちらに向かった。
藪の小径の先に沼がある。ちょうど屋敷の裏にあたる。
木々に囲まれ、淡い木漏れ日が凪いだ水面に映る。
零は近付いて水面を覗いた。あまりに透き通っており、深淵に黒々と揺れる藻までも見通せる。湧き水があるのか、底なし沼を思わせるほど深い。
それから屋敷を振り返る。藪越しに見える蔵のなまこ壁に、小窓がひとつ。観音開きの窓扉は閉まっている。
……しかし、何か違和感がある。もっと近くで見てみようと向かう途中、零は不意に足を止めた。
「……おやおや」
危うく蹴ってしまうところだった。零はその前に屈んだ。
――小さな祠。
笹葉に隠れるように、それは佇んでいた。まだ見ぬ神に敬意を示し、零は手を合わせた。
何が祀られているのかと覗き込んでみるものの、うず高く積もった枯葉に隠れて、中が見えない。これでは可哀想だ。零は祠に手を入れ、枯葉を掻き出していると……。
「あんた、何やってンだい!」
鋭い声が飛んできた。ドキッとして振り返ると、先程すれ違った褞袍の婦人が、同年代の婦人を三人引き連れてこちらを睨んでいた。
「見慣れない顔だね。泥棒かい!」
「さっき、御影さんの所に行ったそうじゃないか。何が目的なのさ!」
「警察を呼ぶよ!」
口々に捲し立てる四人の婦人に、零は慌てた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私は決して、怪しい者ではありません。こちらの祠に祀られているものが、気になっただけなんですよ」
彼は人懐こい笑みを浮かべると、袖口から名刺を取り出してご婦人がたに見せた。
「……帝東大學、民俗学准教授?」
訝しげな目線を返す彼女らに、零は愛想笑いを振り撒いた。
「郷土史の研究をしています。湧き水のある沼には、謂れがある事が多くてですね。丁度そちらにお屋敷があったので、お話を伺えるかとお邪魔した次第です」
名刺の効果があったのか、首に手拭いを巻いた婦人が言った。
「駄目だったろ?」
「はい、門前払いでした」
零は苦笑した。
「この祠には、何が祀られているのです?」
「竜神様だよ」
褞袍の婦人が前に出て、積もった枯葉を取り除く。すると、竜の頭を象った素朴な石像が現れた。
「黒沼の守り神さ」
こめかみに膏薬を貼った婦人が、名刺と零の顔を見比べてニヤニヤした。
「あんた、良く見りゃいい男だね」
「だけどさ、大学の先生がこんな珍妙な格好をしてるモンかい?」
もんぺを穿いた婦人が、疑わしげに零を見上げた。零は精一杯の笑顔で取り繕う。
「いつも見た目で損をしているんですがね。郷土研究をするのに、背広にソフト帽じゃ似合いませんから。浄瑠璃はお好きですか? あれは、地域の特色がある物語と、絢爛豪華な衣装が実に興味深い。どっぷりハマってこのザマですよ、ハハハ……」
すると、ご婦人がたも釣られて笑った。
……どうやら、過度な警戒は解けたようだ。零は胸を撫で下ろした。
「うちに来な。祭りでやる浄瑠璃の話をしてやるよ」
褞袍の婦人がそう言って、先に立って歩き出した。
◇
「……浄瑠璃か。なぜそう思うた」
いつの間にか事務所に現れた少年が、零の話に口を挟んだ。
「山勘です。よくあるじゃないですか、村祭りで浄瑠璃やら田楽やらをやる所が。それに、弥生さんの衣装に対する執着にも繋がる気がしましてね」
「目の付け所は悪くない」
桜子はしばらく、この少年に気付かなかった。しかし、彼が空の小鉢を見て――
「余の佃煮は如何した!」
と金切り声を上げた事で、全てを思い出した。
紛れもなく、納戸にいたあの生意気なガキンチョである。彼女は少年の首根っこを掴まえた。
「あんた、私に何をしたのよ!」
「放せ、無礼者!」
少年はジタバタして桜子の手を振り解くと、零の背後に身を隠した。
「この女子を何とかせい、ナナシ」
「忘却の術が解けるとは、あなたの力も落ちましたね。それに、私はナナシではありません」
「『零』即ち『無』じゃ。名が無なら名無しであろう」
「やれやれですね……」
苦笑しながら、零は仁王立ちする桜子に少年を示した。
「紹介が遅れました。先程話した親族の子供――ハルアキです」
「自分で名乗りなさいよ。やっぱり礼儀を仕込まなきゃ……」
「そなたのような無礼者に名乗る名などない」
ぷいと顔を背けるハルアキに、桜子は思わず歯噛みする。
「あったま来た……!」
「まあまあ、落ち着いてください。干し芋を焼きますから」
零はそう言って、干し芋を薪ストーブの上に並べた。
「……話を続けますよ。それから私は、褞袍の婦人のお宅にお邪魔したのですがね……」
◇
そこは、御影家と比べるとあまりに粗末だった。藁葺き屋根の軒を潜り、土間を上がる。
囲炉裏端に腰を落ち着けると、見た目以上に暖かかった。四人のご婦人がたが手際良く湯呑みに白湯を注ぎ、囲炉裏の金網に干し芋を並べ、漬物や干し柿を持ち寄れば、瞬く間に座談会の場が出来上がる。
「これ食ってみ、美味いから」
膏薬の婦人に勧められるまま、零は瓜漬けを摘まんだ。
「……で、御影さんのとこ、どうだった?」
手拭いの婦人が興味深げに零を覗き込んだ。
「そこから聞くのかい」
突っ込みながらも、もんぺの婦人も興味津々のようだ。
「門前払いでしたから、お屋敷には入っていません。しかし、奥方は随分と綺麗な方ですね」
「まあね、ご当主の源三さんは、そりゃあ面食いだからね」
「奥方の庸子さんは、両国の米問屋の娘らしいけど、輿入れの前にも色々噂があったからねえ」
ご婦人がたは顔を見合わせニヤニヤしている。
「だけどさ……」
手拭いの婦人が沢庵を齧りながら零に目を向けた。
「御影さんとこがおかしくなったのは、庸子さんが嫁に来てからだよ」
「滅多な事を言うモンじゃないよ」
褞袍の婦人がシッと指を立てて、御影家のある方角に目を遣る。
「御影さんとこに何かあったら、小作のうちらは食ってけねえ」
「そりゃそうだけどさ……」
手拭いの婦人は声を低くした。
「あのお宅、普通じゃないよ」
◇
「これはその時のお土産です」
香ばしく焼かれた干し芋を載せた皿がテーブルに置かれる。すかさず手を出したハルアキが、アチチと耳たぶを摘まんだ。
「御影さんのお家事情を聞くのは簡単でした。私は白湯を飲んで話に耳を傾けていただけです」
そう言いながら、零は薬缶の湯をティーポットに注ぐ。
「先にご家族を紹介しましょう。まず、ご当主の御影源三さん。ご結婚の少し前に先代を亡くし、事業を引き継ぎました。地主の他にも、色々と商売をされているようです」
そしてカップに紅茶を注ぎ、桜子の前に置く。
「その源三さんのところへ、十八年前に嫁いだのが庸子さん。商売上の関係の深い、米問屋の娘さんです。老舗の大店で、花嫁行列は、街道を埋め尽くすほどの嫁入り道具に、専属の女中も従えて、そりゃあ豪勢だったそうです」
「老媼の茶話じゃ。話半分に聞くのじゃな」
ようやく冷めた干し芋に、ハルアキはかぶり付く。
「田舎の嫁入りを甘く見ちゃいけないわ」
桜子は眉根を寄せた。相手も決まっていないのに、座敷を埋めていく嫁入り道具。それらに釣り合う婿を選べという両親の圧力。その窮屈さといったら……。
気分を変えようと、桜子は紅茶を口にし――すぐテーブルに戻した。
「桜子さんの仰る通り。大事な一人娘の嫁入りですからね。しかしまあ、ここまではよくある話です。そして、弥生さんですが……」
◇
「嫁入りの時には、もう腹にいたのさ」
もんぺの婦人がニヤリと干し柿を手に取った。
「源三さん、女たらしとは聞いてたけど、まさか許嫁にまで手を出してたとはねえ」
「その前にも、カフェーの女給に入れ上げたとか、浮いた噂は絶えなかったけどさ」
「そりゃあ、先代の忌中も喪中も待ってられなかったろうよ」
手拭いの婦人が零に干し芋を勧める。
「でもさ、それからだよ、おかしくなったのは」
「具体的には、どうおかしいんで?」
零が尋ねると、ご婦人がたが代わる代わる答えた。
「屋敷に入れてくれなくなったのさ」
「祭りに使う人形やら道具やらが、御影さんとこの蔵に仕舞ってあるから、祭りの準備となりゃ、前は大旦那さんや使用人や、みんな総出で賑やかにやったモンさ」
「ところがさ、庸子さんが来てから、誰も屋敷に入れてくれやしない」
「そりゃあ、気まずいってのはあったろうよ。道で会っても、顔を合わせもしないし」
零は干し芋を味わいながら眉根を寄せた。
……多少時期は違ったにしろ、嫁いでから生まれた子である。そこまで人目を避けなければならない理由になるのだろうか?
「そんなんだからさ、祭りがやれないんだよ」
膏薬の婦人が暗い表情で囲炉裏を掻き回す。
「大旦那さんの喪中は分かるよ。けれど、自分は祝言をやってンだ。なのに、村祭りは何年もやらないとは、納得いかないね」
「準備は村のモンでやるから、蔵にだけでも入れてくれって、みんなで頭を下げに行っても、門前払いさ」
ご婦人がたは口々に不満を漏らす。
すると蜜柑を手に、もんぺの婦人が呟いた。
「……祟りだよ」
足の裏を囲炉裏に当てながら、零に意味深な視線を送る。
「弥生ちゃんの事は、竜神様の祟りだよ」
◇
「……で、弥生さんの浪費癖の話に入ります」
テーブルには、干し柿や蜜柑が並んでいる。これもお土産だろう。
ヘタを摘まんで干し柿にかぶり付きながら、桜子は零の話に耳を傾ける。
「ご婦人がたも、弥生さんの衣装への異常な執着はご存知でした。狭い田舎、しかも必然的に注目されるお宅ですし」
「だから田舎は嫌なのよ。隠し事のひとつもできやしない」
するとハルアキがジロリと桜子を見た。
「そなたは田舎に居た方が良い」
「は? どういう意味よ」
「あなたはこれでも食べていてください」
零に蜜柑を押し付けられ、ハルアキは口を尖らせ皮に爪を立てた。
「やはり、その散財っぷりは、ご本人が仰っていた以上のものでした」
ティーカップを手に、零は続けた。
「物心ついた頃から、衣装へのこだわりは相当なもので、仕立て屋を呼び寄せるのは日常茶飯事。それでも可愛い娘さんの事ですし、ご両親は我儘を聞いていたそうです。ところが……」
◇
「弥生ちゃん、商売の金に手を出してね。源三さんの代になってから、先代のようには上手くいってなかったみたいなんだけどね……」
白湯を啜って、褞袍の婦人が言った。
「弥生ちゃんがその金を使い込んで、商売は一気に傾いたのさ」
手拭いの婦人が、薬缶から立つ湯気に手を当てる。
「使用人に暇を出し、牛や馬を手放して、終いにゃ田畑を売り払う始末だよ」
「少しでも金のある小作は、その機に上手い事やったようだけど」
「後の連中は、村を出て工場へ働きに行ったりして、散々だったよ」
「で、残ったのは、うちらみたいな、どうしようもない貧乏農家だけって訳さ」
さすがのご婦人連中も、これには重い溜息しか出ないようだ。
しみじみと頷いて、零は話を促した。
「それは大変でしたね……。それで、弥生さんは……?」
「変わりゃしないよ。祟りってのも、信じたくなるくらいさ」
膏薬の婦人が吐き捨てたのをきっかけに、ご婦人がたがヒソヒソと囁き合う。
「でもさ、そこまで落ちぶれても、蔵だけは手付かずだって話だよ」
「あの蔵には何があるんだろうね、まったく」
確かに、気味の悪い話である。
「お祭りに使う浄瑠璃人形も、蔵にあるんですよね」
「そのはずさ」
「人形が無事でいてくれるといいけど」
「どんな人形なんですか? お祭りの内容も気になりますね」
すると、ご婦人がたの表情がパッと明るくなった。やはり、祭りは村の誇りなのだろう。
「あんたが見てた竜神様から村の神社まで、着飾った浄瑠璃人形を踊らせながら練り歩くんだよ」
「竜神様と黒姫様が結ばれる、花嫁行列なのさ」
「黒姫様?」
「黒沼に残る伝説にある、悲しいお姫様さ」
水の湧く沼というのは、とても貴重なものだ。そのため、昔話や伝承で親しみを持たせ、後世まで大切にしようとする例は、全国各地に存在する。黒姫伝説も、その類だろう。
「――昔、この辺りを治めていた領主様のところに、娘が生まれてね。ところが可哀想に、その子の肌は墨のように真っ黒だったんだよ」
食べるのに飽きたのか、褞袍の婦人が縄をないながら語り出した。
「だから、どんなに着飾っても似合わない。いつも黒い着物を着て、誰にも姿を見せないよう、奥座敷で静かに暮らしていたんだ。だから、黒姫様さ」
「なるほど……」
「けどさ、領主様にしちゃあ、どんなに醜い娘だろうが、年頃になりゃ嫁に出したいわな。だから、家来のところに嫁がせたんだよ。けれど、そいつが酷い奴でね……」
手拭いの婦人が話を継ぐ。
「その家来、黒姫様を座敷牢に閉じ込めて、若い妾に現を抜かしたんだと」
「普通なら、領主様がカンカンになるところだ。だけど、醜い娘を貰ってくれただけで満足しなきゃならないと、見て見ぬふりをしたんだよ」
◇
「可哀想な黒姫様……」
桜子はハンカチで目元を押さえた。
「それで、どうなったんです?」
「境遇に耐えられなくなった黒姫は、屋敷の裏手の沼に身を投げたそうです」
「つまり、御影家の屋敷のある場所が、黒姫が嫁いだ先であったと」
零はハルアキに頷いた。
「本当に可哀想……。男たちに罰が当たればいいのに」
「はい。そうなりました」
「……え?」
「黒姫は、そんな境遇となろうとも夫を愛していた。最期までその思いを貫くため、入水の際、白無垢を着ていたそうです。それを見た沼の竜神が、黒姫を不憫に思った。そして、男たちに復讐をするのです」
伝承によると、大洪水が起き、村一帯が水浸しになったそうだ。
家も田畑も流され、大飢饉が発生した。その上疫病も流行し、領主も跡取りも病死。お家は取り潰しになったという。
それから、黒姫の魂を慰めるために、黒姫に見立てた浄瑠璃人形を豪華に着飾って、村の神社まで行列するようになった。それが祭りの起源とされている。
「――つまり、黒姫が竜神様と再婚するための花嫁行列という訳です。ですから、浄瑠璃人形の顔は、墨のように黒いそうです。……そして、人形に着せる衣装に、禁忌の色がありまして……」
零は白磁のカップを示す。
「――それが、白なんです。黒姫が入水の際に着ていた、白無垢の色です」
「花嫁行列というのに白を着せぬとは、変わっておるな」
「最初の辛い結婚を思い出させてしまうから、でしょうかね」
「黒姫様には今度こそ、幸せになってほしいわ」
桜子はくしゃくしゃのハンカチで、干し柿で汚れた口元を拭った。
「これじゃから女子は……」
ハルアキは桜子に蔑んだ目を向けた。
「黒姫の怨念とは即ち、人々の水に対する恐怖じゃ。自然という絶対的なものに対する畏怖じゃ。だからこそ、神という形にして、対話を試みるのじゃ」
「…………」
「斯様な伝承を残しておるところを見ると、何かあるのじゃろう。そのモノとの対話の手段である祭りを怠るとは……」
一体こいつは何者だと、桜子は唖然とハルアキを見た。
「ですが、庸子さんが輿入れしてからも、洪水は起こっていません。祭りでない他の方法で、黒姫は気持ちを慰めているんでしょうね」
「そうであろうな」
「……え、何? どういう事?」
戸惑う桜子に、零は蜜柑を手渡した。
「そのうち分かります。……で、その翌日……」
「弥生さんの話では」
零はハゼを口に入れる。
「毎週のように日本橋の百貨店に通って、服を新調しているようです。そんな事をしていれば、どれだけお金があったって底をつきますよ。ご両親も心配なさる訳です」
「だから、ご両親には頼れず、自力で資金調達をしようと……」
桜子は小鉢の底に鎮座する最後の一匹を眺めながら頷く。
「そんな風じゃ、お屋敷の中は大変でしょうね」
「私も気になりましてね。あわよくば、問題の蔵も見てみたいと、その翌日、行ってみたんですがね」
桜子の視線に気付く素振りもなく、零は最後の一匹を口に放り込んだ。
「門前払いでしたよ」
◇
――武蔵野の田園地帯。遠くに並ぶ工場の煙突と見比べれば、文明から取り残されたような印象を受ける。
そんな田園風景の中で、御影家は一際存在感を放つ屋敷だった。武家屋敷のような門構え。漆喰に燻し瓦の高い塀に囲まれた佇まいは、圧倒されるほどだ。
しかし……と、零は門を見上げて腕組みした。
所々、瓦が剥がれて土が覗き、枯れ草が生えている。ひび割れた漆喰も、修繕された様子はない。弥生の浪費は、彼女の話以上に深刻なのかもしれない。
零はトンビコートを羽織った襟元を整え、声を張り上げる。
「御免ください」
しばらくして、門の向こうに足音が聞こえ、潜り戸が細く開いた。
「……はい」
そこから顔を覗かせたのは、細面の女だった。年増ではあるが、くっきりとした目鼻立ちは弥生に似ている。おそらく母親だろう。
訝しげに見上げる彼女に、零は笑顔で名刺を差し出した。
「――古物商・犬神商会?」
「こちらに立派な蔵があるとお聞きしまして、ご不要なものがあればと」
職業柄、零は適当な名刺を何種類か持ち歩いている。いきなり探偵だと名乗っては、警戒心を煽ってしまうためだ。しかし今回は効果がなかった。
「ありません」
彼女は眉をひそめてそう言い放つと、ピシャリと戸を閉めた。
「……まあ、そうなりますよね……」
零は自分の姿を見下ろした。手持ちの中では地味な着物を選んだのだが、長閑な農村では浮いている。
仕方なく屋敷を外から見る事にした零は、塀に沿って左手に進む。その先に広がる農閑期の田畑には、所々に雪が積もっており、何とも寒々しい。
そんな中を、褞袍を着た年配の婦人がやって来た。
「こんにちは」
零は挨拶してみたが、化け物でも見るような顔をして、婦人は通り過ぎていった。
「……やれやれ」
零は肩を竦めた。
少し行くと、右へ入る畦道があった。そこから御影家の屋敷全体を一望できる。
かなり広い。母屋だけでなく、使用人小屋やら牛小屋やら、別棟もいくつかあるようだ。
問題の蔵は、最も奥の建物だろう。屋敷裏の藪の竹が屋根に覆い被さるように伸びている。もう少し近くで見たいと、零はそちらに向かった。
藪の小径の先に沼がある。ちょうど屋敷の裏にあたる。
木々に囲まれ、淡い木漏れ日が凪いだ水面に映る。
零は近付いて水面を覗いた。あまりに透き通っており、深淵に黒々と揺れる藻までも見通せる。湧き水があるのか、底なし沼を思わせるほど深い。
それから屋敷を振り返る。藪越しに見える蔵のなまこ壁に、小窓がひとつ。観音開きの窓扉は閉まっている。
……しかし、何か違和感がある。もっと近くで見てみようと向かう途中、零は不意に足を止めた。
「……おやおや」
危うく蹴ってしまうところだった。零はその前に屈んだ。
――小さな祠。
笹葉に隠れるように、それは佇んでいた。まだ見ぬ神に敬意を示し、零は手を合わせた。
何が祀られているのかと覗き込んでみるものの、うず高く積もった枯葉に隠れて、中が見えない。これでは可哀想だ。零は祠に手を入れ、枯葉を掻き出していると……。
「あんた、何やってンだい!」
鋭い声が飛んできた。ドキッとして振り返ると、先程すれ違った褞袍の婦人が、同年代の婦人を三人引き連れてこちらを睨んでいた。
「見慣れない顔だね。泥棒かい!」
「さっき、御影さんの所に行ったそうじゃないか。何が目的なのさ!」
「警察を呼ぶよ!」
口々に捲し立てる四人の婦人に、零は慌てた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私は決して、怪しい者ではありません。こちらの祠に祀られているものが、気になっただけなんですよ」
彼は人懐こい笑みを浮かべると、袖口から名刺を取り出してご婦人がたに見せた。
「……帝東大學、民俗学准教授?」
訝しげな目線を返す彼女らに、零は愛想笑いを振り撒いた。
「郷土史の研究をしています。湧き水のある沼には、謂れがある事が多くてですね。丁度そちらにお屋敷があったので、お話を伺えるかとお邪魔した次第です」
名刺の効果があったのか、首に手拭いを巻いた婦人が言った。
「駄目だったろ?」
「はい、門前払いでした」
零は苦笑した。
「この祠には、何が祀られているのです?」
「竜神様だよ」
褞袍の婦人が前に出て、積もった枯葉を取り除く。すると、竜の頭を象った素朴な石像が現れた。
「黒沼の守り神さ」
こめかみに膏薬を貼った婦人が、名刺と零の顔を見比べてニヤニヤした。
「あんた、良く見りゃいい男だね」
「だけどさ、大学の先生がこんな珍妙な格好をしてるモンかい?」
もんぺを穿いた婦人が、疑わしげに零を見上げた。零は精一杯の笑顔で取り繕う。
「いつも見た目で損をしているんですがね。郷土研究をするのに、背広にソフト帽じゃ似合いませんから。浄瑠璃はお好きですか? あれは、地域の特色がある物語と、絢爛豪華な衣装が実に興味深い。どっぷりハマってこのザマですよ、ハハハ……」
すると、ご婦人がたも釣られて笑った。
……どうやら、過度な警戒は解けたようだ。零は胸を撫で下ろした。
「うちに来な。祭りでやる浄瑠璃の話をしてやるよ」
褞袍の婦人がそう言って、先に立って歩き出した。
◇
「……浄瑠璃か。なぜそう思うた」
いつの間にか事務所に現れた少年が、零の話に口を挟んだ。
「山勘です。よくあるじゃないですか、村祭りで浄瑠璃やら田楽やらをやる所が。それに、弥生さんの衣装に対する執着にも繋がる気がしましてね」
「目の付け所は悪くない」
桜子はしばらく、この少年に気付かなかった。しかし、彼が空の小鉢を見て――
「余の佃煮は如何した!」
と金切り声を上げた事で、全てを思い出した。
紛れもなく、納戸にいたあの生意気なガキンチョである。彼女は少年の首根っこを掴まえた。
「あんた、私に何をしたのよ!」
「放せ、無礼者!」
少年はジタバタして桜子の手を振り解くと、零の背後に身を隠した。
「この女子を何とかせい、ナナシ」
「忘却の術が解けるとは、あなたの力も落ちましたね。それに、私はナナシではありません」
「『零』即ち『無』じゃ。名が無なら名無しであろう」
「やれやれですね……」
苦笑しながら、零は仁王立ちする桜子に少年を示した。
「紹介が遅れました。先程話した親族の子供――ハルアキです」
「自分で名乗りなさいよ。やっぱり礼儀を仕込まなきゃ……」
「そなたのような無礼者に名乗る名などない」
ぷいと顔を背けるハルアキに、桜子は思わず歯噛みする。
「あったま来た……!」
「まあまあ、落ち着いてください。干し芋を焼きますから」
零はそう言って、干し芋を薪ストーブの上に並べた。
「……話を続けますよ。それから私は、褞袍の婦人のお宅にお邪魔したのですがね……」
◇
そこは、御影家と比べるとあまりに粗末だった。藁葺き屋根の軒を潜り、土間を上がる。
囲炉裏端に腰を落ち着けると、見た目以上に暖かかった。四人のご婦人がたが手際良く湯呑みに白湯を注ぎ、囲炉裏の金網に干し芋を並べ、漬物や干し柿を持ち寄れば、瞬く間に座談会の場が出来上がる。
「これ食ってみ、美味いから」
膏薬の婦人に勧められるまま、零は瓜漬けを摘まんだ。
「……で、御影さんのとこ、どうだった?」
手拭いの婦人が興味深げに零を覗き込んだ。
「そこから聞くのかい」
突っ込みながらも、もんぺの婦人も興味津々のようだ。
「門前払いでしたから、お屋敷には入っていません。しかし、奥方は随分と綺麗な方ですね」
「まあね、ご当主の源三さんは、そりゃあ面食いだからね」
「奥方の庸子さんは、両国の米問屋の娘らしいけど、輿入れの前にも色々噂があったからねえ」
ご婦人がたは顔を見合わせニヤニヤしている。
「だけどさ……」
手拭いの婦人が沢庵を齧りながら零に目を向けた。
「御影さんとこがおかしくなったのは、庸子さんが嫁に来てからだよ」
「滅多な事を言うモンじゃないよ」
褞袍の婦人がシッと指を立てて、御影家のある方角に目を遣る。
「御影さんとこに何かあったら、小作のうちらは食ってけねえ」
「そりゃそうだけどさ……」
手拭いの婦人は声を低くした。
「あのお宅、普通じゃないよ」
◇
「これはその時のお土産です」
香ばしく焼かれた干し芋を載せた皿がテーブルに置かれる。すかさず手を出したハルアキが、アチチと耳たぶを摘まんだ。
「御影さんのお家事情を聞くのは簡単でした。私は白湯を飲んで話に耳を傾けていただけです」
そう言いながら、零は薬缶の湯をティーポットに注ぐ。
「先にご家族を紹介しましょう。まず、ご当主の御影源三さん。ご結婚の少し前に先代を亡くし、事業を引き継ぎました。地主の他にも、色々と商売をされているようです」
そしてカップに紅茶を注ぎ、桜子の前に置く。
「その源三さんのところへ、十八年前に嫁いだのが庸子さん。商売上の関係の深い、米問屋の娘さんです。老舗の大店で、花嫁行列は、街道を埋め尽くすほどの嫁入り道具に、専属の女中も従えて、そりゃあ豪勢だったそうです」
「老媼の茶話じゃ。話半分に聞くのじゃな」
ようやく冷めた干し芋に、ハルアキはかぶり付く。
「田舎の嫁入りを甘く見ちゃいけないわ」
桜子は眉根を寄せた。相手も決まっていないのに、座敷を埋めていく嫁入り道具。それらに釣り合う婿を選べという両親の圧力。その窮屈さといったら……。
気分を変えようと、桜子は紅茶を口にし――すぐテーブルに戻した。
「桜子さんの仰る通り。大事な一人娘の嫁入りですからね。しかしまあ、ここまではよくある話です。そして、弥生さんですが……」
◇
「嫁入りの時には、もう腹にいたのさ」
もんぺの婦人がニヤリと干し柿を手に取った。
「源三さん、女たらしとは聞いてたけど、まさか許嫁にまで手を出してたとはねえ」
「その前にも、カフェーの女給に入れ上げたとか、浮いた噂は絶えなかったけどさ」
「そりゃあ、先代の忌中も喪中も待ってられなかったろうよ」
手拭いの婦人が零に干し芋を勧める。
「でもさ、それからだよ、おかしくなったのは」
「具体的には、どうおかしいんで?」
零が尋ねると、ご婦人がたが代わる代わる答えた。
「屋敷に入れてくれなくなったのさ」
「祭りに使う人形やら道具やらが、御影さんとこの蔵に仕舞ってあるから、祭りの準備となりゃ、前は大旦那さんや使用人や、みんな総出で賑やかにやったモンさ」
「ところがさ、庸子さんが来てから、誰も屋敷に入れてくれやしない」
「そりゃあ、気まずいってのはあったろうよ。道で会っても、顔を合わせもしないし」
零は干し芋を味わいながら眉根を寄せた。
……多少時期は違ったにしろ、嫁いでから生まれた子である。そこまで人目を避けなければならない理由になるのだろうか?
「そんなんだからさ、祭りがやれないんだよ」
膏薬の婦人が暗い表情で囲炉裏を掻き回す。
「大旦那さんの喪中は分かるよ。けれど、自分は祝言をやってンだ。なのに、村祭りは何年もやらないとは、納得いかないね」
「準備は村のモンでやるから、蔵にだけでも入れてくれって、みんなで頭を下げに行っても、門前払いさ」
ご婦人がたは口々に不満を漏らす。
すると蜜柑を手に、もんぺの婦人が呟いた。
「……祟りだよ」
足の裏を囲炉裏に当てながら、零に意味深な視線を送る。
「弥生ちゃんの事は、竜神様の祟りだよ」
◇
「……で、弥生さんの浪費癖の話に入ります」
テーブルには、干し柿や蜜柑が並んでいる。これもお土産だろう。
ヘタを摘まんで干し柿にかぶり付きながら、桜子は零の話に耳を傾ける。
「ご婦人がたも、弥生さんの衣装への異常な執着はご存知でした。狭い田舎、しかも必然的に注目されるお宅ですし」
「だから田舎は嫌なのよ。隠し事のひとつもできやしない」
するとハルアキがジロリと桜子を見た。
「そなたは田舎に居た方が良い」
「は? どういう意味よ」
「あなたはこれでも食べていてください」
零に蜜柑を押し付けられ、ハルアキは口を尖らせ皮に爪を立てた。
「やはり、その散財っぷりは、ご本人が仰っていた以上のものでした」
ティーカップを手に、零は続けた。
「物心ついた頃から、衣装へのこだわりは相当なもので、仕立て屋を呼び寄せるのは日常茶飯事。それでも可愛い娘さんの事ですし、ご両親は我儘を聞いていたそうです。ところが……」
◇
「弥生ちゃん、商売の金に手を出してね。源三さんの代になってから、先代のようには上手くいってなかったみたいなんだけどね……」
白湯を啜って、褞袍の婦人が言った。
「弥生ちゃんがその金を使い込んで、商売は一気に傾いたのさ」
手拭いの婦人が、薬缶から立つ湯気に手を当てる。
「使用人に暇を出し、牛や馬を手放して、終いにゃ田畑を売り払う始末だよ」
「少しでも金のある小作は、その機に上手い事やったようだけど」
「後の連中は、村を出て工場へ働きに行ったりして、散々だったよ」
「で、残ったのは、うちらみたいな、どうしようもない貧乏農家だけって訳さ」
さすがのご婦人連中も、これには重い溜息しか出ないようだ。
しみじみと頷いて、零は話を促した。
「それは大変でしたね……。それで、弥生さんは……?」
「変わりゃしないよ。祟りってのも、信じたくなるくらいさ」
膏薬の婦人が吐き捨てたのをきっかけに、ご婦人がたがヒソヒソと囁き合う。
「でもさ、そこまで落ちぶれても、蔵だけは手付かずだって話だよ」
「あの蔵には何があるんだろうね、まったく」
確かに、気味の悪い話である。
「お祭りに使う浄瑠璃人形も、蔵にあるんですよね」
「そのはずさ」
「人形が無事でいてくれるといいけど」
「どんな人形なんですか? お祭りの内容も気になりますね」
すると、ご婦人がたの表情がパッと明るくなった。やはり、祭りは村の誇りなのだろう。
「あんたが見てた竜神様から村の神社まで、着飾った浄瑠璃人形を踊らせながら練り歩くんだよ」
「竜神様と黒姫様が結ばれる、花嫁行列なのさ」
「黒姫様?」
「黒沼に残る伝説にある、悲しいお姫様さ」
水の湧く沼というのは、とても貴重なものだ。そのため、昔話や伝承で親しみを持たせ、後世まで大切にしようとする例は、全国各地に存在する。黒姫伝説も、その類だろう。
「――昔、この辺りを治めていた領主様のところに、娘が生まれてね。ところが可哀想に、その子の肌は墨のように真っ黒だったんだよ」
食べるのに飽きたのか、褞袍の婦人が縄をないながら語り出した。
「だから、どんなに着飾っても似合わない。いつも黒い着物を着て、誰にも姿を見せないよう、奥座敷で静かに暮らしていたんだ。だから、黒姫様さ」
「なるほど……」
「けどさ、領主様にしちゃあ、どんなに醜い娘だろうが、年頃になりゃ嫁に出したいわな。だから、家来のところに嫁がせたんだよ。けれど、そいつが酷い奴でね……」
手拭いの婦人が話を継ぐ。
「その家来、黒姫様を座敷牢に閉じ込めて、若い妾に現を抜かしたんだと」
「普通なら、領主様がカンカンになるところだ。だけど、醜い娘を貰ってくれただけで満足しなきゃならないと、見て見ぬふりをしたんだよ」
◇
「可哀想な黒姫様……」
桜子はハンカチで目元を押さえた。
「それで、どうなったんです?」
「境遇に耐えられなくなった黒姫は、屋敷の裏手の沼に身を投げたそうです」
「つまり、御影家の屋敷のある場所が、黒姫が嫁いだ先であったと」
零はハルアキに頷いた。
「本当に可哀想……。男たちに罰が当たればいいのに」
「はい。そうなりました」
「……え?」
「黒姫は、そんな境遇となろうとも夫を愛していた。最期までその思いを貫くため、入水の際、白無垢を着ていたそうです。それを見た沼の竜神が、黒姫を不憫に思った。そして、男たちに復讐をするのです」
伝承によると、大洪水が起き、村一帯が水浸しになったそうだ。
家も田畑も流され、大飢饉が発生した。その上疫病も流行し、領主も跡取りも病死。お家は取り潰しになったという。
それから、黒姫の魂を慰めるために、黒姫に見立てた浄瑠璃人形を豪華に着飾って、村の神社まで行列するようになった。それが祭りの起源とされている。
「――つまり、黒姫が竜神様と再婚するための花嫁行列という訳です。ですから、浄瑠璃人形の顔は、墨のように黒いそうです。……そして、人形に着せる衣装に、禁忌の色がありまして……」
零は白磁のカップを示す。
「――それが、白なんです。黒姫が入水の際に着ていた、白無垢の色です」
「花嫁行列というのに白を着せぬとは、変わっておるな」
「最初の辛い結婚を思い出させてしまうから、でしょうかね」
「黒姫様には今度こそ、幸せになってほしいわ」
桜子はくしゃくしゃのハンカチで、干し柿で汚れた口元を拭った。
「これじゃから女子は……」
ハルアキは桜子に蔑んだ目を向けた。
「黒姫の怨念とは即ち、人々の水に対する恐怖じゃ。自然という絶対的なものに対する畏怖じゃ。だからこそ、神という形にして、対話を試みるのじゃ」
「…………」
「斯様な伝承を残しておるところを見ると、何かあるのじゃろう。そのモノとの対話の手段である祭りを怠るとは……」
一体こいつは何者だと、桜子は唖然とハルアキを見た。
「ですが、庸子さんが輿入れしてからも、洪水は起こっていません。祭りでない他の方法で、黒姫は気持ちを慰めているんでしょうね」
「そうであろうな」
「……え、何? どういう事?」
戸惑う桜子に、零は蜜柑を手渡した。
「そのうち分かります。……で、その翌日……」
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