2 / 82
1巻
1-2
しおりを挟む
「……はあ……」
彼女は大きな溜息を吐いて畳に上がり、ペタンとへたり込んだ。
――いっそ、あの屋敷に引越してしまおうかしら。そうすれば……いやいや、あんな妙な奴につけ入る隙を見せたら終わりだわ。
ふと浮かんだ発想を、桜子は首を振って否定した。
そして契約書を読めと言われた事を思い出す。
彼女は肩掛け鞄から封筒を取り出し、中の紙を開いた。
そこには、探偵社の看板と同じく、ギリギリ読める程度の乱雑な文字が並んでいる。
出退勤時間、仕事の内容、賃金について。それから……。
桜子は最後の二行を読んで眉をひそめた。
『応接ノ奥ノ扉ハ決シテ開ケヌヤウニ』
「……応接の奥? 扉なんてあったかしら?」
それから最後にこう書かれていた。
『同封ノ御守ヲ肌身離サズ持チ歩クヤウニ』
そこで桜子は、封筒の中にまだ何かあるのに気が付いた。
出してみると、神田明神の御守袋だ。
「……は?」
意味が分からない。犬神零は結界がどうのとか将門公がどうのとか、妙な話ばかりしていたが、一体どういうつもりなのか。しかし、そのまま捨てるほど不信心ではない。桜子はワンピースのポケットに御守袋を納め、そのままゴロンと横になった。
【弐】扉ノ向コウニ棲マヒシ者
――翌朝。
「おはようございます!」
靴音高く、椎葉桜子は犬神怪異探偵社の扉を開いた。長靴下を買い直し、洋装を貫いたのは、桜子なりの意地だ。
だが、返事はなかった。事務所を見渡しても人影はない。
「……え?」
桜子は仕方なく中に入り……そして、応接テーブルの置き手紙を見付けた。
そこには、やはり読みにくい字でこうあった。
『出掛ケマス。掃除ヲヨロシク』
そして最後に、こう付け加えてある。
『左ノ扉ハ絶対ニ開ケヌ事』
そういえば、契約書にも扉を開けるなと書かれていた。
桜子は辺りを見回し、窓とは反対側に目をやると、果たして、そこには扉があった。
コート掛けの陰になり、長椅子からは死角になっていて、昨日は気付かなかったのだろう。
桜子は扉に近付く。入口と同じく樫の扉。ピタリと閉ざされ、その向こうは窺い知れない。
しかし、気になるからといきなり開けるほど、桜子は子供ではない。一旦テーブルに戻り、前掛けをして腰に手を当てた。
「さて、お仕事よ」
ハタキで棚の埃を落とし、箒で塵を集める。机を拭き、窓を拭き、床を拭く。流しのティーカップを洗い、茶箪笥の整理をして、屑入れにゴミをまとめる。
……しかしながら、客はおろか、主の犬神零も帰って来る気配はない。
ポツンと一人きりの事務所。慣れない場所に無為に置かれるのは、心許ないものだ。
そんな時はつい、余計な事を考える。
――あの扉の向こうには、何があるのかしら。……開けなきゃいいのよね。
桜子は足音を忍ばせて扉に近付いた。扉に耳を当てて様子を窺う。
すると、中で物音がした。カラカラと何かを転がすような音。そして、子供の呟き声。
――子供? もしかしたら、昨日の悪戯書きの犯人だろうか? ……ひょっとして、あの人の隠し子とか? 学校にも行かせないで部屋に閉じ込めておくなんて、許せないわね。
桜子は一旦退がり、窓の外を確認する。通りに犬神零の姿がないと見ると、再び扉の前に戻った。
ノブを掴み、ゆっくりと引く。扉は音もなくスッと動いた。
桜子が中を覗くと、そこは納戸のようだった。
六畳ほどの広さの小部屋。四方を棚に囲まれ、そこに雑然と物が置かれている。天窓からの光で、中は明るい。
……その天窓の下の床に、一人の子供がこちらに背を向けて座っていた。七、八歳くらいの男の子だ。毛先がクルンとした髪をツヤツヤさせ、白いシャツに紺色のチョッキを着て床を見下ろす。先程よりはっきりと聞こえる音から察するに、サイコロを転がしているようだ。そしてブツブツと独り言を呟く。
「……八……十一……五……三……」
桜子は察した。学校に行かせてもらえないから、サイコロの目を数えて、自分で勉強をしているのだ。こんな薄汚い部屋に閉じ込めるなど、虐待に他ならない。
何て可哀想な子なの――と、桜子は声を掛けた。
「もう大丈夫よ、安心して。私が助けてあげるから」
すると子供はビクッと振り返った。見開いた目は黒曜石のように輝き、柔肌が眩いばかりの美少年だ。
桜子は手を差し伸べた。
「私に任せて。ここから出してあげる。さあ」
だが、少年の口から飛び出したのは、子供らしからぬ言葉だった。
「無礼者! 無断で扉を開けるなとあれほど申しておいたのに、何故開いた!」
キョトンとしたのは桜子の方だ。
「え? だってあなた、あの人の隠し子で、ここに閉じ込められてるんでしょ?」
「たわけが。思い込みもはなはだしい」
少年はよいしょと立ち上がり、桜子を部屋から押し出して、バタンと扉を閉めた。
桜子はそのまましばらくポカンと樫の木目を眺めた。
……何なの、あのガキンチョ。お公家かお武家みたいな話し方をして偉そうに。
猛烈に腹が立ってきて、桜子は再びノブを引いた。
扉はスッと開き、少年が苛立った表情をこちらに向けてくる。
「分かったわ。私があなたに礼儀を教えてあげる。さ、こっちに来なさい」
「嫌じゃ」
桜子は少年の腕を引っ張った。
「嫌じゃないわ。さあ、来るのよ」
いくら生意気を言っても、子供の腕力では大人に敵わない。
「狼藉を働くとは許せぬ!」
少年はジタバタと抵抗しつつも引き摺られ、挙句に桜子の手を引っ掻いた。
「痛ッ!」
桜子が手を緩めた隙に、少年は彼女の横をすり抜けて事務所に飛び出す。
「待ちなさいよ、コラ!」
桜子が追い掛けると、少年は身軽に机を回り込む。そしてタタッと納戸に戻り、再び彼女の目前で扉を閉めた。
「……本気で腹が立ってきたわ」
桜子は両手でノブを引っ張る。しかし、今度は内側からも引っ張っているようで、簡単には開かない。
「出てきなさいよ、このクソガキ! 懲らしめてやるわ」
「左様に言われてノコノコ出ていく阿呆がおるか!」
しかし、引っ張り合いなら体が大きい方が勝つのが道理である。桜子がグイと体重を掛ければ――
「アアッ!」
と扉に引かれて少年は転がり出た。
桜子は腰に手を当てて睨み下ろした。
「覚悟なさい!」
しかし、少年に怯んだ様子はない。彼は忌々しげに舌打ちすると、ニッカポッカのポケットから何かを取り出した。
「致し方あるまい」
少年が腕を振ると、ピンと伸ばした中指と薬指の間に挟まれた、紙切れのようなものが手から離れる。それはくるくると宙を舞い、桜子の目の前でピタリと静止した。
白い和紙を人の形に切り抜いた人形。お祓いに使うようなやつだ。しかしそれが、空中にピタリと留まっている状況は、桜子には理解できない。
「……え……?」
動揺する桜子に、少年が吐き捨てる。
「六合よ、出よ」
すると、人形が焔に包まれた。黄金色の鮮烈な光を放ち、それはある形を象った。
――顔。柔和な老爺。細めた目尻に皺が寄り、白い顎髭が揺れる。まるで、翁の能面のよう。
その顔だけが、桜子の目の前に生々しく浮いているのだ。そんな異常な状況を前にして、冷静でいられるはずがない。
桜子は腰を抜かした。そして大きく目を見開いて息を吸う。それが絶叫になる寸前。
「黙らせよ」
少年が言うと、老爺の顔がフッと微笑む。桜子の目は、その視線に捉えられた。
途端に体が重くなる。意識が薄らぐ。
「あ……あれ……」
このままだと眠ってしまう。桜子は必死で床を這い、長椅子に半身を預けた。しかしそこで、彼女の意識は途切れた。
……目を開くと、知らない顔が桜子を覗き込んでいた。
白髪交じりの結髪に、洗いざらしの割烹着の、恰幅の良い婦人。彼女は弛んだ目元を細めて、桜子に話しかける。
「やっとお目覚めかい? 仕事始めから昼寝とは、いい度胸だね」
その言葉にハッとして、桜子は飛び起きた。
……毛布が掛けられている。かなりの長時間、寝入っていたという事だろう。しかし、桜子に昼寝をした覚えはない。
「あ、あの、私、そんなんじゃ……」
否定したいが、眠る前の行動が一切思い出せない。それに、この婦人が誰かも分からない。
すると、奥から聞き覚えのある声がした。
「隣家のサダさんです。お裾分けを持ってきてくださったところ、あなたが寝ていたので、毛布を貸してくれたんですよ」
そう言いながら、犬神零は湯気の立つティーカップをテーブルに置いた。
「目覚ましにどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
桜子は礼を言って毛布をサダに返し、舌が痺れるほど渋い紅茶を一気に飲み干した。
「シゲちゃんの紹介って言うから、どんな子かと思ったけど、なかなか大した子だね」
サダが嫌味を言う。桜子はむくれて見せたものの、反論できない。
「しかし、桜子さんがきちんと掃除をなさったのは、見れば分かります。何か、特別な事情があったのでしょう」
零にそう言われて、サダは渋々引き揚げていった。
「さて……」
呆然とする桜子の向かいに、零は腰を落ち着けた。
「あの扉を開けたのでしょう?」
彼の指が示す方向にある扉。
混乱する桜子の様子に、零は苦笑した。
「無理もありません。あの方に術を掛けられたのでしょうから」
「……術?」
零はわざとらしく周囲を見回し、声をひそめた。
「明治の世になってからは、名乗る事を禁じられていますから、こんな話が他に漏れると、私はお縄になってしまいます。ですから、内緒ですよ?」
「はぁ……」
「私、陰陽師の一族でして」
キョトンとする桜子の前に、零は一枚の名刺を置いた。
「犬神『怪異』探偵社――昨日は詳しく説明しませんでしたが、私、ただの探偵ではないのです。もちろん、人捜しや浮気調査、飼い猫の捜索なんて事もします。ですが、私が専門とするのは、人が起こした事件ではなく、呪いが引き起こす『怪異』です」
「け、い……?」
「普通は怪異と読みますけどね。我々の業界では『怪異』と呼びます。常識では説明のつかない不可解な現象、とでも言いますか。それもそのはず。何せ犯人は、人の『心』ですから」
「…………?」
「その不可解な現象の原因を取り除くのが、我々陰陽師の仕事です。その原因は、大抵『妖』や『鬼』と呼ばれる存在です。妖と鬼は何が違うのかと言うと、妖は積極的に人に害を為さない存在、鬼は害を為す存在。人間側の都合でそう呼び分けているだけで、元は同じものです。そして、妖や鬼を呼び寄せるものは、必ず、人の負の感情、つまり『呪い』なのです」
昨日と同じく、零はベラベラと口を動かし、桜子はポカンとそれを眺める。
「ですから、鬼を退治するだけでは、怪異は終わりません。呪いがまた別の鬼を呼び寄せますから。人の心の形を完全に解明し、呪いを解かなければ、真に解決とは言えないのです」
昨日も、勘違いした零が『覚悟』が何とか喋っていたが、それはこういう意味だったのかと、桜子は理解した。
「そして、桜子さんも聞いた事はありますかね、『式神』という名を。一部の陰陽師が使役する鬼の事ですが、なぜ鬼を『神』と呼ぶのか。それは、鬼と神もまた、根源は同じものだからです。人にとって都合良く作り変えた鬼を神と呼ぶ場合があるんです。もちろん、太古より存在する原初の神もいます。そういう存在は、我々には祓う事が困難でしてね、触らぬよう、祟られぬよう、ご機嫌を取り続けている。人と神との関係は、そういう……」
黙っていたら、いつまでも話は終わらないだろう。桜子はコホンと咳払いをした。
「それとあの扉と、どういう関係が?」
すると零は気まずそうに頭を掻いた。
「つい余計な話を。あの扉の向こうには子供がいまして。親族の子供なんですがね、あまりに能力が高くて、持て余した末に、私が預かる事になったのです」
「へぇ……」
「陰陽師というのは、基本的には占い師や祈祷師の類です。ですが時折、異能を持つ者が現れる。先程言った『式神』です。式神は本来、人に害を為す鬼ですから、それを手懐けるというのは並大抵の事ではありません。自由自在に操れるのは、ごく一部の異能を持つ者のみ。もちろん、私はそんなもの使えません」
「はぁ……」
「それは便利であると同時に、とても恐ろしいものです。悪意のある使い方をすれば、人を傷付けたり、世の中を混乱に陥れたりもできる。先程、桜子さんを眠らせたのも、式神の能力です。……そんな事情で、仕方なく預かったものの、ひねくれ者で手を焼いていましてね。自分の城とばかりに納戸に引きこもって、私も入れてもらえません」
「ふうん……」
「ですから、あまり刺激しないように。良いですね?」
そう言って零は、テーブルに置かれた小鉢を桜子に勧めた。
「サダさんに頂いたハゼの佃煮です。江戸っ子らしく、口は悪いですが、佃煮の味は絶品です」
釈然としないまま、桜子はハゼを摘まんだ。濃い目の味付けは、なるほど美味しい。
「ところで……」
零も一匹摘まみながら、軽く腕を組んだ。
「若い女性にお伺いしたいのですがね」
「何ですか、急に」
二匹目を手に取り、桜子は零にチラリと目を向けた。
「女性にとって、衣装とは、沢山持っていた方が良いものですか?」
唐突な質問を訝しく思い、桜子は犬神零を観察するが、その薄笑いからは何一つ読み取れない。
彼女は仕方なく答える。
「うーん、手入れや片付けが大変だし、私は、気に入ったのが何枚かあればいいわ」
「そうなのですね、なるほど……」
零はわざとらしい仕草で手を顎に当てた。桜子に聞かせたい話があるが、自分から話すのは秘密保持の立場上良くない。だから、桜子に聞かれて仕方なく……という体裁を作りたいのだろう。
その思惑に乗るのは癪だったが、好奇心には勝てず、桜子は三匹目のハゼを口に運びながら尋ねた。
「何で、そんな事を聞くんですか?」
すると案の定、零はニヤリとして話しだした。
「いえね、今依頼を受けている方が、言わば衣装中毒のような方でして……」
◇
――御影弥生が犬神怪異探偵社を訪れたのは、七日前の事だった。
歳の頃は十七、八だろう。長く下ろした黒髪に、斬新な柄のワンピースが目を引く。しかしその装いに負けないほど、彼女自身の容姿も非常に整っていた。
赤いハイヒールを鳴らして応接に進み、長椅子にドカリと座ると、弥生は零に言った。
「扉を開けてほしいの。お金ならあるわ」
――おやおや、随分な物言いをなさる。零は紅茶を淹れながら応えた。
「建て付けが悪いのなら建具屋に、鍵を失くしたのなら錠前屋に行かれては?」
「もちろん行ったわよ。でも全部断られたわ。だからここに来たの」
不機嫌に零を見据えるその容貌は、絵画から飛び出てきたように美しい。ただ、あまりに整いすぎているため、人間味に欠ける印象を受ける。
零は弥生の前にティーカップを置き、自分も向かいに腰を下ろした。
「お受けできる保証はありませんが、どのような扉なのか、お聞かせ願えますか?」
すると弥生は、黒いタイツに包まれた形の良い脚を組んだ。
「土蔵の扉よ」
「ほう、どのような土蔵で?」
「うちは昔からの地主で、代々の家宝とか、村の祭りの道具なんかが収められてるらしいわ」
「いつから開かないんです?」
「私が物心つく前から」
「それは随分ですねえ」
弥生が手を付けないので、零は自分のティーカップを手にした。
「どうして開かないのですか?」
「大きな錠前が五つ、ぶら下がってるの」
「しかし、錠前ならば錠前屋……」
「だから、錠前屋には断られたの。蔵の前まで来たけれど逃げ帰ったわ」
零は目を細めて弥生を見据えた。
「なぜ?」
弥生は少し躊躇を見せた後、俯き加減に答えた。
「異常なの。おかしいのよ。けれど、なぜそうしているのか、両親に聞いても答えてくれないの。鍵を失くしたとしか」
「具体的には、どう異常なんです?」
弥生は組んだ脚を解き、膝を揃えて手を置いた。
「御札よ。御札が、元の扉が見えないほど貼り重ねられているの」
「……なるほど」
確かに尋常ではない。
つまり、そうまでして隠しておきたい何かが、その蔵には眠っているという意味だろう。
零のところに持ち込まれるべき案件には違いない。
今度は零が脚を組んだ。
「異常なのは御札だけですか? 奇妙な現象などはありませんか?」
「音がするわ」
「音、というと?」
「小さい頃から、あの蔵が怖かった。夜になると、妙な物音がして」
「どんな音です?」
「ガサッ、とか、ゴトッ、とか」
「それだけ?」
「それだけよ」
……おかしい。扉を封印する理由としては、怪異が小さすぎる。
零は目を細めた。
その態度が不満だったのか、弥生は刺々しい声を出した。
「この依頼、受けるの、受けないの?」
「真の解決を望むか否か、あなたのお心次第です」
「……どういう意味?」
零は膝の上で手を組み、弥生を真っ直ぐ見据えた。
「扉を開けば、あなた、そしてご両親の知られたくない過去、隠さねばならない秘密を解き放つ事になるでしょう。……あなたに、それを受け止める覚悟はおありですか?」
弥生はくっきりとした目を大きく見開き、零を見返した。
そしてフッと視線を逸らして立ち上がると――
「いいわ。そうやって断るのね。他を当たるわ」
そう言って出ていってしまった。
客を取る気がまるで感じられないその物言いでは、当然の結果である。
しかし、本当に悩んでいるのであれば、その程度で諦めたりはしないだろう――この時零はそう確信していた。
果たして翌日、弥生は再びやって来た。
彼女は昨日とは打って変わって、しおらしく長椅子に納まると、零を見上げる。
「やっぱり、お願いする事にしたわ」
黒のセーターに黒のスカートという控えめな衣装の中で、ベレー帽に飾られた薔薇のコサージュが、鮮やかに自己主張をする。
「では、お聞かせ願えますか?」
ティーカップを弥生の前に置き、零は促した。
「――あなたの、真の目的を」
彼女はカップを手に取り、じっと紅い液体を見つめる。
「……お金が欲しいの」
「ほう……」
「だって、開けもしない蔵に、家宝を入れっ放しにしておくなんて、勿体ないじゃない」
顔を上げた弥生の目は、零を見ると揺らめいた。
「そのお金を、何に使われるので?」
弥生は恨めしそうに零を睨み、やがて諦めた様子で答えた。
「服が欲しいの。上等な服を何枚買っても、全然足りないの。普通じゃないとは、自分でも分かってる。両親は病気か狐憑きかと、医者や祈祷師に診せたわ。でも、治らないの」
彼女は大きな溜息を吐いて畳に上がり、ペタンとへたり込んだ。
――いっそ、あの屋敷に引越してしまおうかしら。そうすれば……いやいや、あんな妙な奴につけ入る隙を見せたら終わりだわ。
ふと浮かんだ発想を、桜子は首を振って否定した。
そして契約書を読めと言われた事を思い出す。
彼女は肩掛け鞄から封筒を取り出し、中の紙を開いた。
そこには、探偵社の看板と同じく、ギリギリ読める程度の乱雑な文字が並んでいる。
出退勤時間、仕事の内容、賃金について。それから……。
桜子は最後の二行を読んで眉をひそめた。
『応接ノ奥ノ扉ハ決シテ開ケヌヤウニ』
「……応接の奥? 扉なんてあったかしら?」
それから最後にこう書かれていた。
『同封ノ御守ヲ肌身離サズ持チ歩クヤウニ』
そこで桜子は、封筒の中にまだ何かあるのに気が付いた。
出してみると、神田明神の御守袋だ。
「……は?」
意味が分からない。犬神零は結界がどうのとか将門公がどうのとか、妙な話ばかりしていたが、一体どういうつもりなのか。しかし、そのまま捨てるほど不信心ではない。桜子はワンピースのポケットに御守袋を納め、そのままゴロンと横になった。
【弐】扉ノ向コウニ棲マヒシ者
――翌朝。
「おはようございます!」
靴音高く、椎葉桜子は犬神怪異探偵社の扉を開いた。長靴下を買い直し、洋装を貫いたのは、桜子なりの意地だ。
だが、返事はなかった。事務所を見渡しても人影はない。
「……え?」
桜子は仕方なく中に入り……そして、応接テーブルの置き手紙を見付けた。
そこには、やはり読みにくい字でこうあった。
『出掛ケマス。掃除ヲヨロシク』
そして最後に、こう付け加えてある。
『左ノ扉ハ絶対ニ開ケヌ事』
そういえば、契約書にも扉を開けるなと書かれていた。
桜子は辺りを見回し、窓とは反対側に目をやると、果たして、そこには扉があった。
コート掛けの陰になり、長椅子からは死角になっていて、昨日は気付かなかったのだろう。
桜子は扉に近付く。入口と同じく樫の扉。ピタリと閉ざされ、その向こうは窺い知れない。
しかし、気になるからといきなり開けるほど、桜子は子供ではない。一旦テーブルに戻り、前掛けをして腰に手を当てた。
「さて、お仕事よ」
ハタキで棚の埃を落とし、箒で塵を集める。机を拭き、窓を拭き、床を拭く。流しのティーカップを洗い、茶箪笥の整理をして、屑入れにゴミをまとめる。
……しかしながら、客はおろか、主の犬神零も帰って来る気配はない。
ポツンと一人きりの事務所。慣れない場所に無為に置かれるのは、心許ないものだ。
そんな時はつい、余計な事を考える。
――あの扉の向こうには、何があるのかしら。……開けなきゃいいのよね。
桜子は足音を忍ばせて扉に近付いた。扉に耳を当てて様子を窺う。
すると、中で物音がした。カラカラと何かを転がすような音。そして、子供の呟き声。
――子供? もしかしたら、昨日の悪戯書きの犯人だろうか? ……ひょっとして、あの人の隠し子とか? 学校にも行かせないで部屋に閉じ込めておくなんて、許せないわね。
桜子は一旦退がり、窓の外を確認する。通りに犬神零の姿がないと見ると、再び扉の前に戻った。
ノブを掴み、ゆっくりと引く。扉は音もなくスッと動いた。
桜子が中を覗くと、そこは納戸のようだった。
六畳ほどの広さの小部屋。四方を棚に囲まれ、そこに雑然と物が置かれている。天窓からの光で、中は明るい。
……その天窓の下の床に、一人の子供がこちらに背を向けて座っていた。七、八歳くらいの男の子だ。毛先がクルンとした髪をツヤツヤさせ、白いシャツに紺色のチョッキを着て床を見下ろす。先程よりはっきりと聞こえる音から察するに、サイコロを転がしているようだ。そしてブツブツと独り言を呟く。
「……八……十一……五……三……」
桜子は察した。学校に行かせてもらえないから、サイコロの目を数えて、自分で勉強をしているのだ。こんな薄汚い部屋に閉じ込めるなど、虐待に他ならない。
何て可哀想な子なの――と、桜子は声を掛けた。
「もう大丈夫よ、安心して。私が助けてあげるから」
すると子供はビクッと振り返った。見開いた目は黒曜石のように輝き、柔肌が眩いばかりの美少年だ。
桜子は手を差し伸べた。
「私に任せて。ここから出してあげる。さあ」
だが、少年の口から飛び出したのは、子供らしからぬ言葉だった。
「無礼者! 無断で扉を開けるなとあれほど申しておいたのに、何故開いた!」
キョトンとしたのは桜子の方だ。
「え? だってあなた、あの人の隠し子で、ここに閉じ込められてるんでしょ?」
「たわけが。思い込みもはなはだしい」
少年はよいしょと立ち上がり、桜子を部屋から押し出して、バタンと扉を閉めた。
桜子はそのまましばらくポカンと樫の木目を眺めた。
……何なの、あのガキンチョ。お公家かお武家みたいな話し方をして偉そうに。
猛烈に腹が立ってきて、桜子は再びノブを引いた。
扉はスッと開き、少年が苛立った表情をこちらに向けてくる。
「分かったわ。私があなたに礼儀を教えてあげる。さ、こっちに来なさい」
「嫌じゃ」
桜子は少年の腕を引っ張った。
「嫌じゃないわ。さあ、来るのよ」
いくら生意気を言っても、子供の腕力では大人に敵わない。
「狼藉を働くとは許せぬ!」
少年はジタバタと抵抗しつつも引き摺られ、挙句に桜子の手を引っ掻いた。
「痛ッ!」
桜子が手を緩めた隙に、少年は彼女の横をすり抜けて事務所に飛び出す。
「待ちなさいよ、コラ!」
桜子が追い掛けると、少年は身軽に机を回り込む。そしてタタッと納戸に戻り、再び彼女の目前で扉を閉めた。
「……本気で腹が立ってきたわ」
桜子は両手でノブを引っ張る。しかし、今度は内側からも引っ張っているようで、簡単には開かない。
「出てきなさいよ、このクソガキ! 懲らしめてやるわ」
「左様に言われてノコノコ出ていく阿呆がおるか!」
しかし、引っ張り合いなら体が大きい方が勝つのが道理である。桜子がグイと体重を掛ければ――
「アアッ!」
と扉に引かれて少年は転がり出た。
桜子は腰に手を当てて睨み下ろした。
「覚悟なさい!」
しかし、少年に怯んだ様子はない。彼は忌々しげに舌打ちすると、ニッカポッカのポケットから何かを取り出した。
「致し方あるまい」
少年が腕を振ると、ピンと伸ばした中指と薬指の間に挟まれた、紙切れのようなものが手から離れる。それはくるくると宙を舞い、桜子の目の前でピタリと静止した。
白い和紙を人の形に切り抜いた人形。お祓いに使うようなやつだ。しかしそれが、空中にピタリと留まっている状況は、桜子には理解できない。
「……え……?」
動揺する桜子に、少年が吐き捨てる。
「六合よ、出よ」
すると、人形が焔に包まれた。黄金色の鮮烈な光を放ち、それはある形を象った。
――顔。柔和な老爺。細めた目尻に皺が寄り、白い顎髭が揺れる。まるで、翁の能面のよう。
その顔だけが、桜子の目の前に生々しく浮いているのだ。そんな異常な状況を前にして、冷静でいられるはずがない。
桜子は腰を抜かした。そして大きく目を見開いて息を吸う。それが絶叫になる寸前。
「黙らせよ」
少年が言うと、老爺の顔がフッと微笑む。桜子の目は、その視線に捉えられた。
途端に体が重くなる。意識が薄らぐ。
「あ……あれ……」
このままだと眠ってしまう。桜子は必死で床を這い、長椅子に半身を預けた。しかしそこで、彼女の意識は途切れた。
……目を開くと、知らない顔が桜子を覗き込んでいた。
白髪交じりの結髪に、洗いざらしの割烹着の、恰幅の良い婦人。彼女は弛んだ目元を細めて、桜子に話しかける。
「やっとお目覚めかい? 仕事始めから昼寝とは、いい度胸だね」
その言葉にハッとして、桜子は飛び起きた。
……毛布が掛けられている。かなりの長時間、寝入っていたという事だろう。しかし、桜子に昼寝をした覚えはない。
「あ、あの、私、そんなんじゃ……」
否定したいが、眠る前の行動が一切思い出せない。それに、この婦人が誰かも分からない。
すると、奥から聞き覚えのある声がした。
「隣家のサダさんです。お裾分けを持ってきてくださったところ、あなたが寝ていたので、毛布を貸してくれたんですよ」
そう言いながら、犬神零は湯気の立つティーカップをテーブルに置いた。
「目覚ましにどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
桜子は礼を言って毛布をサダに返し、舌が痺れるほど渋い紅茶を一気に飲み干した。
「シゲちゃんの紹介って言うから、どんな子かと思ったけど、なかなか大した子だね」
サダが嫌味を言う。桜子はむくれて見せたものの、反論できない。
「しかし、桜子さんがきちんと掃除をなさったのは、見れば分かります。何か、特別な事情があったのでしょう」
零にそう言われて、サダは渋々引き揚げていった。
「さて……」
呆然とする桜子の向かいに、零は腰を落ち着けた。
「あの扉を開けたのでしょう?」
彼の指が示す方向にある扉。
混乱する桜子の様子に、零は苦笑した。
「無理もありません。あの方に術を掛けられたのでしょうから」
「……術?」
零はわざとらしく周囲を見回し、声をひそめた。
「明治の世になってからは、名乗る事を禁じられていますから、こんな話が他に漏れると、私はお縄になってしまいます。ですから、内緒ですよ?」
「はぁ……」
「私、陰陽師の一族でして」
キョトンとする桜子の前に、零は一枚の名刺を置いた。
「犬神『怪異』探偵社――昨日は詳しく説明しませんでしたが、私、ただの探偵ではないのです。もちろん、人捜しや浮気調査、飼い猫の捜索なんて事もします。ですが、私が専門とするのは、人が起こした事件ではなく、呪いが引き起こす『怪異』です」
「け、い……?」
「普通は怪異と読みますけどね。我々の業界では『怪異』と呼びます。常識では説明のつかない不可解な現象、とでも言いますか。それもそのはず。何せ犯人は、人の『心』ですから」
「…………?」
「その不可解な現象の原因を取り除くのが、我々陰陽師の仕事です。その原因は、大抵『妖』や『鬼』と呼ばれる存在です。妖と鬼は何が違うのかと言うと、妖は積極的に人に害を為さない存在、鬼は害を為す存在。人間側の都合でそう呼び分けているだけで、元は同じものです。そして、妖や鬼を呼び寄せるものは、必ず、人の負の感情、つまり『呪い』なのです」
昨日と同じく、零はベラベラと口を動かし、桜子はポカンとそれを眺める。
「ですから、鬼を退治するだけでは、怪異は終わりません。呪いがまた別の鬼を呼び寄せますから。人の心の形を完全に解明し、呪いを解かなければ、真に解決とは言えないのです」
昨日も、勘違いした零が『覚悟』が何とか喋っていたが、それはこういう意味だったのかと、桜子は理解した。
「そして、桜子さんも聞いた事はありますかね、『式神』という名を。一部の陰陽師が使役する鬼の事ですが、なぜ鬼を『神』と呼ぶのか。それは、鬼と神もまた、根源は同じものだからです。人にとって都合良く作り変えた鬼を神と呼ぶ場合があるんです。もちろん、太古より存在する原初の神もいます。そういう存在は、我々には祓う事が困難でしてね、触らぬよう、祟られぬよう、ご機嫌を取り続けている。人と神との関係は、そういう……」
黙っていたら、いつまでも話は終わらないだろう。桜子はコホンと咳払いをした。
「それとあの扉と、どういう関係が?」
すると零は気まずそうに頭を掻いた。
「つい余計な話を。あの扉の向こうには子供がいまして。親族の子供なんですがね、あまりに能力が高くて、持て余した末に、私が預かる事になったのです」
「へぇ……」
「陰陽師というのは、基本的には占い師や祈祷師の類です。ですが時折、異能を持つ者が現れる。先程言った『式神』です。式神は本来、人に害を為す鬼ですから、それを手懐けるというのは並大抵の事ではありません。自由自在に操れるのは、ごく一部の異能を持つ者のみ。もちろん、私はそんなもの使えません」
「はぁ……」
「それは便利であると同時に、とても恐ろしいものです。悪意のある使い方をすれば、人を傷付けたり、世の中を混乱に陥れたりもできる。先程、桜子さんを眠らせたのも、式神の能力です。……そんな事情で、仕方なく預かったものの、ひねくれ者で手を焼いていましてね。自分の城とばかりに納戸に引きこもって、私も入れてもらえません」
「ふうん……」
「ですから、あまり刺激しないように。良いですね?」
そう言って零は、テーブルに置かれた小鉢を桜子に勧めた。
「サダさんに頂いたハゼの佃煮です。江戸っ子らしく、口は悪いですが、佃煮の味は絶品です」
釈然としないまま、桜子はハゼを摘まんだ。濃い目の味付けは、なるほど美味しい。
「ところで……」
零も一匹摘まみながら、軽く腕を組んだ。
「若い女性にお伺いしたいのですがね」
「何ですか、急に」
二匹目を手に取り、桜子は零にチラリと目を向けた。
「女性にとって、衣装とは、沢山持っていた方が良いものですか?」
唐突な質問を訝しく思い、桜子は犬神零を観察するが、その薄笑いからは何一つ読み取れない。
彼女は仕方なく答える。
「うーん、手入れや片付けが大変だし、私は、気に入ったのが何枚かあればいいわ」
「そうなのですね、なるほど……」
零はわざとらしい仕草で手を顎に当てた。桜子に聞かせたい話があるが、自分から話すのは秘密保持の立場上良くない。だから、桜子に聞かれて仕方なく……という体裁を作りたいのだろう。
その思惑に乗るのは癪だったが、好奇心には勝てず、桜子は三匹目のハゼを口に運びながら尋ねた。
「何で、そんな事を聞くんですか?」
すると案の定、零はニヤリとして話しだした。
「いえね、今依頼を受けている方が、言わば衣装中毒のような方でして……」
◇
――御影弥生が犬神怪異探偵社を訪れたのは、七日前の事だった。
歳の頃は十七、八だろう。長く下ろした黒髪に、斬新な柄のワンピースが目を引く。しかしその装いに負けないほど、彼女自身の容姿も非常に整っていた。
赤いハイヒールを鳴らして応接に進み、長椅子にドカリと座ると、弥生は零に言った。
「扉を開けてほしいの。お金ならあるわ」
――おやおや、随分な物言いをなさる。零は紅茶を淹れながら応えた。
「建て付けが悪いのなら建具屋に、鍵を失くしたのなら錠前屋に行かれては?」
「もちろん行ったわよ。でも全部断られたわ。だからここに来たの」
不機嫌に零を見据えるその容貌は、絵画から飛び出てきたように美しい。ただ、あまりに整いすぎているため、人間味に欠ける印象を受ける。
零は弥生の前にティーカップを置き、自分も向かいに腰を下ろした。
「お受けできる保証はありませんが、どのような扉なのか、お聞かせ願えますか?」
すると弥生は、黒いタイツに包まれた形の良い脚を組んだ。
「土蔵の扉よ」
「ほう、どのような土蔵で?」
「うちは昔からの地主で、代々の家宝とか、村の祭りの道具なんかが収められてるらしいわ」
「いつから開かないんです?」
「私が物心つく前から」
「それは随分ですねえ」
弥生が手を付けないので、零は自分のティーカップを手にした。
「どうして開かないのですか?」
「大きな錠前が五つ、ぶら下がってるの」
「しかし、錠前ならば錠前屋……」
「だから、錠前屋には断られたの。蔵の前まで来たけれど逃げ帰ったわ」
零は目を細めて弥生を見据えた。
「なぜ?」
弥生は少し躊躇を見せた後、俯き加減に答えた。
「異常なの。おかしいのよ。けれど、なぜそうしているのか、両親に聞いても答えてくれないの。鍵を失くしたとしか」
「具体的には、どう異常なんです?」
弥生は組んだ脚を解き、膝を揃えて手を置いた。
「御札よ。御札が、元の扉が見えないほど貼り重ねられているの」
「……なるほど」
確かに尋常ではない。
つまり、そうまでして隠しておきたい何かが、その蔵には眠っているという意味だろう。
零のところに持ち込まれるべき案件には違いない。
今度は零が脚を組んだ。
「異常なのは御札だけですか? 奇妙な現象などはありませんか?」
「音がするわ」
「音、というと?」
「小さい頃から、あの蔵が怖かった。夜になると、妙な物音がして」
「どんな音です?」
「ガサッ、とか、ゴトッ、とか」
「それだけ?」
「それだけよ」
……おかしい。扉を封印する理由としては、怪異が小さすぎる。
零は目を細めた。
その態度が不満だったのか、弥生は刺々しい声を出した。
「この依頼、受けるの、受けないの?」
「真の解決を望むか否か、あなたのお心次第です」
「……どういう意味?」
零は膝の上で手を組み、弥生を真っ直ぐ見据えた。
「扉を開けば、あなた、そしてご両親の知られたくない過去、隠さねばならない秘密を解き放つ事になるでしょう。……あなたに、それを受け止める覚悟はおありですか?」
弥生はくっきりとした目を大きく見開き、零を見返した。
そしてフッと視線を逸らして立ち上がると――
「いいわ。そうやって断るのね。他を当たるわ」
そう言って出ていってしまった。
客を取る気がまるで感じられないその物言いでは、当然の結果である。
しかし、本当に悩んでいるのであれば、その程度で諦めたりはしないだろう――この時零はそう確信していた。
果たして翌日、弥生は再びやって来た。
彼女は昨日とは打って変わって、しおらしく長椅子に納まると、零を見上げる。
「やっぱり、お願いする事にしたわ」
黒のセーターに黒のスカートという控えめな衣装の中で、ベレー帽に飾られた薔薇のコサージュが、鮮やかに自己主張をする。
「では、お聞かせ願えますか?」
ティーカップを弥生の前に置き、零は促した。
「――あなたの、真の目的を」
彼女はカップを手に取り、じっと紅い液体を見つめる。
「……お金が欲しいの」
「ほう……」
「だって、開けもしない蔵に、家宝を入れっ放しにしておくなんて、勿体ないじゃない」
顔を上げた弥生の目は、零を見ると揺らめいた。
「そのお金を、何に使われるので?」
弥生は恨めしそうに零を睨み、やがて諦めた様子で答えた。
「服が欲しいの。上等な服を何枚買っても、全然足りないの。普通じゃないとは、自分でも分かってる。両親は病気か狐憑きかと、医者や祈祷師に診せたわ。でも、治らないの」
0
お気に入りに追加
92
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。
だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。
全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。