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CASE1 菅池しおりの場合
⑩
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「――ですが、その前に。もうひとつだけ確認を」
胡座をかいた膝に手を乗せ、獄楽は身を乗り出した。
「その古いトイレは、その後、どうなりましたか?」
しおりは顔を上げ、記憶を探るように答えた。
「確か、あの事件があって間もなく、道路の拡張工事があって、壊されました。結局、あの『声』が何だったのか、分からずじまいで」
「……あなたはそれから、何事もなく?」
そう言われ、しおりの顔は青ざめた。あの恐ろしい声を思い出したのだ。
――ユ る サ な ィ。
しかし、記憶にある限り、怪奇現象はあの時だけで、あとはごく普通に過ごしてきた。
どきまぎしながら、しおりは返事をした。
「……はい、何も……」
「分かります、分かりますとも」
「…………?」
獄楽は細い目を更に細める。
「あなたが幼い頃にお亡くなりになった、お祖父様、お祖母様に、お会いになった事は?」
「何度か会った事はあるそうなんですが、記憶にないんです」
「なるほど、なるほど……」
獄楽は着物の袖に手を入れて腕を組んだ。
「お祖父様、お祖母様の事を、常に心に置いて、お大事になさい」
「はぁ……」
「ずっと見ておられますよ。――あなたは、生まれてこのかた、ひとりぼっちだった事などないのです」
顔も知らない祖父と祖母が、守ってくれていると言いたいのだろうか?
だがそれを確かめようとする前に、獄楽は消しゴムを摘み上げた。
「では、この品をお預かりするお値段ですが……」
と、文机から算盤を取り出す。
「あなたのお話は、なかなかお目に掛かれない、貴重なものでした。――という訳で、このくらいで」
獄楽は柵越しに算盤を見せたが、しおりにはその数字が読めない。
戸惑う彼女に、獄楽はゆっくりと口を動かした。
「――二千円、で、如何ですかな?」
「に、二千円?」
しおりは驚いた。
「元の値段は百円くらいのものだと……」
「はい。うちはモノの価値ではなく、それに纏わる奇談を、評価させて頂きますので」
「はぁ……」
「本当はもう少し、評価を高く見積っても良いのですが、あなたはまだお若い。このくらいにしておいた方が良いと思いましてな」
もう一度、消しゴムを示して、獄楽は念押しする。
「宜しいですかな?」
「は、はい。もちろん」
すると、獄楽は文机の端に手を伸ばした。
そこにあるものを取り上げ、頭の上にかざす。
数珠、だろうか。
小さな珠を連ねた、手首に巻けるほどの大きさの輪に、幾つかの鈴が通してある。
彼は手首を振り、それを鳴らした。
――シャン。
澄んだ音色が店内に響く。
何の儀式だ? と、しおりが戸惑うと同時に、右手奥の暖簾が揺れた。
――そこから現れたのは、狐面を顔に被った子供。
彼岸花の模様の着物に真っ赤な袴を履いている。袖口から細い腕を伸ばして、両手で朱塗りの高坏を掲げ、しずしずとこちらにやって来た。
そして、足音もなくしおりの前に高坏を置くと、獄楽の隣に退がり正座をする。
「…………」
不可解な子供の登場に、しおりは戸惑った。
体の大きさから察するに、十歳くらい――ちょうど、しおりが奇妙な体験をした年齢と、同じくらいだろう。
顔全体を覆う狐面の向こうで、どんな表情をしているのか分からない。
そんな子供が、薄ら笑いを浮かべる獄楽と並んでいるのは、滑稽を通り越して不気味である。
「どうぞ、お確かめください」
くぐもった声がしおりを促す。狐面の子供だ。感情の欠片もないその言葉からは、性別すらも窺えない。
しおりが戸惑っていると、獄楽が子供を指し示した。
「あぁ、ご紹介しておきましょう。――この子は、ココと言います。アルバイトです」
「アルバイト……」
こんな奇妙な店で働いている、しかも子供である。不思議に思わない方がおかしいだろう。
だがココは、そんなしおりに赤く縁取りされた眼窩を向ける。
「どうぞ、お確かめください」
抑揚のない調子でもう一度言われ、しおりはハッと高坏に目を向けた。
朱塗りの丸皿の上に、丁寧に畳まれた紺の袱紗。
金色の房の付いた角を開くと、そこには千円札が二枚置かれていた。
そっと手に取る。
すると獄楽が声を掛けた。
「お間違い、ありませんかな?」
「……確かに」
しおりが答えると、獄楽は満足気にニヤリとした。
「原則、お預かり期間は三ヶ月なのですがね、あなたを見るに、もう少し、期間が必要かと思われます」
獄楽は細い目をじっとしおりに向ける。居心地の悪いその視線に、彼女は軽く身を引いた。
「そうですね。――五年と半年、お待ちしましょう」
獄楽は消しゴムを、ココが回収した高坏に置く。
「それまででしたら、いつお越し頂いても、質草はお引き取り頂けます。……まぁ、お支払いした金額に、利息は上乗せさせてもらいますが」
「…………」
「もし、五年と半年を過ぎても、お引き取りに来られなければ、こちらで処分させて頂きます。一日でも過ぎれば、それ以上はお待ちできませんので、お忘れなきよう。お引き取りの際は、先程お渡しした名刺と引き換えです。くどいようですが、くれぐれも失くされないよう、お気を付けください」
「わ、分かりました……」
そう答えてから、しおりは訝しい目を獄楽に向けた。
「……失礼ですけど」
「何か?」
「百円のものを二千円で買い取って、商売になるんですか?」
獄楽は細い目尻を下げて、ククク……と笑い声を漏らす。
「それは、またお会いした時のお楽しみ、としましょう」
そう言うと、獄楽は背筋を伸ばし、頭を下げた。
「この度はご利用、誠にありがとうございました」
胡座をかいた膝に手を乗せ、獄楽は身を乗り出した。
「その古いトイレは、その後、どうなりましたか?」
しおりは顔を上げ、記憶を探るように答えた。
「確か、あの事件があって間もなく、道路の拡張工事があって、壊されました。結局、あの『声』が何だったのか、分からずじまいで」
「……あなたはそれから、何事もなく?」
そう言われ、しおりの顔は青ざめた。あの恐ろしい声を思い出したのだ。
――ユ る サ な ィ。
しかし、記憶にある限り、怪奇現象はあの時だけで、あとはごく普通に過ごしてきた。
どきまぎしながら、しおりは返事をした。
「……はい、何も……」
「分かります、分かりますとも」
「…………?」
獄楽は細い目を更に細める。
「あなたが幼い頃にお亡くなりになった、お祖父様、お祖母様に、お会いになった事は?」
「何度か会った事はあるそうなんですが、記憶にないんです」
「なるほど、なるほど……」
獄楽は着物の袖に手を入れて腕を組んだ。
「お祖父様、お祖母様の事を、常に心に置いて、お大事になさい」
「はぁ……」
「ずっと見ておられますよ。――あなたは、生まれてこのかた、ひとりぼっちだった事などないのです」
顔も知らない祖父と祖母が、守ってくれていると言いたいのだろうか?
だがそれを確かめようとする前に、獄楽は消しゴムを摘み上げた。
「では、この品をお預かりするお値段ですが……」
と、文机から算盤を取り出す。
「あなたのお話は、なかなかお目に掛かれない、貴重なものでした。――という訳で、このくらいで」
獄楽は柵越しに算盤を見せたが、しおりにはその数字が読めない。
戸惑う彼女に、獄楽はゆっくりと口を動かした。
「――二千円、で、如何ですかな?」
「に、二千円?」
しおりは驚いた。
「元の値段は百円くらいのものだと……」
「はい。うちはモノの価値ではなく、それに纏わる奇談を、評価させて頂きますので」
「はぁ……」
「本当はもう少し、評価を高く見積っても良いのですが、あなたはまだお若い。このくらいにしておいた方が良いと思いましてな」
もう一度、消しゴムを示して、獄楽は念押しする。
「宜しいですかな?」
「は、はい。もちろん」
すると、獄楽は文机の端に手を伸ばした。
そこにあるものを取り上げ、頭の上にかざす。
数珠、だろうか。
小さな珠を連ねた、手首に巻けるほどの大きさの輪に、幾つかの鈴が通してある。
彼は手首を振り、それを鳴らした。
――シャン。
澄んだ音色が店内に響く。
何の儀式だ? と、しおりが戸惑うと同時に、右手奥の暖簾が揺れた。
――そこから現れたのは、狐面を顔に被った子供。
彼岸花の模様の着物に真っ赤な袴を履いている。袖口から細い腕を伸ばして、両手で朱塗りの高坏を掲げ、しずしずとこちらにやって来た。
そして、足音もなくしおりの前に高坏を置くと、獄楽の隣に退がり正座をする。
「…………」
不可解な子供の登場に、しおりは戸惑った。
体の大きさから察するに、十歳くらい――ちょうど、しおりが奇妙な体験をした年齢と、同じくらいだろう。
顔全体を覆う狐面の向こうで、どんな表情をしているのか分からない。
そんな子供が、薄ら笑いを浮かべる獄楽と並んでいるのは、滑稽を通り越して不気味である。
「どうぞ、お確かめください」
くぐもった声がしおりを促す。狐面の子供だ。感情の欠片もないその言葉からは、性別すらも窺えない。
しおりが戸惑っていると、獄楽が子供を指し示した。
「あぁ、ご紹介しておきましょう。――この子は、ココと言います。アルバイトです」
「アルバイト……」
こんな奇妙な店で働いている、しかも子供である。不思議に思わない方がおかしいだろう。
だがココは、そんなしおりに赤く縁取りされた眼窩を向ける。
「どうぞ、お確かめください」
抑揚のない調子でもう一度言われ、しおりはハッと高坏に目を向けた。
朱塗りの丸皿の上に、丁寧に畳まれた紺の袱紗。
金色の房の付いた角を開くと、そこには千円札が二枚置かれていた。
そっと手に取る。
すると獄楽が声を掛けた。
「お間違い、ありませんかな?」
「……確かに」
しおりが答えると、獄楽は満足気にニヤリとした。
「原則、お預かり期間は三ヶ月なのですがね、あなたを見るに、もう少し、期間が必要かと思われます」
獄楽は細い目をじっとしおりに向ける。居心地の悪いその視線に、彼女は軽く身を引いた。
「そうですね。――五年と半年、お待ちしましょう」
獄楽は消しゴムを、ココが回収した高坏に置く。
「それまででしたら、いつお越し頂いても、質草はお引き取り頂けます。……まぁ、お支払いした金額に、利息は上乗せさせてもらいますが」
「…………」
「もし、五年と半年を過ぎても、お引き取りに来られなければ、こちらで処分させて頂きます。一日でも過ぎれば、それ以上はお待ちできませんので、お忘れなきよう。お引き取りの際は、先程お渡しした名刺と引き換えです。くどいようですが、くれぐれも失くされないよう、お気を付けください」
「わ、分かりました……」
そう答えてから、しおりは訝しい目を獄楽に向けた。
「……失礼ですけど」
「何か?」
「百円のものを二千円で買い取って、商売になるんですか?」
獄楽は細い目尻を下げて、ククク……と笑い声を漏らす。
「それは、またお会いした時のお楽しみ、としましょう」
そう言うと、獄楽は背筋を伸ばし、頭を下げた。
「この度はご利用、誠にありがとうございました」
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