奇談屋「獄楽堂」

山岸マロニィ

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CASE1 菅池しおりの場合

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 扉の向こうからは、声以外の物音は一切しない。
 ただ声だけが、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

「まるでいないみたいに、みんなに無視されて、それで、私……。まさか、こんなところに来る人がいるなんて思わなくて、ごめんなさい」

 声はまたもや謝る。
 しかし奇妙だった。しおりはずっと扉を見据えているが、まるで人の気配を感じないのだ。
 声の主も、しおりと同じように、息を殺して身を潜めているのか。
 ならばなぜ、わざわざ声を掛けてきたのか。

 ――もしや、扉の向こうにいるのは……。

「怖くはない? 大丈夫?」
 だが、気遣う声は優しかった。……これまで教室で掛けられた、どの言葉よりも。
「こんなところに来るなんて、よほど辛い事があったのね。……もし良かったらだけど、聞かせてくれない?」

 全身から力が抜ける感じがした。張り詰めていたものが一気に解けて、しおりはまた嗚咽を漏らした。

 顔の見えない存在というのは不思議なものだ。
 SNSと同じ感覚かもしれない。
 何を喋っても受け流してくれるのではないかと錯覚を起こし、洗いざらい語ってしまうのだ。

 しおりもこの時、姿の見えない声だけの存在に心を許し、教室であった事を話した。
 声は時折相槌を打ちながら、静かにしおりの話を受け入れた。
 そして再び泣きむせぶ彼女に言った。

「可哀想なしおり」

 その言葉に、しおりは顔を上げた。
「……え?」
「しおりは何も悪くないのに」

 優しく同情する声は、しおりを驚かせた。
 ――ずっと言われてきた。
 友達がいないのは、自分から誘わないから。
 みんなが振り向いてくれないのは、声が小さいから。
 だから、消しゴムを取り返せなかった事も、強く言えなかった自分が悪いと思っていた。
 だから、どうしようもなく悲しくて、教室から逃げたのだ。

 声は繰り返した。
「しおりは何も悪くないのに、おかしいよ」
「…………」
「悪いのは、消しゴムを盗んだ子と、その子の味方をした子たち。しおりは何も悪くない」

 嬉しかった。
 初めて自分を分かってくれる人に出会えたと思った。
 ペンキの剥げた扉の向こうで、気配を殺している声だけの存在が、この時、しおりの中でとてつもなく大きなものになった。

「ありがとう……」
 震える声でそう返すと、声は続けた。
「辛かったのね。ずっとずっと、辛かったのね」
「…………」
「良かったわ、あなたのお話を聞けて。……もしかしたら、私、あなたの味方になれるかもしれない」

 その言葉に、再びしおりは目を丸くした。
「……味方?」
「そう。あなたはもう一人じゃないわ。……そして、私ももう、一人じゃない」

 雲が動き、ひび割れた窓ガラスから入る日差しが揺れた。
 窓の隙間から、雀の声がチュンチュンと小屋に響く。
 この狭い空間が現実世界と繋がっている。その光景は、しおりにそう認識させた。

 声はなおも優しくしおりに語り掛ける。
「……ねえ、私がその消しゴム、取り返そうか?」
「えっ……」
 でも、どうやって?

 声の主が、この扉から出てくるのだろうか。
 そう思うと、なぜかしおりの心に、逃げ出したいほどの恐怖が湧き上がった。
 こんなに優しい言葉の主が、こんなに暗く汚ないトイレの廃墟の個室から、どんな顔をして出てくるのか。
 知ってはいけない気がした。
 ――そしてしおりには、その姿は必要なかった。
 耳障りの良い声。それだけで十分だったから。

 しおりの心配をよそに、声はカラカラと明るく笑った。
「さっき言ったでしょ? みんな、私の事が見えていないの。だから、簡単よ」
「でも……」
「大丈夫。私はあなたの味方よ」

 声はそう言うと、おどおどした様子で続けた。
「でも、お願いがふたつあるの」
「何?」
 少しの沈黙があった。
 それから声は、ゆっくりとこう言った。

「消しゴムを取り返したら、お友達に、なってくれる?」

 ――友達。
 しおりが心から憧れた言葉だった。

 こんな気持ちは、誰にも分かるはずはないと思っていた。
「友達は何人できた?」
「友達を誘ってみたら?」
「友達に相談したら?」
 『友達』がいるのが当たり前の前提で話を進める大人たち。
 そんな中で、「今日も友達ができなかった」と、胸が裂けそうな思いで帰宅する日々。
 教室だって同じだ。
 一人でいる、という事が、まるで悪い事のような視線。
 だから、いかに「友達がいない」という事実を誤魔化すか、それに神経をすり減らすのだ。
 休み時間にはそっと、教室を抜け出す。
 負の連鎖だとは分かっている。一人、誰も来ない場所に隠れていれば、友達なんかできるはずがない。
 そんな罪悪感を押し殺して、「ただいま」と笑顔で帰宅する。

 こんな毎日に、しおりは疲れ果てていた。

 ……そこから抜け出せるかもしれない存在が、今、この扉の向こうにいるのだ。

 姿は見えない。こんな不気味な場所に身を隠している、得体の知れない存在。
 それでもいいと、しおりは思った。
 今日、心からの笑顔で帰宅できるのなら。

 しおりは答えた。
「……うん」

 すると声は弾けるように答えた。
「ありがとう、嬉しい」
「私もだよ」
 友達という存在は、こんなにも心を安らかにするのか。自然としおりも、笑顔になっていた。

「じゃあ、もうひとつのお願い。……これは、友達としての、内緒のお約束だよ」
「何?」
「ここのトイレは、私たちだけの秘密の場所」
「でも、用務員のおじさんが来るでしょ?」
 そう聞くと、声は言いにくそうに答えた。
「おじさん、先月足を怪我して、辞めてしまったの」
「そう、なんだ……」
「だから、ここにはもう、誰も来ないのよ」

 声は途切れた。だが、期待に満ちた空気が、しおりにも伝わってきた。
 しおりは答えた。
「うん。ここは、私たちだけの秘密基地。誰にも内緒よ」
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