奇談屋「獄楽堂」

山岸マロニィ

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CASE1 菅池しおりの場合

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 体育館と塀との隙間を抜けた奥。
 真っ昼間でも薄暗い場所にある小屋を前にすると、だがしおりの足は竦んだ。

 黒ずんだコンクリート壁。雨垂れ伝いに苔がむしている。ひび割れた窓の横から錆び付いた換気扇のパイプが伸びていて、そこから垂れた赤錆が、流血の跡のように禍々しくコンクリートを染めていた。
 四角く開いた入口の扉は傾いて、ささくれ立った木肌に触れただけで怪我をしそうだ。

 ――それ以上に、扉の隙間から窺える、内部に漂う重い闇。
 とても一人で入れる場所ではない。

「……どうしよう……」

 あまりに心細くなり、しおりは声に出して呟いた。
 首筋を通り抜ける風の冷たさと、ふくらはぎを撫でる草の感触が、彼女の不安を増幅させる。

 教室に戻ろうか。
 急速に膨れ上がった思考は、だが先程の心の痛みに触れると弾けた。……クラスメイトたちの視線。今教室に戻れば、あれ以上のものを浴びなければならない。それに耐えられる気が、しおりにはしなかった。

 その時。
 話し声が近付いて来るのが聞こえた。もしかしたら、教頭先生とか事務員さんが、私を探しているのかもしれない。
 居ても立っても居られず、しおりは扉に近付いた。
 ……用務員のおじさんは、普通に出入りしているのだ。だから、大丈夫。
 何とか気持ちを誤魔化して、しおりは指先でそっと扉を押した。

 蝶番ちょうつがいは滑らかに動いた。小さくキーという音がして、扉は内側に開く。
 むわっと何とも表現し難い匂いが漏れ出る。カビ臭いような枯葉の腐ったような。けれど、長年トイレとして使われていなかっただけあって、そういう匂いはしなかった。
 足音まで聞こえてきた。しおりは意を決して、その隙間に身を潜らせた。

 ――内部は、思ったほど暗くはなかった。ひび割れた窓ガラス越しに明かりが入っているので、中に何があるのか程度は見渡せる。

 ひなびた神社にある、古びた男女兼用トイレ、といった空間。右手にコンクリートで囲われただけの小便器と、奥に個室がふたつ。遊びに行った先でそこしかなくても、入るのを躊躇うほどの古臭さだ。

 そして、左手の窓際には、シャベルや熊手、竹箒に竹箕たけみなどが立て掛けてある。
 用務員のおじさんが丁寧に使っているのだろう、蜘蛛の巣や虫の死骸がないだけ、しおりは胸を撫で下ろした。

 話し声が大きくなった。しおりは扉を閉め、隙間から見えてはいけないと壁に寄って膝を抱えた。息を殺して聞き耳を立てる。
 ……話し声は、体育の先生のようだった。失くしたボールを探しに来たのだろう。「あったぞ」と誰かに返事をすると、そのまま校舎の方へ去って行った。

 ――残されたのは、風のざわめく音と、しおり自身の呼吸音だけ。
 これからどうすればいいのか。全く見当が付かない。
 こんなところにいてはいけないのは分かっている。でも、次の見通しがなければ動けないものだ。

 それ以上に、動くのが怖かった。
 閉ざされた個室の扉。気配に気付かれた瞬間、その向こうから何者かが出て来るのではないか。そんな妄想が彼女の身を強張らせていた。

 どのくらいそうしていたか分からない。時間の流れから切り離された空間は、時が止まったようにも、数倍の速さで流れているようにも思えた。



 ……そして、ふと気付いた。

 声がする。

 小さく、囁くような声。

 こんなところで声がするなんておかしい。理性がそう告げる。

 その途端、しおりの体は金縛りにでも遭ったように硬直した。
 視線は黒ずんだ小便器の端に固定され、瞬きすら許さない。

 しかし、耳だけはじっと声に集中する。
 言葉を捕らえようと、全ての意識が声に向けられた。

 ――ねぇ。

 掠れた声は、そう言っているように聞こえた。

 ――ねぇ。

 少し間を置いて、同じ調子で繰り返される。
 粟立つ肌の毛穴ひとつひとつに至るまで、その声の元を探ろうと張り詰める。

 そして、それがこの小屋の内部から聞こえると分かった刹那、耳がはっきりと言葉を捉えた。


「ねえ」


 ヒッと息を呑んだまま呼吸が止まる。
 風のざわめきは止み、凍り付いた静寂が小屋を満たす。

 心臓も血管も、血の流れを忘れたのではないかと思った。
 視界が薄らぎ、頭が締め付けられる気がした。

 すると再び声がした。
 だが今度は、明らかに意志を持った言葉だった。

「驚かせてしまったのならごめんなさい」

 女の子の声だった。しおりと年齢はそう変わらないだろう。
 穏やかな声だ。

 とはいえ、こんな場所で聞こえる声に、警戒しない訳にはいかない。
 しおりは無理矢理目を動かし、周囲を探る。だがそこには、人影どころか、動くものはひとつとしてない。
 そしてしおりは結論付けた。

 ――個室の中だ。

 妄想などではない。
 ふたつ並ぶ、薄黄緑のペンキの剥がれた扉のどちらか、その奥からに違いない。

 しかし、小屋に一歩踏み入れるだけでこの気持ち悪さなのだ。個室に入るなど正気の沙汰ではない。

 また声がした。
「驚かせるつもりはなかったの。ただ……」

 咄嗟に声が出た。
「誰なの?」
 震え、裏返ってはいるが、しおりの精一杯の理性が発した言葉だった。

 すると声は途切れた。
 嫌な沈黙があった。

 ふと気付けば、しおりの全身は汗に塗れていた。不快な感触が背中を伝う。
 それを感じて、ようやく意識が現実に戻った気がした。
 ――ここにいてはいけない。
 立ち上がろうと足に力を入れる。だがどうしたことか、立ち上がり方が分からない。
 腰を抜かすとはこういう事だろうと、しおりは認識した。

 どうにもならない体を壁に擦り寄せて、しおりはただ、ペンキの剥がれた扉を睨んだ。

 しかし、それも少しの間だった。
 再び声がした。
 柔らかで、物悲しい声が。

「……あなたと、一緒。教室にいられないから、ここにいるの」

 声は言った。
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