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Ⅲ.敵
㉓
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――翌、土曜日。
正午に坂口の自宅を訪れた冴を迎えたのは、懐かしい顔だった。
「……サエちゃん! お久しぶり」
「アケミ、ちゃん……!」
記憶というのは正直だ。
髪型も体付きも跡形もなく変化しているのに、笑った時に細めた目の形が、奥底に仕舞い込まれた思い出の鍵となるのだから。
覚束ない豆電球ほどの明かりが部屋全体を照らすように、冴の脳裏にその頃の情景を浮かび上がらせる。
当時、互いに四歳。
暁美はおかっぱ頭をしていた。丸顔で、頬に笑窪の出る愛嬌のある笑顔。
鉄棒や三輪車や砂場で、いつも二人で遊んでいた。
当時、冴は髪が長くて、暁美はそれを羨ましがり、冴の髪を三つ編みにしたがった。
それに付随して、雪崩のように記憶が蘇る。
スモックのポケットにカタツムリを入れて帰り、そのまま忘れていて叱られた事。
遠足の行先が自宅である神社であると知り、つまらないと拗ねて困らせた事。
遠足当日、暁美と敷物を並べて弁当を食べていると、「内緒よ」と、特別にチョコレートをもらった事。
――母。
いつも作務衣を着て、竹箒で境内を掃き清めていた。
角を隠すため、常に頭巾を頭に巻いていた。
弁当の卵焼きが好きだった。
おむすびの塩加減が好きだった。
それなのに、どうしても、顔が思い出せない。
そんな冴の様子を察してか、暁美は彼女を誘った。
「ねぇ、お料理の準備ができるまで、幼稚園に行ってみない?」
◇
その場所は、今の役場にほど近い、小さな空き地だった。
草が伸び、雑木林が浸食する片隅に辛うじて残る、動物の絵がタイルで描かれたコンクリート壁。その先の、小さなプールだった場所は、今は防火用水として使われているらしい。
「あそこの階段で転んで怪我した時、サエちゃんがおんぶして、職員室に連れて行ってくれたの、覚えてる?」
暁美はそう言って、スカートの裾を軽く上げ、薄く傷跡が浮かんだ膝を見せた。
「……覚えてる」
これまで、記憶喪失なのではないかとすら思っていた。
しかし、旧友の穏やかな声を聞いていると、何もなかったスクリーンに光が当たり、それが徐々に焦点を合わせて映像を映し出していくような、そんな感覚を覚える。
「うちね、サエちゃんが引っ越してから、すぐに東京に引っ越したの、お父さんの仕事の都合でね。お姉ちゃんはその後、地元の大学に進んだけど、私はアメリカに留学して、そのまま向こうで就職して、今度、結婚するんだ」
表情を崩す暁美を見て、自然と言葉が出ていた。
「おめでとう」
「ありがとう。……でも、もう日本には戻れないかもしれない」
暁美は空き地をぐるりと見渡した。
「――だから、どうしてもサエちゃんに渡したいものがあって」
そう言って暁美がバッグから取り出したのはペンダントだった。銀のチェーンに、涙型の白い石が付いている。
「サエちゃんが引っ越す前、私にくれたんだけど、お母さんに見せたら、おもちゃじゃないから返してきなさいって怒られて。でも、もうサエちゃんに会えなかったから、いつか渡そうと思って、ずっと隠してたの」
――それを見て、冴の記憶が蘇った。
母が大切に身に着けていたものだ。
乳白色のムーンストーンがキャンディのように見えて、何度も欲しいとねだったのだが、
「口に入れてはいけないものよ」
と、決して触らせてくれなかった。
――それを、別れの日、冴の首に掛けたのだ。
「ごめんね……」
涙を流しながら抱き締められた、その温もり。
そして、気高いほどに美しく、優しい笑顔。
「……大丈夫?」
暁美に声を掛けられ、冴は涙を流している事に気付いた。慌ててハンカチで目元を押さえ、笑顔を取り繕う。
「ありがとう。確かに受け取ったわ」
きっと、子供ながらに何かを親友にプレゼントしたかったのだが、他に何も渡せるものがなかったのだ。
――しかし、ずっと持っていたら、「母に捨てられた」と心が荒んだ時期に、捨ててしまっていただろう。
暁美が持っていたからこそ、今こうして、母の記憶を取り戻す鍵となったのだ。
◇
坂口の家に戻ると、和気あいあいと会食が始まっていた。
「あいよ、手作り豆腐と猪ハムのサラダだ」
坂口はエプロンを身に着け、ウエイターよろしく料理を運ぶ。
「係長! ヤマメの唐揚げが揚げたてで最高ですよ!」
野久保は隣に冴を呼び、小皿に料理を取り分ける。
「……あれ? そのペンダント、素敵ですね」
目ざとく見付けたのはあおいだ。
「母のものなの」
そう返すと、彼女はニコリと目を細めた。
「すごくお似合いですよ。きっと、お母様も素敵な方だったんでしょうね」
これまでなら、否定するべく理由を考えただろう。
しかし、今ならはっきり分かる。
――母は、冴を守ろうとしたのだ、命懸けで。
だから、この時の冴は素直に言葉が口に出てきた。
彼女は微笑んだ。
「ええ。……私の、憧れよ」
正午に坂口の自宅を訪れた冴を迎えたのは、懐かしい顔だった。
「……サエちゃん! お久しぶり」
「アケミ、ちゃん……!」
記憶というのは正直だ。
髪型も体付きも跡形もなく変化しているのに、笑った時に細めた目の形が、奥底に仕舞い込まれた思い出の鍵となるのだから。
覚束ない豆電球ほどの明かりが部屋全体を照らすように、冴の脳裏にその頃の情景を浮かび上がらせる。
当時、互いに四歳。
暁美はおかっぱ頭をしていた。丸顔で、頬に笑窪の出る愛嬌のある笑顔。
鉄棒や三輪車や砂場で、いつも二人で遊んでいた。
当時、冴は髪が長くて、暁美はそれを羨ましがり、冴の髪を三つ編みにしたがった。
それに付随して、雪崩のように記憶が蘇る。
スモックのポケットにカタツムリを入れて帰り、そのまま忘れていて叱られた事。
遠足の行先が自宅である神社であると知り、つまらないと拗ねて困らせた事。
遠足当日、暁美と敷物を並べて弁当を食べていると、「内緒よ」と、特別にチョコレートをもらった事。
――母。
いつも作務衣を着て、竹箒で境内を掃き清めていた。
角を隠すため、常に頭巾を頭に巻いていた。
弁当の卵焼きが好きだった。
おむすびの塩加減が好きだった。
それなのに、どうしても、顔が思い出せない。
そんな冴の様子を察してか、暁美は彼女を誘った。
「ねぇ、お料理の準備ができるまで、幼稚園に行ってみない?」
◇
その場所は、今の役場にほど近い、小さな空き地だった。
草が伸び、雑木林が浸食する片隅に辛うじて残る、動物の絵がタイルで描かれたコンクリート壁。その先の、小さなプールだった場所は、今は防火用水として使われているらしい。
「あそこの階段で転んで怪我した時、サエちゃんがおんぶして、職員室に連れて行ってくれたの、覚えてる?」
暁美はそう言って、スカートの裾を軽く上げ、薄く傷跡が浮かんだ膝を見せた。
「……覚えてる」
これまで、記憶喪失なのではないかとすら思っていた。
しかし、旧友の穏やかな声を聞いていると、何もなかったスクリーンに光が当たり、それが徐々に焦点を合わせて映像を映し出していくような、そんな感覚を覚える。
「うちね、サエちゃんが引っ越してから、すぐに東京に引っ越したの、お父さんの仕事の都合でね。お姉ちゃんはその後、地元の大学に進んだけど、私はアメリカに留学して、そのまま向こうで就職して、今度、結婚するんだ」
表情を崩す暁美を見て、自然と言葉が出ていた。
「おめでとう」
「ありがとう。……でも、もう日本には戻れないかもしれない」
暁美は空き地をぐるりと見渡した。
「――だから、どうしてもサエちゃんに渡したいものがあって」
そう言って暁美がバッグから取り出したのはペンダントだった。銀のチェーンに、涙型の白い石が付いている。
「サエちゃんが引っ越す前、私にくれたんだけど、お母さんに見せたら、おもちゃじゃないから返してきなさいって怒られて。でも、もうサエちゃんに会えなかったから、いつか渡そうと思って、ずっと隠してたの」
――それを見て、冴の記憶が蘇った。
母が大切に身に着けていたものだ。
乳白色のムーンストーンがキャンディのように見えて、何度も欲しいとねだったのだが、
「口に入れてはいけないものよ」
と、決して触らせてくれなかった。
――それを、別れの日、冴の首に掛けたのだ。
「ごめんね……」
涙を流しながら抱き締められた、その温もり。
そして、気高いほどに美しく、優しい笑顔。
「……大丈夫?」
暁美に声を掛けられ、冴は涙を流している事に気付いた。慌ててハンカチで目元を押さえ、笑顔を取り繕う。
「ありがとう。確かに受け取ったわ」
きっと、子供ながらに何かを親友にプレゼントしたかったのだが、他に何も渡せるものがなかったのだ。
――しかし、ずっと持っていたら、「母に捨てられた」と心が荒んだ時期に、捨ててしまっていただろう。
暁美が持っていたからこそ、今こうして、母の記憶を取り戻す鍵となったのだ。
◇
坂口の家に戻ると、和気あいあいと会食が始まっていた。
「あいよ、手作り豆腐と猪ハムのサラダだ」
坂口はエプロンを身に着け、ウエイターよろしく料理を運ぶ。
「係長! ヤマメの唐揚げが揚げたてで最高ですよ!」
野久保は隣に冴を呼び、小皿に料理を取り分ける。
「……あれ? そのペンダント、素敵ですね」
目ざとく見付けたのはあおいだ。
「母のものなの」
そう返すと、彼女はニコリと目を細めた。
「すごくお似合いですよ。きっと、お母様も素敵な方だったんでしょうね」
これまでなら、否定するべく理由を考えただろう。
しかし、今ならはっきり分かる。
――母は、冴を守ろうとしたのだ、命懸けで。
だから、この時の冴は素直に言葉が口に出てきた。
彼女は微笑んだ。
「ええ。……私の、憧れよ」
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