創作怪談シリーズ

山岸マロニィ

文字の大きさ
上 下
6 / 6
ご当地怪談シリーズ(愛知県)

S山にて

しおりを挟む
 就職して初めてのお盆休み。
 職場の先輩と付き合い始めた私は、彼の運転する車でG市の温泉街を目指していました。

 G市は、三河湾を望む県内有数の観光地で、複数の温泉地がある風光明媚な場所です。
 しかし、愛知県という地域柄、外国人観光客が目的地に敢えて選ぶような場所ではなく、静かにのんびりと過ごしたい私たちにとって、絶好の旅先でした。
 県北部のT市に住む私たちは、予約した旅館を目的地にカーナビをセットして、寄り道しながら、愛知県を南下する形で、のんびりとドライブを楽しんでいたのです。

 途中、A市の人気カフェでお茶をし、N市の美術館に寄り、ようやくG市に向かいだしたのは、三時頃だったと思います。
 県内住みとはいえ、あまり道に詳しくない彼の運転はカーナビ頼りです。
 最短距離にセットしたカーナビは、S山を越すルートを案内していました。

 幹線道路を右折し、山道に入ります。
 この辺りは国道のバイパス道路があるため、こんな山道を走るのは、地元の方か、よほどの物好きかくらいなのでしょう。アスファルトの路面はひび割れ、センターラインの代わりに草が生えていました。
 そんな悪路も、恋が始まったばかりの私たちにとって、テーマパークのアトラクションのようなものでした。カーステレオから流れる音楽に合わせ、弾んだ会話で車内は楽しい雰囲気でした。

 ……ところが。
 薄々異変には気づいていましたが、それを口に出す事を躊躇し、私は努めて明るく振舞っていました。
 ですが次第に会話は下火になり、やがて言葉が途切れたところで、彼がボソッと言ったのです。

「……おかしいな」

 時計を見ると、四時を回ったところ。
 いくら何でも、こんな小さな山をひとつ超えるのに、一時間もかかるはずがありません。
 彼はナビ通りに運転し、ナビも問題なく動いています。

 すっかり会話のなくなった車内に、軽快な音楽だけが響きます。
 私は為す術なく、カーナビの画面だけを見ていました。
 緑の背景にうねうねと白く伸びる一本道。車窓を眺めても枝道などなく、迷う事など有り得ないのです。
 念のため、カーナビを操作して先の道程を確認しても、かなり先の有料道路の入口以外、他に道は表示されていません。

 すると、彼がボソリと言いました。
「このトンネル、さっきも通ったよな?」

 前方にあるは、コンクリートの古びたトンネルでした。確かに先程通った時も、雨垂れで黒く汚れた入口が気味が悪いと思ったのを覚えています。
 半円形の天井に、申し訳程度の薄暗いオレンジ灯が並んでいて、車内を細切れに照らします。それがまるで走馬灯のように不気味に思え、私は思わず俯きました。
 そしてもう一度、カーナビを見てみたのですが……。

「……あれ?」

 トンネルの先を少し行ったところに、枝道ができているのです。
 先程はなかったはずの枝道が。

「アハハ、見落としてたんだな」
 動揺を誤魔化すように、彼が言いました。
「ちょっと待って、おかしいよ、さっきはこんな道なかったのに」
「見落としてたんだって。行ってみよう」

 嫌な予感はしましたが、ハンドルを握っているのは彼です。私にはどうする事もできず、彼に任せるしかありませんでした。

 左に入る枝道は、一車線の狭い道でした。アスファルトで舗装されているものの、左右で枝を広げる雑木林に侵食されたように落ち葉が積もっています。
 「廃道」という言葉が頭を過ぎりました。
 本来は、カーナビに表示されてはいけない道なのではないかと。

 車内に響く流行りの曲も、私の不安を軽くするものではありませんでした。
 割れた舗装でガタガタと揺れる座席にしがみ付くようにして、前方を注意深く見ていました。

 車内の時計は四時半を示していました。
 お盆ですので、まだまだ夏の日は高い――はずなのですが。

 雑木林の影になっているから、というだけではないような気がしました。
 異様に辺りが暗いのです。

 日没直後の薄暗がりのような暗さな上、街灯などありません。
 彼はヘッドライトを点灯して、ゆっくりと山道を走ります。

「……やっぱり、戻らない?」
 恐る恐る彼にそう言ってみますが、
「転回する場所もないし、もう少し行ってみよう」
 と、彼はじっと前を見ていました。

 道はゆるやかな登坂。蛇行しているので、先の見通しは効きません。確かに、ここからバックで戻るのはかなり危険でしょう。
 カーナビにも、この先が行き止まりであるような表示はありません。
 こうなったら、前に進むしかないのです。

 ……と、前方に薄明かりが見えてきました。
 それは、木々の隙間に見え隠れする、店の看板のようでした。

「店なら駐車場くらいあるだろう。そこで転回しよう」
 彼はそう言って、車を進めました。

 到着したそこは、道沿いの小さな売店でした。
 こんもりした森の中に、車がやっと駐車できるほどの幅を空けて木造の平屋が建っており、苔の生えた軒の上に赤い字で『休憩処』と書いてあります。
 その看板が電球で照らされているのが、先程見えた明かりのようでした。

 車を停め、やはり緊張していたのでしょう、彼がふうと息を吐きました。
「やれやれ、酷い道を案内するもんだな、このカーナビは」
 ぎこちなく笑い返したものの、全てがおかしい気がして、私は到底安心できる気分ではありません。それでも、彼に運転を任せるしかないので、気分を損なわないように、調子を合わせて答えました。
「せっかくだし、お店で休憩していかない? 喉が渇いたわ」
 看板に明かりが灯っているという事は、このお店は営業しているのでしょう。ならば、お店の人がいるはず。
 状況を確認した方がいいと思ったのです。

 軒の下のガラス戸は木枠のもので、建付けが悪いらしく、開けようとするとガタガタと大きな音がしました。
「すいません……」
 恐る恐る覗き込んだ店内は薄暗く、人の気配はありませんでした。
 電気が通っているだけで、廃屋かもしれない。状況確認は諦めて、もと来た道を戻るしかないか……と思ったところに、
「いらっしゃいまし」
 と声を掛けられたので、私は悲鳴を上げそうになりました。

 それと同時に、店内に明かりが灯りました。
 三角の笠を被った電球が照らす下にいたのは、腰の曲がったおばあさんでした。
「どうぞお入りくだせえ」

 店内は、土間にテーブル席がふたつ並んだだけの狭いものでした。
 天井も低くて、背の高い彼は梁で頭をぶつけないよう、少し屈まなけらばならないほど。
 木製のテーブルは傷だらけだし、パイプの丸椅子の座面は破れています。
 私たちは向かい合わせに椅子に腰を掛け、顔を見合わせました。
「いやあ、お店があって助かったよ。山道の運転は疲れるからね」
 彼は不自然に明るい口調でそう言いました。

「五平餅でいいかい?」
 先程のおばあさんがテーブルに、水のグラスをふたつ並べました。
 私は慌てて「お願いします」と答えました。

 店の奥にある縄のれんにおばあさんの姿が消えたのを見送り、しかし会話は弾みませんでした。
 黙ってグラスを手に取り、氷も入っていないのにキンキンに冷えた水で喉を潤しながら、店内を眺めました。

 昭和レトロが流行ってはいますが、そういうレベルを超えたなまの古臭さにあふれた空間。
 梁が剥き出しの天井には、主すらいなくなった蜘蛛の巣が垂れ、電球の配線は黒ずんでいます。殺風景な店内にあるのは、薄汚れたテーブルがふたつと、壊れかけの丸椅子がそれぞれふたつずつ。
 隙間だらけの板壁に掛けられた柱時計が、カチカチと振り子を揺らしています。
 おばあさんの姿のないこの店で動いているものは、それだけでした。
 
 気まずい時間が流れます。
 私は水で間を持たせながら、店内をキョロキョロと眺めていたのですが……。

「はい、お待ち」

 おばあさんが五平餅を載せた皿を持って再び現れたのは、十分後くらいだったでしょうか。
 焼きたての香ばしい香りを、今でも生々しく覚えています。
 けれども、どうしてもそれに手を伸ばす気になれずにいると、彼が先に口を開きました。
「G市はこの道を真っ直ぐ行けばいいんですよね?」
 と、おばあさんに尋ねたのですが、返事は違うところから聞こえました。

「この先にあるのは、地獄ですよ」

 急に男の人の声がして、私は息が止まるほど驚きました。
 そして、おばあさんが声に振り向いた事で、隣のテーブルに男の人が座っているのが目に入り、声を上げそうになりました。

 だって、今まで店内を眺め回していたのに、私たち以外に誰もいなかったのですから。

 その男の人がいるのは、彼を挟んで私の向かい側。隣のテーブルの隅に、こちらを向いて座っています。
 彼はその人に背を向けているので不審に思わず、他にお客さんがいるのを見逃していると思ったのでしょう。
「もしかして、G市には別府温泉みたいながあるんですか?」
 と、軽いノリで振り返りました。
 
 ――そして彼もまた、その人の異様な格好に、目を離せなくなりました。

 カーキ色の帽子に同色の開襟シャツ。
 帽子には背の部分に日除けが付いていて、開襟シャツから白い襟が覗いています。
 それは、映画でしか見た事がない、昭和の兵隊さんの格好でした。

「あるんじゃないさ、、のさ。今は地獄なんてないから安心しな。――あんたたちが、立派に守り抜いたんだよ」
 おばあさんは、まるでその人がそこに現れるのを知っていたかのように、五平餅の皿を兵隊さんの前に置きました。

 しばらく、おばあさんは兵隊さんと何やら会話していました。
 ボソボソ声だったし、聞いてはいけないような気がしたので、私と彼は黙って五平餅に口をつけました。
 五平餅は愛知、特に奥三河の郷土料理です。潰したご飯を小判型に木の棒に巻き、甘辛い味噌を塗って焼いたもの。
 私も何度も食べた事がありますが、そのどれよりも、この奇妙な状況で食べた五平餅は美味しかったのが、強く印象に残っています。

 私たちよりも早く、兵隊さんは五平餅を平らげました。そして席を立ったところでおばあさんに、
「東條さんには挨拶したのかい?」
 と聞かれました。
「いえ、まだ」
 と兵隊さんは俯き加減に答えました。
「お国の役に立てなかった私は、顔向けできません」
 するとおばさんは、
「山の上で待っておいでなさるから、行ってらっしゃい」
 と、道の先を指し示します。
「はい」
 挙手の敬礼をおばあさんに向ける彼の目に、涙が光っているように見えました。
 そしてガラス戸を出て行く後ろ姿は、美しく逞しいものでした。
「挨拶を済ませたら、胸を張って、故郷に帰るんだよ」
 兵隊さんを見送るおばあさんの表情はとても優しく、同時に酷く悲しげなものでした。

「……あの、兵隊さんは……?」
 彼が恐る恐るおばあさんに聞いてみると、彼女は空いた皿を片付けながら答えました。
「S山からはな、三河湾を越したずっと向こう、フィリピンを望めるんだ――」

 ――大東亜戦争末期、フィリピン各地でも激しい戦闘が繰り広げられ、多くの戦死者が出ました。
 彼らのうち、未だに日本へ帰還できない遺骨が多くあります。そんな彼らに「日本はこちらにある」と知らせるために、S山の頂上に七人の人物が祀られる霊廟が建てられたそうで――。

「この時期になるとね、そこを目指して、彷徨える魂が帰還してくるのさ」

 何でもないように言うおばあさんの言葉に、私たちはギョッとせずにはいられませんでした。
 先程の兵隊さんは「死者である」と言っているのですから。

 表情を凍らせた私たちに、おばあさんは苦笑しました。
「あんたたち、迷い込んじまったモンは仕方ない。元来た道を戻りな」

 私たちは御礼もそこそこに、そそくさと店を後にしました。


 先程の店は、あの兵隊さんは、果たして現実だったのか。
 呆然としながら車に戻り、元来た道を下ります。山道はいつしか綺麗に舗装された二車線になり、眼前に三河湾の夕焼けが広がりました。

 その後、チェックインの予定時間は遅れてしまいましたが、無事にG市の温泉宿へ到着できました。
 一晩過ごし、翌日。
 本当はテーマパークに遊びに行く予定だったのですが、彼も私も、昨日の出来事がどうしても気になり、再びS山へ向かう事にしました。

 有料道路に入り、眼下に三河湾の絶景を眺めながらのドライブで向かったのは、山頂です。

 そこにあったのは、『殉国七士廟』。
 戦後、東京裁判にて死刑となった七人の戦犯の遺骨が収められているそうです。
 晴れ渡った海の彼方まで見渡せるそこで、彼らはどんな思いで眠っているのでしょうか。

「昨日の五平餅、帰りにもう一度食べていかない?」
 あのおばあさんの言っていた事が出鱈目でないと分かり、素っ気なく店を出てしまった事を、少し後悔したのです。
 私の提案に彼も乗り、私たちはあの売店を探す事にしました。

 おばあさんが、徒歩と思われる兵隊さんに山頂に行くよう言っていたくらいなので、ここから近いのだろうと思っていました。
 ところが。
 いくら探しても売店は見つからず、それらしい道すらないのです。

 私たちは近くのお寺に寄り、売店について尋ねたのですが……。

「たまにそうやって来られる方はおられます」
 ご住職はそう答えてくれました。

 そんな売店は存在しないし、殉国七士廟についても、昨日おばあさんが言っていた、そんな話を聞いた事はないと。

「ですが、私の祖父はフィリピンに出征していましてね。その時の話を聞いた事はあります」

 満身創痍ながらも、戦後復員を果たしたご住職の祖父は、戦後二十九年も経ってから復員した人物をテレビで見て目を丸くしたそうです。
「詳しくは知りませんが、どこかの隊で一度ご一緒した、言わば戦友の方だったとか。ジャングルのゲリラ戦で、終戦した事を知らずに、二十九年もの間、戦争を続けていたのですよ」
 彼は、かつての上官に任務を解かれて、初めて武器を手放したのだそうです。

 ――戦争は終わった――

 アジアの各地で、終戦を知らずに彷徨う戦死者の霊魂。彼らは未だ、平和を知らずに戦っているのかもしれません。
 そんな彼らを呼び集め、「戦争は終わった。もう戦わなくていい」と告げる役割を、戦争を始めてしまった責任者として、霊廟の七人は果たしている……。
 あのおばあさんの言葉の通りだとすれば、そういう事になります。

 だとすれば、あのおばあさんは何者だったのか。
 結局分からずじまいでしたが、あの世への入口へ迷い込んでしまった私たちの、命の恩人であるには違いありません。

 私たちはもう一度、霊廟に建てられた石碑に手を合わせました。
 ――かつての人たちが、多くの命と引き換えに作り上げたこの平和が、末永く続きますように――。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...