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浅草オペラの怪人
浅草巴里劇場──③
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――そして、滝野川の邸宅。
土御門保憲は、蘆屋いすゞを前にして、極めて不機嫌だった。
「君に誘われる時には碌な事がない。あのように不味い紅茶を飲まされ、最悪だ」
「で、早く口直しをしたいから適当に依頼を受けて、大急ぎでお屋敷に戻って来たと」
手入れされた庭園の一角に据えられたテーブルは、彼のお気に入りの場所である。
春の日差しが照らす花壇に咲き誇る花々。今は水仙が可愛らしい姿を揺らしている。
安楽椅子に身を任せ眺めるその光景をだが、いすゞの長身が邪魔をする。
「まるで我儘な子供ですね」
「そもそも私には、君の都合に合わせなければならない義理などないのだ」
そこに、家政婦のタツ子が、ワゴンを押して現れた。
紬の着物に割烹着、白髪混じりの髪を二百三高地に結った、上品な老婦人である。保憲のお守り役として、彼が幼い頃からこの屋敷に住み込んでいる彼女は、保憲の紅茶の嗜好を完璧に把握している。そのため、味にうるさい彼も、彼女の淹れるものなら文句を言わず口にする。
「坊ちゃま、苛々は体に良くありませんよ。ミルクティーで気分を落ち着けなさいませ」
手際よくティーカップにアールグレイを注ぎ、ミルクをたっぷりと垂らす。それを手に取り、深く鼻腔に香りを含ませたところで、ようやく保憲は眉間の皺を和らげた。
「……しかし、タツ子さん。いい加減、『坊ちゃま』という呼び方を改めてはくれないかね? 私は既に三十路を過ぎている」
白磁に青の唐草柄が鮮やかなティーカップを手の中で揺らし、保憲は渋い目を家政婦に向ける。だが彼女は、
「お幾つになっても、坊ちゃまは坊ちゃまですのよ」
と微笑みを湛えたまま、もうひとつのカップをいすゞの前に置いた。
軽く頭を下げてそれを受け取ると、彼女は保憲の向かいに腰を下ろした。
「でも、先生が依頼を受けてくださって安心しました。あの劇場、営業していた頃はかなり羽振りが良くって、弱小出版社のうちは、相当助けられてたんです」
「君がその恩を返したいのは分かる。だが、私を騙して良い理由にはならない」
「それはお詫びします。……これは、東インド会社が独占販売してる、アッサムの特級品です」
いすゞはそう言って、英字で刻印された赤い缶を保憲に差し出した。渋い顔でそれを受け取り、彼は大きく溜息を吐く。
「君ほど姑息な人間は他にいないだろう」
「でも先生だって、解決できる見込みがあるから、依頼を受けたんですよね?」
だが保憲は、悠々とミルクティーを味わうばかりで返事をしない。
いすゞは眉根を寄せた。
「まさか、本当に適当に依頼を受けたんですか?」
「受けなければ、今こうして、ミルクティーを味わえなかっただろう。温かいうちに、君も味わいたまえ。ベルガモットの香りは冷めると損なわれてしまう」
「私、この香り、ちょっと苦手です」
いすゞはテーブルのミルクポットからミルクを注ぎ足し、白い目を保憲に向けた。
「先生が解決してくれなきゃ、私、出版社をクビになっちゃいます」
「それは君の勝手だ。私の責任ではない」
「そんな、酷い……」
いすゞはカップに口を付ける形で口を尖らせた。
「先生がそんな冷たい人だとは思いませんでした」
「君がどうなろうと、私の知った事ではない。帰ってくれ」
保憲がそう言うと、いすゞは一息にカップを空け、ガシャンとテーブルに置いた。
そして立ち上がり、
「イーだ!」
と保憲に舌を見せてから、靴音高く庭園を出て行った。
「……全く、下品な女だ」
呆れる保憲の横で、タツ子は彼女のいた椅子に目を遣った。そして、
「あら、お忘れ物ですね」
と、黒い表紙の綴りを取り上げ、彼に手渡した。
「…………」
劇場日報である。――いすゞは、何としても彼を巻き込みたいのだろう。
そして、忘れ物に気付きながら、それを指摘しなかったタツ子もまた、共犯なのだ。
黒い表紙を眺めて、保憲は肩を竦めた。
◇
その晩。
書斎に引き上げた保憲は、いすゞが置いていった劇場日誌を机に置き、頁を捲っていた。
……建て前とはいえ、一応は依頼を引き受けたのである。苛立ち紛れに彼女にはあのように接したが、解決の如何はともかく、無視をするつもりはなかった。
テーブルランプが照らす紙面には、支配人のものと思われる文字で日記が記されていた。
その中から、彼が言っていた「三件の事故」に当たる記事を探し出し、隣の帳面に書き出していく。
――一件目は、去年の十月。
当時のプリマドンナである大空ミソノが、舞台袖の階段から落ちて死亡。
二件目は、去年の十二月。
同じくプリマドンナの毛受千恵子が、リハーサル中に落下した照明に当たり重傷。
そして三件目は、今年の二月はじめ。
またもやプリマドンナの渡口すみれが、セリを動かすワイヤーに巻き込まれ死亡……。
眉を顰めて、保憲は顔を上げた。
三件目は彼も新聞で読み知っていた。――歌姫の名声と共に、巻き上げられるワイヤーに衣装が絡み胴体が切断されるという、余りに凄惨な死因に、各紙は大々的にこの事故を報じた。
当時もその状況を思い浮かべて胸が悪くなったものだが、再びそれを思い出し、彼は慌てて傍らのティーカップに口を付けた。
それから手にしたのは、ラウンジで支配人が見せた脅迫状。
厚紙のカードは、葉書ほどの大きさの、何の変哲もない量産品である。
三枚を机に並べるが、活字の貼られた文面はどれも同じ。活字の大きさも揃っている。強いて言えば、貼られた位置が若干異なるくらいだ。
保憲は眼鏡を近付け、文字をよく観察する。
活版印刷された紙面は上質なものと見える。新聞や雑誌のような粗悪さはなく、滑らかで白い。書籍を切り抜いたものだろう。
活版印刷とは、文字ごとに作られた金属製の凸版を並べ、版画の要領で印刷したもの。印刷所ごとに凸版に微妙な違いがある。そこを調べれば、どの本から切り取られたものであるかを調べるのは、難しくはないだろう。
警察はそこまで調べたのだろうか?
そう考えていた時。
扉を叩く音がして、保憲はカップを机に戻した。
――扉から現れたのは、初老の男。痩身に濃灰のフロックコートを隙なく着込んだ彼は、この屋敷の執事である浅尾である。
彼は恭しく一礼すると、
「先程、電報が届きましてございます」
と、保憲に告げた。
「誰からだ?」
「忠行様にございます」
その名を聞き、保憲は無意識に背筋を伸ばした。
「――用件は?」
「坊ちゃまのお受けなさったご依頼に、協力をしてくださる人物をご紹介くださる、との事です」
と、浅尾は電報用紙を彼の前に置いた。
浅尾が下がった後、保憲は文面に目を通す。
「…………」
それから彼は電報を机に投げ、背もたれに身を預けて天井を仰いだ。
――土御門忠行。彼の兄である。
現・土御門家の当主であり、子爵。貴族院議員として、また実業家として、政財界で活躍している。
……そして、滝野川にあるこの邸宅も、彼のものである。
忙しく各地を飛び回っている兄に代わり、社会不適合気味の弟である保憲が、その留守番を仰せ付かっているのだ。――言わば、居候である。
そんな兄が珍しく連絡を寄越して来たと思えば、今回の依頼に関するもの。
保憲は苦々しい顔でティーカップを手に取る。
「あの女狐め、何としても私が逃げ出さないように囲い込みたいようだ」
電報には、彼の旧知である警視庁の警部を明日、浅草巴里劇場に行かせるから、説明に立ち会うように、とあった。
――つまり、蘆屋いすゞが家柄のツテで、忠行に連絡を取ったのだ。
脛をかじっている兄の言い付けとあれば、断る訳にはいかないのを分かって……!
保憲は歯噛みしたが、こうなっては彼に逃げ道はない。
恨めしい目で机の電報を睨み、彼は冷めた紅茶を一息に飲み干した。
土御門保憲は、蘆屋いすゞを前にして、極めて不機嫌だった。
「君に誘われる時には碌な事がない。あのように不味い紅茶を飲まされ、最悪だ」
「で、早く口直しをしたいから適当に依頼を受けて、大急ぎでお屋敷に戻って来たと」
手入れされた庭園の一角に据えられたテーブルは、彼のお気に入りの場所である。
春の日差しが照らす花壇に咲き誇る花々。今は水仙が可愛らしい姿を揺らしている。
安楽椅子に身を任せ眺めるその光景をだが、いすゞの長身が邪魔をする。
「まるで我儘な子供ですね」
「そもそも私には、君の都合に合わせなければならない義理などないのだ」
そこに、家政婦のタツ子が、ワゴンを押して現れた。
紬の着物に割烹着、白髪混じりの髪を二百三高地に結った、上品な老婦人である。保憲のお守り役として、彼が幼い頃からこの屋敷に住み込んでいる彼女は、保憲の紅茶の嗜好を完璧に把握している。そのため、味にうるさい彼も、彼女の淹れるものなら文句を言わず口にする。
「坊ちゃま、苛々は体に良くありませんよ。ミルクティーで気分を落ち着けなさいませ」
手際よくティーカップにアールグレイを注ぎ、ミルクをたっぷりと垂らす。それを手に取り、深く鼻腔に香りを含ませたところで、ようやく保憲は眉間の皺を和らげた。
「……しかし、タツ子さん。いい加減、『坊ちゃま』という呼び方を改めてはくれないかね? 私は既に三十路を過ぎている」
白磁に青の唐草柄が鮮やかなティーカップを手の中で揺らし、保憲は渋い目を家政婦に向ける。だが彼女は、
「お幾つになっても、坊ちゃまは坊ちゃまですのよ」
と微笑みを湛えたまま、もうひとつのカップをいすゞの前に置いた。
軽く頭を下げてそれを受け取ると、彼女は保憲の向かいに腰を下ろした。
「でも、先生が依頼を受けてくださって安心しました。あの劇場、営業していた頃はかなり羽振りが良くって、弱小出版社のうちは、相当助けられてたんです」
「君がその恩を返したいのは分かる。だが、私を騙して良い理由にはならない」
「それはお詫びします。……これは、東インド会社が独占販売してる、アッサムの特級品です」
いすゞはそう言って、英字で刻印された赤い缶を保憲に差し出した。渋い顔でそれを受け取り、彼は大きく溜息を吐く。
「君ほど姑息な人間は他にいないだろう」
「でも先生だって、解決できる見込みがあるから、依頼を受けたんですよね?」
だが保憲は、悠々とミルクティーを味わうばかりで返事をしない。
いすゞは眉根を寄せた。
「まさか、本当に適当に依頼を受けたんですか?」
「受けなければ、今こうして、ミルクティーを味わえなかっただろう。温かいうちに、君も味わいたまえ。ベルガモットの香りは冷めると損なわれてしまう」
「私、この香り、ちょっと苦手です」
いすゞはテーブルのミルクポットからミルクを注ぎ足し、白い目を保憲に向けた。
「先生が解決してくれなきゃ、私、出版社をクビになっちゃいます」
「それは君の勝手だ。私の責任ではない」
「そんな、酷い……」
いすゞはカップに口を付ける形で口を尖らせた。
「先生がそんな冷たい人だとは思いませんでした」
「君がどうなろうと、私の知った事ではない。帰ってくれ」
保憲がそう言うと、いすゞは一息にカップを空け、ガシャンとテーブルに置いた。
そして立ち上がり、
「イーだ!」
と保憲に舌を見せてから、靴音高く庭園を出て行った。
「……全く、下品な女だ」
呆れる保憲の横で、タツ子は彼女のいた椅子に目を遣った。そして、
「あら、お忘れ物ですね」
と、黒い表紙の綴りを取り上げ、彼に手渡した。
「…………」
劇場日報である。――いすゞは、何としても彼を巻き込みたいのだろう。
そして、忘れ物に気付きながら、それを指摘しなかったタツ子もまた、共犯なのだ。
黒い表紙を眺めて、保憲は肩を竦めた。
◇
その晩。
書斎に引き上げた保憲は、いすゞが置いていった劇場日誌を机に置き、頁を捲っていた。
……建て前とはいえ、一応は依頼を引き受けたのである。苛立ち紛れに彼女にはあのように接したが、解決の如何はともかく、無視をするつもりはなかった。
テーブルランプが照らす紙面には、支配人のものと思われる文字で日記が記されていた。
その中から、彼が言っていた「三件の事故」に当たる記事を探し出し、隣の帳面に書き出していく。
――一件目は、去年の十月。
当時のプリマドンナである大空ミソノが、舞台袖の階段から落ちて死亡。
二件目は、去年の十二月。
同じくプリマドンナの毛受千恵子が、リハーサル中に落下した照明に当たり重傷。
そして三件目は、今年の二月はじめ。
またもやプリマドンナの渡口すみれが、セリを動かすワイヤーに巻き込まれ死亡……。
眉を顰めて、保憲は顔を上げた。
三件目は彼も新聞で読み知っていた。――歌姫の名声と共に、巻き上げられるワイヤーに衣装が絡み胴体が切断されるという、余りに凄惨な死因に、各紙は大々的にこの事故を報じた。
当時もその状況を思い浮かべて胸が悪くなったものだが、再びそれを思い出し、彼は慌てて傍らのティーカップに口を付けた。
それから手にしたのは、ラウンジで支配人が見せた脅迫状。
厚紙のカードは、葉書ほどの大きさの、何の変哲もない量産品である。
三枚を机に並べるが、活字の貼られた文面はどれも同じ。活字の大きさも揃っている。強いて言えば、貼られた位置が若干異なるくらいだ。
保憲は眼鏡を近付け、文字をよく観察する。
活版印刷された紙面は上質なものと見える。新聞や雑誌のような粗悪さはなく、滑らかで白い。書籍を切り抜いたものだろう。
活版印刷とは、文字ごとに作られた金属製の凸版を並べ、版画の要領で印刷したもの。印刷所ごとに凸版に微妙な違いがある。そこを調べれば、どの本から切り取られたものであるかを調べるのは、難しくはないだろう。
警察はそこまで調べたのだろうか?
そう考えていた時。
扉を叩く音がして、保憲はカップを机に戻した。
――扉から現れたのは、初老の男。痩身に濃灰のフロックコートを隙なく着込んだ彼は、この屋敷の執事である浅尾である。
彼は恭しく一礼すると、
「先程、電報が届きましてございます」
と、保憲に告げた。
「誰からだ?」
「忠行様にございます」
その名を聞き、保憲は無意識に背筋を伸ばした。
「――用件は?」
「坊ちゃまのお受けなさったご依頼に、協力をしてくださる人物をご紹介くださる、との事です」
と、浅尾は電報用紙を彼の前に置いた。
浅尾が下がった後、保憲は文面に目を通す。
「…………」
それから彼は電報を机に投げ、背もたれに身を預けて天井を仰いだ。
――土御門忠行。彼の兄である。
現・土御門家の当主であり、子爵。貴族院議員として、また実業家として、政財界で活躍している。
……そして、滝野川にあるこの邸宅も、彼のものである。
忙しく各地を飛び回っている兄に代わり、社会不適合気味の弟である保憲が、その留守番を仰せ付かっているのだ。――言わば、居候である。
そんな兄が珍しく連絡を寄越して来たと思えば、今回の依頼に関するもの。
保憲は苦々しい顔でティーカップを手に取る。
「あの女狐め、何としても私が逃げ出さないように囲い込みたいようだ」
電報には、彼の旧知である警視庁の警部を明日、浅草巴里劇場に行かせるから、説明に立ち会うように、とあった。
――つまり、蘆屋いすゞが家柄のツテで、忠行に連絡を取ったのだ。
脛をかじっている兄の言い付けとあれば、断る訳にはいかないのを分かって……!
保憲は歯噛みしたが、こうなっては彼に逃げ道はない。
恨めしい目で机の電報を睨み、彼は冷めた紅茶を一息に飲み干した。
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