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【拾参】百合ノ蝕
⑤
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――竹子の通夜の晩。
十四郎の強い意向で、警察関係者のほとんどが屋敷から追い出された事で、梅子は決意した。
不知火清弥のあの記者会見は、全くの予定外だった。だが、それに怒った十四郎が、洋館に怒鳴り込んだのは都合が良かった。――清弥を呼び出す手紙を、難なく彼に渡せたからである。竹子の名を使った、あの手紙を。
その後、深く酔い潰れた十四郎を部屋に寝かせれば、広間は松子と二人だけである。
梅子は気付いていなかったが、松子は梅子の魂胆を全て把握していた。なので、少々席を空けても見て見ぬふりをした。
まず梅子は、裏門に立つ小木曽巡査を、鶴代の部屋から拝借した手毬で誘い出し、酒瓶で殴って気絶させた。体は小さいが、体格は男である。自覚のあるなしは関係なく、小木曽を水川咲哉の抜け道に押し込む事は、そう難しい事ではなかった。
抜け道の事は、随分前、咲哉が梅子にアプローチをしてきた時に、ふと漏らした事があった。……裏門からすぐの竹薮の中にある道祖神の裏に、秘密の抜け道があるんだよ……。話のネタに困った青年の戯言だと、その時は聞き流していたが、この時それは役に立った。
そして邪魔になるのは、離れの二人である。しかし、亀乃が彼らのために助六の折詰を残している事に気付き、隙を見てそこに、睡眠薬を水に溶いたものを振り掛けたのだ。こうして、犬神零と椎葉桜子は眠らされた。
この時、どこかで何かが掛け違っていたら、この事件は起こらなかったのである。
梅子に強い殺意があった訳ではなく、何か不都合が発生すれば、諦めた可能性は高いのだ。
しかし、全てが梅子の思うように進んでしまった。そのために、彼女は引くに引けなくなったのだ。
その衝動を止める機会を最も多く持っていたのは、零である。もし、多摩荘の帰り道、着物の汚れを気にせず、抜け道の探検に向かっていたら。もし、夕食を諦めて、炊事場に寄らずに離れに戻っていたら……。
犬神零は、それが悔しくてたまらないのである。彼は大きく息を吐き、天井に目を置いた。
「――そうして舞台を整えた後、彼女は、古井戸に向かいます」
――バレエの練習に使った、トウシューズを履いて。
梅子は知っていた。貞吉が普段、百合園を手入れする際、一本歯の下駄を使っている事を。それで百合を踏まずに、百合畑の奥まで入っていくのである。……この古井戸に来る時も、その方法を使っていた。
だが今は、一本歯の下駄はない。竹子の事件の偽装に一本歯の下駄を使い、証拠隠滅のため、薪にして燃やしてしまったのだ。
だから彼女は、松子に貰ったトウシューズを使う事にした。
梅子は時折、松子にバレエのレッスンを受けていた。鬱屈とした心を晴らすべく、彼女は己の体に集中した。
「――自分を磨くには、まず姿勢よ。自分を最も美しく見せる姿勢を知って、それには体のどこをどう使うといいのか、体に教え込むの」
松子は、十四郎の目を盗んで、彼女をグランドピアノが置かれたあの部屋に招いた。
壁全面に張られた大きな鏡に姿を映し、様々なポーズを作り、自分を最も美しく見せる形を模索していく。
梅子は、その時間が大好きだった。松子のピアノに合わせて、梅子は思い切り体を動かした。……この時だけは、自分の体が好きだった。手足を伸ばし、胸を張り、最高の笑顔を見せた。
「いいわよ、梅子ちゃん。その調子で、アン、ドゥ、トロヮ。もっと脚を上げて。そうそう、綺麗よ」
……だから、この靴を履いた時が、最も美しくなれると、梅子は信じていた。
梅子は爪先立ちで、百合畑の中を駆け抜けた。この立ち方なら、百合を踏む事もない。脳裏にピアノの旋律を再現しながら、軽やかな足取りで、百合の間を舞う。開いた脚でドレスがたなびき、細く締めた腰がしなやかに反る。
――月下の舞は、彼女を心を陶酔させるものだっただろう。この時の彼女は、竹子でも梅子でもなく、ひとりの少女として、最も自分を愛していたに違いない。
「……その足跡を、赤松警部補は発見していました。ところが彼は、それを山犬の足跡と勘違いしたのです。彼は一本歯の下駄の跡を探していましたし、当時、トウシューズは発見されていませんでしたから、それは無理もありません」
そう言う零は、息苦しさを抑えられないでいた。梅子の手紙は、彼に彼女の思いを追体験させるものなのだ。彼女のこの時の心境を思うと、破滅へと進む彼女を止められなかった己の不甲斐無さに、耐えられなくなるのだ。
何度か呼吸をして心を無へ戻すと、零は続けた。
「――その沸き立つ心のまま、彼女は不知火清弥さんを迎えたのです。……ところが」
清弥は、竹子として、愛を訴える彼女の手に触れた途端、目を見開き、口をわななかせた。汚いものを払い除けるように彼女の手を振り払い、そしてこう言ったのだ。
「…………この、化け物め!」
「彼は気付いたのです。――彼女が、男の子である事に」
相変わらず、松子はニヤニヤと零を眺めている。その目に宿る狂気には、どんな言葉も響かないだろう。
「梅子さんは大変なショックを受けました。……自分が女の子でない事実を、彼から突き付けられたのです。同時に、それは彼女が竹子さんを殺した事を、清弥さんに示すものでした。……彼女が竹子さんを名乗って彼を呼び出した理由。彼女が竹子さんと入れ替わろうとしていた事を明かすものでしたから。
清弥さんは梅子さんを捕らえようとしました。しかし、彼は酔っていました。古井戸の蓋に足を引っ掛け、ずれた隙間から中に落ちたのです」
誰もが言葉を忘れて、零の話に聞き入っている。その視線の中で辛うじて、彼は粛然と姿勢を保っていた。
「殺意がなかったとは否定できません。あの場所に呼び出した以上、もし、清弥さんが彼女を受け入れなかった場合はそうしようという思いが、心にはあったはずです。
ですから彼女は、助けを求める清弥さんを残したまま、古井戸の蓋を閉めたのです」
「ひとつ言っておくわ」
松子が口を挟んだ。
「あの子のバレエのセンスは素晴らしかったわ。はじめは、私の脚本を演じる役者には、美しくあって貰いたいって程度だったけど、やっぱり男の子ね。筋肉のバネが違うもの。あのままいけば、男でもない、女でもない、唯一無二のトップダンサーになれたかもしれないわね」
「役者として、惜しくはなかったのですか、その才能は」
「全然。……知ってる? 役者ってのはね、自分より才能のある奴を蹴落として上がっていくものなのよ。それに負けるようじゃ駄目なの。蹴落とされても、這いつくばって、逆にそいつの足を掴んで引き摺り落とす。そのくらいの気概が必要なのよ。……だから、残念ながら、彼には無理だったわね」
「彼ですか……。彼女に対してその呼び方は、私にはできません」
「ハハハ! 馬ッ鹿じゃないの! 天狗の鼻? そんなモノをまともに信じて、自分の心を歪みに歪めて、自分で自分の首を絞めていったのよ! 自業自得なのよ!」
「松子さん。あなたはいつか、私に言われました。……心がないと。――果たしてそうでしょうか?」
光のない目は、松子の狂気を虚無の奥へと吸い込むようだった。
「……あの時の、ご主人の変わり果てた姿を見た時の、あなたの叫びにも、心はなかったのでしょうか」
松子は目を血走らせ、歯を剥いて低く唸った。
「あなたは清弥さんを、積極的に殺す気はなかった。しかし、梅子さんの心境を考えると、そうなるだろうと予測していた。……あなたは、恨み、憎みながらも、清弥さんを愛していたのです。いや、愛しているからこそ、恨み、憎んだのです。――あなたが復讐を誓った、父である、十四郎氏への想いと同じように」
「うるさい……」
「梅子さんの計画がうまくいかず、清弥さんが生き残る筋書きも、あなたの中にはあったはずです。しかし、その中でも、あなたは清弥さんに愛される事はありませんでした。だから、死んで欲しいと願ったのです」
「黙れえええ!!!」
松子は力の限り叫ぶと、糸が切れたように呆然と腰を落とした。
十四郎の強い意向で、警察関係者のほとんどが屋敷から追い出された事で、梅子は決意した。
不知火清弥のあの記者会見は、全くの予定外だった。だが、それに怒った十四郎が、洋館に怒鳴り込んだのは都合が良かった。――清弥を呼び出す手紙を、難なく彼に渡せたからである。竹子の名を使った、あの手紙を。
その後、深く酔い潰れた十四郎を部屋に寝かせれば、広間は松子と二人だけである。
梅子は気付いていなかったが、松子は梅子の魂胆を全て把握していた。なので、少々席を空けても見て見ぬふりをした。
まず梅子は、裏門に立つ小木曽巡査を、鶴代の部屋から拝借した手毬で誘い出し、酒瓶で殴って気絶させた。体は小さいが、体格は男である。自覚のあるなしは関係なく、小木曽を水川咲哉の抜け道に押し込む事は、そう難しい事ではなかった。
抜け道の事は、随分前、咲哉が梅子にアプローチをしてきた時に、ふと漏らした事があった。……裏門からすぐの竹薮の中にある道祖神の裏に、秘密の抜け道があるんだよ……。話のネタに困った青年の戯言だと、その時は聞き流していたが、この時それは役に立った。
そして邪魔になるのは、離れの二人である。しかし、亀乃が彼らのために助六の折詰を残している事に気付き、隙を見てそこに、睡眠薬を水に溶いたものを振り掛けたのだ。こうして、犬神零と椎葉桜子は眠らされた。
この時、どこかで何かが掛け違っていたら、この事件は起こらなかったのである。
梅子に強い殺意があった訳ではなく、何か不都合が発生すれば、諦めた可能性は高いのだ。
しかし、全てが梅子の思うように進んでしまった。そのために、彼女は引くに引けなくなったのだ。
その衝動を止める機会を最も多く持っていたのは、零である。もし、多摩荘の帰り道、着物の汚れを気にせず、抜け道の探検に向かっていたら。もし、夕食を諦めて、炊事場に寄らずに離れに戻っていたら……。
犬神零は、それが悔しくてたまらないのである。彼は大きく息を吐き、天井に目を置いた。
「――そうして舞台を整えた後、彼女は、古井戸に向かいます」
――バレエの練習に使った、トウシューズを履いて。
梅子は知っていた。貞吉が普段、百合園を手入れする際、一本歯の下駄を使っている事を。それで百合を踏まずに、百合畑の奥まで入っていくのである。……この古井戸に来る時も、その方法を使っていた。
だが今は、一本歯の下駄はない。竹子の事件の偽装に一本歯の下駄を使い、証拠隠滅のため、薪にして燃やしてしまったのだ。
だから彼女は、松子に貰ったトウシューズを使う事にした。
梅子は時折、松子にバレエのレッスンを受けていた。鬱屈とした心を晴らすべく、彼女は己の体に集中した。
「――自分を磨くには、まず姿勢よ。自分を最も美しく見せる姿勢を知って、それには体のどこをどう使うといいのか、体に教え込むの」
松子は、十四郎の目を盗んで、彼女をグランドピアノが置かれたあの部屋に招いた。
壁全面に張られた大きな鏡に姿を映し、様々なポーズを作り、自分を最も美しく見せる形を模索していく。
梅子は、その時間が大好きだった。松子のピアノに合わせて、梅子は思い切り体を動かした。……この時だけは、自分の体が好きだった。手足を伸ばし、胸を張り、最高の笑顔を見せた。
「いいわよ、梅子ちゃん。その調子で、アン、ドゥ、トロヮ。もっと脚を上げて。そうそう、綺麗よ」
……だから、この靴を履いた時が、最も美しくなれると、梅子は信じていた。
梅子は爪先立ちで、百合畑の中を駆け抜けた。この立ち方なら、百合を踏む事もない。脳裏にピアノの旋律を再現しながら、軽やかな足取りで、百合の間を舞う。開いた脚でドレスがたなびき、細く締めた腰がしなやかに反る。
――月下の舞は、彼女を心を陶酔させるものだっただろう。この時の彼女は、竹子でも梅子でもなく、ひとりの少女として、最も自分を愛していたに違いない。
「……その足跡を、赤松警部補は発見していました。ところが彼は、それを山犬の足跡と勘違いしたのです。彼は一本歯の下駄の跡を探していましたし、当時、トウシューズは発見されていませんでしたから、それは無理もありません」
そう言う零は、息苦しさを抑えられないでいた。梅子の手紙は、彼に彼女の思いを追体験させるものなのだ。彼女のこの時の心境を思うと、破滅へと進む彼女を止められなかった己の不甲斐無さに、耐えられなくなるのだ。
何度か呼吸をして心を無へ戻すと、零は続けた。
「――その沸き立つ心のまま、彼女は不知火清弥さんを迎えたのです。……ところが」
清弥は、竹子として、愛を訴える彼女の手に触れた途端、目を見開き、口をわななかせた。汚いものを払い除けるように彼女の手を振り払い、そしてこう言ったのだ。
「…………この、化け物め!」
「彼は気付いたのです。――彼女が、男の子である事に」
相変わらず、松子はニヤニヤと零を眺めている。その目に宿る狂気には、どんな言葉も響かないだろう。
「梅子さんは大変なショックを受けました。……自分が女の子でない事実を、彼から突き付けられたのです。同時に、それは彼女が竹子さんを殺した事を、清弥さんに示すものでした。……彼女が竹子さんを名乗って彼を呼び出した理由。彼女が竹子さんと入れ替わろうとしていた事を明かすものでしたから。
清弥さんは梅子さんを捕らえようとしました。しかし、彼は酔っていました。古井戸の蓋に足を引っ掛け、ずれた隙間から中に落ちたのです」
誰もが言葉を忘れて、零の話に聞き入っている。その視線の中で辛うじて、彼は粛然と姿勢を保っていた。
「殺意がなかったとは否定できません。あの場所に呼び出した以上、もし、清弥さんが彼女を受け入れなかった場合はそうしようという思いが、心にはあったはずです。
ですから彼女は、助けを求める清弥さんを残したまま、古井戸の蓋を閉めたのです」
「ひとつ言っておくわ」
松子が口を挟んだ。
「あの子のバレエのセンスは素晴らしかったわ。はじめは、私の脚本を演じる役者には、美しくあって貰いたいって程度だったけど、やっぱり男の子ね。筋肉のバネが違うもの。あのままいけば、男でもない、女でもない、唯一無二のトップダンサーになれたかもしれないわね」
「役者として、惜しくはなかったのですか、その才能は」
「全然。……知ってる? 役者ってのはね、自分より才能のある奴を蹴落として上がっていくものなのよ。それに負けるようじゃ駄目なの。蹴落とされても、這いつくばって、逆にそいつの足を掴んで引き摺り落とす。そのくらいの気概が必要なのよ。……だから、残念ながら、彼には無理だったわね」
「彼ですか……。彼女に対してその呼び方は、私にはできません」
「ハハハ! 馬ッ鹿じゃないの! 天狗の鼻? そんなモノをまともに信じて、自分の心を歪みに歪めて、自分で自分の首を絞めていったのよ! 自業自得なのよ!」
「松子さん。あなたはいつか、私に言われました。……心がないと。――果たしてそうでしょうか?」
光のない目は、松子の狂気を虚無の奥へと吸い込むようだった。
「……あの時の、ご主人の変わり果てた姿を見た時の、あなたの叫びにも、心はなかったのでしょうか」
松子は目を血走らせ、歯を剥いて低く唸った。
「あなたは清弥さんを、積極的に殺す気はなかった。しかし、梅子さんの心境を考えると、そうなるだろうと予測していた。……あなたは、恨み、憎みながらも、清弥さんを愛していたのです。いや、愛しているからこそ、恨み、憎んだのです。――あなたが復讐を誓った、父である、十四郎氏への想いと同じように」
「うるさい……」
「梅子さんの計画がうまくいかず、清弥さんが生き残る筋書きも、あなたの中にはあったはずです。しかし、その中でも、あなたは清弥さんに愛される事はありませんでした。だから、死んで欲しいと願ったのです」
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