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【拾弐】月下ノ告白
④
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――七月二十八日。
「あーそーぼー」
「あーそーぼー」
朝食を終えると、ハルアキは多摩荘の娘のサチコと、遊びに来ていたまるいやのヨシコに、早速捕まったようである。
恨めしい目で睨む彼を置いて、零と桜子は百合御殿に戻った。
捜査本部では、着替えてスッキリと身だしなみを整えた百々目が、書類を睨みながらてきぱきと指示を出している。すっかりいつもの様子だ。
桜子は、炊事場に亀乃の様子を見に行った。
来住野十四郎は、再び自室に閉じこもっている。……百々目なりの嫌がらせのつもりか、扉の前に制服警官が二人立っていた。
不知火松子は、洋館から出て来ない。通い家政婦の初江も断っているらしく、今日は彼女は屋敷に来ていない。洋館の前やその周囲を、警官数名が巡回している。
下男の貞吉は、共犯及び偽証の罪で、既に青梅署に身柄を送られていた。赤松は部下の喜田と共に、彼の取り調べのため青梅に戻っていた。
――そして、犬神零はひとり、来住野梅子の部屋に入った。
「未だに見えぬ、闇の中じゃ」
ハルアキの言葉が、梅子の居場所を暗示しているように思えてならないのだ。天狗の使いが煙に消えたあの事件を彷彿とさせる失踪劇。その裏にあるカラクリとは、一体……。
その上、彼女が犯人だとしても、未だに多くの謎が残っている。特に、不知火清弥の事件では、たとえ零の考えるように「未必の故意」であったとしても、その動機が不明なままだ。それに、この部屋に住みながら、どうやってあの古井戸の存在を知り得たのか。
竹子の一件も、まだ解決したとは言い難い。――殺害後、着替えさせたはずの着物類が、一切見付かっていないのである。遺体発見の当日に、着物や履物、雨具などを処分する余裕があったとは考えにくい。それらの処分に貞吉は関わっていないからだ。ならば、この屋敷のどこかに隠蔽してあるはずなのだ。
当初、被害者である竹子は、殺害時、着物を着ていたと考えられていた。だが一昨日の松子の告白により、竹子は梅子のドレスを着ていた可能性が高まった。不知火清弥の前では、竹子はフランス人形の装いをしていた事から、彼に呼び出されたと信じた竹子は、ドレス姿で待ち合わせ場所である天狗堂へ向かっただろう。その点も、捜査が後手に回った要因でもあった。
……そのように考えると、梅子が殺害後、竹子を白装束に着替えさせた理由は、三つ。
「天狗の生贄」としての体裁を保つため。
被害者の正体をぼかし、捜査を混乱させるため。
そして、竹子への嫉妬……。
――殺害までの心理状態に彼女を追い込んだ原因がこの部屋にあるのではないか。彼はそう考えていた。
零は部屋の中央に立ち、室内を見渡した。
――部屋の広さは八畳ほど。歪な五角形をした部屋には、壁沿いに天蓋付きのベッド、丸みを帯びた意匠の洋服箪笥と整理箪笥、化粧台が置かれている。床には、百合を抽象化した連続模様の絨毯。その全てが、明るい色調で揃えられていた。
しかし、その軽やかな色合いも、この重々しい空気を軽くする事はできない。
――窓がない。
いや、厳密に言えば、明かり取りの横長な窓が、天井近くに付いている。この部屋は、広間のある屋敷部分より、中二階上がった斜面の上に建てられており、その段差部分に窓がある格好だ。屋根越しに南向きの日差しが入るため、部屋の中は暗くはない。
だが、一切外の景色は見えない上、外からもまた、中を覗く事は不可能なのである。
……御伽の国の牢獄。そんなところか。零は思った。
この部屋で一体、彼女は何を考え、何をしていたのか……。
この部屋の捜査は一通り、警察により終わっている。しかしその場に身を置けば、彼女の眺めていた景色から、何か感じ得るものはないだろうかと、零は何度も部屋を見回すのだ。
だがそこにあったのは、異様なまでの圧迫感だけだった。歪な角度の壁が目前に迫って来るようで、床に視線を逃さずにはいられない。零は肩を竦め、別の視点から梅子の心境にアプローチを試みる事にした。
まず、洋服箪笥を開けてみる。観音開きのその中には、色とりどりのドレスが整然と掛けられていた。零はそのうちの一着を手に取る。
首と手首までをレースで覆われた、膝丈のドレス。肩の部分はゆとりのある提灯袖になっている。探偵事務所に彼女が来た時に着ていた物とは違うが、よく似た意匠である。
別もドレスも幾つか手に取る。そして、彼は気付いた。――細かい差はあれ、洋服箪笥に並んだドレス全てが同じように、首元と手首を覆い、肩を提灯袖で隠す意匠のものなのだ。
依頼に来たあの日、竹子は言っていた。
「あんな窮屈な格好の、何がいいのかしら」
ドレスを着る事は父に強要されたとしても、これは果たして、彼女の趣味なのだろうか。それとも、何か別に理由があるのだろうか。
……それに、もうひとつ。――あの日、彼に依頼に来た時のドレスが、ここにはない。恐らく彼女は、それを着て、姿をくらましている。
捜査陣により、彼女の履物は全て、玄関に残されていた事が判明している。零も確認したのだが、そのどれもが綺麗に磨かれ、泥の付いたものはなかった。竹子があの日使ったものは、汚れを拭き取って普段の場所に置いてしまえば、全く不審に思われなかったのだ。それは傘も同様だ。自室で干してから片付ければ、誰も気付かなかったに違いない。
しかし……と、零は並んだドレスを眺めて目を細めた。
靴を使っていないという事は、屋敷の外に出ていない、という可能性もあるのではなかろうか?
だが、当然屋敷内は、百々目が威信に賭けて捜索している。そうそう隠し部屋などがあってたまるものか。……あのようなおぞましい部屋が。
妄想を振り払い、零は次に、洋服箪笥の下の部分、ドレスの裾の下の隙間を見てみる。すると……。
「…………?」
――手を差し入れて取り出したそれは、滑らかな布でできた白い靴だった。爪先の部分が平らで固くなっており、足首に巻いて使うのだろう、長い平紐が付いていた。
当然捜査員たちも、これの存在に気付いていないはずはない。しかし事件とは関係ないと判断されて、ここに置かれているのだろう。
一体これは何なのか?
零は記憶を探る。形から想像するに、踊りに使うものではないだろうか。踊りといえば、天狗祭りの前夜祭のあの舞。……いや、あの舞踊に使うのなら足袋だろう。では、これどんな踊りに使うのか。固い爪先。爪先立ちができそうだ。爪先立ち……。
そして零はハッとした。
――松子が以前言っていた。
バレエを習っていたと。
これは、バレエに使うトウシューズだろう。松子が梅子との交流を深める際に、バレエを教えた可能性もある。洋館のピアノのある部屋。あそこなら、バレエのを教えるのにピッタリだ。
零はまじまじとその靴を眺めた。……そして気付いた。
爪先に当たる部分が、妙に汚れているのだ。まるで泥が染みたように。泥自体は綺麗に拭き取ってあるため、うっすらと生地に染みがある程度だから、捜査陣がこれを見落としたとしても不思議はない。しかし、零はあの部屋を見ている。松子のピアノのあるあの部屋の床は丹念に磨かれていて、このような染みが付くとは思えない。
……ならば、この汚れはどこで付着したのか?
答えはひとつしかない。
――不知火清弥の事件で、古井戸を往復した時。
百合が踏まれていた足跡は、清弥のものと思われるものが一本のみ。犯人はどうやって現場を往復したのか、謎となっていた。……この靴を履き、爪先立ちで百合園を進めば、人間の足跡は残らなかっただろう。バレエの存在が念頭になければ、赤松がそう判断したように、山犬などの獣のものと勘違いされても不思議はない。
だがそうすると、なぜ彼女は、その証拠品となるこの靴を処分しなかったのか、という疑問が出てくる。
「…………」
零は眉を寄せて、トウシューズを洋服箪笥に戻した。
「あーそーぼー」
「あーそーぼー」
朝食を終えると、ハルアキは多摩荘の娘のサチコと、遊びに来ていたまるいやのヨシコに、早速捕まったようである。
恨めしい目で睨む彼を置いて、零と桜子は百合御殿に戻った。
捜査本部では、着替えてスッキリと身だしなみを整えた百々目が、書類を睨みながらてきぱきと指示を出している。すっかりいつもの様子だ。
桜子は、炊事場に亀乃の様子を見に行った。
来住野十四郎は、再び自室に閉じこもっている。……百々目なりの嫌がらせのつもりか、扉の前に制服警官が二人立っていた。
不知火松子は、洋館から出て来ない。通い家政婦の初江も断っているらしく、今日は彼女は屋敷に来ていない。洋館の前やその周囲を、警官数名が巡回している。
下男の貞吉は、共犯及び偽証の罪で、既に青梅署に身柄を送られていた。赤松は部下の喜田と共に、彼の取り調べのため青梅に戻っていた。
――そして、犬神零はひとり、来住野梅子の部屋に入った。
「未だに見えぬ、闇の中じゃ」
ハルアキの言葉が、梅子の居場所を暗示しているように思えてならないのだ。天狗の使いが煙に消えたあの事件を彷彿とさせる失踪劇。その裏にあるカラクリとは、一体……。
その上、彼女が犯人だとしても、未だに多くの謎が残っている。特に、不知火清弥の事件では、たとえ零の考えるように「未必の故意」であったとしても、その動機が不明なままだ。それに、この部屋に住みながら、どうやってあの古井戸の存在を知り得たのか。
竹子の一件も、まだ解決したとは言い難い。――殺害後、着替えさせたはずの着物類が、一切見付かっていないのである。遺体発見の当日に、着物や履物、雨具などを処分する余裕があったとは考えにくい。それらの処分に貞吉は関わっていないからだ。ならば、この屋敷のどこかに隠蔽してあるはずなのだ。
当初、被害者である竹子は、殺害時、着物を着ていたと考えられていた。だが一昨日の松子の告白により、竹子は梅子のドレスを着ていた可能性が高まった。不知火清弥の前では、竹子はフランス人形の装いをしていた事から、彼に呼び出されたと信じた竹子は、ドレス姿で待ち合わせ場所である天狗堂へ向かっただろう。その点も、捜査が後手に回った要因でもあった。
……そのように考えると、梅子が殺害後、竹子を白装束に着替えさせた理由は、三つ。
「天狗の生贄」としての体裁を保つため。
被害者の正体をぼかし、捜査を混乱させるため。
そして、竹子への嫉妬……。
――殺害までの心理状態に彼女を追い込んだ原因がこの部屋にあるのではないか。彼はそう考えていた。
零は部屋の中央に立ち、室内を見渡した。
――部屋の広さは八畳ほど。歪な五角形をした部屋には、壁沿いに天蓋付きのベッド、丸みを帯びた意匠の洋服箪笥と整理箪笥、化粧台が置かれている。床には、百合を抽象化した連続模様の絨毯。その全てが、明るい色調で揃えられていた。
しかし、その軽やかな色合いも、この重々しい空気を軽くする事はできない。
――窓がない。
いや、厳密に言えば、明かり取りの横長な窓が、天井近くに付いている。この部屋は、広間のある屋敷部分より、中二階上がった斜面の上に建てられており、その段差部分に窓がある格好だ。屋根越しに南向きの日差しが入るため、部屋の中は暗くはない。
だが、一切外の景色は見えない上、外からもまた、中を覗く事は不可能なのである。
……御伽の国の牢獄。そんなところか。零は思った。
この部屋で一体、彼女は何を考え、何をしていたのか……。
この部屋の捜査は一通り、警察により終わっている。しかしその場に身を置けば、彼女の眺めていた景色から、何か感じ得るものはないだろうかと、零は何度も部屋を見回すのだ。
だがそこにあったのは、異様なまでの圧迫感だけだった。歪な角度の壁が目前に迫って来るようで、床に視線を逃さずにはいられない。零は肩を竦め、別の視点から梅子の心境にアプローチを試みる事にした。
まず、洋服箪笥を開けてみる。観音開きのその中には、色とりどりのドレスが整然と掛けられていた。零はそのうちの一着を手に取る。
首と手首までをレースで覆われた、膝丈のドレス。肩の部分はゆとりのある提灯袖になっている。探偵事務所に彼女が来た時に着ていた物とは違うが、よく似た意匠である。
別もドレスも幾つか手に取る。そして、彼は気付いた。――細かい差はあれ、洋服箪笥に並んだドレス全てが同じように、首元と手首を覆い、肩を提灯袖で隠す意匠のものなのだ。
依頼に来たあの日、竹子は言っていた。
「あんな窮屈な格好の、何がいいのかしら」
ドレスを着る事は父に強要されたとしても、これは果たして、彼女の趣味なのだろうか。それとも、何か別に理由があるのだろうか。
……それに、もうひとつ。――あの日、彼に依頼に来た時のドレスが、ここにはない。恐らく彼女は、それを着て、姿をくらましている。
捜査陣により、彼女の履物は全て、玄関に残されていた事が判明している。零も確認したのだが、そのどれもが綺麗に磨かれ、泥の付いたものはなかった。竹子があの日使ったものは、汚れを拭き取って普段の場所に置いてしまえば、全く不審に思われなかったのだ。それは傘も同様だ。自室で干してから片付ければ、誰も気付かなかったに違いない。
しかし……と、零は並んだドレスを眺めて目を細めた。
靴を使っていないという事は、屋敷の外に出ていない、という可能性もあるのではなかろうか?
だが、当然屋敷内は、百々目が威信に賭けて捜索している。そうそう隠し部屋などがあってたまるものか。……あのようなおぞましい部屋が。
妄想を振り払い、零は次に、洋服箪笥の下の部分、ドレスの裾の下の隙間を見てみる。すると……。
「…………?」
――手を差し入れて取り出したそれは、滑らかな布でできた白い靴だった。爪先の部分が平らで固くなっており、足首に巻いて使うのだろう、長い平紐が付いていた。
当然捜査員たちも、これの存在に気付いていないはずはない。しかし事件とは関係ないと判断されて、ここに置かれているのだろう。
一体これは何なのか?
零は記憶を探る。形から想像するに、踊りに使うものではないだろうか。踊りといえば、天狗祭りの前夜祭のあの舞。……いや、あの舞踊に使うのなら足袋だろう。では、これどんな踊りに使うのか。固い爪先。爪先立ちができそうだ。爪先立ち……。
そして零はハッとした。
――松子が以前言っていた。
バレエを習っていたと。
これは、バレエに使うトウシューズだろう。松子が梅子との交流を深める際に、バレエを教えた可能性もある。洋館のピアノのある部屋。あそこなら、バレエのを教えるのにピッタリだ。
零はまじまじとその靴を眺めた。……そして気付いた。
爪先に当たる部分が、妙に汚れているのだ。まるで泥が染みたように。泥自体は綺麗に拭き取ってあるため、うっすらと生地に染みがある程度だから、捜査陣がこれを見落としたとしても不思議はない。しかし、零はあの部屋を見ている。松子のピアノのあるあの部屋の床は丹念に磨かれていて、このような染みが付くとは思えない。
……ならば、この汚れはどこで付着したのか?
答えはひとつしかない。
――不知火清弥の事件で、古井戸を往復した時。
百合が踏まれていた足跡は、清弥のものと思われるものが一本のみ。犯人はどうやって現場を往復したのか、謎となっていた。……この靴を履き、爪先立ちで百合園を進めば、人間の足跡は残らなかっただろう。バレエの存在が念頭になければ、赤松がそう判断したように、山犬などの獣のものと勘違いされても不思議はない。
だがそうすると、なぜ彼女は、その証拠品となるこの靴を処分しなかったのか、という疑問が出てくる。
「…………」
零は眉を寄せて、トウシューズを洋服箪笥に戻した。
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