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【拾弐】月下ノ告白
③
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――丸井勝太と久芳春子は、丸井家の軒先で談笑しながら、収穫した胡瓜のヘタを切り揃える作業をしていた。
「……これは警部さん。それに、探偵さんと助手さんも」
「お仲がよろしいようで」
ニコニコしながら零が言うと、二人ははにかんだ顔を見合わせた。
「……そんな中、本当に申し訳ない。ひとつ、話をお伺いしたいのだが。――あまり人に聞かれたくない内容かと思う。人目のない場所で」
百々目がそう言うと、二人は表情を消した。
丸井家の居間に案内された三人は、囲炉裏越しに二人に向かい合う。勝太は引き攣った愛想笑いで緊張を誤魔化そうとした。
「ひいひい爺ちゃんは耳が遠いし、兄ちゃんは青梅まで背広を買いに出かけたし、ここなら誰にも聞かれません」
その声は上ずっている。百々目はひとつ息をして、ゆっくりと言葉を刻んだ。
「――天狗の事だ。十年前に、村の子供たちを襲った、天狗だ」
するとみるみるうちに、二人の顔から血の気が失せた。
「大丈夫? 話しにくかったら、私だけで話を聞いてもいいわよ」
桜子が言う。だが、俯いていた勝太が毅然と顔を上げた。
「……いいや、これは、春ちゃんにも知っておいて欲しい」
「勝ちゃん……!」
「いや、僕の奥さんになる人には、僕の全てを知って欲しい。……確かに僕は、天狗に襲われた事があります。でも、その時は、それの意味が分からなかったし、天狗が襲うのは女の子だけだって聞いてたから、そんな、自分が襲われたなんて自覚がなくて……」
「誰にも言わなかった、と」
「はい。……物心ついてからは、男の矜恃、そんなの、誰にも言えませんでした」
最も愕然とそれを聞いたのは春子である。両手で口を押さえると、涙をとめどなく流す。厳しい顔をする百々目の横で、零は微笑を取り繕った。
「よく言ってくれましたね。……それは、いつの事だったか、覚えていますか?」
「僕が九つの時です。子供神楽の衣装を試着した日だったので、七月十七日だったと思います」
百々目があからさまに肩を落とすのが、零には分かった。
すると今度は、涙を拭った春子が顔を上げた。
「……勝ちゃんが言ったんだもの、私が言わないのは不公平だわ。本当は、お墓まで持っていくつもりでしたけど」
「春ちゃん……!」
「いいの、勝ちゃん。勝ちゃんがそんな事で、私を嫌いになる人じゃない事がよく分かったもの。――私も、天狗に襲われた事があります」
決意を秘めた春子の顔を、百々目が真正面から見つめる。
「夕方、暗くなる前だったから大丈夫だろうと、お寺に向かう道をひとりで歩いてました。そしたら、後ろから抱えられて、そのまま薮に連れ込まれて……」
思い出したのだろう、春子は白い顔で声を震わせた。その肩を勝太が抱き支える。
「――私、その時見たんです。……天狗の面がずれて、その中を」
「何!?」
百々目は身を乗り出した。春子ははっきりと言葉を継ぐ。
「……あれは、陣屋様。……来住野十四郎さんでした」
「春ちゃん……!」
勝太の目からも涙が溢れている。
「でもその後、確かお盆の集まりの時に、伯父さん――滝二郎伯父さんに言われたんです。……天狗の顔を見たのか、って。その頃、滝二郎伯父さんは、村長をする陣屋様の秘書をしていました。だから、陣屋様に言われて、私に口止めをしたんだろうと思いました」
春子は震える目を必死で百々目に向けている。
「天狗の面の中を見た時は、私、見間違いだと思いました。そう思いたかったんです。でも、滝二郎伯父さんの言葉で、確信に変わったんです。……それが怖くて、私、誰にも言えませんでした……」
百々目は何度か息を吐き、ゆっくりと春子に問い掛けた。
「それは、いつの事ですか?」
「お盆の鬼灯を買いに行った帰りだったので、八月十日あたりでした。――明治四十三年の」
「――クソっ!!」
百々目がソファーを力任せに蹴り付ける。それを見た捜査本部の刑事たちは、何事かと目を丸くした。
「犬神君。私は警察官になってから、こんなに悔しい思いをしたのは初めてだよ!」
クシャクシャと両手で頭を掻き回し、ソファーに身を投げると、彼はテーブルに拳を打ち付けた。
「……残念ながら、我々はこの件に関してはこれ以上、どうしようもできません。村の人全員に聞いて回る訳にもいきませんし」
零が宥めるが、彼は血走った目で睨み返した。
「君は悔しくないのか! 罪のない子供たちを大勢傷付けた鬼畜を目の前にしながら、時効の壁に阻まれるとは――!」
「警部殿は、公僕であられる。公僕である以上、法には従わぬ訳にはいかないでしょう」
「……いや、せめて一発殴ってくる」
「そんな事をしたら、あなたはクビですよ?」
「上等だ!」
立ち上がろうとする百々目の腕を零は押さえた。
「いけませんよ、警部殿」
「離せ!」
なおも暴れる百々目を押さえ込み、零は彼の耳に囁いた。
「――お父君の名に、泥を塗られるおつもりですか?」
……ガクンとソファーに沈む彼に、哀れな目を落としながら、零は言った。
「しかし今回の調査は、非常に大きな成果がありました。……あなたのその顔。いい顔ですよ、刑事の顔です」
「……お昼、食べ損ねたわね」
百合園が赤く染まり始めた頃、離れの縁側で、零と桜子は、丸井家で土産に貰った胡瓜をかじっていた。
「いや、新鮮な胡瓜は絶品ですよ」
ボリボリと音を立てながら、零は百合園を見渡した。未だに捜査員たちが、梅子の姿を探し出すべく、あちらこちらを見回っている。
「……この屋敷のどこかに、果たして梅子さんはいるのでしょうか」
「余ならここにおる」
突然の声に、零は胡瓜を吹き出した。
「――は、ハルアキ!」
声を見上げると、軒から少年の顔が覗いていた。癖のある長めの髪を逆さまにして、軒に張り付く格好だ。
「ガキンチョ! なんでこんなとこにいるのよ!」
それには桜子も呆気に取られた。
「温泉が良いと聞いたのでな。家主と女中二人と共に、多摩荘で泊まりじゃ」
「…………」
唖然とする二人の前にスタッと下り――ようとして尻餅をついたハルアキは、ニッカポッカの埃を払いながら、苦い顔で零に紙袋を手渡した。
「頼まれていたものじゃ」
桜子も零の手元を覗く。――それは、医院の名の入った薬袋だった。
「不知火松子なる者が通っておった、歌舞伎町の医院じゃ。誰にでもいくらでも、睡眠薬を処方しておる悪徳医者じゃったわ。白状させた」
「さすがハルアキです……」
零が袋の中を確認する。そこには、パラフィン紙の薬包紙に包まれた粉末が入っていた。
「包み紙と中身の成分が一致するか、調べるが良い」
そう言うと彼は、水桶で冷やした胡瓜をひとつ取り、零に並んで座ってカリッとかじった。
――この少年の正体を、後年、私は桜子女史に聞いた事がある。
「うーん、確か、あの人の親族の子とか言ってたわね。……陰陽師の一族だとか。変な占いの道具とか、妙な御札みたいなのとか持ってたし、あながち嘘じゃないかも、とは思ってたわ。……それに一度、変な術で眠らされた事があるの」
しかし彼もまた、彼の保護者と同様、関東大震災の混乱の中、彼女の前から姿を消したのである。
結局、私の前には一度も顔を見せる事はなかった。扉一枚隔てた事務所横の納戸で、何を思っていたのか、今では知る由もない。
彼を多摩荘に送るため、二人は屋敷を出た。……なぜ子供に侵入を許したのか戸惑う長屋門の警官たちだったが、その失敗を誤魔化すために、見て見ぬふりをしたから助かった。
「……全く、どうやって来たのかしら」
「蒸気機関車というやつじゃ。ハイヤーにも乗ったぞ」
「そうじゃなくって……」
呆れ顔をしながらも、桜子はハルアキと手を繋ぎ、つづら折れを歩いていく。
月原山道に出る頃には、すっかり日は落ちていた。
多摩荘の、川沿いの奥の間に、三人の淑女が待っていた。
上品に小紋を着こなす初老の婦人は、楢崎多ゑ。犬神零が探偵社の事務所を間借りする、神田の洋館の女主人だ。
「あら坊や。零さんたちを呼びに行っていたの?」
焦点の合わない目であらぬ方を見ながら彼女は言った。……盲目なのだ。
そんな彼女を甲斐甲斐しく支えるのが、メイド姉妹のカヨとキヨである。今日はメイド服ではなく、余所行きの着物を着ている。
「これ、お土産です」
桜子が風呂敷包みを渡す。中にあるワンピースを見て、三人の顔は綻んだ。
「あら、味があって素敵ね。この浴衣地のお洋服、多ゑ様にお似合いですよ」
「そう? 早速着替えようかしら」
「ゆとりがある仕立てもいいわね」
「気に入って貰えたら何よりです」
すると、障子が開いて、若女将の又吉史津が顔を出した。
「隣の部屋空いてるから、何なら泊まってきな」
……結局、女性陣と男性陣に別れて、部屋を使う事になった。
風呂を済ませると、零はぐったりと布団に身を投げた。
「……疲れました……」
「余も、そなたの無茶な依頼と今日の長旅で疲れたぞ」
そう言いながら、ハルアキも布団にゴロンと転がり四肢を伸ばした。
「早く帰りたいですよ……」
「余は、もう二、三日、泊まっていく所存じゃ。久々の温泉だからの。……この宿、酒も良いのか?」
「子供が酒を飲んではいけません」
零は顔を横に向け、口を尖らせるハルアキに訊ねた。
「……私の失せ物、どこにあるのか分かりますか?」
するとハルアキは、不機嫌な目を天井に向けたまま答えた。
「――未だに見えぬ、闇の中じゃ」
「……これは警部さん。それに、探偵さんと助手さんも」
「お仲がよろしいようで」
ニコニコしながら零が言うと、二人ははにかんだ顔を見合わせた。
「……そんな中、本当に申し訳ない。ひとつ、話をお伺いしたいのだが。――あまり人に聞かれたくない内容かと思う。人目のない場所で」
百々目がそう言うと、二人は表情を消した。
丸井家の居間に案内された三人は、囲炉裏越しに二人に向かい合う。勝太は引き攣った愛想笑いで緊張を誤魔化そうとした。
「ひいひい爺ちゃんは耳が遠いし、兄ちゃんは青梅まで背広を買いに出かけたし、ここなら誰にも聞かれません」
その声は上ずっている。百々目はひとつ息をして、ゆっくりと言葉を刻んだ。
「――天狗の事だ。十年前に、村の子供たちを襲った、天狗だ」
するとみるみるうちに、二人の顔から血の気が失せた。
「大丈夫? 話しにくかったら、私だけで話を聞いてもいいわよ」
桜子が言う。だが、俯いていた勝太が毅然と顔を上げた。
「……いいや、これは、春ちゃんにも知っておいて欲しい」
「勝ちゃん……!」
「いや、僕の奥さんになる人には、僕の全てを知って欲しい。……確かに僕は、天狗に襲われた事があります。でも、その時は、それの意味が分からなかったし、天狗が襲うのは女の子だけだって聞いてたから、そんな、自分が襲われたなんて自覚がなくて……」
「誰にも言わなかった、と」
「はい。……物心ついてからは、男の矜恃、そんなの、誰にも言えませんでした」
最も愕然とそれを聞いたのは春子である。両手で口を押さえると、涙をとめどなく流す。厳しい顔をする百々目の横で、零は微笑を取り繕った。
「よく言ってくれましたね。……それは、いつの事だったか、覚えていますか?」
「僕が九つの時です。子供神楽の衣装を試着した日だったので、七月十七日だったと思います」
百々目があからさまに肩を落とすのが、零には分かった。
すると今度は、涙を拭った春子が顔を上げた。
「……勝ちゃんが言ったんだもの、私が言わないのは不公平だわ。本当は、お墓まで持っていくつもりでしたけど」
「春ちゃん……!」
「いいの、勝ちゃん。勝ちゃんがそんな事で、私を嫌いになる人じゃない事がよく分かったもの。――私も、天狗に襲われた事があります」
決意を秘めた春子の顔を、百々目が真正面から見つめる。
「夕方、暗くなる前だったから大丈夫だろうと、お寺に向かう道をひとりで歩いてました。そしたら、後ろから抱えられて、そのまま薮に連れ込まれて……」
思い出したのだろう、春子は白い顔で声を震わせた。その肩を勝太が抱き支える。
「――私、その時見たんです。……天狗の面がずれて、その中を」
「何!?」
百々目は身を乗り出した。春子ははっきりと言葉を継ぐ。
「……あれは、陣屋様。……来住野十四郎さんでした」
「春ちゃん……!」
勝太の目からも涙が溢れている。
「でもその後、確かお盆の集まりの時に、伯父さん――滝二郎伯父さんに言われたんです。……天狗の顔を見たのか、って。その頃、滝二郎伯父さんは、村長をする陣屋様の秘書をしていました。だから、陣屋様に言われて、私に口止めをしたんだろうと思いました」
春子は震える目を必死で百々目に向けている。
「天狗の面の中を見た時は、私、見間違いだと思いました。そう思いたかったんです。でも、滝二郎伯父さんの言葉で、確信に変わったんです。……それが怖くて、私、誰にも言えませんでした……」
百々目は何度か息を吐き、ゆっくりと春子に問い掛けた。
「それは、いつの事ですか?」
「お盆の鬼灯を買いに行った帰りだったので、八月十日あたりでした。――明治四十三年の」
「――クソっ!!」
百々目がソファーを力任せに蹴り付ける。それを見た捜査本部の刑事たちは、何事かと目を丸くした。
「犬神君。私は警察官になってから、こんなに悔しい思いをしたのは初めてだよ!」
クシャクシャと両手で頭を掻き回し、ソファーに身を投げると、彼はテーブルに拳を打ち付けた。
「……残念ながら、我々はこの件に関してはこれ以上、どうしようもできません。村の人全員に聞いて回る訳にもいきませんし」
零が宥めるが、彼は血走った目で睨み返した。
「君は悔しくないのか! 罪のない子供たちを大勢傷付けた鬼畜を目の前にしながら、時効の壁に阻まれるとは――!」
「警部殿は、公僕であられる。公僕である以上、法には従わぬ訳にはいかないでしょう」
「……いや、せめて一発殴ってくる」
「そんな事をしたら、あなたはクビですよ?」
「上等だ!」
立ち上がろうとする百々目の腕を零は押さえた。
「いけませんよ、警部殿」
「離せ!」
なおも暴れる百々目を押さえ込み、零は彼の耳に囁いた。
「――お父君の名に、泥を塗られるおつもりですか?」
……ガクンとソファーに沈む彼に、哀れな目を落としながら、零は言った。
「しかし今回の調査は、非常に大きな成果がありました。……あなたのその顔。いい顔ですよ、刑事の顔です」
「……お昼、食べ損ねたわね」
百合園が赤く染まり始めた頃、離れの縁側で、零と桜子は、丸井家で土産に貰った胡瓜をかじっていた。
「いや、新鮮な胡瓜は絶品ですよ」
ボリボリと音を立てながら、零は百合園を見渡した。未だに捜査員たちが、梅子の姿を探し出すべく、あちらこちらを見回っている。
「……この屋敷のどこかに、果たして梅子さんはいるのでしょうか」
「余ならここにおる」
突然の声に、零は胡瓜を吹き出した。
「――は、ハルアキ!」
声を見上げると、軒から少年の顔が覗いていた。癖のある長めの髪を逆さまにして、軒に張り付く格好だ。
「ガキンチョ! なんでこんなとこにいるのよ!」
それには桜子も呆気に取られた。
「温泉が良いと聞いたのでな。家主と女中二人と共に、多摩荘で泊まりじゃ」
「…………」
唖然とする二人の前にスタッと下り――ようとして尻餅をついたハルアキは、ニッカポッカの埃を払いながら、苦い顔で零に紙袋を手渡した。
「頼まれていたものじゃ」
桜子も零の手元を覗く。――それは、医院の名の入った薬袋だった。
「不知火松子なる者が通っておった、歌舞伎町の医院じゃ。誰にでもいくらでも、睡眠薬を処方しておる悪徳医者じゃったわ。白状させた」
「さすがハルアキです……」
零が袋の中を確認する。そこには、パラフィン紙の薬包紙に包まれた粉末が入っていた。
「包み紙と中身の成分が一致するか、調べるが良い」
そう言うと彼は、水桶で冷やした胡瓜をひとつ取り、零に並んで座ってカリッとかじった。
――この少年の正体を、後年、私は桜子女史に聞いた事がある。
「うーん、確か、あの人の親族の子とか言ってたわね。……陰陽師の一族だとか。変な占いの道具とか、妙な御札みたいなのとか持ってたし、あながち嘘じゃないかも、とは思ってたわ。……それに一度、変な術で眠らされた事があるの」
しかし彼もまた、彼の保護者と同様、関東大震災の混乱の中、彼女の前から姿を消したのである。
結局、私の前には一度も顔を見せる事はなかった。扉一枚隔てた事務所横の納戸で、何を思っていたのか、今では知る由もない。
彼を多摩荘に送るため、二人は屋敷を出た。……なぜ子供に侵入を許したのか戸惑う長屋門の警官たちだったが、その失敗を誤魔化すために、見て見ぬふりをしたから助かった。
「……全く、どうやって来たのかしら」
「蒸気機関車というやつじゃ。ハイヤーにも乗ったぞ」
「そうじゃなくって……」
呆れ顔をしながらも、桜子はハルアキと手を繋ぎ、つづら折れを歩いていく。
月原山道に出る頃には、すっかり日は落ちていた。
多摩荘の、川沿いの奥の間に、三人の淑女が待っていた。
上品に小紋を着こなす初老の婦人は、楢崎多ゑ。犬神零が探偵社の事務所を間借りする、神田の洋館の女主人だ。
「あら坊や。零さんたちを呼びに行っていたの?」
焦点の合わない目であらぬ方を見ながら彼女は言った。……盲目なのだ。
そんな彼女を甲斐甲斐しく支えるのが、メイド姉妹のカヨとキヨである。今日はメイド服ではなく、余所行きの着物を着ている。
「これ、お土産です」
桜子が風呂敷包みを渡す。中にあるワンピースを見て、三人の顔は綻んだ。
「あら、味があって素敵ね。この浴衣地のお洋服、多ゑ様にお似合いですよ」
「そう? 早速着替えようかしら」
「ゆとりがある仕立てもいいわね」
「気に入って貰えたら何よりです」
すると、障子が開いて、若女将の又吉史津が顔を出した。
「隣の部屋空いてるから、何なら泊まってきな」
……結局、女性陣と男性陣に別れて、部屋を使う事になった。
風呂を済ませると、零はぐったりと布団に身を投げた。
「……疲れました……」
「余も、そなたの無茶な依頼と今日の長旅で疲れたぞ」
そう言いながら、ハルアキも布団にゴロンと転がり四肢を伸ばした。
「早く帰りたいですよ……」
「余は、もう二、三日、泊まっていく所存じゃ。久々の温泉だからの。……この宿、酒も良いのか?」
「子供が酒を飲んではいけません」
零は顔を横に向け、口を尖らせるハルアキに訊ねた。
「……私の失せ物、どこにあるのか分かりますか?」
するとハルアキは、不機嫌な目を天井に向けたまま答えた。
「――未だに見えぬ、闇の中じゃ」
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