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【仇】隠シ通路ノ三悪人
⑤
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来住野家の洋間で、犬神零は濡れ布巾を頭に当てていた。
「いやあ、全く面目ない」
「常に連絡するようにとは、君が私に言った事ではないですか」
百々目に睨まれ、彼は首を竦めた。
「警部殿には、借りができてしまいましたね……」
「桜子君にも、感謝しなければなりませんよ」
「はい……」
「でも良かったわ。穴に落とされる前で」
桜子が濡れ布巾を冷たいものと交換する。
「大分前から気付いてましたけどね。隙を見て逃げるつもりではいました、彼らの正体を探ったら。……案の定、水川産業の方でしたね」
百々目は二人の実行犯に視線を移した。
「あそこは、水川産業の土地です。そして、あなたがたは、水川産業の作業着を着ており、水川産業のオート三輪に乗っていた。――間違いありませんね?」
後ろ手錠に床に座らされた男二人は、コクリとうなずいた。
「現行犯ですからね、殺人未遂の」
「ちょ、ちょっと待ってください! 俺たちは、善浄寺に置いてある荷物を捨ててくるように言われただけです!」
「な、中身が人だなんて、知りませんでした!」
言い訳に無理はあるが、積極的な殺意がなかったのは、善浄寺から尾行していた百々目も見ている。それに、彼らが独自にこの事件に関わった可能性は、限りなく低い。――裏で彼らを操った人物の存在さえはっきりすれば、それでいい。しかし、実行犯である以上、無罪という訳にはいかない。百々目は二人に厳しい目を向ける。
「では、傷害致死未遂か、それとも誘拐未遂か……」
そこに口を挟んだのは零だった。
「いや、私は何もされてませんから」
「……君は何が言いたいのだ?」
「隠し通路の事は、桜子さんから聞きましたよね? 善浄寺の裏手の石塔がその出口だったんですけどね、そこから出る時に、うっかり頭をぶつけて失神したようです」
「…………」
「それを死んだと勘違いしたご住職が、水川産業に頼んで、埋葬しようとしたんですよ」
百々目は、おずおずと手を振る零に不審な目を向けた。
――後年、この話を書くために、椎葉桜子女史を取材した時に聞いた話である。
「あの人、妙なところがあったのよね」
「妙なところ、とは?」
「怪我の治りが異常に早い、というか」
「…………?」
「なんか、人間離れしてたわね」
桜子女史は、それを理由に、警察に事件として取り上げられたくなかったのでは? と続けた。
「警察に事件として調べられると、お医者さんの診断書とか必要でしょ? そういうのを、異常に嫌がってたわ」
この時の彼の様子も、そういう理由だったのだろう。百々目は呆れた様子で、
「それは死体遺棄でしょう……」
と溜息を吐いた。とはいえ、その「死体」がここに生きているのである。
百々目は尚も不審な目を零に送っていたが、被害者がいなければ事件にはならないのだ。やがて仕方なさそうに首を振った。
「今晩は、こちらで身柄を預かります。明日、詳しい事情聴取をしてからお帰り頂きます。――ただし、素直にお話し頂けなければ、拘留する事になりますので、そのつもりで」
善浄寺の居間では、住職夫婦と、新たに夫婦になろうとしている若い二人が向き合っていた。
「……何があったの? なんであんな事をしたの?」
春子の顔は涙でぐしょぐしょだ。久芳正善と与志子は顔を見合わせ、苦しそうに声を絞り出した。
「……村のためだと思ったんだ」
「何が? 竹子様を殺す事が?」
「違う! それだけは絶対に違う!」
正善は声を上げた。
「私たちは、あの日、梅子さんを誘拐しようとしたんだ」
「……誘拐?」
「あなたも気付いたでしょ? ……裏の石塔と、陣屋様の裏山の城跡を繋ぐ、隠し通路があるの」
「…………」
「あなたも、……勝太君も見たわよね。あの日私たちは、その隠し通路から帰ってきたの」
――七月十九日、前夜祭の夜。
久芳夫妻は戸惑っていた。
計画では、百合園の東屋まで、水川夢子が来住野梅子を連れ出し、そこで睡眠薬入りの茶を飲ませて、腰掛け下の隠し階段から、善浄寺に運ぶ手筈だった。
彼らとしては、寄合が言うような、双子のどちらかを村の外へ出す案では納得ができなかった。天狗の伝承を頑なに信じる彼らは、それでは天狗の祟りを防げないと、固く思っていた。
そこでどちらかを誘拐し、説得して、仏門へ入らせようとしたのだ。
昔は、頭を剃るというのは死ぬも同然の行為だった。俗世との縁を断ち切るという意味だからだ。仏門に入り、俗世を捨てれば、それ即ち死と同義であり、生贄としての役割は果たせるのではないか。彼らはこう考えたのだ。
そのためには、気性の強い竹子よりも、気の弱い梅子の方がいいだろう。そういう判断だった。
二人は腰掛け下の階段で夢子を待っていた。ところがである。
例の不審者の捕物劇で、東屋の周囲は警官に取り囲まれてしまった。これでは、梅子を連れ出す事はできない。
「……どうします?」
「もう少し待とう」
結局二人は、来住野家の灯が落ちる十時頃まで待っていたのだ。
ところが、激しい雷雨が降り出し、これは無理だと二人は寺に戻った。
……そして、石塔を出て裏口へ向かう姿を、十時過ぎに春子の部屋を退出し、裏口から帰ろうとしていた丸井勝太に目撃されたのだ。
春子との逢瀬は、まだ彼女の両親に知られてはならない。そう思った彼は、慌てて資料館に身を隠した。そして窓から様子を伺いながら二人をやり過ごすと、見付からないよう慎重に、境内を抜けて帰ったのだ。
……そして彼は、つづら折れの下で、泥だらけの水川咲哉に会っていた。
その翌日、彼は遠い親戚の不幸に弔問するため、村を出た。
その間、久芳春子は両親に対し、夜中の不審な帰宅を黙っている代わりに、勝太と一緒にいたという事実を認めるよう迫ったのだ。
そして、遠出から帰った勝太は、捜査本部で十九日の夜の事を聞かれ、春子との事を明かしていいのか迷った末に、赤松警部補の一言から春子の意志を悟り、口裏を合わせたのだった……。
「……だから、私たち、何もしていないし、何も知らないの。本当よ」
「御仏に誓う。私たちは、本当に何も知らない」
春子は勝太と顔を見合わせたが、すぐに顔を前に戻した。
「あの探偵さんは、どうしようとしたの?」
すると二人は肩を竦めた。
「そんなつもりじゃなかったんだ。だが、仕方なかったんだ」
「あの隠し通路の存在だけは、誰にも知られてはならなかったの。――これは、戦国時代、あの城跡に城主の淺埜様が天守を構えていらっしゃる頃からの契約なのよ」
「あれの秘密を守る事が、この地で寺を営む免状になっているんだ」
「……何て事なの……!」
「夢子様は来住野の出だから、あの通路の事を知っていらした。今でも、来住野家とうちとの間にある、その契約が有効である事も」
「だから、夢子様と相談して、この計画を立てたんだ」
その時だった。裏口がやにわに騒がしくなった。カンテラの明かりが多数揺れ、ガヤガヤと男の声や足音が聞こえてきた。――城跡を捜索していた赤松たちが入口を探し出し、隠し通路を伝ってやって来たのだ。
「あぁ……!」
与志子が両手で顔を覆った。
「この寺は、終わりだ」
正善は項垂れた。
――七月二十四日。
水川夢子が捜査本部に到着したのは、午前九時の事だった。
久芳夫妻から全ての事情を聞いていた百々目は、ソファーに悠然と座る彼女に厳しい目を向けた。
「これに全て間違いはありませんか?」
夢子はニコリと微笑んだ。
「間違いありませんわ。……でも、ひとつだけ、隠していらっしゃるわね」
百々目はその口元をじっと注視する。
「――もし、仏門に入る説得に失敗したら、命を奪う事もやむなし、と、決めていたのよ」
事情聴取が終わると、久芳春子は犬神零に深々と頭を下げた。
「父と母が、本当に申し訳ない事をしました。何と謝ってよいやら」
「僕からも、本ッ当に申し訳ありませんでした!」
丸井勝太も、地面に頭が着くのではというほどの礼を見せる。恐縮する二人に、零の横から桜子が口を挟んだ。
「何の事かしら? 梅子さん誘拐計画は完全な失敗で、事件にもならなかったんだし、この人の事は、自分で頭をぶつけただけみたいだし、何も謝る事はないんじゃない?」
「竹子さんの死亡推定時刻と、ご両親の帰宅の時間とを考えれば、完全なアリバイとなります。お二人が証人ですからね。……しかしまぁ、偽証の罪には問われるかと。謝るのなら、水川咲哉君でしょう」
「はい。この足で謝りに行きます」
「あとは、赤松警部補の言う事をきちんと聞いて、身の始末をするんですよ」
零がそう言ったものの、水川咲哉の容疑は早々に解かれた事もあり、大した罪にはならないだろうと、赤松は言っていた。
――その午後。
「……何が彼女をそこまで思い詰めさせたのかしら」
水川夢子の事である。
離れの縁側に並び、犬神零と椎葉桜子は、百合園を眺めていた。
怪我の功名、大きく事件は進展したものの、謎は未だ高い壁のごとく、彼らの前に立ち塞がっている。
「恐らく、多摩荘の若女将が言っていた、娘の杏子さんが言い残した言葉でしょう」
零はすっかりいつもの調子で、片胡座で長い髪を風に揺らしていた。
「……人形を、壊して、か……」
「人形を、市松人形もしくはフランス人形の格好をしているあの双子と解釈すれば、説明はつきます」
「でも、それなら、大天狗って?」
「…………」
零は黙って眉を寄せた。
今晩は不知火清弥の通夜である。遺体の状態があまりにも酷いために、昨日、荼毘に付されている。
広間には、竹子の時のまま片付けられなかった祭壇に、彼の往時の写真が置かれていた。帝東歌劇の二枚目スターだった時の、甘い微笑みを浮かべた肖像だ。その横には、白木の骨箱。
その前に、不知火松子が座っていた。初江と亀乃の看病で、ようやく起き上がれるまでになったのだ。彼女は喪服を身に着け、足を崩して左手で身を支えている。その目はじっと、亡き夫の顔を見ていた。
――そして、不意に口元を動かした。ニッと笑うようなその動きは、誰も見てはいなかった。
「いやあ、全く面目ない」
「常に連絡するようにとは、君が私に言った事ではないですか」
百々目に睨まれ、彼は首を竦めた。
「警部殿には、借りができてしまいましたね……」
「桜子君にも、感謝しなければなりませんよ」
「はい……」
「でも良かったわ。穴に落とされる前で」
桜子が濡れ布巾を冷たいものと交換する。
「大分前から気付いてましたけどね。隙を見て逃げるつもりではいました、彼らの正体を探ったら。……案の定、水川産業の方でしたね」
百々目は二人の実行犯に視線を移した。
「あそこは、水川産業の土地です。そして、あなたがたは、水川産業の作業着を着ており、水川産業のオート三輪に乗っていた。――間違いありませんね?」
後ろ手錠に床に座らされた男二人は、コクリとうなずいた。
「現行犯ですからね、殺人未遂の」
「ちょ、ちょっと待ってください! 俺たちは、善浄寺に置いてある荷物を捨ててくるように言われただけです!」
「な、中身が人だなんて、知りませんでした!」
言い訳に無理はあるが、積極的な殺意がなかったのは、善浄寺から尾行していた百々目も見ている。それに、彼らが独自にこの事件に関わった可能性は、限りなく低い。――裏で彼らを操った人物の存在さえはっきりすれば、それでいい。しかし、実行犯である以上、無罪という訳にはいかない。百々目は二人に厳しい目を向ける。
「では、傷害致死未遂か、それとも誘拐未遂か……」
そこに口を挟んだのは零だった。
「いや、私は何もされてませんから」
「……君は何が言いたいのだ?」
「隠し通路の事は、桜子さんから聞きましたよね? 善浄寺の裏手の石塔がその出口だったんですけどね、そこから出る時に、うっかり頭をぶつけて失神したようです」
「…………」
「それを死んだと勘違いしたご住職が、水川産業に頼んで、埋葬しようとしたんですよ」
百々目は、おずおずと手を振る零に不審な目を向けた。
――後年、この話を書くために、椎葉桜子女史を取材した時に聞いた話である。
「あの人、妙なところがあったのよね」
「妙なところ、とは?」
「怪我の治りが異常に早い、というか」
「…………?」
「なんか、人間離れしてたわね」
桜子女史は、それを理由に、警察に事件として取り上げられたくなかったのでは? と続けた。
「警察に事件として調べられると、お医者さんの診断書とか必要でしょ? そういうのを、異常に嫌がってたわ」
この時の彼の様子も、そういう理由だったのだろう。百々目は呆れた様子で、
「それは死体遺棄でしょう……」
と溜息を吐いた。とはいえ、その「死体」がここに生きているのである。
百々目は尚も不審な目を零に送っていたが、被害者がいなければ事件にはならないのだ。やがて仕方なさそうに首を振った。
「今晩は、こちらで身柄を預かります。明日、詳しい事情聴取をしてからお帰り頂きます。――ただし、素直にお話し頂けなければ、拘留する事になりますので、そのつもりで」
善浄寺の居間では、住職夫婦と、新たに夫婦になろうとしている若い二人が向き合っていた。
「……何があったの? なんであんな事をしたの?」
春子の顔は涙でぐしょぐしょだ。久芳正善と与志子は顔を見合わせ、苦しそうに声を絞り出した。
「……村のためだと思ったんだ」
「何が? 竹子様を殺す事が?」
「違う! それだけは絶対に違う!」
正善は声を上げた。
「私たちは、あの日、梅子さんを誘拐しようとしたんだ」
「……誘拐?」
「あなたも気付いたでしょ? ……裏の石塔と、陣屋様の裏山の城跡を繋ぐ、隠し通路があるの」
「…………」
「あなたも、……勝太君も見たわよね。あの日私たちは、その隠し通路から帰ってきたの」
――七月十九日、前夜祭の夜。
久芳夫妻は戸惑っていた。
計画では、百合園の東屋まで、水川夢子が来住野梅子を連れ出し、そこで睡眠薬入りの茶を飲ませて、腰掛け下の隠し階段から、善浄寺に運ぶ手筈だった。
彼らとしては、寄合が言うような、双子のどちらかを村の外へ出す案では納得ができなかった。天狗の伝承を頑なに信じる彼らは、それでは天狗の祟りを防げないと、固く思っていた。
そこでどちらかを誘拐し、説得して、仏門へ入らせようとしたのだ。
昔は、頭を剃るというのは死ぬも同然の行為だった。俗世との縁を断ち切るという意味だからだ。仏門に入り、俗世を捨てれば、それ即ち死と同義であり、生贄としての役割は果たせるのではないか。彼らはこう考えたのだ。
そのためには、気性の強い竹子よりも、気の弱い梅子の方がいいだろう。そういう判断だった。
二人は腰掛け下の階段で夢子を待っていた。ところがである。
例の不審者の捕物劇で、東屋の周囲は警官に取り囲まれてしまった。これでは、梅子を連れ出す事はできない。
「……どうします?」
「もう少し待とう」
結局二人は、来住野家の灯が落ちる十時頃まで待っていたのだ。
ところが、激しい雷雨が降り出し、これは無理だと二人は寺に戻った。
……そして、石塔を出て裏口へ向かう姿を、十時過ぎに春子の部屋を退出し、裏口から帰ろうとしていた丸井勝太に目撃されたのだ。
春子との逢瀬は、まだ彼女の両親に知られてはならない。そう思った彼は、慌てて資料館に身を隠した。そして窓から様子を伺いながら二人をやり過ごすと、見付からないよう慎重に、境内を抜けて帰ったのだ。
……そして彼は、つづら折れの下で、泥だらけの水川咲哉に会っていた。
その翌日、彼は遠い親戚の不幸に弔問するため、村を出た。
その間、久芳春子は両親に対し、夜中の不審な帰宅を黙っている代わりに、勝太と一緒にいたという事実を認めるよう迫ったのだ。
そして、遠出から帰った勝太は、捜査本部で十九日の夜の事を聞かれ、春子との事を明かしていいのか迷った末に、赤松警部補の一言から春子の意志を悟り、口裏を合わせたのだった……。
「……だから、私たち、何もしていないし、何も知らないの。本当よ」
「御仏に誓う。私たちは、本当に何も知らない」
春子は勝太と顔を見合わせたが、すぐに顔を前に戻した。
「あの探偵さんは、どうしようとしたの?」
すると二人は肩を竦めた。
「そんなつもりじゃなかったんだ。だが、仕方なかったんだ」
「あの隠し通路の存在だけは、誰にも知られてはならなかったの。――これは、戦国時代、あの城跡に城主の淺埜様が天守を構えていらっしゃる頃からの契約なのよ」
「あれの秘密を守る事が、この地で寺を営む免状になっているんだ」
「……何て事なの……!」
「夢子様は来住野の出だから、あの通路の事を知っていらした。今でも、来住野家とうちとの間にある、その契約が有効である事も」
「だから、夢子様と相談して、この計画を立てたんだ」
その時だった。裏口がやにわに騒がしくなった。カンテラの明かりが多数揺れ、ガヤガヤと男の声や足音が聞こえてきた。――城跡を捜索していた赤松たちが入口を探し出し、隠し通路を伝ってやって来たのだ。
「あぁ……!」
与志子が両手で顔を覆った。
「この寺は、終わりだ」
正善は項垂れた。
――七月二十四日。
水川夢子が捜査本部に到着したのは、午前九時の事だった。
久芳夫妻から全ての事情を聞いていた百々目は、ソファーに悠然と座る彼女に厳しい目を向けた。
「これに全て間違いはありませんか?」
夢子はニコリと微笑んだ。
「間違いありませんわ。……でも、ひとつだけ、隠していらっしゃるわね」
百々目はその口元をじっと注視する。
「――もし、仏門に入る説得に失敗したら、命を奪う事もやむなし、と、決めていたのよ」
事情聴取が終わると、久芳春子は犬神零に深々と頭を下げた。
「父と母が、本当に申し訳ない事をしました。何と謝ってよいやら」
「僕からも、本ッ当に申し訳ありませんでした!」
丸井勝太も、地面に頭が着くのではというほどの礼を見せる。恐縮する二人に、零の横から桜子が口を挟んだ。
「何の事かしら? 梅子さん誘拐計画は完全な失敗で、事件にもならなかったんだし、この人の事は、自分で頭をぶつけただけみたいだし、何も謝る事はないんじゃない?」
「竹子さんの死亡推定時刻と、ご両親の帰宅の時間とを考えれば、完全なアリバイとなります。お二人が証人ですからね。……しかしまぁ、偽証の罪には問われるかと。謝るのなら、水川咲哉君でしょう」
「はい。この足で謝りに行きます」
「あとは、赤松警部補の言う事をきちんと聞いて、身の始末をするんですよ」
零がそう言ったものの、水川咲哉の容疑は早々に解かれた事もあり、大した罪にはならないだろうと、赤松は言っていた。
――その午後。
「……何が彼女をそこまで思い詰めさせたのかしら」
水川夢子の事である。
離れの縁側に並び、犬神零と椎葉桜子は、百合園を眺めていた。
怪我の功名、大きく事件は進展したものの、謎は未だ高い壁のごとく、彼らの前に立ち塞がっている。
「恐らく、多摩荘の若女将が言っていた、娘の杏子さんが言い残した言葉でしょう」
零はすっかりいつもの調子で、片胡座で長い髪を風に揺らしていた。
「……人形を、壊して、か……」
「人形を、市松人形もしくはフランス人形の格好をしているあの双子と解釈すれば、説明はつきます」
「でも、それなら、大天狗って?」
「…………」
零は黙って眉を寄せた。
今晩は不知火清弥の通夜である。遺体の状態があまりにも酷いために、昨日、荼毘に付されている。
広間には、竹子の時のまま片付けられなかった祭壇に、彼の往時の写真が置かれていた。帝東歌劇の二枚目スターだった時の、甘い微笑みを浮かべた肖像だ。その横には、白木の骨箱。
その前に、不知火松子が座っていた。初江と亀乃の看病で、ようやく起き上がれるまでになったのだ。彼女は喪服を身に着け、足を崩して左手で身を支えている。その目はじっと、亡き夫の顔を見ていた。
――そして、不意に口元を動かした。ニッと笑うようなその動きは、誰も見てはいなかった。
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