百合御殿ノ三姉妹

山岸マロニィ

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【伍】第一ノ事件

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 ――七月二十日。

 けたたましい悲鳴が、犬神零の意識を覚醒させた。
 雨戸の隙間から差す光が目に眩しい。チュンチュンと雀が鳴き、蝉の大合唱がウワンウワンと山を揺さぶる。――梅雨が開けたのだ。
 だが、季節の移ろいは問題ではなかった。――あれほどの恐怖に満ちた悲鳴を上げずにはおけない、何かが起こったのだ。

 犬神零は重い頭を押さえて起き上がった。……妙に体が重い。壁で身を支えながら何とか戸口に向かい、踏み石に置かれた下駄をつっかけ、外に出た。
 雨に濡れた百合園はまた見事だった。花弁に溜まった雨粒が朝の光を反射して、文字通りキラキラと輝いている。
 その百合園の中央、昨晩松子が舞った舞台と天狗堂を結ぶ石段を、倒けつ転びつ駆け下りてくる姿があった。――亀乃だ。
 零は、昨晩花道となっていた径の、すっかり濡れた篝火台の間を、足をふらつかせつつ走り抜ける。そして、舞台の辺りで亀乃と合流した。
「な、何があったんですか!」
 零の声も上ずっている。だが、亀乃は言葉も出せない様子で、紙のように血の気のない口をパクパクと動かしながら、天狗堂を指差した。

 歴史ある佇まいの、さほど大きくない御堂は、観音開きの格子扉が開け放たれていた。
 そして、その中に、白いものがぶら下がっている。

 ドクン、と心臓が打った。腰を抜かした亀乃を、舞台袖の階段に座らせ、零は震える脚を押さえながら、雨に濡れた石段を上る。そして、天狗堂の前に立ち、それを見上げた。

 長い黒髪を下ろし、純白の巫女装束を来た少女が、梁に注連縄で吊るされていた。
 ――多摩荘の写真で、善浄寺の絵巻で、まるいやの長老の話で、見て、聞いた、あの光景が、そこにあった。

 呆然と眺める零の背後にふたつの足音が迫る。悲鳴を聞きつけた警官たちだ。長屋門から駆けつけたのだろう。
 彼らも一瞬、この惨劇を見て硬直したが、すぐに取り直し、
「駐在所の小木曽巡査を呼んで来い。俺は青梅署に連絡をする。そこの二人は、そこから動くなよ」
と、その場を離れた。

 零はなおもしばらくそれを見上げていたが、ふと疑問に思った。
 ――これは一体、竹子、梅子のどちらなのだ?
 零は屋敷の方を眺めた。警官たちが飛び出して行ったきり、動きはない。亀乃は警官の言い付け通り、呆然と座っている。
「…………」
 この状況で、探偵の血が騒がないのなら、それは偽物だ。零はそっと天狗堂に近付いた。
 天狗堂の前には踏み石が置かれ、そこで履物を脱いで上がるようになっている。その場所に、盆の上に瓶子へいしと塩の皿が転がっていた。瓶子から溢れた酒が、塩を溶かしてグチョグチョになっている。
 ――そして、零は気付いた。……履物がない。それの意味するところに気付き、零の体に緊張が走った。
 それから、下駄を脱いで中に踏み入れようとし、足を止めた。
 ……入口の床が濡れている。一晩じゅう扉が開け放たれていたのなら、雨が降り込んでも不思議はない。しかし、一尺も奥に入れば、床は乾いていた。そこに慎重に足を置く。
 天狗堂の中は、六畳くらいの板の間だ。正面奥に、家紋を染め抜いた布を掛けた台があり、そこにお神酒と塩を盛った皿が置いてある。そして、その上の壁に、彫り跡も荒々しい、大きな天狗の面が掛けられていた。
 ――天狗の面。
 どうしても、十年前に村に出た変質者が思い浮かぶ。しかし、この面ではない。とても顔に付けられる大きさではない。
 壁を見渡す。窓はない。左右と奥の三方の天井に近い部分に、注連縄が吊られている。扉の上にも下がっているので、一周ぐるりと注連縄で巻かれている感じとなる。
 そして、天井。
 屋根組が露わになっている。丸太を組んだ小屋組の、横に渡された三本の梁のうち、真ん中のものに、注連縄が括り付けられていた。他にも、祭り用の装飾だろうか、色とりどりの布やら千羽鶴やらがぶら下がっている。

 ……そしてやはり、気になるのは、零の目の前に吊るされた、少女の遺体。
 現場検証前にベタベタと触るのは憚られる。それに、犬神零は行く先々で変死体に行き合うような、そういう種類の探偵ではない。とはいえ、常人よりは、死体というものを見慣れてはいた。
 零は間近から遺体を見上げた。肌は色を失ってはいるが、鼻から血が一筋垂れている以外は、綺麗なものだった。光を失った目を力なく細め、零をじっと見下ろしている。それは、依頼に応えられなかった不甲斐ない探偵を責めているようでもあった。
 さすがに動揺し、少し離れようと体を動かした時、手が白装束に触れた。それは乾いていた。
 ――乾いていた。
 よく見ると、足を覆うほどの長さの裾にも、泥はねのひとつとしてなく、綺麗なものである。
 つまり、被害者は、――。
 という事は……。

 その時、ドタバタと足音がした。振り向くと、来住野十四郎がやって来るところだった。彼は犬神零の姿を認めると、鬼の形相で声を荒らげた。
「なぜ貴様がここにいる! 貴様がやったのか!!」
 零は慌てた。
「ち、違います! 私はただ……」
 十四郎は構わず、土足のまま天狗堂へ上がり、遺体に抱きついた。
「――竹子!」
 そして、抱きかかえて首の注連縄を外そうと揺らしはじめた。
「待ってください! 警察が来るまで、そのま……」
「竹子が生きていたらどうするんだ!!」
 ……それはないだろう。だが、他人だから、遺体に対しそういう感情なのだろう。彼にとっては身内、それも我が子である。そのままにしておくのは忍びない心情なのも理解できる。
 しかし、そうさせる訳にはいかない。零は十四郎の腕を掴んだ。
「待ってください! これはなんですよ!」
「邪魔をするな! この人殺しめ!!」
 そこへ都合悪くやって来たのは、小木曽巡査である。揉み合っている二人、そして、「人殺し」という言葉が、彼の正義感を刺激した。
「やはり貴様が不審者だったのか!」
 小木曽巡査は天狗堂へ駆け上がり、零の腕を掴む。
「殺人の現行犯で逮捕する!」
 後にも先にも、犬神零がこれほど慌てた場面は他にない。彼は泡を食って抗議した。
「違います! 私じゃありません!」
「問答無用!」
 零が腕を解こうと藻掻くと、小木曽はそれを逆手に取り、足を払った。そして――
「おりゃあああ!!」
 零の長身が宙を舞う。見事な一本背負いが決まり、床に強かに叩き付けられた零は、痛みに息が詰まり、そのまま意識を失った。



「……んー」
 寝返りを打った拍子に、雨戸の隙間から差し込むの日差しが顔に当たった。その眩しさに、椎葉桜子は目を覚ました。
「――あー、よく寝たわ。今何時かしら?」
 しかし、この部屋に時計はない。仕方なく、桜子は外を見ようと縁側の雨戸を開けた。
 すると、一面の百合園が目に入る。……しかし、何だか様子がおかしい。警官が何人も行き来しているのだ。
 その時、舞台の方から、亀乃がフラフラとやって来た。彼女は縁側にやって来ると、踏み石に身を預けるように倒れた。
「ちょ、ちょっと! どうしたの、大丈夫?」
 桜子が抱き起こすと、真っ白な顔で亀乃は言った。
「竹子様が……お亡くなりに……殺人事件で……犬神様が……逮捕されました……」
 情報量が多すぎて、解釈に時間を要した。しばらく亀乃の顔を見ていたが、ようやく状況を理解した桜子は声を挙げた。
「……はぁあ!?」



 久芳春子は、梅雨明けの眩しい空を、窓越しに眺めていた。
 昨夜の興奮が、身を包んでいるのが分かる。指に、首筋に、胸に、丸井勝太と交わした愛の記憶が染み付いて、当分余韻が冷めそうにない。
 ――しかし、興奮はそれだけではなかった。

 昨夜、十時。
 つい時間を過ごした二人を、柱時計の鐘が急かした。その数は十。春子は慌てた。
「もう祭りはとっくに終わってるはずよ。いつ両親が戻って来るか分からないわ」
「そうだね、僕は帰るよ」
 最後にもう一度唇を重ねた。
 ……月原川から場所を移し、善浄寺の奥、春子の部屋で、二人は互いの気持ちを語らった。「本当の」行為は初めて同士の二人は、手順良くとはいかなかったが、互いの心の奥底にある情熱を知る事はできた。
 勝太は慌てて服を直した。そして、誰もいない事を確認し、裏口から春子は勝太を送り出した。
 間に合ったわ。春子がホッと息を吐いたのも束の間、ほとんど入れ違いに、裏手の方で声がした。両親のものだ。
 ……まさか、勝太さんと行き会っていないわよね。
 春子は不安に思いつつ、急いで自室に引き上げ布団に入った。
 両親は裏口から入ってきたようだった。小声で会話しながら、居間へ向かう様子だったが、勝太と会った雰囲気はない。だが、耳に入ったある一言が、春子を眠れなくさせた。
 多分、父の発したものだと思う。
「……失敗したんだよ」
 ――それはどういう意味なのか。祭りの見物客の交通整理に、果たして失敗するような事態があったのか。
 それに、なぜ、裏口から入ってきたのか。

 春子の不安をよそに、真夏を迎えた空は、底が抜けたように青かった。
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