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【弐】祭リノ前夜
④
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食事を済ませると、桜子は風呂へ、零は館内の探索に出かけた。
元妓館らしく、中庭を巡りぐるりと廊下がロの字に一周し、それに面して客室が配置されている。零たちの通された部屋は、最も奥の多摩川沿いだ。
そして、ロの字の奥の、左の角から渡り廊下が出ており、名物の露天風呂に繋がっていた。
桜子の後ろ姿を見送ってそこを通り過ぎ、零は玄関に向かう。
青梅街道沿いの、玄関のある一画は、ロの字の幅が広くなっていて、帳場やら広間やら厨房やらが配置されている。帳場の上にある二階への階段は、黒光りして実に風情がある。
その下の帳場には、布袋様のように貫禄たっぷりに、主の又吉朝夫が座っていた。火鉢を前に煙管をくゆらす様子は、実に堂に入っている。
奥の壁に置かれた、引き出しの沢山付いた整理棚の上で、カチカチと振り子を揺らす柱時計の針は、八時半を指していた。
零は笑顔を取り繕い、朝夫に声を掛けた。
「火をお借りできますか?」
「ああ、どうぞどうぞ」
朝夫は座布団を譲り、愛想良く零を迎える。零が煙草入れから煙管を出すと、彼は目を丸くした。
「お若いのに、煙管をお持ちなんですか」
「はい。どうも紙巻き煙草では格好が付きませんので」
「そうそう。手入れは要りますがね、道具に拘るのが粋ってモンですよ」
朝夫は少なからず酒が入っているようだ。赤ら顔を綻ばせて、火箸で炭をひっくり返した。
「寄合の会合はいかがでしたか?」
刻み煙草を火皿に詰めて炭に当てる。パチッと火が爆ぜ、薄紫の煙が細く立ち上る。
「困ったモンですよ。だけどねえ、言ってみりゃあ他所様の家族事情に過ぎない訳で、あんまり強くも言えませんしねえ」
朝夫は電灯の明かりを反射する頭をツルツルと撫でた。
「だからと言って、善浄寺の久芳さんも無視はできやせん。檀家でお世話になってるお寺です。我々寄合は板挟みですわ」
朝夫はでっぷりとした首を竦めた。
「そもそも、寄合のまとめ役ってぇのは、この村じゃあ檀家総代みたいなモンなんですわ。――昔、来住野さんとこがお代官様って呼ばれてた時代にゃあ、三役ってのがありましてね。名主の水川家、組頭のうち、百姓代のまるいやです。それに、村人の名簿――つまり、檀家名簿ですね、それを管理してたのが、善浄寺って訳で」
朝夫はふうと紫煙を吐いた。
「うちがやってた組頭ってのは、何をしてたのか。……昔っから宿屋ですけど、宿場町を締める、まあ、地回りですわ」
つまり、この地域のヤクザ者の親分、といったところか。
「その顔を生かして、檀家のまとめをやってたんですよ。今でいうとこの戸籍を、ならず者に任せてたんですから、まあ、時代ですわな。
けどね、宿場が廃れちゃあ稼業はやっていけねえもんで、先代から堅気の商売に移りましてね。旅館を観光客向けに改築して、水川さんとこに媚びを売って、何とかです」
ハハハと笑い、朝夫は火皿の灰をポンと落とした。
「史津の婿も、水川さんに紹介して貰いましてね。真面目ないい男です。――でもこのご時世、宿屋なんて商売が、どこまで持つやら。だから婿殿には、旅館に入らず、水川産業の社員をして貰ってます。無事に孫が大きくなるまで、収入は安定した方がいいですからな。
……これは長々と。つまらん話をしてしまいましたな。……実を言うと、あっしも不安なんですわ。何とか無事に、天狗祭りが終わればいいと、それだけで」
「お孫さんのお神楽を見たいですからね」
すると朝夫は目を細め、すっかり爺やの顔になった。
「お転婆なところも含めて、史津の小さい頃にそっくりでして。若い頃に女房を亡くしましてね、父娘ふたりでやってきたもんで、孫の可愛さといったら……」
そこで零は、少し迷いつつも、今さら遠慮する事はないと、口を開いた。
「先程、若女将が娘さんに、『夜出歩くと天狗が出る』と仰ってたんですが、あれはどういう意味です?」
すると、朝夫は急に表情を曇らせた。そしてボソリと呟いた。
「あのお嬢さんがいないところで良かった。若い娘さんには、聞かせたくないですから」
再び刻み煙草を煙管に詰め、朝夫は遠い目をした。
「十年も前になりますか。村に、天狗の面を被った変質者が出たんですわ。そんで、まだ年端もいかない子供を襲って、手篭めにして……」
「それは……」
「年に何人も、そんな子供が出て。分かってるだけでそうだから、言えない子も含めりゃ、どれだけやられたか。可哀想に、それで身篭って、川に身を投げた子もいましたわ」
朝夫は顔を伏せ、首を振った。
「犯人は捕まりましたか?」
「それが、誰も顔を見てねぇんですわ。何しろ、天狗の面を被ってましたからな。だから、夜、特に子供のひとり歩きには、皆神経を尖らせてるんですよ」
――部屋に戻ると、布団が二組用意されていた。
窓辺では、桜子が髪を拭いている。断髪を夜風に当て、鼻歌を口ずさむ。
「露天風呂、良かったわよ。多摩川が近くで見えて、蛍も飛んでたわ」
「それは何より」
「あなたは行かないの?」
「済ませましたよ」
よく見れば、零の髪も濡れている。カラスの行水という奴だ。
浴衣に着替えていた桜子は、ワンピースを衣紋掛けに掛け、零を振り返った。
「聞いてきたんでしょ? 天狗の事」
「……はい」
ここまで巻き込んでおいて、言わない訳にはいくまい。零は言葉を選びながらも、朝夫に聞いた話を桜子に伝えた。
案の定、桜子は声を震わせた。
「許せないわね」
「はい。しかし、十年も前の事ですので、今から犯人を捕まえるのは、難しいかと」
「本ッ当、腰抜けね」
桜子は零を睨んだ。
「いい? どうせ明日、村のあちこちで聞き込みをするんでしょ? ついでに不届きな天狗の事も、聞いてくるのよ」
そして、窓の障子を閉め布団に入ろうとして、桜子は動きを止めた。
「……もしかして、今晩、あなたと同じ部屋で寝る事になるの?」
「まあ、そうなるかと……」
途端に桜子はむっつりと口を尖らせ、布団を壁ギリギリまで引っ張った。
「あなたもあっちに行って」
「……はい」
零も同じく、反対側の壁に布団を寄せる。
その間に桜子は、床の間の百合の花瓶を、ふたつの布団の中間に置く。そして、物凄い剣幕で零を睨め付けた。
「いい? これよりこっちに指一本でも入ったら、骨をへし折るからね」
「わ、分かりましたよ。入りませんよ」
そう言いながらも、明かりを消すと間もなく、桜子の寝息が聞こえだした。朝から怒涛の長旅だったのだ。さすがに疲れたのだろう。
零も布団に入り、ぼんやりと見える天井を見上げた。
――どうにも、嫌な予感がする。
夕食前、「簡単な仕事だ」と桜子に言ったのは、ただの希望に過ぎない。今日一日で知り得た、来住野家の、この村の、ややこしい事情から鑑みるに、簡単に帰れそうな気がしない。
――大天狗は……鬼……恐ろしい……悪鬼……あぁ……忌まわしい人形……あの人形を……壊して……――
水川杏子が言ったとされる、今際の言葉の意味。不穏な羅列は何を意味し、彼女は何を望んだのか。
この村の闇は深そうだ。ただただ、できるだけ穏やかに、事が運んでくれるのを願うばかりである。
祈るように、犬神零は瞼を閉じた。
――一方、来住野家にて。
夜十時を回ったところで、門の外に車の音がした。そして、複数の足音。
ガラリと格子戸が開き、姿を見せたのは、来住野家の女性たちだ。
来住野鶴代。上品に着物を着こなし、ゆったりとした動作で草履を脱ぐ。そして、夫の姿を認めると、頭を揺らしてこう言った。
「こんばんは。今週もまたお世話になります」
目は焦点を得ず、ゆらゆらと揺れる。十四郎のしかめつらしい形相にも、表情ひとつ変えない。
「……お母様、ここがおうちですよ」
言いながら、鶴代の肩に手を置いたのは、不知火松子である。同じくしっとりと着物を着ているが、その身に纏う華やかな雰囲気は隠しようがない。
そして、松子に続いて玄関に入ったのは、市松人形のような来住野竹子と、フランス人形のような来住野梅子だ。二人は父の形相を見て、ギョッとしたように立ち竦んだ。
「おまえたち、何をしてきた」
「あら、世話をしてきた後輩の、初主演作品の公開がありましてね、皆で見物に」
松子の言葉に、彼の怒りは限界を超えた。
「誤魔化しても無駄だ!」
怒声に最も反応したのは、鶴代だった。両手で耳を塞ぎ、ぶるぶると震える。
「怒らないで……怒らないで……」
十四郎は知っていた。この女は、妻という立場であるこの人物は、何も理解していない。
この結婚は、先代、つまり彼の父が強引に推し進めたものだった。
代々、来住野家の男は長生きしなかった。現代で呼ぶところの、高血圧持ちの家系なのだ。
だから、自分も長くは生きられないと、先代は高室伯爵家との縁談を進めた。
十四郎も初めは、顔が良く上品な鶴代なら、妻にして恥ずかしくないと思った。少々おっとりし過ぎるところはあるが、口うるさい女は好みでない。何より、華族という家柄が、十四郎にとって喉から手が出るほど魅力的だった。
そして、この縁談は、先代の遺言となった。
遺言に従い、両家は婚姻を結んだのだが……。
今では、後悔しかない。
夫婦になって三十年。未だに彼女は、夫という存在を理解していない。
週末を過ごす実家から、平日のみ、この来住野家に通って来るものだと思っている。そして、何もせず、ただ椅子に座って過ごすのだ。
ぶるぶると震え続ける鶴代を見て、十四郎は舌打ち混じりに声を低めた。
「鶴代、おまえに言っているんじゃない。竹子、梅子、おまえたちだ。――今日、探偵と名乗る男が来た。おまえたち、何を吹き込んだ?」
だが、言葉の調子を感じ取って、鶴代の震えは大きくなった。
「怒らないで……怒らないで……」
鶴代は、大きな声を聞くと過剰に心を乱し、パニックを起こす。それは生命に関わる場合もあるため、避けなければならない。
「さ、お母様、お部屋に参りましょう」
松子がすかさず鶴代を導く。その後に、竹子と梅子が続いた。
――そして再び、玄関には十四郎ひとりになった。
彼には分かった。なぜ、彼女らが自身の帰宅前に、探偵を寄越したのか。
それは、鶴代を盾に、彼の叱責から逃れるためである。
「……出来損ない共め!」
吐き捨てた彼の言葉は、暗い屋敷に虚しく響いた。
元妓館らしく、中庭を巡りぐるりと廊下がロの字に一周し、それに面して客室が配置されている。零たちの通された部屋は、最も奥の多摩川沿いだ。
そして、ロの字の奥の、左の角から渡り廊下が出ており、名物の露天風呂に繋がっていた。
桜子の後ろ姿を見送ってそこを通り過ぎ、零は玄関に向かう。
青梅街道沿いの、玄関のある一画は、ロの字の幅が広くなっていて、帳場やら広間やら厨房やらが配置されている。帳場の上にある二階への階段は、黒光りして実に風情がある。
その下の帳場には、布袋様のように貫禄たっぷりに、主の又吉朝夫が座っていた。火鉢を前に煙管をくゆらす様子は、実に堂に入っている。
奥の壁に置かれた、引き出しの沢山付いた整理棚の上で、カチカチと振り子を揺らす柱時計の針は、八時半を指していた。
零は笑顔を取り繕い、朝夫に声を掛けた。
「火をお借りできますか?」
「ああ、どうぞどうぞ」
朝夫は座布団を譲り、愛想良く零を迎える。零が煙草入れから煙管を出すと、彼は目を丸くした。
「お若いのに、煙管をお持ちなんですか」
「はい。どうも紙巻き煙草では格好が付きませんので」
「そうそう。手入れは要りますがね、道具に拘るのが粋ってモンですよ」
朝夫は少なからず酒が入っているようだ。赤ら顔を綻ばせて、火箸で炭をひっくり返した。
「寄合の会合はいかがでしたか?」
刻み煙草を火皿に詰めて炭に当てる。パチッと火が爆ぜ、薄紫の煙が細く立ち上る。
「困ったモンですよ。だけどねえ、言ってみりゃあ他所様の家族事情に過ぎない訳で、あんまり強くも言えませんしねえ」
朝夫は電灯の明かりを反射する頭をツルツルと撫でた。
「だからと言って、善浄寺の久芳さんも無視はできやせん。檀家でお世話になってるお寺です。我々寄合は板挟みですわ」
朝夫はでっぷりとした首を竦めた。
「そもそも、寄合のまとめ役ってぇのは、この村じゃあ檀家総代みたいなモンなんですわ。――昔、来住野さんとこがお代官様って呼ばれてた時代にゃあ、三役ってのがありましてね。名主の水川家、組頭のうち、百姓代のまるいやです。それに、村人の名簿――つまり、檀家名簿ですね、それを管理してたのが、善浄寺って訳で」
朝夫はふうと紫煙を吐いた。
「うちがやってた組頭ってのは、何をしてたのか。……昔っから宿屋ですけど、宿場町を締める、まあ、地回りですわ」
つまり、この地域のヤクザ者の親分、といったところか。
「その顔を生かして、檀家のまとめをやってたんですよ。今でいうとこの戸籍を、ならず者に任せてたんですから、まあ、時代ですわな。
けどね、宿場が廃れちゃあ稼業はやっていけねえもんで、先代から堅気の商売に移りましてね。旅館を観光客向けに改築して、水川さんとこに媚びを売って、何とかです」
ハハハと笑い、朝夫は火皿の灰をポンと落とした。
「史津の婿も、水川さんに紹介して貰いましてね。真面目ないい男です。――でもこのご時世、宿屋なんて商売が、どこまで持つやら。だから婿殿には、旅館に入らず、水川産業の社員をして貰ってます。無事に孫が大きくなるまで、収入は安定した方がいいですからな。
……これは長々と。つまらん話をしてしまいましたな。……実を言うと、あっしも不安なんですわ。何とか無事に、天狗祭りが終わればいいと、それだけで」
「お孫さんのお神楽を見たいですからね」
すると朝夫は目を細め、すっかり爺やの顔になった。
「お転婆なところも含めて、史津の小さい頃にそっくりでして。若い頃に女房を亡くしましてね、父娘ふたりでやってきたもんで、孫の可愛さといったら……」
そこで零は、少し迷いつつも、今さら遠慮する事はないと、口を開いた。
「先程、若女将が娘さんに、『夜出歩くと天狗が出る』と仰ってたんですが、あれはどういう意味です?」
すると、朝夫は急に表情を曇らせた。そしてボソリと呟いた。
「あのお嬢さんがいないところで良かった。若い娘さんには、聞かせたくないですから」
再び刻み煙草を煙管に詰め、朝夫は遠い目をした。
「十年も前になりますか。村に、天狗の面を被った変質者が出たんですわ。そんで、まだ年端もいかない子供を襲って、手篭めにして……」
「それは……」
「年に何人も、そんな子供が出て。分かってるだけでそうだから、言えない子も含めりゃ、どれだけやられたか。可哀想に、それで身篭って、川に身を投げた子もいましたわ」
朝夫は顔を伏せ、首を振った。
「犯人は捕まりましたか?」
「それが、誰も顔を見てねぇんですわ。何しろ、天狗の面を被ってましたからな。だから、夜、特に子供のひとり歩きには、皆神経を尖らせてるんですよ」
――部屋に戻ると、布団が二組用意されていた。
窓辺では、桜子が髪を拭いている。断髪を夜風に当て、鼻歌を口ずさむ。
「露天風呂、良かったわよ。多摩川が近くで見えて、蛍も飛んでたわ」
「それは何より」
「あなたは行かないの?」
「済ませましたよ」
よく見れば、零の髪も濡れている。カラスの行水という奴だ。
浴衣に着替えていた桜子は、ワンピースを衣紋掛けに掛け、零を振り返った。
「聞いてきたんでしょ? 天狗の事」
「……はい」
ここまで巻き込んでおいて、言わない訳にはいくまい。零は言葉を選びながらも、朝夫に聞いた話を桜子に伝えた。
案の定、桜子は声を震わせた。
「許せないわね」
「はい。しかし、十年も前の事ですので、今から犯人を捕まえるのは、難しいかと」
「本ッ当、腰抜けね」
桜子は零を睨んだ。
「いい? どうせ明日、村のあちこちで聞き込みをするんでしょ? ついでに不届きな天狗の事も、聞いてくるのよ」
そして、窓の障子を閉め布団に入ろうとして、桜子は動きを止めた。
「……もしかして、今晩、あなたと同じ部屋で寝る事になるの?」
「まあ、そうなるかと……」
途端に桜子はむっつりと口を尖らせ、布団を壁ギリギリまで引っ張った。
「あなたもあっちに行って」
「……はい」
零も同じく、反対側の壁に布団を寄せる。
その間に桜子は、床の間の百合の花瓶を、ふたつの布団の中間に置く。そして、物凄い剣幕で零を睨め付けた。
「いい? これよりこっちに指一本でも入ったら、骨をへし折るからね」
「わ、分かりましたよ。入りませんよ」
そう言いながらも、明かりを消すと間もなく、桜子の寝息が聞こえだした。朝から怒涛の長旅だったのだ。さすがに疲れたのだろう。
零も布団に入り、ぼんやりと見える天井を見上げた。
――どうにも、嫌な予感がする。
夕食前、「簡単な仕事だ」と桜子に言ったのは、ただの希望に過ぎない。今日一日で知り得た、来住野家の、この村の、ややこしい事情から鑑みるに、簡単に帰れそうな気がしない。
――大天狗は……鬼……恐ろしい……悪鬼……あぁ……忌まわしい人形……あの人形を……壊して……――
水川杏子が言ったとされる、今際の言葉の意味。不穏な羅列は何を意味し、彼女は何を望んだのか。
この村の闇は深そうだ。ただただ、できるだけ穏やかに、事が運んでくれるのを願うばかりである。
祈るように、犬神零は瞼を閉じた。
――一方、来住野家にて。
夜十時を回ったところで、門の外に車の音がした。そして、複数の足音。
ガラリと格子戸が開き、姿を見せたのは、来住野家の女性たちだ。
来住野鶴代。上品に着物を着こなし、ゆったりとした動作で草履を脱ぐ。そして、夫の姿を認めると、頭を揺らしてこう言った。
「こんばんは。今週もまたお世話になります」
目は焦点を得ず、ゆらゆらと揺れる。十四郎のしかめつらしい形相にも、表情ひとつ変えない。
「……お母様、ここがおうちですよ」
言いながら、鶴代の肩に手を置いたのは、不知火松子である。同じくしっとりと着物を着ているが、その身に纏う華やかな雰囲気は隠しようがない。
そして、松子に続いて玄関に入ったのは、市松人形のような来住野竹子と、フランス人形のような来住野梅子だ。二人は父の形相を見て、ギョッとしたように立ち竦んだ。
「おまえたち、何をしてきた」
「あら、世話をしてきた後輩の、初主演作品の公開がありましてね、皆で見物に」
松子の言葉に、彼の怒りは限界を超えた。
「誤魔化しても無駄だ!」
怒声に最も反応したのは、鶴代だった。両手で耳を塞ぎ、ぶるぶると震える。
「怒らないで……怒らないで……」
十四郎は知っていた。この女は、妻という立場であるこの人物は、何も理解していない。
この結婚は、先代、つまり彼の父が強引に推し進めたものだった。
代々、来住野家の男は長生きしなかった。現代で呼ぶところの、高血圧持ちの家系なのだ。
だから、自分も長くは生きられないと、先代は高室伯爵家との縁談を進めた。
十四郎も初めは、顔が良く上品な鶴代なら、妻にして恥ずかしくないと思った。少々おっとりし過ぎるところはあるが、口うるさい女は好みでない。何より、華族という家柄が、十四郎にとって喉から手が出るほど魅力的だった。
そして、この縁談は、先代の遺言となった。
遺言に従い、両家は婚姻を結んだのだが……。
今では、後悔しかない。
夫婦になって三十年。未だに彼女は、夫という存在を理解していない。
週末を過ごす実家から、平日のみ、この来住野家に通って来るものだと思っている。そして、何もせず、ただ椅子に座って過ごすのだ。
ぶるぶると震え続ける鶴代を見て、十四郎は舌打ち混じりに声を低めた。
「鶴代、おまえに言っているんじゃない。竹子、梅子、おまえたちだ。――今日、探偵と名乗る男が来た。おまえたち、何を吹き込んだ?」
だが、言葉の調子を感じ取って、鶴代の震えは大きくなった。
「怒らないで……怒らないで……」
鶴代は、大きな声を聞くと過剰に心を乱し、パニックを起こす。それは生命に関わる場合もあるため、避けなければならない。
「さ、お母様、お部屋に参りましょう」
松子がすかさず鶴代を導く。その後に、竹子と梅子が続いた。
――そして再び、玄関には十四郎ひとりになった。
彼には分かった。なぜ、彼女らが自身の帰宅前に、探偵を寄越したのか。
それは、鶴代を盾に、彼の叱責から逃れるためである。
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