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【弐】祭リノ前夜
③
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零におちょこを渡し、史津はお銚子を勧めた。
「何にもないところですけど、多摩川の景色だけは自慢ですのよ」
史津は、開け放たれた障子窓を示した。簾の上がった窓からは、多摩川越しに、月闇に薄ぼんやりと浮かぶ山々を一望できる。すっかり日は暮れ、月明かりの前を通り過ぎる雲が幻想的だ。川越しの湿気を含んだ夜風が、心地良く肌を撫でる。
「探偵さんと父に聞いて、ビックリしましたわ。全然そんな風に見えないんですもの」
「ハハハ。いつもそう言われます」
「それに、お嬢さんの武勇伝も聞きましたよ。あたしも見たかったわ」
史津はそう言いながら、桜子にもおちょこを持たせ、酒を注いだ。
「お恥ずかしいです……」
カッと紅潮した頬を誤魔化すように、桜子はおちょこを一息に空けた。
お膳には、岩魚の塩焼きと山菜のお浸し、天ぷらに煮物と、質素ながらも、その土地の情緒を感じられる料理が並ぶ。それらをつつきながら、零は言った。
「明日の祭りは、さぞ賑やかでしょうねぇ」
「はい。今どきは電話で予約でしょ。明日はおかげさまで満室なんですよ。本当、花沢凛麗様々です」
「えっ、じゃあ私たち……」
「大丈夫。満室と言っても、空き部屋のひとつやふたつ、用意してあるんです。水川産業のお客様が急に泊まりに来られる事も多くて。お得意様ですからね、お断りする事がないように、そうしてるんです」
史津はそう言ってから、お銚子を膝に置いた。
「――あたしね、若い頃は芸者の真似事をしててね。今は身を固めてるけど。……あんな稼業をしてると、知りたくもない話を色々と聞いてね」
道理で立ち振る舞いが色っぽいはずだ。零は納得しながら、おちょこに口を付けた。
そこで史津は声を低めた。
「竹子ちゃんと梅子ちゃんの頼みで、この村に来たって聞いてさ。ちょっと耳に入れておきたい事があるのよ」
「ほう……」
史津は背筋を伸ばし、続ける。
「寄合じゃあ、さっきお父っつぁんから聞いたと思うけど、あの姉妹のどっちかを遠くへ行かせろって話になってるし、村の人のほとんどが、それが一番いいと思ってるんだよ。……だけどね、厄介なのは善浄寺と、セメント屋の奥さんでね」
「善浄寺については、先程少し伺いました。セメント屋とは、水川産業の事ですか?」
「あ、つい陰口が出ちゃったね。……そう、水川産業の事だよ。そりゃあ、お得意様だし、この村は水川産業のおかげで何とかなってるって分かってるんだけどね。どうもあそこの社長がね、虎の威を借りる狐と言うか……」
「村の人たちからあまり良く思われていない、と」
コクリと史津はうなずいた。
「先祖代々、時の権力者に媚びを売って、血縁関係を結んで成り上がってきた家系なんだよ。今の社長の奥さんは、来住野のご当主、十四郎さんの叔母さんでね。それに、社長の弟は村長なんだけど、息子の嫁に竹子ちゃんか梅子ちゃんをって、しつこいらしくて」
これは、竹子の話とも合っている。しかし、気になるのは水川産業の奥さんという人である。
零は話を促した。
「水川産業の奥様と善浄寺のご住職が、どう厄介だと?」
先述した通り、水川産業の社長は水川家の兄・信一郎であり、その妻の夢子は、来住野十四郎の叔母に当たる夢子だ。
その二人のひとり娘・杏子は、十年前に病死したのだが、その今際の際に、錯乱した意識の中でこう言ったという。
「大天狗は……鬼……恐ろしい……悪鬼……あぁ……忌まわしい人形……あの人形を……壊して……」
「……そんな事があって、夢子さん、月原洞窟の天狗伝説に傾倒してね。初めは、杏子ちゃんの言い残した『大天狗』の意味を探るためだったみたいだけど、すっかりのめり込んじゃって」
天狗伝説と言えば、善浄寺に多く記録が残されている。そのため、第二の霊場として、観光客に公開し、それを題材に説法をするなどしているらしい。
「お寺だって商売だからね。人集めになるなら何でもするさ。……それにハマって、夢子さん、通い詰めてるんだよ」
「そうなんですか」
「善浄寺の住職、久芳正善と言うんだけど、その説法をね、そりゃあ悲劇的に語るらしいのよ。伝承にある災害が、どんなに惨いものだったかとね。夢子さん、すっかり真に受けて……」
さすがの女将も、顔を曇らせ声を低めた。
「竹子ちゃんか梅子ちゃん、どちらか片方の命を差し出す以外に、村が助かる方法はないと」
「ちょっと待って。その夢子さんって方、あの頑固親父の叔母さんなのよね。つまり、お嬢さんお二人からすると……」
「大叔母に当たりますね」
「そんな人が、甥の子供を殺せって?」
「夢子さんと十四郎さん、昔から反りが合わなくてね」
零も箸を置き、史津に顔を向けた。
「その話、誰から聞かれたのですか?」
「ご主人の信一郎さんさ。芸妓をやってた頃、酔い潰れたのを介抱してたら、夢子さんの愚痴を言って嘆いてたよ」
「これ以上確かな情報元はありませんね……」
「だからさ、明日からの祭りで、何かが起こる気がして仕方ないんだよ。うまく言えないけど、何となくゾワゾワしてさ」
零も桜子も、悪寒を覚えずにいられなかった。先程の楽観は消え去り、ドス黒い靄が辺りを満たしていく感じがした。
その息苦しさから逃れようと、桜子は窓を見た。するとそこに、小さな顔があり、桜子は悲鳴を上げた。
「キャーッ! お、お化け!」
すると顔は、甲高い声を上げて笑った。
「お化けじゃないよ、サチコだよ」
なるほど、小さな顔は、八つくらいの女の子だ。史津の娘である。窓の外が狭い裏庭になっており、そこにいるらしい。おかっぱ頭を窓から覗かせて、ケラケラと笑っている。
「サチコ、そんなとこで何してるのさ!」
史津がピシャリと叱りつけると、サチコは窓の下に隠れた。
「今、お神楽の練習から帰ったんだよ。お母ちゃんの声がしたから」
「いつも言ってるだろ! 暗くなる前に帰りなさいって」
「だって、ヨシコちゃんと遊んでたんだもん」
「まるいやのヨシコちゃんだね」
史津は溜息を吐きながら窓際に歩み寄ると、厳しい声で娘に言い聞かせた。
「天狗が出るから、夜外を歩くんじゃないと、あれほど言ってるだろ」
――天狗!? 零はハッと史津の横顔に視線を向けた。
「大丈夫だよ。新造兄ちゃんが送ってくれたから」
「そういう問題じゃないんだよ! いいから、早く部屋へ行きな。仲居さんがご飯を用意してくれてるから」
「あたし、お母ちゃんと食べたい」
「困った子だねぇ」
「たまには早く上がって、一緒にお食事をされてはいかがですか?」
零が言うと、サチコはパッと顔を出した。
「あんた、いいお客さんだね!」
「本当に生意気な子だよ」
史津にゴツンと拳骨を受けて、サチコは頭を押さえた。
「鬼母!」
サチコはそう言って走り去った。
「まあ。後で絞らないと」
「早く行ってあげてくださいな」
桜子が笑うと、史津は恐縮しながらも丁寧に挨拶をして、部屋から出て言った。
後に残されたのは、モヤモヤとした空気だ。状況だけに史津を送り出したはいいが、とてつもなく気になる。
「――天狗って、今言ってたわよね」
「はい、天狗と聞こえました」
「どういう意味かしら?」
「何にもないところですけど、多摩川の景色だけは自慢ですのよ」
史津は、開け放たれた障子窓を示した。簾の上がった窓からは、多摩川越しに、月闇に薄ぼんやりと浮かぶ山々を一望できる。すっかり日は暮れ、月明かりの前を通り過ぎる雲が幻想的だ。川越しの湿気を含んだ夜風が、心地良く肌を撫でる。
「探偵さんと父に聞いて、ビックリしましたわ。全然そんな風に見えないんですもの」
「ハハハ。いつもそう言われます」
「それに、お嬢さんの武勇伝も聞きましたよ。あたしも見たかったわ」
史津はそう言いながら、桜子にもおちょこを持たせ、酒を注いだ。
「お恥ずかしいです……」
カッと紅潮した頬を誤魔化すように、桜子はおちょこを一息に空けた。
お膳には、岩魚の塩焼きと山菜のお浸し、天ぷらに煮物と、質素ながらも、その土地の情緒を感じられる料理が並ぶ。それらをつつきながら、零は言った。
「明日の祭りは、さぞ賑やかでしょうねぇ」
「はい。今どきは電話で予約でしょ。明日はおかげさまで満室なんですよ。本当、花沢凛麗様々です」
「えっ、じゃあ私たち……」
「大丈夫。満室と言っても、空き部屋のひとつやふたつ、用意してあるんです。水川産業のお客様が急に泊まりに来られる事も多くて。お得意様ですからね、お断りする事がないように、そうしてるんです」
史津はそう言ってから、お銚子を膝に置いた。
「――あたしね、若い頃は芸者の真似事をしててね。今は身を固めてるけど。……あんな稼業をしてると、知りたくもない話を色々と聞いてね」
道理で立ち振る舞いが色っぽいはずだ。零は納得しながら、おちょこに口を付けた。
そこで史津は声を低めた。
「竹子ちゃんと梅子ちゃんの頼みで、この村に来たって聞いてさ。ちょっと耳に入れておきたい事があるのよ」
「ほう……」
史津は背筋を伸ばし、続ける。
「寄合じゃあ、さっきお父っつぁんから聞いたと思うけど、あの姉妹のどっちかを遠くへ行かせろって話になってるし、村の人のほとんどが、それが一番いいと思ってるんだよ。……だけどね、厄介なのは善浄寺と、セメント屋の奥さんでね」
「善浄寺については、先程少し伺いました。セメント屋とは、水川産業の事ですか?」
「あ、つい陰口が出ちゃったね。……そう、水川産業の事だよ。そりゃあ、お得意様だし、この村は水川産業のおかげで何とかなってるって分かってるんだけどね。どうもあそこの社長がね、虎の威を借りる狐と言うか……」
「村の人たちからあまり良く思われていない、と」
コクリと史津はうなずいた。
「先祖代々、時の権力者に媚びを売って、血縁関係を結んで成り上がってきた家系なんだよ。今の社長の奥さんは、来住野のご当主、十四郎さんの叔母さんでね。それに、社長の弟は村長なんだけど、息子の嫁に竹子ちゃんか梅子ちゃんをって、しつこいらしくて」
これは、竹子の話とも合っている。しかし、気になるのは水川産業の奥さんという人である。
零は話を促した。
「水川産業の奥様と善浄寺のご住職が、どう厄介だと?」
先述した通り、水川産業の社長は水川家の兄・信一郎であり、その妻の夢子は、来住野十四郎の叔母に当たる夢子だ。
その二人のひとり娘・杏子は、十年前に病死したのだが、その今際の際に、錯乱した意識の中でこう言ったという。
「大天狗は……鬼……恐ろしい……悪鬼……あぁ……忌まわしい人形……あの人形を……壊して……」
「……そんな事があって、夢子さん、月原洞窟の天狗伝説に傾倒してね。初めは、杏子ちゃんの言い残した『大天狗』の意味を探るためだったみたいだけど、すっかりのめり込んじゃって」
天狗伝説と言えば、善浄寺に多く記録が残されている。そのため、第二の霊場として、観光客に公開し、それを題材に説法をするなどしているらしい。
「お寺だって商売だからね。人集めになるなら何でもするさ。……それにハマって、夢子さん、通い詰めてるんだよ」
「そうなんですか」
「善浄寺の住職、久芳正善と言うんだけど、その説法をね、そりゃあ悲劇的に語るらしいのよ。伝承にある災害が、どんなに惨いものだったかとね。夢子さん、すっかり真に受けて……」
さすがの女将も、顔を曇らせ声を低めた。
「竹子ちゃんか梅子ちゃん、どちらか片方の命を差し出す以外に、村が助かる方法はないと」
「ちょっと待って。その夢子さんって方、あの頑固親父の叔母さんなのよね。つまり、お嬢さんお二人からすると……」
「大叔母に当たりますね」
「そんな人が、甥の子供を殺せって?」
「夢子さんと十四郎さん、昔から反りが合わなくてね」
零も箸を置き、史津に顔を向けた。
「その話、誰から聞かれたのですか?」
「ご主人の信一郎さんさ。芸妓をやってた頃、酔い潰れたのを介抱してたら、夢子さんの愚痴を言って嘆いてたよ」
「これ以上確かな情報元はありませんね……」
「だからさ、明日からの祭りで、何かが起こる気がして仕方ないんだよ。うまく言えないけど、何となくゾワゾワしてさ」
零も桜子も、悪寒を覚えずにいられなかった。先程の楽観は消え去り、ドス黒い靄が辺りを満たしていく感じがした。
その息苦しさから逃れようと、桜子は窓を見た。するとそこに、小さな顔があり、桜子は悲鳴を上げた。
「キャーッ! お、お化け!」
すると顔は、甲高い声を上げて笑った。
「お化けじゃないよ、サチコだよ」
なるほど、小さな顔は、八つくらいの女の子だ。史津の娘である。窓の外が狭い裏庭になっており、そこにいるらしい。おかっぱ頭を窓から覗かせて、ケラケラと笑っている。
「サチコ、そんなとこで何してるのさ!」
史津がピシャリと叱りつけると、サチコは窓の下に隠れた。
「今、お神楽の練習から帰ったんだよ。お母ちゃんの声がしたから」
「いつも言ってるだろ! 暗くなる前に帰りなさいって」
「だって、ヨシコちゃんと遊んでたんだもん」
「まるいやのヨシコちゃんだね」
史津は溜息を吐きながら窓際に歩み寄ると、厳しい声で娘に言い聞かせた。
「天狗が出るから、夜外を歩くんじゃないと、あれほど言ってるだろ」
――天狗!? 零はハッと史津の横顔に視線を向けた。
「大丈夫だよ。新造兄ちゃんが送ってくれたから」
「そういう問題じゃないんだよ! いいから、早く部屋へ行きな。仲居さんがご飯を用意してくれてるから」
「あたし、お母ちゃんと食べたい」
「困った子だねぇ」
「たまには早く上がって、一緒にお食事をされてはいかがですか?」
零が言うと、サチコはパッと顔を出した。
「あんた、いいお客さんだね!」
「本当に生意気な子だよ」
史津にゴツンと拳骨を受けて、サチコは頭を押さえた。
「鬼母!」
サチコはそう言って走り去った。
「まあ。後で絞らないと」
「早く行ってあげてくださいな」
桜子が笑うと、史津は恐縮しながらも丁寧に挨拶をして、部屋から出て言った。
後に残されたのは、モヤモヤとした空気だ。状況だけに史津を送り出したはいいが、とてつもなく気になる。
「――天狗って、今言ってたわよね」
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「どういう意味かしら?」
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