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【壱】御茶ノ水発奥多摩行
③
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「……ですが、一旦話を戻して、梅子さんのご依頼からです」
零は手帳をパタンと閉じて袖にしまった。
「とにかく、一応は平穏に過ごしてきた梅子さんですが、天狗の使いを名乗る謎の老婆が村に現れて、様子が変わってきたと、不安に思われているんです」
「何とかしてあげたいわね。この問題を解決する算段はあるの?」
「天狗の存在を否定する証拠を上げるのが一番かと。しかし、不在証明というのは、存在証明以上に難しいものですからね。『存在する』というのなら、確かな証拠ひとつで証明できますが、『存在しない』という証拠は……」
それに……、と零は束ねた髪をクシャクシャと掻き混ぜた。
「私、どちらかというと、妖怪とか怪異とかいうのに、肯定的な立場ですから。存在を探るのなら慣れてますが、存在しない証明となると……」
「は? ならあなたは、梅子さんに生贄になれって言うの?」
「そうじゃありません。どんな妖だろうが神だろうが、命を捧げるというのには得心できません。そもそも、信仰というのは、人々が心安らかであるためのものですから。それを理由に命を奪う行為を正当化してはいけません。それは単に、神の名を騙った人間のエゴです」
犬神零は時々、理解に苦しむ事を言う。陰陽師の家系の出身だとか、だから出自は隠さなければならないとか。
居候の少年・ハルアキにしてもそうだ。桜子は一度、彼に妙な術で眠らされた事がある。
そんな怪しげな事を言うから、椎葉桜子は犬神零をあまり信用しないでいる。雇用主と使用人として、給料さえきちんと貰えればいい。そう割り切っている。
しかし、彼が梅子を生贄にしてはいけないと思っているのは、桜子も理解し、ホッとした。
「天狗の調査は名目で、現実的には、梅子さん、竹子さん姉妹の護衛と、村の人たちを説得する事になるんでしょうね。――しかし、それにしても時間がない。正直、参ってます」
「何で彼女は、こんなギリギリになって依頼に来たのかしら?」
「それについては、こう仰っていました」
梅子はハンカチで口を覆いながら、こう言った。
「父は、私たち姉妹を愛しています。……異常なくらいに」
「異常、ですか……。どんな風に?」
「姉が結婚して、同居……と言っても別棟に住んでいるのですが、それまで、私たちは世間の事を何も知りませんでした。普通、子供は学校に通うものだとか、欲しいものを手に入れるにはお金が必要だとか。……父は、私たちを愛するあまり、屋敷から一歩も外に出さないんです」
「お姉様が、あなたがたの境遇が普通ではないと、気付せたのですか」
「はい。多分、父は姉の事があったので、私たちに変な虫が付かないようにと、過保護なんですわ」
「変な虫……?」
「ご存知でしょう? 姉の、花沢凛麗の夫である、不知火清弥様。父は二人の結婚に、猛反対だったんです」
「なるほど……。しかし、そんな中で、今日はどうやって、こちらに来られたのですか?」
すると、梅子はハッと顔を上げ、ハンドバッグから一冊の雑誌を取り出した。少女画報だ。
「姉にもらったんです。姉は時折、父の目を盗んで、こういった風俗雑誌をくれるんです。これの、ここの頁で拝見して」
その頁を開いてテーブルに置き、梅子は膝に手を置いた。
「私たち姉妹が屋敷から出られるのは、年に一度、母の実家のお盆供養だけです。お盆供養には、父は参加しません。それに今年のお盆はちょうど金曜日。母は毎週、週末は実家で過ごすのですが、それと日にちが繋がったために、一日余分に東京に居られたのです。ですから、日曜日にお邪魔した次第です」
「そうですか」
零は荒い紙に印刷された自分の姿を眺めながら顎を撫でた。
――これは、一筋縄ではいかないだろう。梅子の父である十四郎氏が、彼を歓迎するとは到底思えない。
しかし、梅子が雑誌と入れ違いにテーブルに置いた、「依頼料」と書かれた封筒の厚みを見れば、そう易々と断る気にはなれない。少し迷った末に、犬神零は答えた。
「では、明日お邪魔いたします。それにしても、十分な時間があるとはとても言えません。できる限りの事はいたします。しかし、最悪の場合、あなたを拉致して保護するという形を取るかもしれませんが、よろしいですか?」
すると、梅子はポッと頬を染め、目を伏せた。
「もちろん、構いません。命には替えられませんから。……本当に、よろしくお願いいたします」
「……という訳です。昨日の今日なので、桜子さんに確認もできずに連れ出してしまった事は、この通り謝ります。こういう事態ですから、桜子さんのお力をお借りしたかったんです」
ペコリと頭を下げた零に、桜子は不機嫌な顔を見せた。
「それにしても、電話の一本くらい、くれたって良かったじゃない」
「あれ? 桜子さん、アパートメントの電話番号を私に知られるのは嫌だと、教えてくれなかったじゃありませんか」
「……あ、あれ? そうだっけ。アハハ……」
桜子は真っ赤になった顔を冷やすために、土瓶の茶をガブ飲みした。そして一息つくと言った。
「でも、そんなに人手が欲しいんなら、あのガキンチョも連れて来れば良かったのに」
彼女が呼ぶガキンチョとは、納戸の居候のハルアキ少年の事である。彼女曰く、妙に小賢しいところがあるので、こういった場合には役に立つかもしれないと思ったのだ。
しかし、零は苦笑して首を横に振った。
「『余の出る幕はない』だそうです」
「何よ、それ」
自分を「余」と呼び、お武家かお公家みたいな奇妙な言葉遣いをする生意気な少年を、一度教育し直さなければならないと、桜子は常々思っている。
「彼は、多ゑさんに頼んできました。カヨさんとキヨさんが、可愛がってくれるでしょう」
多ゑは、事務所のある洋館の女主人であり、メイドのカヨ、キヨ姉妹と三人で暮らしている。彼女らから見れば、犬神零もあの屋敷の居候だ。
零の言葉を聞き、桜子はニヤニヤとほくそ笑んだ。
「あのガキンチョがどんな風に猫を被るのか、見たかったわ」
「とにかく人見知りですから、すぐに音を上げるかも知れません」
零は澄まして水筒から茶を飲んだ。……多分その頃、ハルアキ少年はクシャミをしていたに違いない。
汽車は再びトンネルに入る。ゴーッと響く騒音に負けじと、桜子は声を高くした。
「それで、梅子さんの双子の姉の竹子さんは、どういう依頼だったの?」
「それがですね……」
零は苦々しい表情を浮かべた。
梅子が去って間もなくだった。
再び扉がノックされ、開くとそこに居たのは、市松人形のような少女だった。
艶やかな花柄の単衣の振袖に絽の帯を締め、長い黒髪を肩に垂らしている。左耳の上に鬼百合の髪飾りを付け、眉で切り揃えた前髪から零を見上げた顔は、梅子と瓜二つだった。
名を聞かずとも、零は理解した。
「―― 来住野竹子さん、ですね?」
「妹がお邪魔したようね。でも信用しないで。あの子は嘘つきだから」
竹子は零の横を通り抜け、ツカツカと応接に向かい、長椅子に腰を下ろした。そして、テーブルに置きっぱなしになっていた紅茶カップを片付ける零に、竹子は言い放った。
「私、紅茶みたいな西洋かぶれした飲み物は好みませんの」
「左様、ですか……」
零は苦笑しながら流しへ向かうが、カップを置いただけで応接に戻った。緑茶は桜子の担当なので、勝手に使うのは気が引けたのだ。
竹子は背筋を伸ばし、凛とした居住まいで零を見た。
「事情はあの子から聞いたでしょ? そこに嘘はないわ。私たちの置かれた状況は、おおむねその通りよ。……けれど、あの子、悲劇のヒロインを気取ってるけど、本当の顔は違う。心の中はそんなんじゃない。とんでもない策士よ」
竹子はそう言って、キッと零を見据えた。
「あの子、女郎蜘蛛みたいに罠を張り巡らせて、私を殺そうとしてるのよ。……ねえ、あの子から私を守ってくださらない?」
零は手帳をパタンと閉じて袖にしまった。
「とにかく、一応は平穏に過ごしてきた梅子さんですが、天狗の使いを名乗る謎の老婆が村に現れて、様子が変わってきたと、不安に思われているんです」
「何とかしてあげたいわね。この問題を解決する算段はあるの?」
「天狗の存在を否定する証拠を上げるのが一番かと。しかし、不在証明というのは、存在証明以上に難しいものですからね。『存在する』というのなら、確かな証拠ひとつで証明できますが、『存在しない』という証拠は……」
それに……、と零は束ねた髪をクシャクシャと掻き混ぜた。
「私、どちらかというと、妖怪とか怪異とかいうのに、肯定的な立場ですから。存在を探るのなら慣れてますが、存在しない証明となると……」
「は? ならあなたは、梅子さんに生贄になれって言うの?」
「そうじゃありません。どんな妖だろうが神だろうが、命を捧げるというのには得心できません。そもそも、信仰というのは、人々が心安らかであるためのものですから。それを理由に命を奪う行為を正当化してはいけません。それは単に、神の名を騙った人間のエゴです」
犬神零は時々、理解に苦しむ事を言う。陰陽師の家系の出身だとか、だから出自は隠さなければならないとか。
居候の少年・ハルアキにしてもそうだ。桜子は一度、彼に妙な術で眠らされた事がある。
そんな怪しげな事を言うから、椎葉桜子は犬神零をあまり信用しないでいる。雇用主と使用人として、給料さえきちんと貰えればいい。そう割り切っている。
しかし、彼が梅子を生贄にしてはいけないと思っているのは、桜子も理解し、ホッとした。
「天狗の調査は名目で、現実的には、梅子さん、竹子さん姉妹の護衛と、村の人たちを説得する事になるんでしょうね。――しかし、それにしても時間がない。正直、参ってます」
「何で彼女は、こんなギリギリになって依頼に来たのかしら?」
「それについては、こう仰っていました」
梅子はハンカチで口を覆いながら、こう言った。
「父は、私たち姉妹を愛しています。……異常なくらいに」
「異常、ですか……。どんな風に?」
「姉が結婚して、同居……と言っても別棟に住んでいるのですが、それまで、私たちは世間の事を何も知りませんでした。普通、子供は学校に通うものだとか、欲しいものを手に入れるにはお金が必要だとか。……父は、私たちを愛するあまり、屋敷から一歩も外に出さないんです」
「お姉様が、あなたがたの境遇が普通ではないと、気付せたのですか」
「はい。多分、父は姉の事があったので、私たちに変な虫が付かないようにと、過保護なんですわ」
「変な虫……?」
「ご存知でしょう? 姉の、花沢凛麗の夫である、不知火清弥様。父は二人の結婚に、猛反対だったんです」
「なるほど……。しかし、そんな中で、今日はどうやって、こちらに来られたのですか?」
すると、梅子はハッと顔を上げ、ハンドバッグから一冊の雑誌を取り出した。少女画報だ。
「姉にもらったんです。姉は時折、父の目を盗んで、こういった風俗雑誌をくれるんです。これの、ここの頁で拝見して」
その頁を開いてテーブルに置き、梅子は膝に手を置いた。
「私たち姉妹が屋敷から出られるのは、年に一度、母の実家のお盆供養だけです。お盆供養には、父は参加しません。それに今年のお盆はちょうど金曜日。母は毎週、週末は実家で過ごすのですが、それと日にちが繋がったために、一日余分に東京に居られたのです。ですから、日曜日にお邪魔した次第です」
「そうですか」
零は荒い紙に印刷された自分の姿を眺めながら顎を撫でた。
――これは、一筋縄ではいかないだろう。梅子の父である十四郎氏が、彼を歓迎するとは到底思えない。
しかし、梅子が雑誌と入れ違いにテーブルに置いた、「依頼料」と書かれた封筒の厚みを見れば、そう易々と断る気にはなれない。少し迷った末に、犬神零は答えた。
「では、明日お邪魔いたします。それにしても、十分な時間があるとはとても言えません。できる限りの事はいたします。しかし、最悪の場合、あなたを拉致して保護するという形を取るかもしれませんが、よろしいですか?」
すると、梅子はポッと頬を染め、目を伏せた。
「もちろん、構いません。命には替えられませんから。……本当に、よろしくお願いいたします」
「……という訳です。昨日の今日なので、桜子さんに確認もできずに連れ出してしまった事は、この通り謝ります。こういう事態ですから、桜子さんのお力をお借りしたかったんです」
ペコリと頭を下げた零に、桜子は不機嫌な顔を見せた。
「それにしても、電話の一本くらい、くれたって良かったじゃない」
「あれ? 桜子さん、アパートメントの電話番号を私に知られるのは嫌だと、教えてくれなかったじゃありませんか」
「……あ、あれ? そうだっけ。アハハ……」
桜子は真っ赤になった顔を冷やすために、土瓶の茶をガブ飲みした。そして一息つくと言った。
「でも、そんなに人手が欲しいんなら、あのガキンチョも連れて来れば良かったのに」
彼女が呼ぶガキンチョとは、納戸の居候のハルアキ少年の事である。彼女曰く、妙に小賢しいところがあるので、こういった場合には役に立つかもしれないと思ったのだ。
しかし、零は苦笑して首を横に振った。
「『余の出る幕はない』だそうです」
「何よ、それ」
自分を「余」と呼び、お武家かお公家みたいな奇妙な言葉遣いをする生意気な少年を、一度教育し直さなければならないと、桜子は常々思っている。
「彼は、多ゑさんに頼んできました。カヨさんとキヨさんが、可愛がってくれるでしょう」
多ゑは、事務所のある洋館の女主人であり、メイドのカヨ、キヨ姉妹と三人で暮らしている。彼女らから見れば、犬神零もあの屋敷の居候だ。
零の言葉を聞き、桜子はニヤニヤとほくそ笑んだ。
「あのガキンチョがどんな風に猫を被るのか、見たかったわ」
「とにかく人見知りですから、すぐに音を上げるかも知れません」
零は澄まして水筒から茶を飲んだ。……多分その頃、ハルアキ少年はクシャミをしていたに違いない。
汽車は再びトンネルに入る。ゴーッと響く騒音に負けじと、桜子は声を高くした。
「それで、梅子さんの双子の姉の竹子さんは、どういう依頼だったの?」
「それがですね……」
零は苦々しい表情を浮かべた。
梅子が去って間もなくだった。
再び扉がノックされ、開くとそこに居たのは、市松人形のような少女だった。
艶やかな花柄の単衣の振袖に絽の帯を締め、長い黒髪を肩に垂らしている。左耳の上に鬼百合の髪飾りを付け、眉で切り揃えた前髪から零を見上げた顔は、梅子と瓜二つだった。
名を聞かずとも、零は理解した。
「―― 来住野竹子さん、ですね?」
「妹がお邪魔したようね。でも信用しないで。あの子は嘘つきだから」
竹子は零の横を通り抜け、ツカツカと応接に向かい、長椅子に腰を下ろした。そして、テーブルに置きっぱなしになっていた紅茶カップを片付ける零に、竹子は言い放った。
「私、紅茶みたいな西洋かぶれした飲み物は好みませんの」
「左様、ですか……」
零は苦笑しながら流しへ向かうが、カップを置いただけで応接に戻った。緑茶は桜子の担当なので、勝手に使うのは気が引けたのだ。
竹子は背筋を伸ばし、凛とした居住まいで零を見た。
「事情はあの子から聞いたでしょ? そこに嘘はないわ。私たちの置かれた状況は、おおむねその通りよ。……けれど、あの子、悲劇のヒロインを気取ってるけど、本当の顔は違う。心の中はそんなんじゃない。とんでもない策士よ」
竹子はそう言って、キッと零を見据えた。
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