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──第壱部──
端書き
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私がその男に出会ったのは、団子が取り持つ奇妙な縁からであった。
大正十年の当時の私は、学校に通いながら執筆をする素人作家だった。それも、全く芽の出ない。
持ち込む原稿全てを編集に突き返され、私の小説の何がいけないのか、いや、そもそも私は作家という職業に向いていないのではないかと悩み、悶々とした日々を送っていた、そんな時期だった。
果たしてその日も、神保町にある出版社で突き返された原稿を包んだ風呂敷を抱えて、半ば呆然と神田川沿いを歩いていたのである。
時は十一月。河原の並木が赤く色付き、抜けるような青空に映える日だった。
いつもは湯島聖堂の手前で清水坂の方へ抜けるのだが、その日はそのまま下宿へ戻るのが余りに憂鬱で、気付けば私は、神田明神の鳥居を潜っていた。
参拝客も疎らな午後の境内の砂利に、大銀杏から舞い落ちた鮮やかな黄色の葉が散らばっている。旋風にくるくると舞い踊らされるさまを目で追っているうちに、私はふと立ち止まった。
大銀杏の下の石に座り、一人の女が団子を食べているのが目に入ったのだ。
紺色のワンピースに身を包み、紅葉のように赤いストールを肩に掛け、タイツを履いた足をぶらぶらとさせながら、彼女は実に美味しそうに串団子を頬張っている。
この当時、洋装断髪という格好はまだ珍しかった。かくいう私も、矢絣に袴、お下げ髪の、ごくありふれた女学生の姿をしていた。その私から見れば、洋装に断髪、しかも真昼間の境内で一人団子を頬張るという行為は余りに自由だった、羨ましい程に。
しかしまあ、何と見事な食べっぷりか。ふくよかな頬をモグモグと動かし、人目を気にする事なく団子を味わう彼女の様子が心地良くすらあり、私はつい見とれていたのだが。
彼女も私の視線に気付いたようで、団子の串をペロリと平らげると、こちらに顔を向けて声を掛けた。
「おひとついかが?」
別に空腹だった訳でもなく、人前で団子を食べるという行為はあまり上品ではないと解ってはいたが、私は彼女の人柄に強く興味を引かれた。それに、ジロジロ眺めていた事を否定のしようがない。私は肩を竦めながらも、彼女の方へ歩いて行った。
近くで見ると、先進的な格好とは似つかない、下膨れで目鼻立ちが小ぶりな、古風な顔立ちをしている。歳は二十歳を少し超えたところか。決して美人とは言えないが、きめ細やかな白い肌と屈託のない表情が、器量以上に彼女の魅力を引き立てていた。
彼女は私を隣に座らせ、団子の皿を私に差し出した。
「そこの売店のだけど、美味しいわよ」
私は有り難く頂戴し、参拝客の目を気にして俯き加減に口をつけた。
彼女はよく喋った。近くの事務所で雑用係をしており、お使いの途中、時折こうしてサボっている。事務所の主人は寛容というか適当なので、多少の事は問題にならない。事務所に居候する子供がいるから、ご機嫌取りにお土産を渡しさえすれば良いと、膝に置いた包みを示した。
「あなた、学生さんね?」
彼女は私の格好を見た後、抱えた風呂敷に目をやり、こう言った。
「文学を嗜んでるのかしら?」
「えっ……!」
私は驚き、目を丸くして彼女を見据えた。どうして分かるのかと問う前に、彼女はケラケラと笑った。
「右手の小指の鉛筆の汚れ。学業だけでは、そうはならないわよね。それに、その風呂敷から、原稿用紙がはみ出してるわ」
私は慌てて風呂敷を直した。すると彼女はニコリとしてこう言った。
「私、探偵見習いもしてるの」
「探偵」という言葉につい興味を引かれ、色々と身の上話をした気がする。
御茶ノ水の師範学校に通っているが、本当は作家になりたい。故郷は三州の土管屋で、婿を取って家業を継ぐよう言われているが、手に職を付けたいと両親を説得。猛勉強の末、師範学校に合格し上京した。作家になるための活動期間を確保するため、家を離れ、出版社の多くある東京に出たかったのだ。しかし、もし在学期間に作家として芽が出なければ、故郷に帰り土管屋を継がねばならない。婿候補は決まっているが、どうしてもいけ好かないので、その選択肢は受け入れ難い。しかし、執筆活動もうまくいっておらず、行き詰まっている。
すると彼女は、はぁと大きく息を吐いた。
「分かるわぁ。私も嫁に行けとうるさくて、家出したの」
「えっ……」
「結婚すれば、女は、一生家に縛られなきゃならないじゃない? そんなの、窮屈だわ。だからって、家にいれば、行かず後家だの何なのって陰口を言われるし。その点、東京はいいわ。誰も私なんかに興味ないもの」
と、彼女は再び団子の串を手に取った。その言葉が、心の内にモヤモヤと渦巻く言葉にできない鬱憤を、するりと代弁してくれたようで、私は心の重石が取れた気がした。
「どんな作家さんを目指してるの?」
「探偵小説です。はじめは学校の文芸倶楽部に入ったんですけど、高尚な古典文学や海外文学の話ばかりで、ついて行けなくて。今は一人で書いています。私は大衆文学を書きたいんです。ドキドキワクワクと心が踊るような」
そこで、私は思い切って彼女に顔を向けた。
「探偵見習いと言われると、凄く興味があります。良かったら、お話を聞かせて貰えませんか?」
――そして、次の日。
彼女の勤め先であるという探偵事務所を、私は訪れた。
蔦の這う洋館の、溜息の出るほど瀟洒な佇まいに気後れしながら樫の扉を入ると、背のひょろ長い男が出迎えた。
「桜子さんのご紹介の方ですね?」
と、彼は部屋の左手にある応接の長椅子を勧める。……昨日の団子の彼女は、椎葉桜子という名らしい。
「師範学校の学生の傍ら、探偵小説作家を目指して励んでおられると。だから参考に、探偵業の話をして欲しい、と言われましたが」
「……はい」
私は言われるまま席に着くと俯いて、袴をギュッと握った。
探偵小説作家志望とはいえ、実際の探偵に会った事はなかった。やはり、三つ揃いを決めた厳つい中年男だろうか、と思って来たのだが、目の前の人物はあまりに違い過ぎた。
桜子よりは幾らか歳上だろう。色白で小ぶりな顔に長く髪を伸ばし、首の後ろで無造作に束ねている。女物のような柄物の着物を粋に着流し、角帯に煙草入れをぶら下げていた。
そして何より、線が細く整った顔立ちは、絶世の美男子と呼んで過言ではない。細面に、空恐ろしいほど整った目鼻立ちが配置されており、ほんのりと浮かべた微笑が柔らかい雰囲気を醸している。細身でしなやかな物腰も相まって、女性的というより、性別という枠すら意味のないものであるかのような、そんな容姿だ。いやむしろ、現実離れし過ぎて、この世のものではないのかもと疑うほど。
しかし、この顔に見つめられれば、女ならば一度は心を掴まれるに違いない。この時の私も、まさしくそれであった。無性に頬が熱くなり、まともに顔を見ていられないのだ。初対面でこの有り様は失礼と、紅潮した頬を俯いて隠した。
そんな時、応接テーブルにお茶が置かれた。チラリと顔を上げると、桜子が微笑んでいる。
「よく来たわね。ゆっくりしていって」
「お忙しいところすいません……」
小さく頭を下げると、桜子は豪快にハハハと笑った。
「いいのいいの、うちはだいたい暇だから」
促されるまま、私は清々しい香りのお茶に口を付けた。
後で知ったのだが、この事務所の主人は、紅茶派の癖に淹れるのがとんでもなく下手で、彼が淹れる紅茶は飲めたものではないらしい。だから来客に茶を出す時は、桜子が先回りをして緑茶を用意するそうだ。
男は苦笑しながら、私の向かいに腰を下ろした。そしてテーブルに、
『犬神怪異探偵社 私立探偵 犬神零』
と印字された名刺を差し出した。
――これが、私と犬神零氏との出会いである。
その後、二年足らず、大正十二年九月一日の、忘れもしないあの大惨劇まで、私は小説のネタを貰いに、この探偵事務所に足繁く通うようになったのだ。
もちろん、通ううち、彼の掴みどころのない人と柄が、とても異性を惹き付けるものでないのを知ったし、彼の人となりに謎の部分、触れてはならない部分がある事を知った。
そして、突然訪れた別れが、その謎を永遠に解き明かせないものにした。
それから、神田明神で会った時に桜子が言っていた居候の子供にも、ついぞ会う事はなかった。
その後、私は何とか作家として芽を出す事はできた。しかし、あの事務所で聞いた、彼の関わった事件は余りに闇が深く、当時の世相としては、発表するに至らなかった。もちろん、その後の私の創作の糧になったのには間違いない。だが、その後の暗黒の時代、戦争という人の心にすら自由を許さない時代には、とても書けるものではなかった。
皮肉にも、戦火によってその闇が払拭され、自由を至上とする時代を迎えられたからこそ、ようやく形にできる事と相成ったのである。
その当時の思い出を胸にしつつ、犬神零氏や、椎葉桜子女史が語った冒険譚の数々を、これから少しずつ書き記していこうと思う。
今、私の前には、彼の解いた事件の数々を綴ったノートがある。これは、私の作家人生の中で、最も大切な、かけがえのない宝物だ。
今回の話は、飄々と達観した感のある犬神零氏にしても「最悪の事件」と顔を曇らせた、とある悲劇的な境遇の三姉妹にまつわる、世にもおぞましい連続殺人事件である。
事件は、私が彼と会う四ヶ月ほど前に起こった。事件からそう期間を置かずして話を聞いたため、それは私の記憶にまだ強く残っていた。当時、登場人物の名声も相まって、かなりセンセーショナルに報道された。ところが、間もなく糸が切れるように、プツリと続報が途絶えたのである。
その理由が、彼から聞いた話によって理解できた。
余りに凄惨な真相に、各方面の忖度が働いたのだ。
それを今さら蒸し返す如き行為は、憚られぬ訳ではない。そのため、登場人物の名称等は、架空のものに変更してある事をご理解頂きたい。また、小説という体裁を繕うため、筆者の想像が多分に含まれる事を、はじめに記しておく。
しかし、彼の存在が私の中にある証として、どうしても形にしなければならないと、強く衝動に駆られ、こうして筆を取る次第である。
どうか、拙筆にお付き合い頂ければと思う。
大正十年の当時の私は、学校に通いながら執筆をする素人作家だった。それも、全く芽の出ない。
持ち込む原稿全てを編集に突き返され、私の小説の何がいけないのか、いや、そもそも私は作家という職業に向いていないのではないかと悩み、悶々とした日々を送っていた、そんな時期だった。
果たしてその日も、神保町にある出版社で突き返された原稿を包んだ風呂敷を抱えて、半ば呆然と神田川沿いを歩いていたのである。
時は十一月。河原の並木が赤く色付き、抜けるような青空に映える日だった。
いつもは湯島聖堂の手前で清水坂の方へ抜けるのだが、その日はそのまま下宿へ戻るのが余りに憂鬱で、気付けば私は、神田明神の鳥居を潜っていた。
参拝客も疎らな午後の境内の砂利に、大銀杏から舞い落ちた鮮やかな黄色の葉が散らばっている。旋風にくるくると舞い踊らされるさまを目で追っているうちに、私はふと立ち止まった。
大銀杏の下の石に座り、一人の女が団子を食べているのが目に入ったのだ。
紺色のワンピースに身を包み、紅葉のように赤いストールを肩に掛け、タイツを履いた足をぶらぶらとさせながら、彼女は実に美味しそうに串団子を頬張っている。
この当時、洋装断髪という格好はまだ珍しかった。かくいう私も、矢絣に袴、お下げ髪の、ごくありふれた女学生の姿をしていた。その私から見れば、洋装に断髪、しかも真昼間の境内で一人団子を頬張るという行為は余りに自由だった、羨ましい程に。
しかしまあ、何と見事な食べっぷりか。ふくよかな頬をモグモグと動かし、人目を気にする事なく団子を味わう彼女の様子が心地良くすらあり、私はつい見とれていたのだが。
彼女も私の視線に気付いたようで、団子の串をペロリと平らげると、こちらに顔を向けて声を掛けた。
「おひとついかが?」
別に空腹だった訳でもなく、人前で団子を食べるという行為はあまり上品ではないと解ってはいたが、私は彼女の人柄に強く興味を引かれた。それに、ジロジロ眺めていた事を否定のしようがない。私は肩を竦めながらも、彼女の方へ歩いて行った。
近くで見ると、先進的な格好とは似つかない、下膨れで目鼻立ちが小ぶりな、古風な顔立ちをしている。歳は二十歳を少し超えたところか。決して美人とは言えないが、きめ細やかな白い肌と屈託のない表情が、器量以上に彼女の魅力を引き立てていた。
彼女は私を隣に座らせ、団子の皿を私に差し出した。
「そこの売店のだけど、美味しいわよ」
私は有り難く頂戴し、参拝客の目を気にして俯き加減に口をつけた。
彼女はよく喋った。近くの事務所で雑用係をしており、お使いの途中、時折こうしてサボっている。事務所の主人は寛容というか適当なので、多少の事は問題にならない。事務所に居候する子供がいるから、ご機嫌取りにお土産を渡しさえすれば良いと、膝に置いた包みを示した。
「あなた、学生さんね?」
彼女は私の格好を見た後、抱えた風呂敷に目をやり、こう言った。
「文学を嗜んでるのかしら?」
「えっ……!」
私は驚き、目を丸くして彼女を見据えた。どうして分かるのかと問う前に、彼女はケラケラと笑った。
「右手の小指の鉛筆の汚れ。学業だけでは、そうはならないわよね。それに、その風呂敷から、原稿用紙がはみ出してるわ」
私は慌てて風呂敷を直した。すると彼女はニコリとしてこう言った。
「私、探偵見習いもしてるの」
「探偵」という言葉につい興味を引かれ、色々と身の上話をした気がする。
御茶ノ水の師範学校に通っているが、本当は作家になりたい。故郷は三州の土管屋で、婿を取って家業を継ぐよう言われているが、手に職を付けたいと両親を説得。猛勉強の末、師範学校に合格し上京した。作家になるための活動期間を確保するため、家を離れ、出版社の多くある東京に出たかったのだ。しかし、もし在学期間に作家として芽が出なければ、故郷に帰り土管屋を継がねばならない。婿候補は決まっているが、どうしてもいけ好かないので、その選択肢は受け入れ難い。しかし、執筆活動もうまくいっておらず、行き詰まっている。
すると彼女は、はぁと大きく息を吐いた。
「分かるわぁ。私も嫁に行けとうるさくて、家出したの」
「えっ……」
「結婚すれば、女は、一生家に縛られなきゃならないじゃない? そんなの、窮屈だわ。だからって、家にいれば、行かず後家だの何なのって陰口を言われるし。その点、東京はいいわ。誰も私なんかに興味ないもの」
と、彼女は再び団子の串を手に取った。その言葉が、心の内にモヤモヤと渦巻く言葉にできない鬱憤を、するりと代弁してくれたようで、私は心の重石が取れた気がした。
「どんな作家さんを目指してるの?」
「探偵小説です。はじめは学校の文芸倶楽部に入ったんですけど、高尚な古典文学や海外文学の話ばかりで、ついて行けなくて。今は一人で書いています。私は大衆文学を書きたいんです。ドキドキワクワクと心が踊るような」
そこで、私は思い切って彼女に顔を向けた。
「探偵見習いと言われると、凄く興味があります。良かったら、お話を聞かせて貰えませんか?」
――そして、次の日。
彼女の勤め先であるという探偵事務所を、私は訪れた。
蔦の這う洋館の、溜息の出るほど瀟洒な佇まいに気後れしながら樫の扉を入ると、背のひょろ長い男が出迎えた。
「桜子さんのご紹介の方ですね?」
と、彼は部屋の左手にある応接の長椅子を勧める。……昨日の団子の彼女は、椎葉桜子という名らしい。
「師範学校の学生の傍ら、探偵小説作家を目指して励んでおられると。だから参考に、探偵業の話をして欲しい、と言われましたが」
「……はい」
私は言われるまま席に着くと俯いて、袴をギュッと握った。
探偵小説作家志望とはいえ、実際の探偵に会った事はなかった。やはり、三つ揃いを決めた厳つい中年男だろうか、と思って来たのだが、目の前の人物はあまりに違い過ぎた。
桜子よりは幾らか歳上だろう。色白で小ぶりな顔に長く髪を伸ばし、首の後ろで無造作に束ねている。女物のような柄物の着物を粋に着流し、角帯に煙草入れをぶら下げていた。
そして何より、線が細く整った顔立ちは、絶世の美男子と呼んで過言ではない。細面に、空恐ろしいほど整った目鼻立ちが配置されており、ほんのりと浮かべた微笑が柔らかい雰囲気を醸している。細身でしなやかな物腰も相まって、女性的というより、性別という枠すら意味のないものであるかのような、そんな容姿だ。いやむしろ、現実離れし過ぎて、この世のものではないのかもと疑うほど。
しかし、この顔に見つめられれば、女ならば一度は心を掴まれるに違いない。この時の私も、まさしくそれであった。無性に頬が熱くなり、まともに顔を見ていられないのだ。初対面でこの有り様は失礼と、紅潮した頬を俯いて隠した。
そんな時、応接テーブルにお茶が置かれた。チラリと顔を上げると、桜子が微笑んでいる。
「よく来たわね。ゆっくりしていって」
「お忙しいところすいません……」
小さく頭を下げると、桜子は豪快にハハハと笑った。
「いいのいいの、うちはだいたい暇だから」
促されるまま、私は清々しい香りのお茶に口を付けた。
後で知ったのだが、この事務所の主人は、紅茶派の癖に淹れるのがとんでもなく下手で、彼が淹れる紅茶は飲めたものではないらしい。だから来客に茶を出す時は、桜子が先回りをして緑茶を用意するそうだ。
男は苦笑しながら、私の向かいに腰を下ろした。そしてテーブルに、
『犬神怪異探偵社 私立探偵 犬神零』
と印字された名刺を差し出した。
――これが、私と犬神零氏との出会いである。
その後、二年足らず、大正十二年九月一日の、忘れもしないあの大惨劇まで、私は小説のネタを貰いに、この探偵事務所に足繁く通うようになったのだ。
もちろん、通ううち、彼の掴みどころのない人と柄が、とても異性を惹き付けるものでないのを知ったし、彼の人となりに謎の部分、触れてはならない部分がある事を知った。
そして、突然訪れた別れが、その謎を永遠に解き明かせないものにした。
それから、神田明神で会った時に桜子が言っていた居候の子供にも、ついぞ会う事はなかった。
その後、私は何とか作家として芽を出す事はできた。しかし、あの事務所で聞いた、彼の関わった事件は余りに闇が深く、当時の世相としては、発表するに至らなかった。もちろん、その後の私の創作の糧になったのには間違いない。だが、その後の暗黒の時代、戦争という人の心にすら自由を許さない時代には、とても書けるものではなかった。
皮肉にも、戦火によってその闇が払拭され、自由を至上とする時代を迎えられたからこそ、ようやく形にできる事と相成ったのである。
その当時の思い出を胸にしつつ、犬神零氏や、椎葉桜子女史が語った冒険譚の数々を、これから少しずつ書き記していこうと思う。
今、私の前には、彼の解いた事件の数々を綴ったノートがある。これは、私の作家人生の中で、最も大切な、かけがえのない宝物だ。
今回の話は、飄々と達観した感のある犬神零氏にしても「最悪の事件」と顔を曇らせた、とある悲劇的な境遇の三姉妹にまつわる、世にもおぞましい連続殺人事件である。
事件は、私が彼と会う四ヶ月ほど前に起こった。事件からそう期間を置かずして話を聞いたため、それは私の記憶にまだ強く残っていた。当時、登場人物の名声も相まって、かなりセンセーショナルに報道された。ところが、間もなく糸が切れるように、プツリと続報が途絶えたのである。
その理由が、彼から聞いた話によって理解できた。
余りに凄惨な真相に、各方面の忖度が働いたのだ。
それを今さら蒸し返す如き行為は、憚られぬ訳ではない。そのため、登場人物の名称等は、架空のものに変更してある事をご理解頂きたい。また、小説という体裁を繕うため、筆者の想像が多分に含まれる事を、はじめに記しておく。
しかし、彼の存在が私の中にある証として、どうしても形にしなければならないと、強く衝動に駆られ、こうして筆を取る次第である。
どうか、拙筆にお付き合い頂ければと思う。
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