元禄大正怪盗伝

山岸マロニィ

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Ⅰ.トーキョー・ファントムシーフ

(28)予母都反魂

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 ……その後、トウヤは逃げた。
 ヒカルコの悲鳴で我に返り、手を汚した事が恐ろしくなったのだ。

 ――俺は、殺意を持って人を殺した、虫けらを殺すように。
 あの憲兵と同じ、汚らわしい存在となった。
 清廉な彼女と一緒にいられる立場ではなくなったのだ。だから、彼女から逃げるしかないのだ……!

 楽屋口を出てほとんど無意識に屋根に逃げたのは、怪盗のさがだろう。
 そして、先程ホールへ飛び込んだ飾り窓の前に来て、彼はようやく足を止めた――いや、止められたと言った方が正しい。

 割れた窓から、ホール内部の声が漏れていた。
「うわああああん――!」
 まるで、幼い子供が泣きじゃくるような声……ヒカルコだ。
 彼の放った凶弾が、彼女のトラウマを呼び起こしてしまったのだ――幼い日に、母を失った恐怖を。

「……何やってんだよ、俺は」
 手を汚す覚悟をなしに、どうやって大切なものを守れようか――
 その結果を受け止めるのもまた覚悟。そこから逃げては、彼女を守った事にならない!

 ジュークは帽子とフロックコートを脱ぎ捨てた。そして、屋根から飛び降り、逃げ出す人波を縫って回転扉からホールに戻る。

 ――制御のなくなったホールには、従業員が数名と憲兵、腰を抜かした者たちが十名ほど残っていた。皆、暗闇の中で異様な泣き声のする方向に呆然とした目を向けている。

 トウヤはその中を一目散に駆け寄り、床にうずくまる彼女を思い切り抱きしめた。
「……ごめん……怖い思いをさせてしまって……」
「パパ……パパ……」
 目を見開いたまま大粒の涙を流し続ける彼女は、子供のようにトウヤにしがみ付く。体じゅうがガタガタと震え、恐怖に怯える様子が痛いほど伝わった。
「ママが……ママが……動かなくなっちゃった……」

 そこでようやくトウヤは気付いた。
 彼女のトラウマは、母が彼女を残して死を選んだ事だけにあるのではなく、「母が自害した瞬間を目撃した」ところにもあるのだと。

「ごめん……ごめん……」
 彼女の頭を静かに撫でる。
「ずっとそばにいれば良かった……本当にごめん……」

 彼女の心を本気で盗むなら、心の奥底にあるこの深い傷も一緒に盗み取ってしまいたい。
 トウヤはそう願った。

 しばらくそうしていると、彼女は少しずつ落ち着いてきたようだ。そして、何かに気付いたように顔を上げる。
「どうしたの?」
 そう問い掛けて、トウヤもようやく気が付いた。

 ホールにあった泣き声は、彼女のものだけではなかったのだ。
「蘇生魔法を……蘇生魔法を使える方はいませんか……彼を……助けてください……」

 ――憲兵隊長に八つ裂きにされたミソギの、連れの女だ。
 彼女は無惨な亡骸に寄り添ったまま動かない。
「ミソギは……生きていてはいけないんですか……こんなに優しい人なのに……なんで魔法が使えないだけで……こんな風に……」

 それ以上言ってはいけない。ここにはまだ憲兵がいる。
 トウヤが慌てて立ち上がろうとすると、それを制するようにヒカルコが声を上げた。
「ここにいるわ」
「いや、やめるんだ。今の君では荷が重すぎる」
 すると、ヒカルコはニコリと微笑んだ。
「光属性が使える魔法使いは特別なの。だから、困ってる人を見たら助けなきゃならないって教わったわ」
 それからボソリと声を低めた彼女の言葉に、トウヤは戦慄した。

「私がちゃんと蘇生魔法を使えていれば、母は死なずに済んだのよ……あんな後悔を、二度としたくないの」

 この細い体で、どれだけ重いものを背負ってきたのか。
 トウヤにはもう止められなかった。

「どこにいるの? 教えて。暗くて見えないわ」
「こっちだ」
 トウヤは彼女の手を引いて、声の主の方へ導く。
 舞台照明は生きている。スイッチを戻せば点灯できるが、被害者のむごい状況をヒカルコに見せないために、このままの方がいいと思った。

 だが、トウヤの義眼は、彼の状況を克明に脳に伝えた。
 崩れ落ちるように散らばる肉片。一呼吸してから、トウヤはそれを人の形に並べていく……暗視モードで視界に色がないから辛うじて見ていられるが、光の下では直視できないだろう。
「彼の傷の具合はどう?」
 ヒカルコに聞かれ、言葉を選ぶ。
「少し深いね……命を保てないくらいに」
 すると、彼女は声を上げた。
「治癒魔法を使える方はいらっしゃらない? 私は治癒魔法は使えないの。どなたか協力してくださらない?」

 ――蘇生魔法については、トウヤも知識くらいはある。
 使える者の限られた光属性の中でも、最上位の回復魔法。相当な修練が必要で、その習得には目の眩むような費用がかかる。その上、強烈な魔力に耐えられるだけの純度の高い魔法石が必要となる。ごく一部の上流階級にしか会得が困難なシロモノなのだ。
 低階層が集まるこの場に蘇生魔法持ちがいるだけでも奇跡に近いのだが、今の問題はそこではない。

 この世界では、死んでから約一時間、魂が体にとどまっていると考えられている。
 その間に蘇生魔法を掛ければ、生き返らせる事が可能、という理論なのだが、問題は、魂の器となるべき肉体だ。
 いくら蘇生をしたところで、肉体が生命活動に耐えられる状態になければ意味がないのだ。

 すると、誰かの声がした。
「治癒魔法は生きていなければ効かないぞ」
「おまえ、治癒魔法を使えるのか?」
「……あ、いや、アレだ、無属性の……」
「そんなんで、死ぬほどの傷を治せるかよ」
「やってみなけりゃ分からんだろうが!」
「数いりゃ、案外何とかなるかもしれないよ」

 酒場の喧嘩のようなやり取りの後、誰かが叫ぶ。
「あたいらが先に治癒魔法を掛けるから、タイミングを見て蘇生を掛けとくれ!」

 声の主が、手杖の先端を光らせながらこちらにやって来た。
 それを見て、この場にいる者たちが次々と集まってくる……そして、被害者の状況を目にして光を消した。

「いいかい、余計な事は考えるんじゃないよ。やってダメならそれまでの事。やらずに見捨てるような軟弱なモンは、アサクサにはいないね!」
 貫禄のある声は、このダンスホールの館主だろうか。
 彼女の合図で杖の束が被害者に向けられ、一斉に呪文が唱えられた。

「――結須毘ムスビ!」

 子供が転んで膝を擦りむいた時に使うような、おまじない的な治癒魔法。彼らには精一杯のものだ。
 そんな覚束おぼつかない魔法でも、数を集めれば迫力があるもので、軟らかい光が被害者の体全体を包む。

 その光の中で、ヒカルコが手杖の先を伸ばした。
 そして光の中心に杖を向けて、集中するように目を閉じる。
予母都反魂ヨモツハンゴン!」

 凄まじい光が迸る。ホール全体がプラズマを帯び、それがヒカルコの杖の先に収束する。
 そのプラズマの塊が、治癒魔法の光を寄せ集め、被害者の胸に飛び込んだ。

 ――その途端。
「うぐっ!」
 被害者の体が跳ね上がる。ちょうど心臓に電気ショックを与えたような感じだ。
 周囲の人々が口々に叫ぶ。
「どうだ!」
「やったか!」

「カッちゃん! カッちゃん!」
 彼女だろうか、連れの女がすがり付く。すると……
「う……うぅ……」
 被害者が呻き声を上げたから、一同は沸き返った。
「良かった! 生き返った!」
「やったぞ!」

 しかし、ヒカルコの表情は暗い。
「命は戻ったけど、体が完全に戻ってない。このままじゃ、すぐにまた死んじゃう……」

 空気が凍り付く。
 あの治癒魔法では、表面を繋げるのが関の山なのだ。内臓に負った損傷まで治療できなければ、魂を維持できない。
「そんなぁ……」
 連れの女の絶望的な悲鳴がホールに響く。

 ――そんな時だった。

 突如、ホールの入口に足音がして、一人の男が入ってきた。
「怪盗ジュークが出たというのは本当か!」

 場違いなダミ声の主を見て、トウヤは慌てて人影に身を隠した……リュウが連れて来た助っ人だろうが、よりにもよって、なんであいつを……!

 彼は険しい目でホールを見渡す。
「たまたま俺がアサクサにいたのが運の尽きだ! 観念しやがれ、怪盗ジューク!」

 ――テラダ衛兵長である。
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