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《第1部》第6章:図書室事件 ~禁書室のたてこもりと正義君登場~

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 第1部 美徳の紊れ ~モラルな上半身的精神~

 第6章:図書室事件 ~禁書室のたてこもりと正義君登場~


 1
 禁書室に駆けこむとすぐさま内側から鍵をかけた。扉に背中をおしつけたまま床に座りこんだ。頭をかかえて耳をふさいだ。なにをしているんだろうか。なんのために逃げたんだろう。なんの意味もないことだ。友達がほしいだけなのに……会話したいだけなのに……気付けばわけのわからないことになっている。いつもそうなのだ。りんごを剥こうとしただけなのに指が折れてしまうような、そういう非論理的な展開の連続である。どうしてみんながあたりまえにできることが自分にはできないのだろう。友達のひとりやふたりいるのはあたりまえだろうに。友達ができない、私はやっぱり、怪物かなにかなのだろうか。そうとしかおもえない。立ちあがり薄暗い禁書室を奥まですすんでいく。
 禁書室には、社会から爪弾きにされた書物、主に性や犯罪や薬物などにまつわる書物がならんでいる。本棚の側面にはその本棚に所蔵される書物の分野名が書いてあり、書物と書物のあいだにときおりはさまれる仕切りには、さらにこまかい分野名が書かれている。大分類、中分類、小分類……というかたちで世界はこまかく分類されている。『性』の分野の本棚がいちばんおおく、そのなかでも、性科学、脳科学、生物学、精神医学、反精神医学、犯罪学、心理学、民族学、女性学や男性学などをあつかう社会学、神智学や神秘主義までふくむ神学や宗教学、性愛文学、東洋哲学、西洋哲学、東洋美術、西洋美術と独自の分類がなされている。
 禁書室の突当たりまでくると今度は陳列されている書物の背表紙をながめながらあるいていく。世界各国古今東西のポルノグラフィ、男性向けのポルノ、女性向けのポルノ、十九世紀のポルノ、二十世紀のポルノ……そのうちから一冊の書物を抜きとる。書物の小口に茶色い斑点ができている。どことなくなつかしい埃のにおい。女性器に男性器が挿入されている。それは人間というよりも馬にみえた。からみあう白人女性と黒人男性が白馬と黒馬にみえた。白人女性の女性器に黒人男性の男性器が挿入されており、挿入部からは白濁液があふれだしていた。ふたりの濡れた陰毛はぎとぎとにてかり、黒人の太腿にこぼれおちた白濁液は、壁にはきかけられていまだぬくもりをのこしている痰のように、どろりとしていた。白人女性の苦悶をうかべた真白な表情のうえに、紙面のうえに、ふとい陰毛がはりついていた。きもちがわるくなりすぐさまその書物をとじた。ぱんっというかわいた音が禁書室にひびいた。
 本棚にならんでいる背表紙をながめているだけで目眩がしてきた。性的な表現にたいする嫌悪感ではなかった。生にたいする嫌悪感だった。確固たる理由もなく、肉体的衝動の結果にもたらされるこうした生に──無目的で無価値で無意味な生に吐気をもよおした。扉の小窓のむこうに人影が、魔女とさきほどの女性がはなしあっているようすがみえた。魔女か、もしくは看護師のひとたちが私を病室につれもどすのは時間の問題だった。またはじめからやりなおさなければならない。いいや、いますぐ扉をあけて謝罪すれば挽回できるかもしれない。けれどもなんのためにそんなことをするのだろうか。
 なんのためにこんなことをしているのだろうか。ロッカーをひきずり扉のまえをふさいだ。これもまた無駄な抵抗だ。動揺している自覚はある。とはいえどうにもならない。これまでもずっとこんなふうだった、頭ではそんなことをしても無駄とわかっていてもそれをしてしまうし、頭ではこうしたほうがいいとわかっていてもそれができなかった。頭でおもうとおりにそれをこなせたらどんなに生きやすかっただろう。ロッカーの扉をあけると箒がたおれてきた。奥にははたき棒が吊るされていた。底には軍手、軍手にかくれるようにしてそれはあった。なぜ、なぜこんなところにこんなものが……私はそれをひろいあげるとながめた。
 包丁だった。
 ロッカーの奥、扉の奥から声がきこえてくる。声からのがれるように書棚の奥に逃げこむ。
 迷惑をかけてしまった。最初に嫌味をぶつけてきたのは相手の女性だった。しかしだからといい、あそこまで感情的に反論する必要はなかった。好きな思想家を馬鹿にされたくらいであんなに執念深くいいかえす必要もなかった。一の嫌味にたいして百の激憤をぶつけかえしたようなものだった。挙句にはかえりうちにされた。冷静にあしらわれて論破されて最後には心配までされた。泣きながらこの部屋に閉じこもり自分で自分を出口のないいきどまりにおいつめてしまった。
 私はやはり被害者感情がつよすぎる。自分をまもろうとするあまり結果的には暴力的ともいえるようなふるまいを他人にむけてしまう。繊細といえばきこえはいいが客観的にみたら臆病で短気なだけだ。傷付きやすさは他人を傷付けていい理由にはならない。暴力とは過剰な防衛の一形態であり、そうした暴力がかえって、自分をいきどまりにおいやるのである。おもいかえしてみると相手の女性をひどくおどろかせてしまったにちがいない。けれどもいまさら、ここからのこのこでていって謝罪するきもちにもなれない。上手に喋れるともおもえない。
 屋上からとびおりたときからなにもかわっていない。真夜中、おもいついたように屋上からとびおりて、木に吊るされていたときから、なにもかわっていない。暗闇のなか、前後もわからずさかさまで、細い枝にからみとられていたあのときと。死にたいとおもいながらも満足に死ねず、生きたいとおもいながらも満足に生きられなかったあのときと、なにもかわっていない。救われたいとねがいながらも救われることをおそれて、救おうとするものを傷付けてしまったあの晩から、私はどれほどすすんだというのだろう。全くすすんでいない。
 書棚のいちばん奥までくるとふるい姿見があった。姿見の木製の縁には奇怪な彫刻がほどこされていた。七本首の蛇、交尾する兎、微笑する髑髏、十本脚の蜘蛛、薔薇、茨、蝶、梟、鼠、蝙蝠、鴨嘴、怪物、悪魔、足枷、手枷、首輪、さかさまの十字架……それはまるで地獄の入口だった。姿見にうつりこんだ私の姿はそれらグロテスクな彫刻と奇妙に調和していた。髪の毛はぼそぼさ、よれよれの洋服、袖からとびだした枯木のような手、左手には手提袋、右手には包丁。
 どうして父そして母は私のような怪物を産んだのだろうか。
 こんなふうにしか生きられないのであれば産まれてきたくはなかった。
 包丁の刃を自分の喉にあてる。深呼吸しながら目を瞑りみだれた意識を集中させる。
「どうせ死なないくせに」
 手をとめた。それはたしかにきこえた。ききまちがえとはおもえなかった。
「貴方のようなひとは中途半端なんだよ」少年の声だった「死ぬふりするだけで死なない。本気で死ぬつもりなんて最初からないんだ。だれからもかまってもらえないから、だれかにかまってもらうために死ぬふりをしているだけ。だいたいそんなやりかたで死ねるわけないじゃん。ここは病院なんだよ。貴方が本気で自分の喉をかっきれるともおもえないし、頸動脈をきれいにすぱっときれたとしても、数分以内に手術室にはこばれる。目覚めたときにはまた病室だよ。本当はそれくらいわかっているくせに」
「貴方はだれ……」姿見には少年がうつりこんでいた。ふりかえると青白い顔の少年がにたりとほほえんでこちらを見上げていた。
「それはこっちの台詞だよ。貴方こそだれなのさ。僕はここでしずかに読書していただけの子供だよ。貴方があとからとびこんできて扉の鍵をしめたんだ。ほっとけばおさまるかとおもえばどうだい、包丁をどこからともなくとりだしてきて、自殺ごっこするんだもの。僕からいわせるといい迷惑だよ。読書の時間を邪魔されるのがどれだけ不愉快なのか、それこそ貴方が読書家なら説明せずともわかるはずだよ。それに……」少年は私の顔を指さしてこうつづけた「本当に死ぬつもりなら僕がだれかなんて気にはならないはず。そういうところですでに、貴方の自殺がある種の自己演出にすぎないとよくわかるんだ」
「そんなことない!」私はおもわず声をあげていた。包丁の先端を少年にむけていた。彼は怖気付くようなそぶりもみせずにこちらにゆっくり近付いてきた。
「なにが違うのさ、違うならいますぐ死ねばいいじゃないか。僕を殺してくれてもいいよ。僕を道連れにしてそのあと死んだらいい。もしくはいっそ、扉のむこうにいる魔女達も道連れに殺してから、自殺するのもわるくないかもね。なんせこの病院に生きている価値のある人間なんていないんだから。みんなそろって死んだほうがすがすがしいよ。でもどうせなんにもできないんでしょ。所詮、演技にすぎないから。どうせできもしないくせに、どうせできもしない自殺を演じているだけだから……」そういいながら彼は数歩ほどこちらにあゆみをすすめると、遂には包丁のふるえる先端を指先で掴んだ。そしてみずからその先端を自分の喉にあてるとこういった「殺してみなよ」
 指先から力がぬけた。
 私は包丁を床におとした。
 少年は床におちた包丁をひろいあげた。
 彼は刃の先端をこちらにむけると首をかたむけた。
「僕がかわりに殺してあげようか?」薄暗い部屋のなかで少年のひとみは青白くかがやいてみえた。それは冷たい炎のようなかがやきだった「どうしておびえるの? 死のうとしていたくせに、殺されそうになるとびくびくする、ほらみなよ、最初から貴方は自殺するつもりなんてなかったんだ。ひとはみんなそうだ。自分の偽物の感情を、孔雀が羽をひろげるように、だれかにみせびらかそうとするんだ。私は喜びました、私は悲しみました、私は死にたいのです、ってみせびらかして自己演出する。貴方がひとまえで自殺を演じてみせるのとおんなじで、みんなしてくだらないお遊戯会、感情芝居をくりひろげる。貴方はまさにいま鏡のまえで、涙をぼろりぼろりとながしながら、自殺してみせようとしていたけれど、それにしたってそうだ。貴方のそれは偽物。偽物の偽物。貴方の頬をながれるその涙はプラスチックの宝石、かわいそうな自分を演出するためのみすぼらしいおかざり。本物の感情ではなくて、だれかにみせるために演じられた、偽物の感情にすぎない……あるいはみんなそうした偽物の感情にとりつかれていて、本物の自分の感情はわすれている。ひとにみられたい自分を演出するあまり、仮面や衣装を自分とおもいこみ、そうした仮装のしたにある裸体をわすれてしまう。善人はもちろん悪人ですら演じられている。舞台の役者が拍手や喝采をおいもとめながら本来の自分を喪失していくように、みんなして演技に夢中になるあまり自分が何者なのかわからなくなっていく。そこにあるのは舞台を包みこんでいるにぎやかな音楽や気分だけ。裸体はどこかにおきざりにされて、気付けば仮装だけが舞台のうえでおどってる。演じているだけなのに演じているだけの自分に気付いていない。喜びや悲しみすらも演じているにすぎないのに、そのことには無自覚で、無自覚でありながらもうすうす勘付いてはいるんだよ。自分のそうした感情がみせかけのものにすぎないと、軽薄な虚飾にすぎないと、本当は自分でも気付きかけているんだ。大人は子供をみくびっているものだけど、子供のひとみからは、そうした大人のお芝居が、欺瞞や欺騙が、すべてみせかけのものであるとお見通しなんだ。いいひとぶったり、わるいひとぶったり、そうした素振りのひとつひとつが、社会に要求された偽物の衣装であると、子供のひとみからはよくみえるんだよ。そして……」少年は私に包丁を突きだしながらこういう「そして……ほらほらこういうふうに、こういうふうにさ、本物の死を突きつけられてはじめて、大人は、本物の感情を自覚できるようになるんだ。この病院には死にかけたじいさんばあさんがたくさんいるけど、みんなそうさ、みんなみんなそうさ、余命がみじかくなるにつれて、自分が本当にしたかったことをおもいだすんだよ。死ぬ間際にようやく、自分で自分を欺いていたと気付くんだ。特に若いひとたちはみんなそう、急に死を突きつけられてはじめて、あわててあれこれやりたがるんだ。貴方も包丁を自分にむけられて気付いただろう。貴方は死にたくなんかないんだよ。貴方の自殺願望は自己演出にすぎない」
 私は失禁していた。床にすわりこんでいた。生暖かさが床にひろがった。
「汚い」少年は不愉快そうにあとずさりする「僕は汚いものがいちばん嫌いなんだよ。人間の大人はなによりも汚くてしかたない。なんだい貴方のそのすがたは。目からも股間からも汚らわしい体液をぼとぼとたれながして。膝から肩までぷりぷりふるわせて。そんなに死がおそろしいなら死ぬふりなんかはじめからしなければよかったんだ。けれども安心してよ。実のところ僕は貴方について貴方以上にくわしい。僕は貴方を殺すつもりはない。なぜなら貴方には役割があるから」
「役割?」
「役割」
 少年は私の言葉をくりかえした。
「貴方は猫を殺した犯人をしっているかい?」
 なんのことについて聞かれているのかわからなかった。
 少年はいらいらしたようすで眉間に皺をよせた。その皺は子供のものとはおもえないほどくっきりとふかいものにみえた。
「貴方が第一発見者でしょ。中庭で殺されていた黒猫だよ。腹部をひきさかれて胎児がひきずりだされていた。目には凶器とおもわれる鋏がねじこまれていた。貴方はそれをはじめにみつけてその場で失神した。目覚めたときには病室にいた。そうでしょ。隠しごとしようとしても無駄だよ、僕はすべてお見通しなんだから」少年はそういうと自分のひとみを指差した「僕のこのひとみは大人の嘘を見抜けるんだ。本人も嘘と気付いていないような嘘まで見抜けてしまうんだ。人間は他人にだけ嘘を吐くような動物ではないんだよ。人間というのはね、他人よりもよほど自分に嘘を吐く動物なんだ。ひとはだれしも自分で自分を騙しながら生きているんだよ。人間三匹に一点の過去をかたらせてごらんよ。彼等彼女等はその過去についてばらばらなはなしをするだろう。おなじ過去についてかたらせても人間は三匹とも辻褄のあわないばらばらなはなしをするんだよ。それは世界にばらばらの過去があるからじゃない。自分に都合良く記憶をそれぞれかきかえているだけなんだ。それも無自覚に。過去はかえられないとはよくいうけれど本当はそうじゃない。過去は人間の頭のなかにあるものだからそれはいくらでもかわってしまう。それどころか常に人間の過去は改竄されている。改竄されていない記憶や過去や歴史などありはしない。そして、最も都合悪い記憶は意識の彼方に隠されてしまう。自分で自分に隠しごとをするんだよ。どうかな……そろそろおもいだしてきた?」少年は私の頭に包丁の先端をさしむけた「ここ、ここに貴方は隠しごとをしているんだよ。記憶喪失や多重人格にかぎらず精神障害にはなにかと詐病の問題がつきまとうものだけど、なによりも問題なのは、それが本人でも、本物なのか偽物なのかわからないことなんだ。精神障害者のおおくは自分の病気がどこまで本物でどこまで偽物なのかわからないんだよ。特に共感性のたかいひとたちは、詐病するつもりなんてなくても、医者に診断名をあたえられたりすると、実際にそうした病気の症状があらわれたりするくらいなんだ。もしくは病気の症状があらわれていなくても、なんとなく自分にそういう症状があるようなきがしてくるんだよ。全く占いとおなじような原理なわけさ。もっといえば、実は医者も本物の病気と偽物の病気を正確に見抜けるわけじゃない。現代の精神医療には脳波検査などの機械的診断方法もあるけれど、それにしても、そうした機械的診断方法の正しさを証明するのはむずかしい。精神障害のすべてが脳波検査にあらわれるわけじゃないし、機械的診断方法で問題がみられなくとも、患者本人が症状を訴えているのならそれを嘘とは断定できない。それに本人が病気ではないといいはったり、自由になるために症状を隠すこともめずらしくない。すべての症状をあらいざらいはなす患者のほうがめずらしいくらいだよ。だれだってひとから異常とはおもわれたくないものだからね。要するに……誤診もあれば詐病もあるし、本人の病識の問題も隠蔽の問題もあるから、もはやどこまでが本物でどこまでが偽物なのかなんてわかりっこないんだよ。でもね、でもここからが重要なんだ……」少年はその場にかがみこんで私の目を見詰めた。私からいわせれば彼のほうがよほど『病的』にみえた。彼は氷のようにつめたい表情のまま指先で包丁をたくみにまわした「症状が本物だろうが偽物だろうが、いくつかの精神障害には共通しているところがある。それはなんらかの隠しごとをしているということ。自分の意識の奥底になにかをおしこんで隠蔽しているんだよ。記憶喪失や多重人格がわかりすい。場合によればそれらはかならずしも障害ではないんだ。障害をうわまるような利点もそこにはある。だってそうおもわない? 抑圧しているもうひとりの自分を解放するために、こんなに都合良い症状はなかなかないよ。どんなに罪をおかしてもすべてないものにできる。いかなる罪だろうと、別人格に責任をおしつけたり、意識のはるか彼方に忘却してしまえば、良心の呵責にさいなまれなくてすむんだから。ねえねえそうでしょ……?」
「なにがいいたいのかわからない」と私はこたえた。
「貴方が殺したんだよ」と少年はこたえた。
「誰を」
「猫を」
「ありえない」私は唖然とした「だったらどうして魔女は野放しにしているの」
「もちろん」少年は自信にあふれた声でそういうと目を見開いて私を見詰めた。かおもえば今度は憎悪に表情をゆがめながら歯をぎりぎりとくいしばった。それはまるで不愉快な記憶を奥歯でかみつぶすような表情だった「もちろんあのアバズレも貴方のしていることには気付いている。気付いたうえで貴方を野放しにしてあそんでいるんだよ。いいや、気付いているどころじゃない。貴方と魔女は共犯関係にある。貴方は魔女がうみだした怪物だ。化物だ。傀儡だ。貴方の症状がどれだけ自覚的なものなのかしらないけど、もしも貴方が、本当に記憶喪失あるいは多重人格なら……詰まりそれらが詐病ではないとしたら、貴方は魔女にあやつられているだけの被害者といえる。魔女は貴方をとおして自分の法外な欲望をみたしているし、貴方は魔女をとおして自分の抑圧している欲望を解放している。性的欲望、暴力的欲望、異端的欲望……汚らわしい、なんておぞましいんだろう、あの女のこわれた欲望は観念的汚物としかいいようがない。世界でいちばんおぞましいもの……性欲、まさに彼女はそれそのものでしかない。どんなに知的にふるまおうと美的に洗練されていようと、彼女の肉体の内側で沸々とにえたぎるものは、そうした醜悪な欲望でしかない。
 女性というのはまぎらわしい動物で、外見上は一種類にみえるけれど、本当はことなる二種類の動物なんだ。それもその二種類は全然別物。外見上はおんなじ人間でも片方の中身は怪物なんだよ。いいかい。もういちどいうよ。女性には二種類いるんだ。ひとつは性欲なんてもたない気高い女性。もうひとつは過剰な性欲にあふれた病的な女性。病的な女性は男性か、あるいは男性以上に性行為にとりつかれている。性的強迫観念にのろわれており夜になるとみだらな妄想が頭からはなれなくなる。理由もなくだれかとセックスしたくなるしそうした妄想を日常的にくりかえしている。妄想するだけにとどまらず何十分もあきずにクリトリスをいじくりまわしたりする。病的な女性はたいていクリトリスにとりつかれている。クリトリスのせいで彼女たちはセックスしたくてたまらなくなる。クリトリスをいじるたびにIQはみるみる低下する。知性は腐敗してたちまち人間から動物まで堕落する。動物時代からやりなおし。一億年の進化も台無し。時に理性的判断ができなくなり人生を無駄にする。たとえば勉強しなければならないときにクリトリスをいじくりまわしたり、仕事しなければならないときにクリトリスをいじくりまわしたり、大して好きでもない男性と快楽のためにセックスしたりする。全くSex Obsession(性的強迫観念)としかいいようがない。それだけにとどまらず彼女たちはそうした病気を世界にふりまく。自分の病的な性的欲求を正当化して社会を汚染する。
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 病的な性欲を肯定するが前衛だろうか? 性を解放するのが進歩だろうか? 性の自由が権利だろうか? ありえない、どうかんがえてもありえない。正常と異常の関係が数百年で転倒したんだ。特にここ百年は最悪。野蛮な古代に逆戻り。千年前と比較してごらんよ。当時の倫理観・道徳観からすれば現代社会ほど風紀の乱れている時代もないよ。性にかんしていえば退行しているとしかいいようがない。性の自由というより性の暴走だよ。
 聖書が廃れるかわりに繁栄したのがポルノなんてほんとわらえない冗談だよ。信仰なき世界はもはやソドムとゴモラ。人類の目的は快楽と興奮と熱狂だけ。神が死んでひとびとは自分自身を神格化しはじめたんだ。現代人は神を疑えるのに自分を疑えない。自分教の信者でありとんでもないほど盲目なんだよ。どこにでもいそうなお馬鹿さんですら、どうしたわけかお馬鹿な自分を聖人以上に信仰しているし、みみずと大差ないちいぽけな自分の知性・感覚・意志を絶対視している。それどころか自分の気分・感情・欲望を無批判に肯定している。それらはそもそもある程度はおさえつけるべきものだ。なんでそれを解放するんだろうか。『汝の欲することをおこなえ』と説いたカルトとまんまおんなじなんだよ。社会はまるごとカルト化している。世界はまるでフランソワ・ラブレーだ。
 自分教は人類史上最悪のカルト宗教だよ。なにからなにまで根拠がない、根拠はないのに自信だけはある、正確には自分を信じているのですらない、自分を疑っていないだけで、本当は確固たる自分もありはしない。ありもしない自分を、あるとおもいこんでいるけれど、本当はまわりにながされているだけの集団風見鶏にすぎない。自分の知性も感覚も意志もないし、自分の気分や感情や欲望もないのに、どこにもありはしないそれを、なんとなくあると信じてやまない、いいや信じているのでさえなく、単に疑わずにいきているだけなんだ。目を瞑りなにも疑わず、立ちどまり考えることもなく、かといって信じるものもなく、右や左にひたすらながされるばかり。自分教にあるのは盲目と盲従とそして、自分にたいする盲愛だけだ。
 なにが人権だよ。サドやルソーまでさかのぼるとわかるけど、人権というのは結局、人間の動物的欲望を全肯定するかんがえかたでしかない。根底にあるのは野蛮な自然の欲望の賛美であり、そこにはもとより、さしたる根拠などありはしない。自然な欲求を礼賛しながら人間を原始の状態までもどそうとしているだけだ。要するに人権思想とは最初から動物化思想なんだ。現代を支配しているのは人間の権利ではない、動物になる権利だ、みんなして動物になる権利をさけんでいるんだよ。人間社会なんてもうどこにもない。どこもかしこも檻のない動物園のようだ。動物達がもとめているのは理性や知性なんかではない。むしろ理性や知性の放棄ばかりをもとめている。なにも考えたくないんだよ。なんにもなんにもなあんにも考えたくない……自分でなんにも考えずにすむことをもとめているんだ。人間になるためではなく人間をやめるために、考えるためではなく考えることをやめるために……ひとびとはあゆみをすすめている。いや、すすめているのではなく、あともどりしようとしているんだ。子供は永遠に子供のままでいようとして、大人は名残りおしそうに子供にもどりたがる。精神的にも肉体的にも文化的にも、成熟ではなく、退行をもとめている。幼児に退行しようとしている。それどこか人間をやめて動物にもどろうとしている。動物達は徹底した無思考をもとめている。過剰な精神的・肉体的快楽をもとめている。人類は性的な快楽と興奮の動物園を目指している。
 これもすべて、すべてすべて病気のせいなんだよ。Sex Obsessionのせいなんだ。これは病気、まさに病気だよ、あまりにおおくのひとたちがこの病気に感染している。だからそれを深刻な病気と認識することもできないんだ。世界に氾濫した性欲が、社会に浸透した変態が、大衆に感染した異常が、本来の正常を脅かしている。Sex Obsessionは全社会的ないし全人類的病気だよ。それはもともと男性の病気だった。しかしあるころいちぶの女性にまで感染して、いまではそういう病的な女性達がみずから、嬉々としてSex Obsessionの病原菌をふりまいている。そのなかでも魔女は特別だ。彼女は病的な女性という次元にはない。彼女は病気の感染者というよりも病原菌の発生源なんだよ。魔女という女性は、神が死んだことをいいことに、神がかつてほろぼしたはずのソドムとゴモラの世界を、地上に復活させようとしているんだ。魔女とは復活の司祭であり、彼女が復活させようとするのはことごとく古代の悪魔達なんだよ。人間の意識の奥底に封じこめていた悪魔達を復活させたいんだ。たしかにソドムとゴモラの世界が生きやすい女性もいるかもしれない。男性もいるかもしれない。しかしそれはほんのいちぶの病人だけだ。魔女は病原菌をまきちらしながら、病人をふやして、病的な世界を復活させようとするネクロマンサーだ。
 端的にいえば魔女は倒錯した性欲の権化なんだよ。彼女の性的欲求は動物のように単純で純粋なものですらない。彼女のそれは欲望の闇鍋。支配的欲望、暴力的欲望、異端的欲望……鼠の死骸と、蜥蜴の尻尾と、蛸と烏賊と洗剤と毒剤と薬剤と……とにもかくにも、まぜあわせてはならない欲望をなにからなにまでまぜあわせた精神的・肉体的汚濁なんだ。ほかでもないこの禁書室が証拠じゃないか。貴方も記憶がないとはいえ魔女の噂をしらないはずはないだろう。現に彼女の性的紊乱は周知の事実だ。彼女が医療行為と称してこれまでどれだけ異常な儀式をくりかえしてきたことか。彼女は医療倫理なんて守らないし患者の人権なんてなんともおもっていない。患者をとことん利用するしひどいときには犯罪の肩代わりまでさせる。誤診や詐病や病識の問題を利用すれば法律の穴なんていくらでもぬけられる。ほかの精神科医が匙をなげてしまうようなひどい患者をあえて担当するのもそれが理由なんだ。正気を喪失している患者はある意味で都合がいいんだよ。なにがおころうとごまかしがきくし都合がわるくなれば最悪始末する。患者の始末は簡単。自殺させてしまえばいい。詰まるところあの女こそこの病院でいちばんの狂人なんだ。本物の狂人は常人を演じているもので、ときには常人にまぎれこんで、権力まで握っている。
 いいかい、すでに貴方も魔女の手中にあるんだ。貴方も無事のままいられるとはかぎらない。あるいは貴方がだれよりも危険な場所にいる」
 少年はそこまでいうと包丁をほうりなげた。口をひらいているあいだ彼は私の目からいちども目をそらさなかった。彼の目の奥には火がちらちらとかがやいてみえた。それは、夜の冷たい湖の底にとじこめられた火のように、手のとどかないものだった。私は体をよじらせてその場から這いでようとした。しかしまえにすすまなかった。右足を掴まれていたのだった。ふりかえると私はこういった。
「きみはおかしいよ……」
「ぼくはおかしくない……」少年はそういうと私の右足を掴んだままたちあがった「おかしいのは貴方であり魔女であり病院なんだよ。貴方が本当に多重人格あるいは記憶喪失ならば、本当に詐病でないのならば、ぼくのはなしを貴方が信じないのも無理はない。しかしちかいうちに、ぼくのはなしが本当であると貴方も身をもってしることになる。貴方は自由な鼠でなんかない。実験用の鼠なんだ。殺される運命だ。貴方にヒントをあげよう」彼は姿見の縁を掴むとそれをまるで扉のようにひらいた、いいやそれは扉だった。奥は真暗でみえなかった。
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