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《第0部》第4章:創造者と分裂した世界
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第0部 読めばよむほどわけがわからなくなる冗長な序文もしくは解説(4/4)
第4章:創造者と分裂した世界
1
書物のなかにある世界と書物のそとにある世界。作品内世界と作品外世界。ふたつの世界。
世界を分裂させるものとしての筆者、あるいは分裂した世界をまたぐものとしての筆者、創造者。
2
書物のまえがきやあとがきは、もしくは序文や跋文や解説は、書物のなかにある世界と書物のそとにある世界がまじわる場所である。それらはたいてい作品外世界から作品内世界を案内しているか、作品外世界ないし作品外筆者を説明している。どちらにせよ作品内世界と作品外世界の関係をかたろうとしている。たとえば書物の解説はおおくの場合、作品の内容を説明するだけでなく、それがどのような状況で執筆されたものなのかはなす。または筆者がどのような人物なのかかたりあかす。
3
私の友人でもある本書の筆者は前述したとおり自殺している。私はすくなくともそうつたえられている。貴方がこれからよもうとしている本書は死者がかきのこしたばらばらな言葉をまとめたものだ。それらは友人が閉鎖病棟に入院している期間にかきのこされたものがほとんどであり、入院中の経験が内容に反映されているのはあきらかである。けれども本書はその当時の経験をそのまま記録したものではない。日記の内容からも友人は自分の入院中の経験を文学として結晶化しようとしていたことがわかる。
話を簡単に整理する。序文をかいているこの私は本書の筆者ではなく編纂者である。私は自殺した友人の断片的記述を文学作品として編纂したにすぎない。友人の遺品を整理してまとめたものが本書なのである。こうした情報は本編と直接関係するものではない、が、本書においてはこうした間接的関係が侮れない。筆者の断片的記述は間接的関係により蜘蛛の巣のように世界を構築しており、私が本書を編纂するにあたり意識したのもその間接的関係なのだ。なにはともあれ友人がいかなる状況で本書を執筆していたのかもうすこし詳しくはなしていこう。〔正確にはさらに事態はごたごたしており本書の出版だけでも最低七人の人物が関与している。今回の出版が大幅に遅れたのはこうした事情にもよる。著作物の権利や金銭の関係整理に時間を要したのである。とはいえそこまで説明する必要もなかろう〕
4
友人は社会という巨大な機構から逸脱した歯車だった。社会の歯車になることを拒絶したのではない。歯車になりたいと切実に望んでいた。歯車になるための才能がなかった。友人は歯車は歯車でも普通の歯車ではなかった。それは前向きに表現するならば独創的あるいは個性的な歯車であり、率直に表現するならば歪形の歯車であり、辛辣に表現するならば欠陥品といえた。友人は歪んでいたのである。
社会という巨大な機構からすると歪形の歯車はおそろしい存在である。それは抵抗する歯車よりよほど不都合な存在である。本人が歯車になることに抵抗していたとしても、歯形が一般のそれからはみださないものならば、その歯車は部品として十分に機能する。また、部品としてもともと欠陥がないのならば、抵抗するよりも歯車になるほうが気楽である。だから抵抗する意欲も継続しない。それは子供の反抗期と同様に一過性の症状にすぎない。
歪形の歯車はちがう。それは本人の意志にかかわらず巨大な機構を内側から破壊する危険性を孕んでいる。ほかの歯車と噛みあわないばかりか周囲の動作を狂わせてしまう。社会は全体が狂わされるまえに歪形の歯車を異物として排除する。友人の社会的逸脱は自分の意志というよりも社会的排除の結果である。歯車が歪形なのかどうかも社会による選別でしかない。友人は自分から歪形になろうとしたわけでもないし、歪形を自称していたわけでもない。社会からそのようにみなされただけである。
私は「社会は巨大な機構ではないし労働者は歯車ではない」と断言したい、もしくは「歪形の歯車とは独創的あるいは個性的な歯車である」と応援したい、「貴方のような人間こそが偉大な創造をなしとげる」と激励したい。そういう言葉で友人を慰められたらどんなによかったか。そうすれば友人の自殺もくとめられたかもしれない。いいや、そんなことはない、現実はそんなにうまくいかない。こうした楽観的な言葉が当事者にひびくことはそうそうない。
たしかに歴史に名前を刻みこまれるような天才には逸脱者がおおいかもしれない。特に芸術家には歪形の歯車もすくなくない。とはいえほとんどの逸脱者は天才ではない。歪形の歯車は社会から排除されてそのまま生涯を終える。社会からさんざん排除されてきた人間に自信があるはずもない。自分を天才とおもいこめるほどの自己肯定感があるはずもない。自惚れるにしてもそれなりの才能が必要なのだ。現に友人の精神は底無しの劣等感や疎外感に苛まれていた。友人はひきこもりとなり問題行動をなんどかくりかえしたのちに閉鎖病棟に強制入院させられた。
他人事ではない。貴方はここまでのはなしを他人事のようにきいていたかもしれない。貴方だっていつそうなるのかわからないのだ。貴方も閉鎖病棟に今後入院するかもしれない。優秀な歯車もなにかの拍子でおかしくなる。どんなに優秀でもそれは歯車を演じている人間でしかない。演技を徹底すればするほど無理をすることになり最悪壊れてしまう。歯車は機構によりとことん消耗されて破壊される。壊された歯車は自分を被害者とはおもわない。壊れた自分が悪いとおもいこむ。社会も「壊れた歯車が悪い」といわんばかりの横暴な態度をとる……歯車を壊しているのは社会のほうなのに。虐待をうけた子供にも同様の傾向がみられる。虐待されている自分のほうこそ悪いとおもいこむ。無論、こうしたはなしが友人にそのままあてはまるわけではない。友人の場合はより混乱した状態においこまれていた。
閉鎖病棟に入院させられた友人はもがいていた。当時の日記からもそのようすはひしひしとつたわってきた。弱々しくふるえる文字の一字一句に友人の苦悩があらわれていた。友人はなんども病院をぬけだそうとして失敗した。治療を放棄しているのではなかった。友人は自分の病気をなかばみとめながらもその病気がなんなのかわからなかった。それどころか、病院も友人をむしばんでいる病気を断定できていなかった。その証拠に友人は担当医がかわるたびにあたらしい病名をあてがわれていた。薬もころころかわっていた。友人は自分を苦しめるその病気がなんなのかわからず、治療が正しいものなのかもわからず、もがいていた。当時の心境をあらわす友人の創作日記を以下に引用する。
5
【筆者の創作日記2001.08.20.より】
私が「破砕機はおそろしい」と訴えると医者に「それは病気の症状です」といわれた。私が「複写機がつかえないとおちつかない」と訴えると「それも病気の症状です」といわれた。五分足らずの診断で薬を処方された。薬を飲んでも破砕機はおそろしいままだし複写機がつかえないとおちつかないのだが、彼はなんでもかんでも、病気の症状ですませて解決したようにみせかけた。解決したようにみせかけるだけでなにも解決していない。だからなにかを相談しようとはおもえない。相談したところで相談したことも病気の症状にされる。
6
【筆者の創作日記2001.08.21.より】
破砕機は世界を解体する。破砕機にひきずりこまれると世界は無意味にされてしまう。世界が無意味になるとなにがなんだかわからなくなる。それは無意味な文章とにている。無意味な文章は単語単位では理解できても文章としてはわけがわからない。単語だけ理解できてもそれらのつながりがわからなければ文章は理解できない。それとおなじように無意味な世界は物体単位では理解できても世界としてはわけがわからない。物体だけ理解できてもそれらのつながりがわからなければ世界は理解できないのだ。世界が無意味になる感覚は、単語を理解できない感覚というよりも文法が理解できない感覚にちかい。世界が無意味になるとは世界から文法が失われてばらばらになることだ。単語が理解できなくなるのは文法を喪失してからさらにあとの段階である。その段階にいたるころにはもうなにもみえていない。世界は砂塵のように無数の粒子に解体されて自分もそのいちぶになる。破砕機がもたらす虚無感とはこうした自己解体感覚あるいは世界解体感覚なのである。
7
【筆者の創作日記2001.09.03.より】
無意味と多意味は区別がつかない。破砕機が物事をばらばらにしていくと今度は超文法的なわけのわからないつながりがあちこちに発生する。破砕機に負けてはならない。絶えまなくなにかをかかなければならない。もしくは複写機である。複写機が破砕機にたいする抵抗になる。しかしこうした事情も医者は理解できない。彼は無慈悲にも複写機をとりあげた。私を狂人として病室にとじこめた。病室にとじこめて病気がなおるならいいがなおらない。単に罰をあたえられているようにしかおもえない。こういう仕打ちを治療といえるのだろうか。
8
【筆者の創作日記2001.09.04.より】
病室は小さくて狭くて惨めでならない。世界から完全に隔離されて自分だけ孤立している。人間らしいつながりはなにもない。図書室にもしばらくいけそうにない。看護師は親しみをこめてはなしかけてくれる。しかしそれにしても対等ではない。彼女は病人の世話をしているにすぎない。仕事人として仕事をこなしているだけだ。私は仕事ができない。捨てるわけにもいかず納屋におしこまれているがらくたである。納屋は息苦しい。息苦しさの原因はわからない。これもまた病気の症状ですまされるにちがいない。こんな生活がいつまでもつづくなら死んだほうがましだ。あるいはもう死んでいるようなものだ。
なぜ医者や看護師は自殺をとめるのだろう。それもまた仕事にすぎない。あのひとたちだって本当は私の命がどうなろうとかまわない。自殺しないように私を病室にとじこめることも仕事なのだ。無意味な生活にはたえられない。生活にも意味がほしい。ほそくてもいいからつながりがほしい。つながりをたちきられた私は宇宙をただよう蜘蛛である。糸をもてあましている蜘蛛、糸はいくらでもあるがその糸をくっつけるさきがない。
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【筆者の創作日記2001.09.03.より】
病院は私を殺しながら「死んではならない」といっている。矛盾を狂人の証拠とみなしながら矛盾している。毎日矛盾にひきさかれそうになる。教育と洗脳はにている。診断と差別はにている。保護と監禁はにている。延命と虐待はにている。手術と拷問はにている。薬と毒はにている。中途半端に殺されるくらいならいっそ完全に殺されたい。完全に洗脳されて差別されて監禁されて虐待されて拷問されて毒をあたえられて死にたい。薬ですくわれないものは最後に毒をもとめる。
病人の戯言にしかきこえないのだろう。これもまた病人の症状で片付けられるのだろう。彼等彼女等は病気の専門家ではあるかもしれない、けれども私からいわせれば、彼等彼女等は病人のことなどなにもわかっていない。もしくは病人のことしかわかっていない。病人と名付けられるまえの人間、人間と名付けられるまえの私をわかろうとしない。泣いていても「病人が泣いている」としかとらえない。ほかでもない私が泣いているのに。あのひとたちには私の涙も病気の症状としかおもわない。薬を飲ませればどうにかなるとおもっている。
小さな窓から死にぞこないの蝉の声がきこえてくる。蝉はおなかにある発音膜という器官を震わせながら泣いているらしい(これはまえに昆虫図鑑でよんだはずなのだが記憶が曖昧なのであやまりかもしれない)。人間の涙にも震えがともなう。震えてから泣きだすのか、泣いてから震えだすのかはわからないが、どちらにせよ泣いているあいだは震えている。言葉も底にあるのは肉の震えなのかもしれない。大層な文学も思想も宗教も奥まで覗きこんでみると一塊の震える肉がみえてくる。理知的な言葉がならんでいたとしてもその震源は脳からしたの体にある。理性は肉体の震えを言葉になおしているだけだ。
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【筆者の創作日記2001.09.11.より】
本当に病気なのだろうか。破砕機や複写機の問題を病気の症状とみとめるにしてもである。苦しい、悲しい、寂しい、虚しい、恐ろしい……こうしたきもちのすべてが病気の症状なのだろうか。こうしたきもちは治療できるものなのだろうか。薬を飲んだらそれですむようなものなのだろうか。どうにもそうとはおもえない。病室が縮んでいるようにおもえてならない。そのうち壁と床と天井におしつぶされて死んでしまうにちがいない。
科学の向こうにいる。向こうにながされている。潮のながれにあらがえるほどの力はない。波は体をおしかえし口にはいりこんでくる。360°続いている水平線の荒野を冷たい風が吹きすさび凍えている。爪先は宙ぶらりんでふらふらしている。底のみえないふかい虚空、焦燥、不安、混乱、恐怖が果てまでひろがっている。水平線は揺れており水面は畝っており渦潮が回転する無数の刃のように私をきりきざもうとする。存在をおびやかしているのはこうした自己解体感覚あるいは世界解体感覚なのにそのことを医者は理解しない。嘆いても叫んでも泣いても理解されない。説明しても理解されない。軽蔑の眼差しをさしむけられるだけだ。理解できないものを治療できるのだろうか。もしかするとできるかもしれない。しかしいまのところ治療はうまくいっていない。
仮に自分が正気を喪失した狂人だとしても目からあふれるそれを偽物の涙とはおもえない。私にいわせれば自分にあたえられている診断こそ偽物だ。あるものはこういうかもしれない「貴方の苦悩は脳の故障がうみだしたものにすぎません」もしくは「貴方をおびやかしているものは脳がうみだした幻にすぎません」と。そしてこういうだろう「貴方は病人であり貴方の苦悩は病気の症状でありそれ以上でもそれ以下でもありません」と。
なるほどこういう説明は医学的で科学的で客観的にきこえる。苦悩の原因を脳という器質・装置・物質にもとめて「それ以上でもそれ以下でもありません」とはなしをうちきる。こうした説明は科学然としており尤もらしくきこえる。人間の苦悩を神秘化しないという意味で科学的態度とはいえるかもしれない。しかしそうした説明が正しいとしても、もしそうした説明が許されるとしたらだが……あらゆる人間の苦悩は脳の故障で説明できてしまう。
脳がうみだした幻ではないものなんてありうるだろうか。人間の認識している世界のすべてが脳のうみだした幻といえる。過去も未来も、自我も意識も因果も時間も空間も、愛も正義も脳のうみだした幻であり、私だけが幻のなかでもがいているのではなく、私たちはみな幻のなかでもがいている。けれどもどうだろう。脳も幻ではないといいきれるだろうか。脳もまた幻がうみだした幻にすぎない。私ひとりがなにもない水平線で溺れているのではなく、すべての人間が、このなにもない幻の水平線で溺れている。人間は病人であり社会は病院なのだ。そうだそうだそのとおりだ。すべての人間は病人なのだ。全人類が不治の病におかされているのだ。
全くこれほどの涙がひとりぶんとはとてもおもえない。私の涙は私だけのものではない。苦しさ、悲しさ、寂しさ、虚しさ、恐ろしさ……人間の抱えている命のたえがたさ。私たちの目は離れているが涙はおなじところからわきあがる。大笑いしているときも、激怒しているときも、本当は涙をこらえている。忘れたふり、分からないふり、気付かないふりをして、涙をかくして健康そうにふるまう。だれも健康でなんかないのに。これは私の病気ではない。私たちの病気なのだ。人類のかかえている病気なのだ。私の病気はすなわち人類の病気にちがいない。病気の治療はうまくいきそうにない。人類の病気ともなればなおさらである。自分にできることはなんだろう。言葉にするくらいならできるかもしれない。個人的なものを個人的なまま、それでいて普遍的なものとして、文学ならば矛盾したものを矛盾したままに結晶化できるかもしれない。
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【筆者の創作日記2001.09.13.より】
この病院の医者を信用できない。彼等は納得できる説明をしてくれない。こちらは理由もわからないまま監禁されているのだから抵抗するのはあたりまえである。犯罪者を牢獄に監禁するにしても公平な裁判をとおしてその判断の正当性を審議する。しかしここ、病院にはそうした公平な審議もなく納得できる説明もない。私が本当に病気なのかもわからない。病気ならばこんなに明晰な文章をかくことができるだろうか。もしかするとあの先生は馬鹿なのではないか。私の文章が極度に高度だから理解できないだけなのではなかろうか。さすがにそんなことはないにせよ、そうでないにしてもである、患者がよんでもらいたくてかいた手紙くらいよむべきだろう。死にたい。やめよう。そんなことをかんがえるよりも執筆しよう。しかしなにをかいても『狂人の手記』としかみなされないかもしれない。
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引用した上記の文章からもわかるように友人の状態は良好といえない。とはいえである……とはいえ完全に絶望していたかといえばそうともいえない。暗闇でもがきながらも文学に光明を見出していたのである。ちょうどそのころ(記録によると2001.10.10.)友人の担当医がかわり、彼女の助力もあり、数年後には本書の原稿を完成させている。しかしそれから約20年後の2021年に自殺。
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本書の主人公は友人とおなじく精神障害者とみなされて入院させられている。大雑把に内容を要約するならば主人公が友達をつくり《狂った病院》から脱出するはなしである。あらすじそのものは至極単純といえるかもしれない。ただし登場人物のたいはんが狂人なのだ。ここでいう狂人とは精神障害者という意味ではない。一般から逸脱しているという意味である。このような意味で執筆者も登場人物も全員狂人であり、しかもとんでもなく饒舌である。饒舌な狂人たちの会話が本書の大部をしめている。この書物はサドとバタイユがドストエフスキーに憑依してかいた『不思議の国のアリス』のようなものである。
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本書は複雑な構造を有した書物ではあるもののおおまかには五部で構成されている。上層にいくほどちいさくなる五階建の巨大建造物を想像してほしい。一階部分が全体の1/3をしめておりこの部分は密集した小屋のようなおもむきがある。この段階では巨大な建築の構造はみえてこない。読者は街路にまよいこむようにして散乱した文書群の内部をさまようことになる。差別や障害や性愛など日常では嫌忌されがちな問題にかんする議論が大部分をしめている。一般の良識からは逸脱しているようにもみえるがそれでもまだ健全なほうといえる。問題は第二部以降である。人権を完全に無視したような思想が怪気炎をあげながらさけばれる。特に最後の第五部は地獄ともいえるような様相を呈する。
全体の展開としては短編集のように小型の物語の連続からはじまり、次第にそれらがからみあい、第四部で拡散して第五部で収束する。これは筆者の『短編集的大長編あるいは大長編的短編集』という構想が反映されたものとかんがえられる。本書が理解しがたい原因はこのような奇怪な構造にだけあるのではない。その内容にも原因がある。内容は多岐にわたり、ホラー、ゴシック、ミステリー、サスペンス、アクション、クライム、ロマンス、ポルノ、私小説などありとあらゆるジャンルが大人の玩具箱ようにつめこまれている。このような意味で本書は、建築でありながら都市であろうとするメガストラクチャーであり、ひとつでありながらすべてであろうとするキマイラがごとく超大型複合書物なのである。
前述したように本書には差別や虐待や拷問や自殺や殺人そして常軌を逸脱した性的な描写がたぶんにふくまれており、反社会的ともいえる思想も披瀝されている。特に第二部はおおむねポルノである。女性の読者はもちろん男性の読者でも吐気をもよおすようなおぞましくて下品極まりない記述にあふれている。そうした表現が苦手な読者は読書をひかえることを強くおすすめする。もしくは目をほそめてよんでいるふりだけしておくのがよかろう。自分の理解できない思想をうけいれるのが苦手な読者にもおすすめできない。本書にあるのは良識的な人間ならばアレルギーをおこしかねないような理解しがたい思想ばかりである。ただし忠告しておかなければならない。筆者は露悪趣味的な残酷物語として本書を執筆したのではない。それは本書を最後までよんでもらえたらかならずおわかりいただけるはずだ。
なんにせよ、本書が書店でうられているような《商品としての書物》とは別物であることを事前に了承しておいていただきたい。本書と《商品としての書物》は野生動物と愛玩動物くらいことなる。ここにならべられているのは、ひとに飼いならされた言葉ではなく、ひとに襲いかかるような言葉である。原則的に《商品としての書物》は安全快適によめるようにできている。それはたとえるなら初心者向けの登山道のようなものであり障害となるものはあらかじめとりのぞいてある。危険なものも毒のあるものもきれいに排除されている。棘もなければ牙もない。あるいはそれは角がまるめられた子供向けの遊具である。だれも傷付かないように配慮がすみからすみまでいきとどいている。商品とはそういうものである。
本書は野蛮な深山である。人間にたいする配慮などない。もとよりひとがはいりこめるようにはできていない。読者は危険なものとそうでないものを自分で見分けてかきのけながらよみすすめなければならない。鬱蒼とおいしげる検閲なきむきだしの言葉が読者におそいかかる。登山者のおおくは途中で遭難するだろう。ここには不可解で凶暴で荒々しい自然としての人間が、またそういう人間がとらえようとした宇宙が、毒もぬかれないまま生捕りにされている。
この書物は読者を疲弊させてうんざりさせる、傷だらけにする、傷だらけになる覚悟のあるものだけが冒険にでられる。もし貴方が傷付きたくないのなら本書の読者にはむかない。傷付きたくない貴方にむいているのは《読者をきもちよくさせてくれるやさしい毛布のような書物》だろう。そういう毛布のような書物にくるまりぬくぬくしていたらよろしい。あるいは本書の悪口でもどこかにかいてうさばらしでもしたらよろしい。本書のような有毒な書物は悪評の数だけ箔がつくというもの。まあいずれにせよ、長ったらしい序文をここまでよんでくれてありがとう。
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最後に筆者にかんする重要な事実をあかそう。実は筆者の自殺もさだかではない。遺体が発見されていないのだ。
本書はこのような不安定な地盤を足場にしてたてられた崩壊寸前の巨大建造物なのである。全くなにもかもさだかではなく、それゆえにあらゆる言葉が、ぐらぐらとゆれうごいている。ここまでしたはなしは本編をよみすすめるために必須の情報ではない。忘れていただいてかまわない。しかしこれらの情報をふまえれば本編をなおさらふかくよみといていただけるはずである。それでは戦慄と残虐と暴力と、苦痛と憂鬱と葛藤と、倒錯と奇想と矛盾と、正義と愛のあふるるながい物語をとくとおたのしみあれ。
第4章:創造者と分裂した世界
1
書物のなかにある世界と書物のそとにある世界。作品内世界と作品外世界。ふたつの世界。
世界を分裂させるものとしての筆者、あるいは分裂した世界をまたぐものとしての筆者、創造者。
2
書物のまえがきやあとがきは、もしくは序文や跋文や解説は、書物のなかにある世界と書物のそとにある世界がまじわる場所である。それらはたいてい作品外世界から作品内世界を案内しているか、作品外世界ないし作品外筆者を説明している。どちらにせよ作品内世界と作品外世界の関係をかたろうとしている。たとえば書物の解説はおおくの場合、作品の内容を説明するだけでなく、それがどのような状況で執筆されたものなのかはなす。または筆者がどのような人物なのかかたりあかす。
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私の友人でもある本書の筆者は前述したとおり自殺している。私はすくなくともそうつたえられている。貴方がこれからよもうとしている本書は死者がかきのこしたばらばらな言葉をまとめたものだ。それらは友人が閉鎖病棟に入院している期間にかきのこされたものがほとんどであり、入院中の経験が内容に反映されているのはあきらかである。けれども本書はその当時の経験をそのまま記録したものではない。日記の内容からも友人は自分の入院中の経験を文学として結晶化しようとしていたことがわかる。
話を簡単に整理する。序文をかいているこの私は本書の筆者ではなく編纂者である。私は自殺した友人の断片的記述を文学作品として編纂したにすぎない。友人の遺品を整理してまとめたものが本書なのである。こうした情報は本編と直接関係するものではない、が、本書においてはこうした間接的関係が侮れない。筆者の断片的記述は間接的関係により蜘蛛の巣のように世界を構築しており、私が本書を編纂するにあたり意識したのもその間接的関係なのだ。なにはともあれ友人がいかなる状況で本書を執筆していたのかもうすこし詳しくはなしていこう。〔正確にはさらに事態はごたごたしており本書の出版だけでも最低七人の人物が関与している。今回の出版が大幅に遅れたのはこうした事情にもよる。著作物の権利や金銭の関係整理に時間を要したのである。とはいえそこまで説明する必要もなかろう〕
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友人は社会という巨大な機構から逸脱した歯車だった。社会の歯車になることを拒絶したのではない。歯車になりたいと切実に望んでいた。歯車になるための才能がなかった。友人は歯車は歯車でも普通の歯車ではなかった。それは前向きに表現するならば独創的あるいは個性的な歯車であり、率直に表現するならば歪形の歯車であり、辛辣に表現するならば欠陥品といえた。友人は歪んでいたのである。
社会という巨大な機構からすると歪形の歯車はおそろしい存在である。それは抵抗する歯車よりよほど不都合な存在である。本人が歯車になることに抵抗していたとしても、歯形が一般のそれからはみださないものならば、その歯車は部品として十分に機能する。また、部品としてもともと欠陥がないのならば、抵抗するよりも歯車になるほうが気楽である。だから抵抗する意欲も継続しない。それは子供の反抗期と同様に一過性の症状にすぎない。
歪形の歯車はちがう。それは本人の意志にかかわらず巨大な機構を内側から破壊する危険性を孕んでいる。ほかの歯車と噛みあわないばかりか周囲の動作を狂わせてしまう。社会は全体が狂わされるまえに歪形の歯車を異物として排除する。友人の社会的逸脱は自分の意志というよりも社会的排除の結果である。歯車が歪形なのかどうかも社会による選別でしかない。友人は自分から歪形になろうとしたわけでもないし、歪形を自称していたわけでもない。社会からそのようにみなされただけである。
私は「社会は巨大な機構ではないし労働者は歯車ではない」と断言したい、もしくは「歪形の歯車とは独創的あるいは個性的な歯車である」と応援したい、「貴方のような人間こそが偉大な創造をなしとげる」と激励したい。そういう言葉で友人を慰められたらどんなによかったか。そうすれば友人の自殺もくとめられたかもしれない。いいや、そんなことはない、現実はそんなにうまくいかない。こうした楽観的な言葉が当事者にひびくことはそうそうない。
たしかに歴史に名前を刻みこまれるような天才には逸脱者がおおいかもしれない。特に芸術家には歪形の歯車もすくなくない。とはいえほとんどの逸脱者は天才ではない。歪形の歯車は社会から排除されてそのまま生涯を終える。社会からさんざん排除されてきた人間に自信があるはずもない。自分を天才とおもいこめるほどの自己肯定感があるはずもない。自惚れるにしてもそれなりの才能が必要なのだ。現に友人の精神は底無しの劣等感や疎外感に苛まれていた。友人はひきこもりとなり問題行動をなんどかくりかえしたのちに閉鎖病棟に強制入院させられた。
他人事ではない。貴方はここまでのはなしを他人事のようにきいていたかもしれない。貴方だっていつそうなるのかわからないのだ。貴方も閉鎖病棟に今後入院するかもしれない。優秀な歯車もなにかの拍子でおかしくなる。どんなに優秀でもそれは歯車を演じている人間でしかない。演技を徹底すればするほど無理をすることになり最悪壊れてしまう。歯車は機構によりとことん消耗されて破壊される。壊された歯車は自分を被害者とはおもわない。壊れた自分が悪いとおもいこむ。社会も「壊れた歯車が悪い」といわんばかりの横暴な態度をとる……歯車を壊しているのは社会のほうなのに。虐待をうけた子供にも同様の傾向がみられる。虐待されている自分のほうこそ悪いとおもいこむ。無論、こうしたはなしが友人にそのままあてはまるわけではない。友人の場合はより混乱した状態においこまれていた。
閉鎖病棟に入院させられた友人はもがいていた。当時の日記からもそのようすはひしひしとつたわってきた。弱々しくふるえる文字の一字一句に友人の苦悩があらわれていた。友人はなんども病院をぬけだそうとして失敗した。治療を放棄しているのではなかった。友人は自分の病気をなかばみとめながらもその病気がなんなのかわからなかった。それどころか、病院も友人をむしばんでいる病気を断定できていなかった。その証拠に友人は担当医がかわるたびにあたらしい病名をあてがわれていた。薬もころころかわっていた。友人は自分を苦しめるその病気がなんなのかわからず、治療が正しいものなのかもわからず、もがいていた。当時の心境をあらわす友人の創作日記を以下に引用する。
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【筆者の創作日記2001.08.20.より】
私が「破砕機はおそろしい」と訴えると医者に「それは病気の症状です」といわれた。私が「複写機がつかえないとおちつかない」と訴えると「それも病気の症状です」といわれた。五分足らずの診断で薬を処方された。薬を飲んでも破砕機はおそろしいままだし複写機がつかえないとおちつかないのだが、彼はなんでもかんでも、病気の症状ですませて解決したようにみせかけた。解決したようにみせかけるだけでなにも解決していない。だからなにかを相談しようとはおもえない。相談したところで相談したことも病気の症状にされる。
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【筆者の創作日記2001.08.21.より】
破砕機は世界を解体する。破砕機にひきずりこまれると世界は無意味にされてしまう。世界が無意味になるとなにがなんだかわからなくなる。それは無意味な文章とにている。無意味な文章は単語単位では理解できても文章としてはわけがわからない。単語だけ理解できてもそれらのつながりがわからなければ文章は理解できない。それとおなじように無意味な世界は物体単位では理解できても世界としてはわけがわからない。物体だけ理解できてもそれらのつながりがわからなければ世界は理解できないのだ。世界が無意味になる感覚は、単語を理解できない感覚というよりも文法が理解できない感覚にちかい。世界が無意味になるとは世界から文法が失われてばらばらになることだ。単語が理解できなくなるのは文法を喪失してからさらにあとの段階である。その段階にいたるころにはもうなにもみえていない。世界は砂塵のように無数の粒子に解体されて自分もそのいちぶになる。破砕機がもたらす虚無感とはこうした自己解体感覚あるいは世界解体感覚なのである。
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【筆者の創作日記2001.09.03.より】
無意味と多意味は区別がつかない。破砕機が物事をばらばらにしていくと今度は超文法的なわけのわからないつながりがあちこちに発生する。破砕機に負けてはならない。絶えまなくなにかをかかなければならない。もしくは複写機である。複写機が破砕機にたいする抵抗になる。しかしこうした事情も医者は理解できない。彼は無慈悲にも複写機をとりあげた。私を狂人として病室にとじこめた。病室にとじこめて病気がなおるならいいがなおらない。単に罰をあたえられているようにしかおもえない。こういう仕打ちを治療といえるのだろうか。
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【筆者の創作日記2001.09.04.より】
病室は小さくて狭くて惨めでならない。世界から完全に隔離されて自分だけ孤立している。人間らしいつながりはなにもない。図書室にもしばらくいけそうにない。看護師は親しみをこめてはなしかけてくれる。しかしそれにしても対等ではない。彼女は病人の世話をしているにすぎない。仕事人として仕事をこなしているだけだ。私は仕事ができない。捨てるわけにもいかず納屋におしこまれているがらくたである。納屋は息苦しい。息苦しさの原因はわからない。これもまた病気の症状ですまされるにちがいない。こんな生活がいつまでもつづくなら死んだほうがましだ。あるいはもう死んでいるようなものだ。
なぜ医者や看護師は自殺をとめるのだろう。それもまた仕事にすぎない。あのひとたちだって本当は私の命がどうなろうとかまわない。自殺しないように私を病室にとじこめることも仕事なのだ。無意味な生活にはたえられない。生活にも意味がほしい。ほそくてもいいからつながりがほしい。つながりをたちきられた私は宇宙をただよう蜘蛛である。糸をもてあましている蜘蛛、糸はいくらでもあるがその糸をくっつけるさきがない。
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【筆者の創作日記2001.09.03.より】
病院は私を殺しながら「死んではならない」といっている。矛盾を狂人の証拠とみなしながら矛盾している。毎日矛盾にひきさかれそうになる。教育と洗脳はにている。診断と差別はにている。保護と監禁はにている。延命と虐待はにている。手術と拷問はにている。薬と毒はにている。中途半端に殺されるくらいならいっそ完全に殺されたい。完全に洗脳されて差別されて監禁されて虐待されて拷問されて毒をあたえられて死にたい。薬ですくわれないものは最後に毒をもとめる。
病人の戯言にしかきこえないのだろう。これもまた病人の症状で片付けられるのだろう。彼等彼女等は病気の専門家ではあるかもしれない、けれども私からいわせれば、彼等彼女等は病人のことなどなにもわかっていない。もしくは病人のことしかわかっていない。病人と名付けられるまえの人間、人間と名付けられるまえの私をわかろうとしない。泣いていても「病人が泣いている」としかとらえない。ほかでもない私が泣いているのに。あのひとたちには私の涙も病気の症状としかおもわない。薬を飲ませればどうにかなるとおもっている。
小さな窓から死にぞこないの蝉の声がきこえてくる。蝉はおなかにある発音膜という器官を震わせながら泣いているらしい(これはまえに昆虫図鑑でよんだはずなのだが記憶が曖昧なのであやまりかもしれない)。人間の涙にも震えがともなう。震えてから泣きだすのか、泣いてから震えだすのかはわからないが、どちらにせよ泣いているあいだは震えている。言葉も底にあるのは肉の震えなのかもしれない。大層な文学も思想も宗教も奥まで覗きこんでみると一塊の震える肉がみえてくる。理知的な言葉がならんでいたとしてもその震源は脳からしたの体にある。理性は肉体の震えを言葉になおしているだけだ。
10
【筆者の創作日記2001.09.11.より】
本当に病気なのだろうか。破砕機や複写機の問題を病気の症状とみとめるにしてもである。苦しい、悲しい、寂しい、虚しい、恐ろしい……こうしたきもちのすべてが病気の症状なのだろうか。こうしたきもちは治療できるものなのだろうか。薬を飲んだらそれですむようなものなのだろうか。どうにもそうとはおもえない。病室が縮んでいるようにおもえてならない。そのうち壁と床と天井におしつぶされて死んでしまうにちがいない。
科学の向こうにいる。向こうにながされている。潮のながれにあらがえるほどの力はない。波は体をおしかえし口にはいりこんでくる。360°続いている水平線の荒野を冷たい風が吹きすさび凍えている。爪先は宙ぶらりんでふらふらしている。底のみえないふかい虚空、焦燥、不安、混乱、恐怖が果てまでひろがっている。水平線は揺れており水面は畝っており渦潮が回転する無数の刃のように私をきりきざもうとする。存在をおびやかしているのはこうした自己解体感覚あるいは世界解体感覚なのにそのことを医者は理解しない。嘆いても叫んでも泣いても理解されない。説明しても理解されない。軽蔑の眼差しをさしむけられるだけだ。理解できないものを治療できるのだろうか。もしかするとできるかもしれない。しかしいまのところ治療はうまくいっていない。
仮に自分が正気を喪失した狂人だとしても目からあふれるそれを偽物の涙とはおもえない。私にいわせれば自分にあたえられている診断こそ偽物だ。あるものはこういうかもしれない「貴方の苦悩は脳の故障がうみだしたものにすぎません」もしくは「貴方をおびやかしているものは脳がうみだした幻にすぎません」と。そしてこういうだろう「貴方は病人であり貴方の苦悩は病気の症状でありそれ以上でもそれ以下でもありません」と。
なるほどこういう説明は医学的で科学的で客観的にきこえる。苦悩の原因を脳という器質・装置・物質にもとめて「それ以上でもそれ以下でもありません」とはなしをうちきる。こうした説明は科学然としており尤もらしくきこえる。人間の苦悩を神秘化しないという意味で科学的態度とはいえるかもしれない。しかしそうした説明が正しいとしても、もしそうした説明が許されるとしたらだが……あらゆる人間の苦悩は脳の故障で説明できてしまう。
脳がうみだした幻ではないものなんてありうるだろうか。人間の認識している世界のすべてが脳のうみだした幻といえる。過去も未来も、自我も意識も因果も時間も空間も、愛も正義も脳のうみだした幻であり、私だけが幻のなかでもがいているのではなく、私たちはみな幻のなかでもがいている。けれどもどうだろう。脳も幻ではないといいきれるだろうか。脳もまた幻がうみだした幻にすぎない。私ひとりがなにもない水平線で溺れているのではなく、すべての人間が、このなにもない幻の水平線で溺れている。人間は病人であり社会は病院なのだ。そうだそうだそのとおりだ。すべての人間は病人なのだ。全人類が不治の病におかされているのだ。
全くこれほどの涙がひとりぶんとはとてもおもえない。私の涙は私だけのものではない。苦しさ、悲しさ、寂しさ、虚しさ、恐ろしさ……人間の抱えている命のたえがたさ。私たちの目は離れているが涙はおなじところからわきあがる。大笑いしているときも、激怒しているときも、本当は涙をこらえている。忘れたふり、分からないふり、気付かないふりをして、涙をかくして健康そうにふるまう。だれも健康でなんかないのに。これは私の病気ではない。私たちの病気なのだ。人類のかかえている病気なのだ。私の病気はすなわち人類の病気にちがいない。病気の治療はうまくいきそうにない。人類の病気ともなればなおさらである。自分にできることはなんだろう。言葉にするくらいならできるかもしれない。個人的なものを個人的なまま、それでいて普遍的なものとして、文学ならば矛盾したものを矛盾したままに結晶化できるかもしれない。
11
【筆者の創作日記2001.09.13.より】
この病院の医者を信用できない。彼等は納得できる説明をしてくれない。こちらは理由もわからないまま監禁されているのだから抵抗するのはあたりまえである。犯罪者を牢獄に監禁するにしても公平な裁判をとおしてその判断の正当性を審議する。しかしここ、病院にはそうした公平な審議もなく納得できる説明もない。私が本当に病気なのかもわからない。病気ならばこんなに明晰な文章をかくことができるだろうか。もしかするとあの先生は馬鹿なのではないか。私の文章が極度に高度だから理解できないだけなのではなかろうか。さすがにそんなことはないにせよ、そうでないにしてもである、患者がよんでもらいたくてかいた手紙くらいよむべきだろう。死にたい。やめよう。そんなことをかんがえるよりも執筆しよう。しかしなにをかいても『狂人の手記』としかみなされないかもしれない。
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引用した上記の文章からもわかるように友人の状態は良好といえない。とはいえである……とはいえ完全に絶望していたかといえばそうともいえない。暗闇でもがきながらも文学に光明を見出していたのである。ちょうどそのころ(記録によると2001.10.10.)友人の担当医がかわり、彼女の助力もあり、数年後には本書の原稿を完成させている。しかしそれから約20年後の2021年に自殺。
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本書の主人公は友人とおなじく精神障害者とみなされて入院させられている。大雑把に内容を要約するならば主人公が友達をつくり《狂った病院》から脱出するはなしである。あらすじそのものは至極単純といえるかもしれない。ただし登場人物のたいはんが狂人なのだ。ここでいう狂人とは精神障害者という意味ではない。一般から逸脱しているという意味である。このような意味で執筆者も登場人物も全員狂人であり、しかもとんでもなく饒舌である。饒舌な狂人たちの会話が本書の大部をしめている。この書物はサドとバタイユがドストエフスキーに憑依してかいた『不思議の国のアリス』のようなものである。
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本書は複雑な構造を有した書物ではあるもののおおまかには五部で構成されている。上層にいくほどちいさくなる五階建の巨大建造物を想像してほしい。一階部分が全体の1/3をしめておりこの部分は密集した小屋のようなおもむきがある。この段階では巨大な建築の構造はみえてこない。読者は街路にまよいこむようにして散乱した文書群の内部をさまようことになる。差別や障害や性愛など日常では嫌忌されがちな問題にかんする議論が大部分をしめている。一般の良識からは逸脱しているようにもみえるがそれでもまだ健全なほうといえる。問題は第二部以降である。人権を完全に無視したような思想が怪気炎をあげながらさけばれる。特に最後の第五部は地獄ともいえるような様相を呈する。
全体の展開としては短編集のように小型の物語の連続からはじまり、次第にそれらがからみあい、第四部で拡散して第五部で収束する。これは筆者の『短編集的大長編あるいは大長編的短編集』という構想が反映されたものとかんがえられる。本書が理解しがたい原因はこのような奇怪な構造にだけあるのではない。その内容にも原因がある。内容は多岐にわたり、ホラー、ゴシック、ミステリー、サスペンス、アクション、クライム、ロマンス、ポルノ、私小説などありとあらゆるジャンルが大人の玩具箱ようにつめこまれている。このような意味で本書は、建築でありながら都市であろうとするメガストラクチャーであり、ひとつでありながらすべてであろうとするキマイラがごとく超大型複合書物なのである。
前述したように本書には差別や虐待や拷問や自殺や殺人そして常軌を逸脱した性的な描写がたぶんにふくまれており、反社会的ともいえる思想も披瀝されている。特に第二部はおおむねポルノである。女性の読者はもちろん男性の読者でも吐気をもよおすようなおぞましくて下品極まりない記述にあふれている。そうした表現が苦手な読者は読書をひかえることを強くおすすめする。もしくは目をほそめてよんでいるふりだけしておくのがよかろう。自分の理解できない思想をうけいれるのが苦手な読者にもおすすめできない。本書にあるのは良識的な人間ならばアレルギーをおこしかねないような理解しがたい思想ばかりである。ただし忠告しておかなければならない。筆者は露悪趣味的な残酷物語として本書を執筆したのではない。それは本書を最後までよんでもらえたらかならずおわかりいただけるはずだ。
なんにせよ、本書が書店でうられているような《商品としての書物》とは別物であることを事前に了承しておいていただきたい。本書と《商品としての書物》は野生動物と愛玩動物くらいことなる。ここにならべられているのは、ひとに飼いならされた言葉ではなく、ひとに襲いかかるような言葉である。原則的に《商品としての書物》は安全快適によめるようにできている。それはたとえるなら初心者向けの登山道のようなものであり障害となるものはあらかじめとりのぞいてある。危険なものも毒のあるものもきれいに排除されている。棘もなければ牙もない。あるいはそれは角がまるめられた子供向けの遊具である。だれも傷付かないように配慮がすみからすみまでいきとどいている。商品とはそういうものである。
本書は野蛮な深山である。人間にたいする配慮などない。もとよりひとがはいりこめるようにはできていない。読者は危険なものとそうでないものを自分で見分けてかきのけながらよみすすめなければならない。鬱蒼とおいしげる検閲なきむきだしの言葉が読者におそいかかる。登山者のおおくは途中で遭難するだろう。ここには不可解で凶暴で荒々しい自然としての人間が、またそういう人間がとらえようとした宇宙が、毒もぬかれないまま生捕りにされている。
この書物は読者を疲弊させてうんざりさせる、傷だらけにする、傷だらけになる覚悟のあるものだけが冒険にでられる。もし貴方が傷付きたくないのなら本書の読者にはむかない。傷付きたくない貴方にむいているのは《読者をきもちよくさせてくれるやさしい毛布のような書物》だろう。そういう毛布のような書物にくるまりぬくぬくしていたらよろしい。あるいは本書の悪口でもどこかにかいてうさばらしでもしたらよろしい。本書のような有毒な書物は悪評の数だけ箔がつくというもの。まあいずれにせよ、長ったらしい序文をここまでよんでくれてありがとう。
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最後に筆者にかんする重要な事実をあかそう。実は筆者の自殺もさだかではない。遺体が発見されていないのだ。
本書はこのような不安定な地盤を足場にしてたてられた崩壊寸前の巨大建造物なのである。全くなにもかもさだかではなく、それゆえにあらゆる言葉が、ぐらぐらとゆれうごいている。ここまでしたはなしは本編をよみすすめるために必須の情報ではない。忘れていただいてかまわない。しかしこれらの情報をふまえれば本編をなおさらふかくよみといていただけるはずである。それでは戦慄と残虐と暴力と、苦痛と憂鬱と葛藤と、倒錯と奇想と矛盾と、正義と愛のあふるるながい物語をとくとおたのしみあれ。
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