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しおりを挟む寿命を悟った訳でもない年若の身で、土になることを願う日が来ようとは、想像だにしていなかった。
地面にへばり付きながら、早鐘のように脈打つ胸を押さえる。
唯一幸いだと言えるのは、土色のワンピースを着用中であること。
それでも、素肌が見えたら人であると気づかれしまう気がして、相手に見えない角度でずりずりと身体を動かし、手や足を服に隠れるようにする。
うっ……この体勢なかなかにキツい。
無理な体勢だからか身体がプルプルと震えていた。
苦しげな表情で、男の気配を必死に探ると、衣擦れの音が聞こえてきて、男が未だ離れていないことが分かった。
いつまでこの体勢でいなくてはいけないのだろうか。
最早自分との戦いであった。
……早く何処かに行って欲しい。
私と男との硬直状態が長くなるにつれて、頭が少しずつ冷静になって、今の自分の状況をまともに考えられるようになってきた。
当たり前だが私は土ではないし、いくら土色のワンピースを纏っているといえども、虫やカメレオンレベルの同化術は使えていないだろう。
しかも、運の悪いことに今夜は十三夜で、満月程ではないとはいえ、月明かりが明るく外を照らしている。
土の上にこんもりとした物体がある事は、余程鳥目な人でなければ、気付かれてしまうだろう。
新月であれば良かったのに……!とそう思わずにはいられない。
体の節々が限界に近づくにつれて、どうせ見つかるなら、観念して事情を素直に説明した方が良いのではないかとすら思えてくる。
それでも、外に逃げてしまった事実は変わらない。見せしめで罰を受けるのは目に見えてる。
考えれば考えるほど頭が混乱していく。
何が正解なのか分からず、動き出すことが出来ない。
どれくらいの膠着状態だったのだろうか。
「……気のせいか」
そう男は呟くと、大きな足音を立てて去っていく。
やがて人の気配が無くなると、安堵のあまり身体の力が抜けた。
ほんのり暖かくなった土へだらしなく寝そべる。
「はぁ……よかった……」
外気が少しひんやりしていて、時折肌を撫でる風が心地いい。
天に輝く月と星が暗闇を照らし続けている。
光輝く夜空を見上げながら、本当によく見つからなかったなと思ってしまう。
それとも……見逃してくれたのだろうか?
信じられないことを考えてしまって、頭を振る。
この国の男がそんな真似をするはずがない。
わざわざ攫った女を逃すなど、やっていることが矛盾している。
だから、本当に気づかなかっただけだ。
浮かんだ疑惑を振り払うように、そんなはずはないと自分に言い聞かせ、これ以上考えないようにした。
今夜は本当に綺麗な夜空だった。
こうして空ばかり眺めていると、まるで故郷にいるかのような錯覚に陥る。異国の地にいるなんて、信じられない気持ちだ。
夜空は、故郷でも異国でも変わらず美しかった。
今、故郷と私はきっと同じ空で繋がっている。
ああ……帰りたいな。
母と二人見上げた最後の夜空も星の光がよく届く、満点の星空だった。
その時の母の表情は寂しげで、どうしてそんな顔をするのか分からなくて、私は首を傾げていた。
母が何を思って夜空を見上げていたのかは分からないが、今の私の表情は同じものを浮かべている気がした。
あんなに帰りたいと切望する故郷の断片がずっと頭上にあっただなんて、なんだかおかしい。
空を見上げればいつだって故郷の面影を探す事が出来る。
私はこれからも空を見上げ続けるだろう。
***
どれくらい空を見ていたのだろうか。
私はゆっくりと身体を起こした。
どんなに故郷を思っていても、今はまだ逃亡の時ではない。
逃亡するには、あまりにも準備不足。
折角外に出られたのにもったいない気もするが、準備不足に加えて、ナタリアの件もあり、動くのは得策ではない。
私は後ろ髪を引かれる思いで重い腰を上げて、軽く土を払い、再び窓を乗り越えようとして気付いた。
外から建物へ入るには、窓が高すぎて手が届かない……。
一瞬で血の気が引いていく。
「う、嘘!?」
これでは、戻る事が不可能だ。
何度か手を伸ばして飛び跳ねるが、手が窓枠に触ることすら出来ない。
助走をつけて跳んでみても結果は同じだった。
ガリガリと爪が削れ、壁に不快な音を立てる。
「……っ!」
爪が割れ、私は痛みで顔を顰めた。
外へ出た窓から再び入るのは、どうあっても無理だ。
他に中へ入れる場所はないか、建物の周りをぐるりと回ってみたが、入れそうな所には人が立っており、侵入するのはまず不可能。
中へ入ろうと必死に考えて、そして思ってしまった。
どうせ逃亡者として罰せられるなら、本当に逃亡すれば良いのではないか?
準備不足云々で行動しないと決めたのは、誰にも見つからずに部屋に戻る事が出来ることが絶対条件。
そもそも誰かに見つかれば、私は逃亡未遂者として捕まり、二人と同じ生活など与えられるはずもない。
どうせ捕まり同じ運命を辿るなら、大人しく捕まりに行くよりも、一か八かにかけて逃亡に挑戦してみたらいい。
元々、視野が狭く、浅慮だった自分の自業自得が招いた事態だ。
あの時、窓を乗り越え外に出たことが、引き返せない別れ道だった。
後悔する気持ちが無いとは言えないが、出てしまったのだから、仕方がない。
私は一人腹を決めた。
逃亡するなら、明るくなる前に動いた方がいい。
誰にも見つからずに外に出る事は成功した。
思いの外早く訪れた逃亡の機会だが、今がきっと好機なんだ。
不安な気持ちを押し殺すように自分に言い聞かせる。
逃亡するとなると、気掛かりなのはナタリアだった。
一緒に帰ろうと約束したのに破ってしまう。彼女は裏切られたと思うかもしれない。
けれど、私はすでに逃亡者。
部屋の中のナタリアを呼ぶことも出来ないし、成功が想像も出来ない逃亡に巻き込む事はしたくない。
あまり痕跡は残したく無かったが、せめてもの罪滅ぼしで、地面に『ごめん』と足で書いた。
私は木に身を隠しながら、慎重に移動を開始した。
流石王宮だけあって、夜間であっても監視の男が所々立っていた。
穴が空いた壁とか、囲いを登れそうな所など、あらゆる逃亡の穴を探すがどこも惨敗。
もはや強行突破しか無かった。
先程拾った手頃な大きさの石を両手で持ちながら、木の後ろで裏門の衛兵を見つめる。
人数は2人、筋肉隆々の男達である。
一対一でも勝てる気がしない……。
無意識に口が引きつく。
計画として思いついたのは、一人を不意打ちで攻撃して、動揺している所を走って逃げるという杜撰なものだ。
だが、当然その計画では成功するビジョンが全く見えない。
気を引く事は出来るかもしれないが、それだけだ。
運良く門の外に出れたとしても、すぐ屈強な男に追いつかれてしまうだろう。
強行突破か、それとも撤退して他を探すか。
どちらが良いものか悩んでいる、その時ーー。
突然、何者かに肩を強く掴まれた。
「ーーっ!」
驚きで大きく身体が跳ね、悲鳴をあげそうな口を慌てて押さえ込む。
手から滑り落ちた石が足元で鈍い音を立てるが、私の意識はそこへは向かわなかった。
掴まれている手から辿った先には、一人の男が冷たい目で私を見下ろしていた。
……見つかってしまった。
こんなにも、あっさり……。
頭の中は大混乱で騒がしいというのに、口からは言葉一つ出てこない。
乾いた喉をゆっくり動かし、固唾を呑んだ。
「これ以上の行動を見過ごすことは出来ない。……ついてこい」
男は門の方を一瞥してから、罪人を連行していくように肩を押して、私を無理矢理歩かせた。
やがて、人気がない場所へと移動すると、肩から手が外される。
肌がひりつくような敵意に、ここから逃げ出してしまいたくなる。
たが、本当に逃げ出せば、ただでは済まさないような雰囲気が男にはあった。
腰に差した剣がいつ抜かれてもおかしくないような緊張感に、私は息を呑む。
男は依然冷えた目で私を捕らえた。
「女の逃亡は重罪だ。ましてや、警備の者に石を投げたとなれば、罪もその分重くなる」
まるで、私がさらに罪を重ねないように、止めてくれたような物言いだった。
もしかしたら、親切心で助けてくれたつもりかもしれない、でもーー故郷から無理矢理引き離されて、逃げるな、なんてとても理不尽に思える。
私は自然と怒りの籠もった目で男を見た。
「……もしかして、助けてくれたの?」
「俺は命令に従ったまでだ。あんたを助けた訳じゃない」
男は全く表情を動かさず、極めて冷静に言い放った。
そこには、嘘、誤魔化しは一切ないように見えた。
どうやら、考えすぎだったようだ。
やはりルーデンス人は――敵でしかない。
「これから私をどうするつもり?」
「俺にあんたをどうこうする権限はない。追って沙汰がくだるだろう。それまで、身柄を拘束させてもらう。……ついてこい」
そういうと、男は土に汚れた私の手を躊躇なしに掴み、歩き出した。
少し冷えた手から伝わる、生暖かい手の感触が気持ち悪く感じて、私は足を止める。
私が足を止めたのを気付いて男は怪訝そうに振り向いた。
「……なんの真似だ」
「逃げたりしないから……離して」
「俺から逃げれば、状況はより最悪なものとなることを肝に銘じておけ」
男はあっさり手を放し、背を向けて歩き出した。
全く後ろを見ていないと言うのに、私の一挙一動を注視されている気がして、居心地が悪い。
逃げないと言い出したからには、今逃げるつもりなどないが、この先の未来を思うと、自然と足取りが重くなる。
どうせ牢屋にでも放り込むつもりだろう。
虫や鼠が巣食う埃まみれの牢屋を想像して、身震いする。
弱気になりそうな自分を追い出し、目の前の敵を睨みつけた。
牢屋に入ったって関係ない。すぐに逃げ出してやる……!
今の私は敵に弱味を見せぬよう不安を押し殺し、強気で虚勢を張ることしか出来なかった。
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