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天の川
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毎週金曜日の午前二時頃。僕には三年ほど前から行っている習慣がある。
「そろそろ行くか……」
時計の針が指し示すのは午前一時三十分。
僕は暇つぶしにやっていた携帯ゲーム機の電源を切る。
季節は初夏。深夜でも少し暑くなってくる時期だ。
財布をバッグに入れ、押入れから望遠鏡を取り出し、担ぐ。ポケットにはミュージックプレーヤーを入れ、イヤホンを耳につける。お気に入りの曲をセットし、家を出ると、そこには満天の星空があった。
――こんなに晴れたのは久しぶりだ。
何か良い事でもありそうだと浮かれ気分で望遠鏡を自転車に積むと、そのスタンドを上げる。
目指すはいつもの裏山。
曲がサビに入ると同時に僕は自転車を漕ぎだした。
涼やかな風を感じながら山を登っていく。草の匂いと夏の爽やかな香りが鼻孔を刺激して心地よい。
午前二時。町全体が眠りに就く頃。僕がいつもの場所――町を見渡せる秘密の場所――に来るとそこには先客がいた。
――これまで人がいたことなんてなかったのに。
その人はどうやら女性のようで、星空を背景に長い髪のシルエットが風に吹かれて揺れる。
――綺麗だ。
僕はしばらく立ち尽くして、それに見入っていたが、せっかく人がいるのだ。声をかけてみることにした。
「こんばんは。いい天気ですね」
すると、前方の人影が振り返った。
「星くん?」
「つ、月島さん!?」
驚いた僕は素っ頓狂な声を上げてしまう。
彼女はたしかに、月島由紀恵。僕のクラスメイトであり、憧れの人。うちのクラスのアイドルと言っても過言ではないだろう。地味な僕が関わることなんてないと思ってたのに。まさか、こんな所で会うなんて。
「わ、ほんとに星くんだー! こんな所で会うなんて奇遇だね! 何してるの?」
「えっと、その、天体観測しようと思って……いつもここでやってるから。月島さんこそどうしたの? もうずいぶんと遅い時間だと思うけど……」
僕が率直な疑問を投げかけると、星の光で照らされたその横顔は少しだけ憂いを帯びているように思えた。
「私も、ちょっと星でも見ようと思ってね。私の部屋が一階で、それに大きめの窓もあるから、抜け出すのは簡単なの。まさか私以外にこの場所を知ってる人がいるなんて。少し、驚いたわね」
「それはこっちの台詞だよ。僕だって毎週やってるけど、人に会ったのは初めてだ。えっと……その、隣、いいかな?」
話をしながら僕は望遠鏡を取り出す。
「ええ。もちろん。毎週ってその望遠鏡を使って? 割と本格的なのね」
月島さんのお隣ゲット! と内心でガッツポーズしつつ、三脚を設置していく。
「まあ、唯一の趣味だからね。やりたい事には労力を惜しまないものだろう?」
「確かにそうねぇ。それなら、星座とかにも詳しいんだ」
「まあ、ある程度はね。なにも分からなかったら望遠鏡を覗き込んでも楽しさ半減だよ……できた」
望遠鏡の設置が完了する。
ええと……これがいいかな。あとはつまみを回して……と。よし。ドンピシャだ。
「よければ覗いてみるかい?」
僕がそういうと、彼女は少し驚いて躊躇する。
「いや、私はあんまり星座とか分かんないし、それこそ楽しさ半減よ」
「大丈夫。僕が教えるよ。誰にでも初めてはあるものだからね」
「そう? それなら……」
そう言って彼女が望遠鏡の前まで来る。
すると、彼女の香りが草の匂いに混じって、漂ってきた。
――甘い、いい匂いだ。女の子というのは皆こうなんだろうか?
「えっと、ここを覗けばいいのね。……星くん?」
「え、あ! うん! そうそう、合ってるよ」
「それならよかった。ええっと、どれどれ……えっ! なにこれすごい!」
予想通りの反応にまたも内心でガッツポーズ。
「天の川だよ。すごい綺麗でしょ? 僕もこれを見て始めたからね。天体観測」
彼女はしばらく感動したように声を上げた後、顔を上げた。
「すごいね! とっても綺麗だったよ! なんというか……言葉じゃ上手く言い表せないけど」
彼女の言葉を聞き、僕はさらに笑顔になる。人に喜んでもらえるのは、嬉しい。
「たしかにわかるなぁ。あれを言葉で表すのは難しいよね」
「そうよねぇ。あれを言い表せるのならそれはもうノーベル文学賞ものよ」
「流石にそれは言い過ぎだと思うけど……」
そんな会話をしていると、彼女が僕の方を向いて面白そうに笑う。
暗い中でもはっきりと分かるほど眩しいその笑顔は、あまりにも綺麗で。ドキリ、と胸が高鳴る。
「ど、どうかした? なにかおかしいことでもあったのかい?」
君の笑顔をじっと見ているのは、なんだか気恥ずかしかった。耐えきれずに僕は目を逸らし、彼女に問いかけた。
「え? ああ、いや、そんな楽しそうにするんだなって思って。ほら。私達って普段クラスでそんなに話す方じゃないでしょう? だから、少し意外でね。星くんには申し訳ないけれど、もっと暗い人かと思ってたわ」
――そうか。それは、よかった。彼女に好印象を持たれるのは、嬉しい。
「僕も、まさか月島さんとこんなに話すことになるとは思ってなかったよ」
「それは、そうね。私は、あなたが思ってる通りの人だったかしら」
――そりゃそうだ。君のことはよく見ていたのだから。
「もちろん。思っていた通りの、優しくて純粋な人だったよ」
「そう? そんなつもりは、ないのだけれど……それならよかった」
ついに話すこともなくなり。草木のざわめく音だけが、僕らの聴覚を支配する。
だけど、別に気まずいとは感じなかった。むしろ心地の良い静寂だ。
そしてその静寂を破り、彼女が声をかけてきた。
「ねぇ、毎週ここでやっているんでしょう?」
「うん。まあ、そうだよ」
「それなら……」
少しだけ彼女が躊躇したような仕草を見せる。なにか都合の悪いことでもあったのだろうか。
少しの逡巡の後、彼女は思い切ったような表情で言う。
「それなら、来週も来ていいかしら?」
「もちろん構わないよ!」
構わない、というか大歓迎である。
憧れの人と大好きな趣味を共有できるのだ。これ以上の幸せはないと言ってもいいだろう。今日の星空には頭が上がらない。
「ありがとう……おっと、もうこんな時間ね。それじゃあそろそろ帰らせてもらうわ。次の時までに星座を少しでも覚えておくわね。今日はありがとう。楽しかったわ」
時計を見ると、時刻はもう午前の三時を過ぎていた。
「そうだね。それならちょっと待って。送ってくよ。流石に危ないからね」
「あら、優しいのね。それじゃあお言葉に甘えてそうさせてもらうわ」
その言葉を聞いて、僕は急いで片付けを済ませると、月島さんのペースに合わせ歩き始めた。
街灯がまばらに続く帰り道で、僕達は色んな話をした。
月島さんは思っていたより話好きで、好きなものの話や昔の思い出話など、楽しそうに話してくれた。
彼女の家の前で別れ、昼の太陽のような、高揚した気分のまま部屋に戻ると、僕は睡魔に身体を預け、眠りについた。
そして次の週にも、彼女はこの場所に来た。
「ふふ、今日はね……じゃーん! これを持ってきたの!」
そう言って彼女が見せてきたのは、一冊の星座図鑑だった。
「おー、それじゃあ今日はその図鑑で調べながら見てみるかい?」
「ええ! そうしましょう!」
彼女が嬉しそうに頷く。
――可愛いなぁ。まるで小さな子供みたいだ。
などとそんなことを考えつつ、僕は望遠鏡の設置を済ませる。
「ええと、どの星座が見たいか希望はある?」
「げほっ、げほっ……ううん、そうねぇ……」
彼女が少し咳き込む。
風邪でもひいたのだろうか。それなら大事にしてほしいところだが……まあ、大して親密でもない男と星を見るためにそんな無理をするとは思えない。きっと大丈夫なのだろう。
そう結論付け、唸る彼女の返事を待った。
「今の季節ならやっぱり……うん! 決めたわ! ずばり、織姫様よ!」
――なるほど、織姫星か。彼女にはお似合いかもなぁ。
織姫、即ちベガとは、夏の大三角を形成する一つであり、こと座の中で最も明るい星のことである。日本では、七夕伝説の織姫様としてよく知られている。
「了解。織姫星だね」
そう言って僕は望遠鏡を覗き込む。
今日の星空も文句無しの快晴だ。
こと座の位置は夏の大三角を見つければわかりやすい。
しばらくピント合わせの作業をした後、
「よし。できたよ」
そう僕がそう教えると、彼女は嬉しそうに近づいてきた。
「えっと、覗いても大丈夫?」
「もちろん構わないよ」
僕がそう言うと、彼女はぱっと嬉しそう顔をして、レンズを覗く。
そして覗き込んでは星座図鑑を確認して、また覗き込む。というようなことを繰り返していた。
その姿がやっぱり好奇心旺盛な子供のように思えて、思わず笑いがこみ上げてくる。
「どうかしたの?」
すると彼女が振り返って不思議そうに聞いてくる。
「いいや、なんでもないよ」
「そう? それならいいのだけど……わっ」
その時、彼女が躓き、その体が沈む。
この場所は切り立った崖の上にある。もし落ちでもしたら、最悪死ぬ。そうでなくても大怪我は免れないだろう。
――危ない。
そう判断した僕は咄嗟に彼女を抱きかかえた。
「ふぅ……大丈夫?」
これで一安心、とため息をつき、一応彼女の安全を確認する。
「だ、大丈夫よ? ありがとう!」
そう言って、すぐさま彼女は僕から離れた。
もしかして迷惑だっただろうか。
「ご、ごめん。落ちたら危ないと思って……」
「い、いえ! 本当に助かったわ。ありがとう……えっと、その、今のは思わずというか……ごめんなさいね?」
「え、いやいや、別に気にしてないから! 大丈夫」
――もちろん気にはしているのだが。
そしてその日はそのまま解散となった。
彼女を送っていく道中、ろくに顔を見れなかったことは言うまでもないだろう。
それからしばらく経った真夏のある日のこと。
彼女が学校を休んだ。この一年間一度も休まなかった彼女が。
――珍しいこともあるものだ。
その日はそのくらいに考えていたのだが、その次の日も、そのまた次の日も、彼女は学校に来なかった。
なにかあったのではと心配になったが、どうすることもできないまま約束の金曜日になってしまった。
時計の針が一時三十分を指す。
「……行くか」
そう呟いて僕はいつものようにイヤホンを耳につけ、望遠鏡を取り出す。
動きやすい靴を履き、扉を開けると、昼間よりかはいくらか涼しい風が頬を撫でる。
――いつもなら高揚した気分で向かう天体観測だが、今日はあまり気乗りしない。
なぜなら、今日は彼女があの場所に来ないだろうからだ。
学校だって一週間近く休んでるんだ。来るはずもないだろう。
そうして、少し落ち込んだ気分のまま、僕は自転車を漕ぎだした。
いつも通り裏山の中腹辺りの少し開けた場所に自転車を止める。
ここから少しだけ歩くと見晴らしのいい場所に出る。そこが僕らの約束の場所だ。
――あれ?
顔を上げて見てみると、いつもの場所に誰かいるのが見える。
まさかとは思いつつも、歩く速度が上がる。
いつもなら気にしない低木の枝も、今日は一段と邪魔に思えた。
暗い中でもその輪郭がはっきりとわかるほど近くに来ると、思いは確信に変わる。
やっぱり彼女だ。
「ねえ!」
僕が声をかけると、その人影が振り向いた。
――やっぱり、月島さんだ。
「星くん……」
その声は震えていて、目を凝らすと彼女が悲しそうな顔をしているのが分かった。
僕は驚いたが、急ぎ、彼女の元へ駆け寄る。すると、彼女の頬に涙が伝っていることに気づいた。
「月島さん、何があったの?」
「あのね……」
彼女の話してくれた内容は単純なものであった。
僕らがこの場所で出会ったあの日、彼女は重い病気にかかっていることを知ることになった。
しかも、それは日に日に悪化し、すぐにでも大規模な手術を要するのだと言う。
手術のために大きい病院に入院するので、この町を出ていかなくてはならない上に、治療には一年程の時間を要するそうだ。
――正直、ショックだった。
当たり前だ。大好きな人が一年もいなくなってしまうのだから。それに、彼女はそうは言わないが、もしかしたら命に関わるものなのでは? そんな考えが脳裏を過ぎる。
――だけど。
「待ってる」
「え?」
一番辛いのは、きっと彼女自身だから。
「待ってるから。僕、この場所に毎週この時間に来るから。月島さんが帰ってくるの……待ってるから!」
今は、少しでも彼女を勇気づけられるような言葉を。彼女の涙を、拭えるような言葉を。
それから、少しの沈黙の後、彼女が言葉を紡ぐ。
「あのね、私、星くんに会えてよかったわ。この場所で会えて、本当によかった」
彼女は、空を見ていた。この数週間の間、二人で観測し続けた満天の星空を。
「ねえ、私達がここで出会った最初の日、覚えてるでしょう?」
「もちろん覚えてるよ」
そう言って僕は頷く。
「あの時ね、私、自殺しようか迷ってたの」
――そんな。
「嘘、でしょ?」
思わず僕が聞き返すと、暗闇の中、彼女がこちらを向いた。
「嘘じゃないわ。あの日に私、聞いちゃったたの。お医者さんが親に話してる内容を」
彼女は吹っ切れたように話し続ける。
「それにしてもあの時は絶望したわ! もう大して生きれないんだって。それで、どうせ死ぬなら綺麗な星が見えるここで死にたいって思ったのよ」
そう言われてみれば、確かに。ここは、崖の上にある。飛び降り自殺にはうってつけの場所なのかもしれない。
「だけどね。そのタイミングであなたが来たの。運命だって思ったわ。あなたと会ったことにはきっと意味があるんだって。だから、私は飛び降りるのを踏みとどまったの」
――まさか。まさか、彼女がそんなことを考えていただなんて。少し嬉しいような、とても悲しいような複雑な気持ちだ。
「だから私、星くんに会えてよかったわ。あの星の輝きも、天の川のきらめきも、あなたのおかげで知ることができた。生きる喜びを思い出すことができた……心から感謝しているわ」
そんな君ばかり、ずるい。僕だって……
「僕だって、楽しかった! 君と一緒に空を見るのが好きだった! 君が喜んでくれるのが嬉しかった! だから……だからそんな、これで最後みたいなこと、言わないでよ……」
気がつくと、涙が溢れていた。泣くつもりなんて、なかったのに。
「ねえ、星くん。最後に一つだけ、私の我が儘を聞いてもらってもいいかしら?」
「うん、いいよ。ただ、最後にはならないと思うけどね」
熱くなっていたのだろう。少しひねくれたような言い方をしてしまった。
「じゃあ、もう少しこっちに来て、目を瞑ってくれる?」
「こう、かな?」
大人しく言われた通りにする。
「私がいいと言うまで、目を開けちゃ駄目よ?」
目を閉じると、木々のざわめきに混じって君の吐息が聞こえる。
――あれ、これってもしかしてキスなんじゃないか!?
と、僕がドキドキしていると、頬に無機質な感触がした。ペンか何かだろうか。それは、僕の肌を滑り、何かを記していく。
「よし! もういいわよ」
そう言われて、僕が目を開けると、すぐ目の前に彼女の笑顔があり、思わず顔が熱くなる。
「ふふ、上出来ね。後で自分の顔を見てみて」
ご機嫌な様子で彼女がそう言う。
「それじゃあ私は帰るわ! また一年後に会いましょう!」
それだけ言うと、彼女は走って帰っていった。
「なんだったんだ……?」
そしてその場所には、僕と望遠鏡だけが取り残されてしまった。
その日はそのまま家に帰った。自分が何をされたのかが気になったからだ。
「ただいま……っと」
家に着くとそのまま洗面所に向かい、言われた通りに鏡を見る。
するとそこには、マジックペンで大きく、好きの文字が書かれていた。
「そろそろ行くか……」
時計の針が指し示すのは午前一時三十分。
僕は暇つぶしにやっていた携帯ゲーム機の電源を切る。
季節は初夏。深夜でも少し暑くなってくる時期だ。
財布をバッグに入れ、押入れから望遠鏡を取り出し、担ぐ。ポケットにはミュージックプレーヤーを入れ、イヤホンを耳につける。お気に入りの曲をセットし、家を出ると、そこには満天の星空があった。
――こんなに晴れたのは久しぶりだ。
何か良い事でもありそうだと浮かれ気分で望遠鏡を自転車に積むと、そのスタンドを上げる。
目指すはいつもの裏山。
曲がサビに入ると同時に僕は自転車を漕ぎだした。
涼やかな風を感じながら山を登っていく。草の匂いと夏の爽やかな香りが鼻孔を刺激して心地よい。
午前二時。町全体が眠りに就く頃。僕がいつもの場所――町を見渡せる秘密の場所――に来るとそこには先客がいた。
――これまで人がいたことなんてなかったのに。
その人はどうやら女性のようで、星空を背景に長い髪のシルエットが風に吹かれて揺れる。
――綺麗だ。
僕はしばらく立ち尽くして、それに見入っていたが、せっかく人がいるのだ。声をかけてみることにした。
「こんばんは。いい天気ですね」
すると、前方の人影が振り返った。
「星くん?」
「つ、月島さん!?」
驚いた僕は素っ頓狂な声を上げてしまう。
彼女はたしかに、月島由紀恵。僕のクラスメイトであり、憧れの人。うちのクラスのアイドルと言っても過言ではないだろう。地味な僕が関わることなんてないと思ってたのに。まさか、こんな所で会うなんて。
「わ、ほんとに星くんだー! こんな所で会うなんて奇遇だね! 何してるの?」
「えっと、その、天体観測しようと思って……いつもここでやってるから。月島さんこそどうしたの? もうずいぶんと遅い時間だと思うけど……」
僕が率直な疑問を投げかけると、星の光で照らされたその横顔は少しだけ憂いを帯びているように思えた。
「私も、ちょっと星でも見ようと思ってね。私の部屋が一階で、それに大きめの窓もあるから、抜け出すのは簡単なの。まさか私以外にこの場所を知ってる人がいるなんて。少し、驚いたわね」
「それはこっちの台詞だよ。僕だって毎週やってるけど、人に会ったのは初めてだ。えっと……その、隣、いいかな?」
話をしながら僕は望遠鏡を取り出す。
「ええ。もちろん。毎週ってその望遠鏡を使って? 割と本格的なのね」
月島さんのお隣ゲット! と内心でガッツポーズしつつ、三脚を設置していく。
「まあ、唯一の趣味だからね。やりたい事には労力を惜しまないものだろう?」
「確かにそうねぇ。それなら、星座とかにも詳しいんだ」
「まあ、ある程度はね。なにも分からなかったら望遠鏡を覗き込んでも楽しさ半減だよ……できた」
望遠鏡の設置が完了する。
ええと……これがいいかな。あとはつまみを回して……と。よし。ドンピシャだ。
「よければ覗いてみるかい?」
僕がそういうと、彼女は少し驚いて躊躇する。
「いや、私はあんまり星座とか分かんないし、それこそ楽しさ半減よ」
「大丈夫。僕が教えるよ。誰にでも初めてはあるものだからね」
「そう? それなら……」
そう言って彼女が望遠鏡の前まで来る。
すると、彼女の香りが草の匂いに混じって、漂ってきた。
――甘い、いい匂いだ。女の子というのは皆こうなんだろうか?
「えっと、ここを覗けばいいのね。……星くん?」
「え、あ! うん! そうそう、合ってるよ」
「それならよかった。ええっと、どれどれ……えっ! なにこれすごい!」
予想通りの反応にまたも内心でガッツポーズ。
「天の川だよ。すごい綺麗でしょ? 僕もこれを見て始めたからね。天体観測」
彼女はしばらく感動したように声を上げた後、顔を上げた。
「すごいね! とっても綺麗だったよ! なんというか……言葉じゃ上手く言い表せないけど」
彼女の言葉を聞き、僕はさらに笑顔になる。人に喜んでもらえるのは、嬉しい。
「たしかにわかるなぁ。あれを言葉で表すのは難しいよね」
「そうよねぇ。あれを言い表せるのならそれはもうノーベル文学賞ものよ」
「流石にそれは言い過ぎだと思うけど……」
そんな会話をしていると、彼女が僕の方を向いて面白そうに笑う。
暗い中でもはっきりと分かるほど眩しいその笑顔は、あまりにも綺麗で。ドキリ、と胸が高鳴る。
「ど、どうかした? なにかおかしいことでもあったのかい?」
君の笑顔をじっと見ているのは、なんだか気恥ずかしかった。耐えきれずに僕は目を逸らし、彼女に問いかけた。
「え? ああ、いや、そんな楽しそうにするんだなって思って。ほら。私達って普段クラスでそんなに話す方じゃないでしょう? だから、少し意外でね。星くんには申し訳ないけれど、もっと暗い人かと思ってたわ」
――そうか。それは、よかった。彼女に好印象を持たれるのは、嬉しい。
「僕も、まさか月島さんとこんなに話すことになるとは思ってなかったよ」
「それは、そうね。私は、あなたが思ってる通りの人だったかしら」
――そりゃそうだ。君のことはよく見ていたのだから。
「もちろん。思っていた通りの、優しくて純粋な人だったよ」
「そう? そんなつもりは、ないのだけれど……それならよかった」
ついに話すこともなくなり。草木のざわめく音だけが、僕らの聴覚を支配する。
だけど、別に気まずいとは感じなかった。むしろ心地の良い静寂だ。
そしてその静寂を破り、彼女が声をかけてきた。
「ねぇ、毎週ここでやっているんでしょう?」
「うん。まあ、そうだよ」
「それなら……」
少しだけ彼女が躊躇したような仕草を見せる。なにか都合の悪いことでもあったのだろうか。
少しの逡巡の後、彼女は思い切ったような表情で言う。
「それなら、来週も来ていいかしら?」
「もちろん構わないよ!」
構わない、というか大歓迎である。
憧れの人と大好きな趣味を共有できるのだ。これ以上の幸せはないと言ってもいいだろう。今日の星空には頭が上がらない。
「ありがとう……おっと、もうこんな時間ね。それじゃあそろそろ帰らせてもらうわ。次の時までに星座を少しでも覚えておくわね。今日はありがとう。楽しかったわ」
時計を見ると、時刻はもう午前の三時を過ぎていた。
「そうだね。それならちょっと待って。送ってくよ。流石に危ないからね」
「あら、優しいのね。それじゃあお言葉に甘えてそうさせてもらうわ」
その言葉を聞いて、僕は急いで片付けを済ませると、月島さんのペースに合わせ歩き始めた。
街灯がまばらに続く帰り道で、僕達は色んな話をした。
月島さんは思っていたより話好きで、好きなものの話や昔の思い出話など、楽しそうに話してくれた。
彼女の家の前で別れ、昼の太陽のような、高揚した気分のまま部屋に戻ると、僕は睡魔に身体を預け、眠りについた。
そして次の週にも、彼女はこの場所に来た。
「ふふ、今日はね……じゃーん! これを持ってきたの!」
そう言って彼女が見せてきたのは、一冊の星座図鑑だった。
「おー、それじゃあ今日はその図鑑で調べながら見てみるかい?」
「ええ! そうしましょう!」
彼女が嬉しそうに頷く。
――可愛いなぁ。まるで小さな子供みたいだ。
などとそんなことを考えつつ、僕は望遠鏡の設置を済ませる。
「ええと、どの星座が見たいか希望はある?」
「げほっ、げほっ……ううん、そうねぇ……」
彼女が少し咳き込む。
風邪でもひいたのだろうか。それなら大事にしてほしいところだが……まあ、大して親密でもない男と星を見るためにそんな無理をするとは思えない。きっと大丈夫なのだろう。
そう結論付け、唸る彼女の返事を待った。
「今の季節ならやっぱり……うん! 決めたわ! ずばり、織姫様よ!」
――なるほど、織姫星か。彼女にはお似合いかもなぁ。
織姫、即ちベガとは、夏の大三角を形成する一つであり、こと座の中で最も明るい星のことである。日本では、七夕伝説の織姫様としてよく知られている。
「了解。織姫星だね」
そう言って僕は望遠鏡を覗き込む。
今日の星空も文句無しの快晴だ。
こと座の位置は夏の大三角を見つければわかりやすい。
しばらくピント合わせの作業をした後、
「よし。できたよ」
そう僕がそう教えると、彼女は嬉しそうに近づいてきた。
「えっと、覗いても大丈夫?」
「もちろん構わないよ」
僕がそう言うと、彼女はぱっと嬉しそう顔をして、レンズを覗く。
そして覗き込んでは星座図鑑を確認して、また覗き込む。というようなことを繰り返していた。
その姿がやっぱり好奇心旺盛な子供のように思えて、思わず笑いがこみ上げてくる。
「どうかしたの?」
すると彼女が振り返って不思議そうに聞いてくる。
「いいや、なんでもないよ」
「そう? それならいいのだけど……わっ」
その時、彼女が躓き、その体が沈む。
この場所は切り立った崖の上にある。もし落ちでもしたら、最悪死ぬ。そうでなくても大怪我は免れないだろう。
――危ない。
そう判断した僕は咄嗟に彼女を抱きかかえた。
「ふぅ……大丈夫?」
これで一安心、とため息をつき、一応彼女の安全を確認する。
「だ、大丈夫よ? ありがとう!」
そう言って、すぐさま彼女は僕から離れた。
もしかして迷惑だっただろうか。
「ご、ごめん。落ちたら危ないと思って……」
「い、いえ! 本当に助かったわ。ありがとう……えっと、その、今のは思わずというか……ごめんなさいね?」
「え、いやいや、別に気にしてないから! 大丈夫」
――もちろん気にはしているのだが。
そしてその日はそのまま解散となった。
彼女を送っていく道中、ろくに顔を見れなかったことは言うまでもないだろう。
それからしばらく経った真夏のある日のこと。
彼女が学校を休んだ。この一年間一度も休まなかった彼女が。
――珍しいこともあるものだ。
その日はそのくらいに考えていたのだが、その次の日も、そのまた次の日も、彼女は学校に来なかった。
なにかあったのではと心配になったが、どうすることもできないまま約束の金曜日になってしまった。
時計の針が一時三十分を指す。
「……行くか」
そう呟いて僕はいつものようにイヤホンを耳につけ、望遠鏡を取り出す。
動きやすい靴を履き、扉を開けると、昼間よりかはいくらか涼しい風が頬を撫でる。
――いつもなら高揚した気分で向かう天体観測だが、今日はあまり気乗りしない。
なぜなら、今日は彼女があの場所に来ないだろうからだ。
学校だって一週間近く休んでるんだ。来るはずもないだろう。
そうして、少し落ち込んだ気分のまま、僕は自転車を漕ぎだした。
いつも通り裏山の中腹辺りの少し開けた場所に自転車を止める。
ここから少しだけ歩くと見晴らしのいい場所に出る。そこが僕らの約束の場所だ。
――あれ?
顔を上げて見てみると、いつもの場所に誰かいるのが見える。
まさかとは思いつつも、歩く速度が上がる。
いつもなら気にしない低木の枝も、今日は一段と邪魔に思えた。
暗い中でもその輪郭がはっきりとわかるほど近くに来ると、思いは確信に変わる。
やっぱり彼女だ。
「ねえ!」
僕が声をかけると、その人影が振り向いた。
――やっぱり、月島さんだ。
「星くん……」
その声は震えていて、目を凝らすと彼女が悲しそうな顔をしているのが分かった。
僕は驚いたが、急ぎ、彼女の元へ駆け寄る。すると、彼女の頬に涙が伝っていることに気づいた。
「月島さん、何があったの?」
「あのね……」
彼女の話してくれた内容は単純なものであった。
僕らがこの場所で出会ったあの日、彼女は重い病気にかかっていることを知ることになった。
しかも、それは日に日に悪化し、すぐにでも大規模な手術を要するのだと言う。
手術のために大きい病院に入院するので、この町を出ていかなくてはならない上に、治療には一年程の時間を要するそうだ。
――正直、ショックだった。
当たり前だ。大好きな人が一年もいなくなってしまうのだから。それに、彼女はそうは言わないが、もしかしたら命に関わるものなのでは? そんな考えが脳裏を過ぎる。
――だけど。
「待ってる」
「え?」
一番辛いのは、きっと彼女自身だから。
「待ってるから。僕、この場所に毎週この時間に来るから。月島さんが帰ってくるの……待ってるから!」
今は、少しでも彼女を勇気づけられるような言葉を。彼女の涙を、拭えるような言葉を。
それから、少しの沈黙の後、彼女が言葉を紡ぐ。
「あのね、私、星くんに会えてよかったわ。この場所で会えて、本当によかった」
彼女は、空を見ていた。この数週間の間、二人で観測し続けた満天の星空を。
「ねえ、私達がここで出会った最初の日、覚えてるでしょう?」
「もちろん覚えてるよ」
そう言って僕は頷く。
「あの時ね、私、自殺しようか迷ってたの」
――そんな。
「嘘、でしょ?」
思わず僕が聞き返すと、暗闇の中、彼女がこちらを向いた。
「嘘じゃないわ。あの日に私、聞いちゃったたの。お医者さんが親に話してる内容を」
彼女は吹っ切れたように話し続ける。
「それにしてもあの時は絶望したわ! もう大して生きれないんだって。それで、どうせ死ぬなら綺麗な星が見えるここで死にたいって思ったのよ」
そう言われてみれば、確かに。ここは、崖の上にある。飛び降り自殺にはうってつけの場所なのかもしれない。
「だけどね。そのタイミングであなたが来たの。運命だって思ったわ。あなたと会ったことにはきっと意味があるんだって。だから、私は飛び降りるのを踏みとどまったの」
――まさか。まさか、彼女がそんなことを考えていただなんて。少し嬉しいような、とても悲しいような複雑な気持ちだ。
「だから私、星くんに会えてよかったわ。あの星の輝きも、天の川のきらめきも、あなたのおかげで知ることができた。生きる喜びを思い出すことができた……心から感謝しているわ」
そんな君ばかり、ずるい。僕だって……
「僕だって、楽しかった! 君と一緒に空を見るのが好きだった! 君が喜んでくれるのが嬉しかった! だから……だからそんな、これで最後みたいなこと、言わないでよ……」
気がつくと、涙が溢れていた。泣くつもりなんて、なかったのに。
「ねえ、星くん。最後に一つだけ、私の我が儘を聞いてもらってもいいかしら?」
「うん、いいよ。ただ、最後にはならないと思うけどね」
熱くなっていたのだろう。少しひねくれたような言い方をしてしまった。
「じゃあ、もう少しこっちに来て、目を瞑ってくれる?」
「こう、かな?」
大人しく言われた通りにする。
「私がいいと言うまで、目を開けちゃ駄目よ?」
目を閉じると、木々のざわめきに混じって君の吐息が聞こえる。
――あれ、これってもしかしてキスなんじゃないか!?
と、僕がドキドキしていると、頬に無機質な感触がした。ペンか何かだろうか。それは、僕の肌を滑り、何かを記していく。
「よし! もういいわよ」
そう言われて、僕が目を開けると、すぐ目の前に彼女の笑顔があり、思わず顔が熱くなる。
「ふふ、上出来ね。後で自分の顔を見てみて」
ご機嫌な様子で彼女がそう言う。
「それじゃあ私は帰るわ! また一年後に会いましょう!」
それだけ言うと、彼女は走って帰っていった。
「なんだったんだ……?」
そしてその場所には、僕と望遠鏡だけが取り残されてしまった。
その日はそのまま家に帰った。自分が何をされたのかが気になったからだ。
「ただいま……っと」
家に着くとそのまま洗面所に向かい、言われた通りに鏡を見る。
するとそこには、マジックペンで大きく、好きの文字が書かれていた。
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